23-ようこそ、五条家へ


1.

高級ホテルの、これまた高級料理店の個室は豪華な庭に面している。開け放たれた縁側に出ると、色んな種類の綺麗な花たちを鑑賞できるようになっていた。しかし室内で向かい合っている二人には、いや特にの方には花を見る余裕もなく。ただただ驚きと緊張で体が固まっていた。

…」
「…して」
「え?」
「どうして…五条先輩がここに…?」
「どうしてって…母親が持って来た見合い相手の中にがいて、どうしても見合いしろって言うならこの子がいいって言ったから?」

先ほど運ばれて来た刺身の盛り合わせを口に運びながら、「ついでに言うと内緒にしたのは見合い相手が僕だと分かればは来ないと思ったからだよ」と五条が淡々と説明する。それでもは納得いかないといったように顔を上げた。

「だから何故わたしだと見合いをするんですか。知り合いだと断りやすいからですか?」
「違うよ。そもそも断る前に興味ない相手とは見合いしないし、他のは全て断った」
「…でもわたしとお見合いしても仕方ないじゃないですか」
「何で?」
「何でって…」

五条の意図が分からず、は溜息を吐いた。どんな顔をして会えばいいのか、と悩んでいた相手といきなりこんな場で顔を合わすことになり、どうにも思考が働かない。ついて来た母、そして五条の母親は、来て早々「知らない仲じゃないんだし後は若い者同士で」と言って出て行ってしまったのだ。何の説明もないまま五条と二人きりにされて、は困惑するしかなかった。

「それより僕もに聞きたいことあるんだけど」
「……聞きたいこと?」

ふと顔を上げると、五条の顔は意外にも真剣だった。

、結婚する気なの」
「…え?」
「見合い相手を探してるってことはそういうことでしょ」
「そ、それは母が勝手に…」
「お母さん…?」
「母は…そろそろ将来のことも考えて見合いしろって…。だから勝手にわたしのプロフィールを作ってたんだと思います」
「ふーん…なーんだ。オマエの家も僕の家とあんま変わらないんだな」

五条は互いに親に振り回されているを見て、苦笑を洩らした。は未だに気まずそうに俯いたままで、せっかくの綺麗な着物姿なのにもったいない、と五条は思う。そして、こんな姿で他の男に会わせるようなことにならずに済んだことをホッとしていた。

(って…何で独占欲なんか出してんの、僕…)

ふと自分の心情に気づき、少し驚く。母親が持って来たあの見合い相手の書類の中からを見つけた時は結構驚かされた。まさか見合いの為に仕事を休んでるのかとまで考え、ならもし自分が見合いの場に現れたらはどんな顔をするんだろう、と思ってしまった。あの事があって以来、顏を合わせていない後輩に会うには、こういったサプライズの中の方が会いやすいんじゃないかと思ったのもある。だから母にを見合い相手として会いたいと告げたのだ。母もが高専の後輩だと知り、「気心知れてる子の方がいいかも」と思ったようだ。何より、これまで一切お見合い相手を気に入ったことのない五条が唯一興味を示した相手だ。ここは二軍でも是非、捕まえておきたいと思ったのかもしれない。

「あのさ。見合いのことよりこの前の話なんだけど――」

まだ気にしているのかもしれない、と五条は本当のことを教えようと口を開いた。でもその瞬間、は真っ赤な顔をがばりと上げて五条を見据える。その意を決したような眼差しを見て、五条は言いかけた言葉を飲み込んだ。

「あの夜のことは…気にしないで下さい」

は真剣な顔で一言、そう言った。五条も思わず呆気に取られる。

「トレーニング中に起きたことですし、わたしもその場の…その…あれに流されたのだと思います」
「…え?」
「だから…五条先輩も気にしないで罪悪感なんてもたないで下さい。元々わたしがお願いしたことです。そして五条先輩はゲームをしていただけ。今回はわたしの負けで、五条先輩は褒賞を受けとった。そういうことなので――」

一気に話した後では喉が渇いたのか、目の前に置かれた温くなっているであろう玉露のお茶を一気に飲み干した。そして軽く息を吐くと、再び五条を真っすぐ見つめる。その眼差しは以前のように凛としたものだ。かつて五条に勝負を挑んで来た時のような強さを秘めた瞳を見て、五条の胸の奥がやけにざわついた。

「わたしも後悔はしていません。なので五条先輩が謝罪する必要もありません。ただ一つ言いたいのは…」
「…言いたい、のは?」
「忘れて下さい。あの夜に起きたこと全て。わたしが言ったことも。そしてわたしと五条先輩の関係は以前通り、ただの先輩後輩でお願いします」

