lesson-22




1.

(やっぱ出ないな…)

五条は溜息を吐きつつ、ケータイを切った。と連絡がつかなくなってから三日目。その後、学長には連絡がついては一週間ばかりの休暇届けを出していたことが分かった。当初は一日だけだったのが、次の日に本人から直接学長のところに連絡してきたらしい。理由は家の諸事情としか聞いていないということだった。

(アイツは働きすぎだから休暇はいいとしても…何で僕には何の連絡も寄こさない?)

そこだけは納得できない。しかし五条にも今現在、家の諸事情という問題が降りかかっていた。
今、五条の目の前には――和服美人が座っている。

「ちょっと悟、聞いてるの?ケータイはしまっておいてちょうだい」

徐に顔をしかめたこの女性。友禅の着物を粋に着こなし、美しい所作で紅茶のカップを口へ運んだ。年齢は不詳ながら見た目は三十代前半くらいにしか見えない。顔立ちは女優かと見紛うほどの美人で、瞳の色は違えど、向かい合っている五条と面影が酷似している。

「…はいはい。んでー?いったい何の用?渋谷にまで呼び出して」

五条の態度にその和服美人は綺麗に揃えられた眉をピクリと動かした。ここは渋谷の高級ホテル内にあるティールーム。任務を終えた五条はその足でここへ駆けつけたばかりだった。

「なぁに?母親に向かってその態度は。ほんとに昔から生意気なんだから」
「僕を甘やかしたのは誰だっけ?」
「……私だけど」

と渋々認めつつ、五条の母は渋い顔から一転、天女のような微笑を息子へ向けた。

「それより悟。これを見てちょうだい」

母は隣のソファに置いていた紙袋からA4サイズほどの見覚えのある台紙を取り出し、テーブルの上に3つ並べた。聞くまでもなく、見合い写真だ。

「はあ…」
「何よ、見る前からその溜息は」
「母さん…僕はまだ見合いする気もないし、結婚する気もないって言ったよね」
「またそんなこと言って。もう25歳でしょ。そろそろ将来のことも考えるべきよ」
「考えてるよ、これでも」
「嘘ばっかり。適当に女の子と遊んでるって聞いてるんだから。――ねえ?伊地知くん」

母が言いながら自分の後ろの席で気配を殺しながらコーヒーを飲んでいる息子の後輩へ声をかける。声をかけられた伊地知はビクリと肩を揺らし、かけている眼鏡を直しつつ引きつった顔で振り向いた。そこで母親の向かい側に座っている五条の殺気のこもった双眸と視線がぶつかり、ごくりと生唾を飲む。

が休みの為、今日の五条の任務には伊地知が同行。任務後に「母さんに呼び出された」という五条をこのホテルまで送り届けたまでは良かったが、帰ろうとした時にこの母親に見つかってしまった。

「あら、伊地知くんじゃない!久しぶりね。ちょうどいいから同席して下さる?」

五条の母、いや。御三家・五条家の奥方からそう言われれば、一介の補助監督の身である伊地知が断れるはずもなく。渋々同席――席は別だが――するはめになってしまったのだ。しかも五条には内緒にしていたが、伊地知は五条の母親とこっそり連絡を取りあっていた。といっても別に二人が不倫関係にあるというわけではなく、五条の母が息子の日頃の動向を、この伊地知にちくいち報告させているというのが理由だ。伊地知も美人には弱いので、そのリスクの伴うスパイのような仕事をつい引き受けてしまって今日に至る。

「やっぱ伊地知を使って僕の動向を探らせてたんだ」
「当然でしょう。変な虫でもついたら困るもの。まあ、その辺悟も分かっているから一夜限りのアバンチュールを楽しんでいるのよね?」
「アバンチュールって古いから。それに一夜ってわけじゃないし」
「あら、そうだったわね。その場限りの、だったかしら」

そこまで詳しく報告しているのか、と五条は未だ怯えたウサギのように自分をチラチラ見ている伊地知を睨んだ。伊地知が母親に自分のことを報告しているなと薄々は気づいていたものの、最近は五条との仕事も減っていただけに、母が持っているのは少し前の情報らしい。それにしたって話しすぎだろ、と五条は苦笑いを浮かべた。