キッパリと言い放ったを見て、五条は唖然としたまま、しばし放心した。あの夜、細かいことを言えば最後まではしていない。しかしの方は未だ記憶が戻っていないのか、五条に抱かれたと思い込んでいるようだ。だからこそ、悩んで仕事を休んでいるのかと五条は心配していた。この見合いのことを知った時も、あの夜のことが原因になったのではないかとも考えたりした。そこで五条はの悩みを解消しようと本当のことを話す為、この見合いをいわば利用したようなものだ。ただ話をする前ににそこまで言われてしまうと、実際セックスをしたわけじゃないのに何故か五条の方がショックを受けていた。

「これまで通り…先輩後輩?」
「はい」
「あの夜のことはなかったことにする。そう言ってるの?」
「はい」
「それで…全て忘れて…はいつかこうして見合いして結婚する気なんだ」
「そ、それは…」

実際、はそこまで考えていたわけじゃない。この見合いも母が勝手に受けてしまったものだ。それに自分は祖母の言いつけを守らず、結婚相手でもない五条に抱かれてしまった。これまで大事にしていた価値観が大きく崩れ、自身、自分がどうしたいのかすら分からない状態だった。それに五条への想いが消えたわけじゃない。他の男と結婚など、今は考えられなかった。それでも五条に気まずい思いをして欲しくないからこそ、何もなかったことにしようと提案したのだ。なのに――。

「無理だな」
「…え?」
「無理って言ったんだよ」
「む、無理って…」

何が?と思っていると、溜息交じりでサングラスを外した五条が今度はを射抜くように見つめた。

「今更先輩後輩?戻れるわけないだろ」
「で、出来ます…」
「出来ない。は忘れてるかもしれないけど、僕はちゃんと覚えてるし。があの夜、僕に言ったことも、どういう顔を僕に見せたのかも」
「………っ」

五条の言葉にの頬が更に赤みを増す。その顏を見て、五条はあることを決心した。徐にケータイを取り出すと誰かに電話をかけ始める。

「ああ、もしもし。母さん?ああ、凄く気に入った。うん。で、そのことなんだけどさー」
「…?」

ふと五条はを見ると、にっこり微笑んだ。

「僕、彼女と婚約するよ」
「―――ッ?」

五条の一言には思わず息を飲んで腰を浮かしかけた。

「ああ、本気の本気だって。先方にもそう伝えてくれる?うん」
「あ、あの…五条先輩…?」
「ああ、じゃあ、そういうことで。明日、彼女を連れて実家に行くよ。うん。じゃあ、その時に――」

五条はそこまで言うと電話を切って、再びと向き合った。今度はが唖然とした顔で放心状態だ。

「ってことになったから。今日から僕とは婚約者ってことで――よろしく」

の返事も聞かないまま、五条は不敵な笑みを浮かべて言いのけた。




2.

この世に生を受けたと同時に、世界のバランスですら数百年ぶりに一変させたほどの存在――五条悟。
はこの男の価値を痛いほど理解している。全世界の生物が、この五条という男の手のひらの上で守られている。それは高専で呪術を学ぶと同時に自然に理解させられた現実。そしては自覚している。自分は五条の足元にも及ばない存在だということも。

「まあまあ。ようこそ、五条家へ」

顔に花でも咲かせているかのような明るい笑顔に出迎えられ、は緊張のピークに達していた。
昨日のお見合いから一夜明けたと同時に、家の前に横付けされた大きなリムジン。そこから下りて来たのは高専の先輩――改め、自称婚約者の五条だった。まだ半信半疑という顔のを無理やり車に乗せ、彼女の意見も聞かず自身の生家である五条家に連れて来たのだ。の母は当然承知の上で、渋るを綺麗に着飾って笑顔で送り出したという手際の良さ。からすれば不本意な五条家初訪問となった。

「初めまして。と申します」
「あら、本当、悟から聞いた通り、凄くシッカリしたお嬢さんなのね!それに物凄く美人さんだし、言うことなしだわ」
 「恐れ入りま――」
「だろ?なら母さんもそう言うだろうと思った」

が応えようとするのを遮るように五条が得意げな顔で口を開く。それを見た母は「何故悟がどや顔するのよ」と楽しげに笑った。で御三家、その中でも名門中の名門、五条家に来たことで緊張マックス状態なのだが、呑気に会話している母と息子を見て、何となく"この親にしてこの子あり"という言葉が頭に浮かんでいた。

「とにかく立ち話もなんだし、どうぞ上がって。今、美味しい紅茶を淹れてたところなの」
「は、はい」

五条の母に微笑まれ、はぴょこんっと直立不動で返事をした。それを見ていた五条が隣で苦笑している。

「そんな緊張しないで。普段通りでいいから」
「……そ、そんなこと言われても」

まさか自分の人生の中で、五条家の敷居をまたぐことになるとは思ってもいなかったは広間かと思うような玄関口に上がっただけで足が震えていた。上品な檜の香りや、かすかに漂って来る白檀の香りは癒される空間を演出してくれているのだが、想像以上に大きなお屋敷で草履を脱ぐのでさえ、よろけそうになる。それを五条の腕が支えてくれた。

「…あ、ありがとう御座います」
「僕につかまって上がりなよ」

上り口に段差があるので、五条はそう言いながらの手を掴んでくれる。それを見ていた母が「まあ、二人ともお似合い♡」と少女のようにはしゃぎだした。としては「そんなはずありません」と突っ込みたくなったものの、五条家の奥方にそんな口はきけない。グっと言葉を飲みこんで、どうにかかまちへ上がった。

「どうぞ。こちらに」
「は、はい」

促されて広く長い廊下を歩き出したの少し後ろから五条もついていく。しかしふと見ればの両手両足が同時に出ている。五条は思わず吹き出してしまった。

、手と足が一緒に出てるけど」
「え?あ…」

真っ赤になったを見てますます頬を緩ませる五条は、そっとの手を繋ぐ。

「ちょ、先輩、何して――」
「こうしてた方が落ち着くかなと思って」
「は、離して下さい…お母さまにどう思われるか…」
「ああ、喜ぶんじゃない?」

の心配をよそに、五条はひとり楽しそうだ。

「よ、喜ぶ…」
「誰より可愛いお嫁さんに来て欲しいって思ってるような人だから」

その言葉を聞いて、の頬が赤くなった。覚悟も何も出来ていない中で、強引に婚約関係になろうとしている五条の真意が分からないのに。その響きだけは素直に心臓が反応してしまう。

「…本気…ですか」
「え?」
「わたしと婚約だなんて…また何かゲームでもするつもりですか?」

が小声で尋ねると、五条は一瞬キョトンとしたが、すぐに苦笑を零した。

「そんなはずないでしょ」
「で、でもそれ以外に、こんなバカげた婚約する意味が分かりません」
「バカげたって…どうして。は僕と婚約するのイヤ?」
「い、嫌とか嫌じゃないとかの問題ではありません…。釣り合わないと言ってるんです」
「釣り合わない…?」
「御三家である五条家。その中でも五条先輩は――って、ご自分の価値は五条先輩が一番知ってるでしょう?それに比べてわたしの術式は――」

と言いかけた時、のくちびるは五条によって塞がれた。

「な…何する…」

五条家の静かな廊下。五条の母は先に部屋へ向かったのか、すでに姿はない。けれども、こんな場所でキスを仕掛けて来た五条に驚き、は一歩後退して五条を睨みつけた。しかし本人はどこ吹く風といった顔で笑っている。

「したかったからしたんだよ。もうは後輩ってだけじゃない。僕の婚約者だし」
「わ…わたしは承諾したつもりありません…。今日だって母と五条先輩が勝手に――」
「あー。それ、そろそろやめようか」
「……それ?」

不意にの言葉を遮った五条は、ニッコリ微笑みながらの顔を覗き込む。今はサングラスも取り去って、キラキラと輝く碧眼を惜しげもなく晒していた。はこの瞳に見つめられることにとても弱いと自覚している。

「先輩ってやつ?もう他人じゃないんだから名前で呼んで欲しい」
「な…名前って…」
「さとる、って言ってみてよ」
「い、嫌です…」
「嫌って酷くない?」

即答されて五条も苦笑するしかない。でもは真剣な顔で「先輩は先輩ですから」と五条を見上げた。

(やっぱり一筋縄じゃいかないか…)

の頑なな態度を見て、五条は内心溜息を吐く。自分でも今回の婚約は少々強引だったかなとは思っているが、五条も意外と本気だった。

――忘れて下さい。あの夜に起きたこと全て。

にそう告げられた時、五条は殊の外ショックを受けている自分に気づいた。あの夜、が思っているようなことはしていない。でもから告白をされたことまで忘れなくちゃいけないのか。そう思うとガラにもなく、手放したくないという欲求が強くなった。このまま前の関係に戻ったとして、すでに女として見ているに、ただの後輩として接することが出来るかも分からない。あげく、いつかに恋人や婚約者が出来るのを、先輩として黙って見ていることしか出来ないのか。そう思うだけで胸の奥が焼け付くかのようにヒリヒリと痛んだ。だからなのか、その時の状況を逆手に取って勝手に婚約話を進めてしまったのだ。婚約しておけば他の男の影はなくなる。何とも身勝手な話だと自分でも呆れたが、あの時はそんな方法しか思い浮かばなかった。

(なら何で…僕はそこまでしてを自分のそばにとどめておきたいんだ…?)

その問いの答えは、すぐそばにあるようで、五条にとっては一番遠い場所にあるかのような、見えにくいものだったのかもしれない。