「伊地知~。オマエ、後で首つりの刑な」
「えっ、そ、それってもう死んで詫びろってことですよね…」

五条のいつもの暴言に、伊地知の顏が真っ青になる。そんな殺伐とした空気を物ともせず、母は再び五条に詰め寄った。

「とにかく…目だけでも通してちょうだい。どの子も家柄はもちろん容姿、人柄ともに完璧な子ばかり集めて来たから」
「いやそんな血統書付きの猫みたいに言われても…」
「なに言ってるの。こっちも大変なのよ?家柄は良い美人のお嬢様育ちでも裏では男遊びしてるような子が最近は多いんだから。そんな子に五条家の嫁は務まりません。わたしの悟には不釣り合いよ」
「……その親ばか前面に出す発言は控えてくれる?特に伊地知の前では」

相変わらずの母親に、さすがの五条もぐったりと項垂れる。しかし母は「本当のことです」とキッパリ一蹴し、ずいっとお見合い写真の入った台紙を五条の前へ出した。 

「その中で私が厳選した子達よ。ちゃんと見てちょうだい」
「…コーヒー豆かよ」
「ん?何か言った?」
「いや、別に」

写真を見るまで梃子でも動かぬといった様子の母親に、五条の口から深い息が洩れる。こうなった時の母親は誰にも止められないので、ある意味"五条家の最強"はこの人なんじゃなかろうか、とふと思う。

「分かったよ…見るだけでいいなら」
「いやね、ちゃんと見て、決めて・・・ちょうだい」
「は?」
「だから、この中からお見合いをする相手を決めてちょうだいって言ってるの」
「…マジ?」
「とにかくお見合いしなくちゃ始まらないでしょう?そこに写真だけじゃなく、その子達のプロフィールも入ってるから選びやすいはずよ」
「……」

ニッコリと微笑む母に、五条の顏がどこまでも引きつっていく。写真を見るだけならと思っていたものの、母は今日お見合い相手をここで決める気らしい。散々電話で催促しても五条が一切スルーをして実家にも近寄らないからと、強硬手段に出て来たようだ。外で少し会うだけなら、と思ってここへ来たことを、五条は激しく後悔していた。

「見合いしても僕が気に入らなかったら?」
「また別の相手を探すしかないわね。でも…どの子も術式を持つ家柄の子ばかりだし、出来ればその中から決めて欲しいわ。なかなかいないのよ。五条家に釣り合いのとれる術式を持つ家柄の女性は」
「もとより一般人は排除ってわけだ」

五条家に生まれた時から分かってはいたが、こうも現実を突きつけられると、五条もウンザリしてしまう。

「あら、一般人の子で気になる子でもいるの?」
「いや…いないけど」
「ならいいじゃない」
「……はあ。分かったよ。とにかく目を通すだけ通してみるから」
「今、ここでね」
「……」

逃げられては困ると言わんばかりに母が言いのけた。五条が内心舌打ちをして睨むも、澄ました顔で紅茶を飲んでいる。

「待ってる間、ケーキでも頼もうかしら。ここのシフォンケーキは最高なのよ。――伊地知くんもどう?」
「い、いえ私は……」

五条がよほど恐ろしいのか、眼鏡が曇るくらいに冷や汗を垂らしている。五条はそんな後輩と母を無視して、目の前に並んでいるお見合い写真の一つを手に取った。開くと和服姿の可愛らしい子が微笑みを向けている写真、そして隣にはその子の名前や年齢、家柄、その他に得意な物や趣味などが載っている。

(…へえ。21歳で京都校出身か。術式はそこそこ強そう。ってか習い事が凄い数だな。茶道に華道、フェンシングに乗馬…趣味は…社交ダンス…?つーか呪術に全然関係ないし)

一般的なお嬢様と何ら変わりない、条件だけサラブレッドといったところだろう。しかし会わなくてもどんな子かはだいたい想像できる。

(この子はないな)

と五条は最初の見合い相手を排除した。その様子を母は黙って見ている。その圧が凄くて五条は内心苦笑を洩らした。
次に手に取った相手は現在東京校に通っている19歳の女の子だった。外見はそこそこ。

(ウチの4年生か。見たことないな)

五条も卒業してからは任務の合間に教師としての勉強をしつつ、この前も教育実習として一年を預からせてもらったりはした。しかし他の学年の生徒とは交流がない為、知らない生徒も多い。この見合い相手も五条は知らなかった。

(この子の術式はそこまで突出したものはないけど高専での成績は上位か。夢は一級術師になること。尊敬する術師は…冥冥さん?歌姫かわいそー)

プロフィールを見ながら軽く笑いを噛み殺し、いつも自分を怒鳴って来る先輩の顔を思い出す。五条悟のこういうところが歌姫に嫌われる所以なのかもしれない。

(後は習い事も似たような感じか…。趣味はピアノを弾くこと。まあ普通かな)

と、五条はそれも排除した。最後の一人も特に会いたくなる要素はなく。結局、五条のお眼鏡にかなう見合い相手はいなかった。

「見たけど…あまり興味が湧くような子はいない。見合いしても一緒だよ。どうせ断るハメになるならしない方が――」

と言いかけた五条に、母はにっこり微笑んだ。その笑みを見てこんなことくらいで引き下がる母ではないことを、五条は思い出した。

「仕方ないわね…。その子達は一軍だったんだけど…」
「は?」
「でも保険として二軍の子も持って来たわ」
「……野球選手じゃないんだからさ」

一軍だの二軍だの、勘弁して欲しい。そう思っていると、母が再び紙袋の中から数枚の大きな封筒を取り出した。

「写真はないけど、細かいプロフィールだけ載ってるわ。念のため、これにも目を通してちょうだい」
「いや…見ても同じだって」
「何よ。じゃあ悟はどんな子がいいわけ?言ってごらんなさいよ」

ここまで拒否されるなら最初から息子の理想を聞いておきたい。そう考えて詰め寄ると、五条は「どんなって…」と言葉を詰まらせた。五条自身、あまり深く将来の妻のことを考えたことはない。改めて聞かれると首を捻ってしまう。しかしその時、不意にの顏が脳裏を過ぎってドキっとした。

とは学生時代から知っている先輩後輩の間柄ではあったものの、特に親しかったわけでもない。どちらかと言えば最初は険悪だった。その後、歩み寄った関係に変わったものの、五条は堅物のを女として見たことがなく、当然のことながら恋愛対象には入っていなかった。でも京都校から高専に戻って来たと五年ぶりに再会し、かつから頼まれ、おかしなトレーニングに付き合わされたことで一気に二人の距離が近くなった今。は五条にとって可愛い女の子という認識に変化していた。しかもそれだけじゃなく、連絡が取れないことを心配になるくらい、気にかけている存在になっている。

「何よ、その顔…もしかして…誰か気になる女の子でも出来たの?」

質問に応えられず、黙ったままの息子を見て母の勘が働いたのか、五条の表情だけで核心を突いて来る。五条は慌てて「別に」と言いながら、二軍だという封筒を受け取った。

「これに目を通すけど、終わったら帰って。僕、これから用があるし」
「用って何よ」
「高専のことだから母さんには関係ないって」

封筒から見合い相手のプロフィールが載った紙を取り出し、五条は溜息を吐いた。どうやら少し不機嫌になってきたようだ。母もこれ以上、息子を追い詰めると逆効果になると分かっている。

「じゃあ悟がそれに目を通してくれたら今日は帰ります」

と母は素直に承諾し、五条が二軍のプロフィールを確認するのを待つことにした。

「美味しそうなケーキ」

その間、先ほど注文したケーキを食べることにして、しばし沈黙が流れる。とりあえず見合い相手を見てもらわないことには先へ進めないが、母は二軍にあまり期待はしていなかった。一軍の相手に比べたら格段に術式の方が下がってしまうからだ。家柄は良くて人柄が良くても、やはり五条家の嫁になるには多少、力があった方がいいと思っているのは、実は母よりも五条の方だ。

(私は術式なんかより、嫁として優秀な方が嬉しいんだけど…)

そんなことを思いながらケーキを口へ運ぶ。その時、五条が今までとは違う反応を見せたことに気づいた。これまではプロフィールをサラっと読んでは即、封筒へしまっていた五条が、今、手にしているプロフィールは熱心に読んでいる。しかし母はそれが誰のものかまでは分からず、こっそり反応を伺っていた。すると五条の顔に僅かな笑みが浮かび――。

「この子、会ってみたいんだけど」

今度は五条の方がにっこり微笑み、母にその紙を差し出した。




2.

「心の準備はいい?」
「…うん」

母に再度確認をされて、は重苦しい気持ちのまま頷いた。

「じゃあ行きましょうか」

母に促され、その後からも車を降りると、恵比寿にある某高級ホテルのロビーをゆっくりと歩いて行く。しかしは出来ることなら、このまま帰りたい気分だった。
一週間前、毎月恒例となっている実家に帰った際、母から「今週は高専お休みして」と言われた。理由を聞けば「の将来の為に他のことも頑張って欲しい」と言われ、何のことかと思えば「婚活よ、婚活!」と母は満面の笑みで答えた。

ってば、あの男と別れてから全然新しい恋人連れて来ないでしょう?だから心配になって」
「それは…」
「どうせトラウマになってるんでしょ?なら恋愛結婚じゃなくていいから、せめてお見合いくらいはしてちょうだい」

そう母に押し切られては何も言えなくなった。確かに前の恋人にキスすら許さなかったせいでフラれて以来、恋愛というものから遠ざかっていたのも事実で、母が何かと心配してくれていたのは知っている。しかも母はが仕事にばかりかまけているせいだと思っていたようだ。やはり母親として娘の将来が心配になったのか、「アンタも24なんだからそろそろ結婚に向けて本腰を入れないと」と言い出した。その為、最近はサボり気味だった花嫁修業の再開をするべく、高専を休み、料理や作法、の苦手な茶道など、毎日のように復習させられていたのだ。実家にいた頃はきちんとそれらの習い事もやっていたものの、京都へ赴任した後はそれらの習い事などする暇もなく。手につかなくなって今に至っていた。そこで母が思い出すようにと、ここ数日は毎日のように習い事をやらされていたのだが、つい昨日、突然母が「明日、お見合いになったから」とウキウキしたように言ってきた。

「え…見合いって…」
「先方から是非にって連絡がきたの!これは願ってもないチャンスだし、行くわよね?どうせ明日までは高専も休み取ってあるんだし」
「ま、待ってよ、お母さん…そんな急に見合いなんて――」
「何言ってるの。24歳なんて適齢期ギリギリよ?最近は晩婚が多い時代といっても、早いに越したことないの。子供を産むなら尚更。それに補助監督の仕事をしながらでも結婚は出来るでしょ」
「そうだけど…わたしにも都合ってものが…」
「都合?何、好きな人でもいるの?」

母にそう問われ、はうっと言葉を詰まらせた。一瞬、頭の中に五条の顔が浮かぶ。でもそれをすぐに打ち消した。実家に帰って以来、極力五条のことを考えないようにしていたのだ。電話やメッセージが届いていたのは知っているものの、どう返していいのかもわからず、全てスルーしている。

(きっと五条先輩もあんなことになって責任みたいなものを感じてるのかも…)

あの日、の記憶がないと分かってからの五条は、ひどく落ち込んだ様子で何度もに謝りたそうにしていた。でもはその言葉を聞きたくなくて、気づかないふりをしてしまった。いくら記憶がないとはいえ、自分が決めて五条に抱かれたのなら、そこにきちんと想いがあったんだろうという結論に達した。なのに五条に謝られると単なるゲームをしただけの関係だと言われてるみたいで辛くなったのだ。

、本当にいるの?好きな人」

もう一度、母に聞かれた時、はゆっくりと首を振った。

「いないよ。そんな人…」
「そう?じゃあお見合いしても平気ね」
「……うん」

――と、こんな流れで結果的にお見合いをすることを了承してしまった。そこで連休の最終日、見合いをする為、都内の高級ホテルへ母とやってきたところだった。

「でもお母さん…どうして相手のこと、何も教えてくれないの?」

ホテルの廊下を歩きながら、見合いの場となる日本料理店へ向かう。その途中、は疑問に思っていたことを尋ねた。何でも見合いの申し入れをしてきた相手が、自分達の情報をに内緒でと言って来たらしい。

「だから…先方がには内緒でという条件を出して来たからって言ったでしょ」
「何でわたしに内緒にする必要が?普通お見合いは相手の情報をある程度、相手に伝えるものでしょう?」
「それは…そうなんだけど…まあ色々な事情があるというか…」
「事情って?」
「と、とにかく。このお話は凄く大事なものだから、は黙って先方の方に会ってちょうだい」

母は当然、見合いを申し込んで来た相手を知っているようだ。でも頑なに先方との約束を守って、相手がどこの誰なのかを言おうとしない。よほどその相手が申し分のない相手なんだろうというところまではも察しが付く。じゃなければ、ここまで相手の意向を100%受け入れるはずがない。

「とにかく会えば分かるわよ。あ、ほら、ここよ」

ふと見れば、見合いの場となる店の前だった。この店の個室で見合いが行われることになっている。

「予約したですけど」
「伺っております。此方へ。先方は先にお見えになっております」

店内に入り、母が名を告げると、愛想のいいスタッフが二人を奥の個室へと案内していく。そこでは徹底してるなと思った。もしかしたら内緒と言いつつ、予約した際の名前で相手が分かるかも、と思っていた。しかし抜かりなく、そこはこちらの名前で予約していたらしい。そこまでして何故隠したいんだろうと疑問には思ったが、それもこの後に会えばすぐに分かることだ。もそこは気にしないことにした。この見合いがどうなるかは分からないが、今は他のことで気を紛らわせたかった。一人でいると、どうしても五条のことを考えてしまうからだ。

(明日…どんな顔で五条先輩に会えばいいんだろう…)

これまではトレーニングと割り切った関係ということで、もどうにか自分を保てて来た。しかし恋人でもない五条とそういう関係を持ってしまったのなら話は別だ。自分がそこまで異性に対して流されてしまう性格だとは思ってもいなかったからすると、これが初めての恋かもしれないからだ。

(五条先輩にとってわたしは単なる後輩でゲームの褒賞みたいなものだ…。こんな気持ちになったところで迷惑に思われるだけ…)

高専の人間とはそういう関係にならない。以前、五条はそうはっきり言っていたのを思い出す。

(先輩が優しくしてくれたのは褒賞の為で…それを受けとったんだし、今の関係はもう終わりなのよね…)

ふと気づいて胸の奥が苦しくなった。いつの間にか、五条と過ごす時間をも楽しんでいたのかもしれない。

「ちょっと、ボーっとしないで」
「…あ、うん…」

母に言われて、ハッと我れに返る。気づけばすでに個室の前だった。

「じゃあ入るわよ」

母がそう言いながら、ドアをノックすると、中から「どうぞ」という女性の声がする。は軽く息を吸い込んで、ドアを開けた母の後から室内へと入って行った。

「この度はお日柄もよく――」

母が目の前にいる相手に定番の挨拶しているのを見ながら、次は自分の番だと小さく深呼吸をする。母と挨拶を交わしているのは綺麗な和服美人で、は少し緊張して来るのを感じた。

(誰、だろう。やっぱり見覚えはない…けど…誰かに似てるような…)

その和服美人を見ているとそんな印象を受ける。でも誰かは思い出せない。その時、背後でドアの開く音がした。

「ごーめん、ごめん。渋滞にはまって遅れちゃったよ」
「――――ッ」

その聞き覚えのある声に、の心臓がかつてないほど飛び跳ねた気がした。

「……セン…パイ?」
「久しぶりじゃん、

恐る恐る振り返ると、そこには思った通りの人物が、喜色満面と言った様子で立っていた。