24-拒絶したはずの情にきみは未だ囚われている
1.
人は理解できない言葉を聞くと、聞こえてるはずなのに何故か自分の口でそれを繰り返したくなるらしい。この日の七海健人もまさしくそれだった。
「は?婚約?」
「そ。あ、お祝いちょーだい、ナナミ~」
ヘラヘラ笑いながら両手を出す先輩に呆気に取られる。感情の見えやすい目はサングラスに隠されているので、どこまで本気で言っているのか分からないのはいつものことだ。だがしかし。内容が内容だけに"悪質なジョーク"と捉えた七海は差し出された手のひらをパチンと叩き落とす。術式は反応しなかったようで、手が当たった感触はあった。
「何の冗談ですか。全然笑えませんね」
「いってぇなあ…。冗談言ったつもりないんだけど」
五条は叩かれた手を振りつつ、僅かに唇を尖らせている。その子供みたいな仕草をジっと見つめていた七海はぷいっと顔を反らし、そのまま歩き出した。
「いや、ちょっと!スルーしないで」
「私はこれから任務に出かけるので五条さんのタチの悪い冗談につき合ってる暇はないんですよ。時間内に仕事を終わらせたいので」
4年ほど高専を離れて一般企業に勤めていたせいか、七海は未だどこかサラリーマンのような口ぶりだ。学生の時もはしゃぐタイプではなかったが、最近はますます堅物化に拍車がかかってる気がした。
「だーから悪い冗談なんて言ってないって」
「……五条さんとさんが婚約?あり得ないですよね」
「何で?」
「何でって…あの真面目なさんが五条さんを選ぶとは思えないからです」
「…ひどくない?」
そこはキッパリ言い切って七海は足を止めた。
「それで…どこまでついてくる気ですか」
任務出立口の門の手前。七海は溜息交じりで振り向いた。しかし五条はニヤリと笑みを浮かべて肩を竦めている。その反応に七海がもう一度、口を開こうとした時。門が開き、そこから七海の同級生で現在は同期でもあるが顔を出した。
「おはよう御座います。七海くん、五条先輩。車の用意は出来ています」
「さんきゅー」
「は?」
五条は当然のように車の方へ歩いて行くのを見て、七海はその細く鋭い目を僅かに見開いた。
「あ、オマエが受けた任務、僕も同行するよう言われたの。さっきそれ言おうと思ったのに忘れてた」
「同行って…今日の任務はたかだが二級…」
「いや、それが"窓"からの追加報告で育っちゃったらしいんだよね~。で、急遽ついて行くことになった」
五条の話を聞いて、七海はすぐさま頭を切り替えた。時々こういう突発的なことは起こり得る世界だということも十分に理解している。ただ一つ問題なのは、面倒な先輩と任務に行かなければならない、ということのみだった。
「そうですか…分かりました。ですが…そういうことなら五条さんお一人でも十分なのでは?」
「いや、範囲が広がったんだ。後輩を育てるにはいい機会かと思ってさ」
「アナタに育てられたくはないですけどね」
「まーたまたー。そんな寂しいこと言うなよ」
五条は苦笑しながら車の前で待っているの方へ歩いて行くと、「夕べは眠れた?」と言いながら彼女の頭を軽く撫でている。その光景を見た七海は一瞬フリーズした。自分の記憶が正しければ、この二人はこんな甘い空気を出す関係ではなかったはずだ。そう思いながら先ほどの五条の戯言を思い出す。
――僕さあ、と婚約したから。
あの時はタチの悪い冗談、と一笑に伏すことすらしなかったが、あの言葉を裏付けるような光景が、今七海の目前で繰り広げられている。ただ"やっぱり冗談か"と思ったのは、が五条の手を振り払い「触らないで下さい」と、本物の婚約者ならあり得ないほどの塩対応をしていたからだ。いや以前ならこれが当たり前だった。しかし、塩対応ごときでめげないのが五条悟たるところで、苦笑いを浮かべながらもの髪に軽く口付けている。あまりに衝撃的な光景で、またしても七海がフリーズした。
「まだ怒ってんの?」
「…当たり前です」
「母さんものことめちゃくちゃ気に入ってたし良かったじゃん」
「良くありません。お二人でどんどん勝手に話を進めるなんて…」
と、そこまで言ってからは言葉を切った。七海が放心したように二人のやり取りを見ていたからだ。少々気まずくなったは軽く咳払いをすると、車の運転席へと回った。
「と、とにかく乗って下さい」
「りょーかい。ほら、七海も行くよ。何、突っ立ってんの」
「……誰のせいですか」
ぼそりと呟き、手を額に当てながら首を振ると、七海はついでに溜息を吐いて五条の隣に乗り込んだ。今の会話だけでも婚約した話が本当だというのは分かった。でもの方は納得していない。どういった経緯でそんな状況になったのかまでは分からないが、五条の母親が絡んでいるとなれば、それは相当二人の関係が進んでいるということだ。七海も五条家はもちろん、の家系のことも簡単に聞かされている。五条家と釣り合うとまではいかなくとも名門であることには変わらないので、二人が婚約、という話もあると言えばあるのは理解出来た。それにしても、これまでの二人の関係を身近で見ていた七海にとっては、とても信じがたい現実だ。
「知りませんでした。お二人が交際していたとは」
「いや、してないけど」
「してません…っ」
「は?」
まさかの返しに七海がこんなリアクションになったのは無理もない。付き合ってもいないのに婚約、とはどういうことだと思った。しかしその話を聞く前にはアクセルを踏み込んで車を発車させた。
「それより任務の話ですが、今日の場所は一般人が多い場所なので許可申請をとるのに時間がかかりました。先方はなるべく破壊行為は裂けて欲しいと仰ってます」
「問題ないよー僕は」
「……(一番問題行為をするのは五条さんでしょう)」
内心、そうツッコみながらも、二人の関係がガラリと激変したことが気になり、この日はあまり集中できない七海だった。
2.
無事に任務も終わり、他に用事があるという七海を途中で降ろしたは、高専に向けて車を走らせようとした。だが五条は「ちょっと待って」と声をかけ、車を降りると、そのまま助手席へ乗り込んだ。
「な、何ですか…」
「七海もいないし、もういいかなと思って」
「もう…いいかな…とは――」
と顔を向けた瞬間、ちゅっという軽いリップ音と共にくちびるを啄まれ、の頬が分かりやすいくらい赤く染まった。
「やーっとキス出来た」
「な…なな何して…っこ、ここは街中ですよっ?」
七海が新宿に用があると言うのでここまで送って来た。駅前の人通りが多い場所には車を横づけできず、一本奥に入った通りではあるが、それなりに人は歩いている。いくら車内とはいえ、別に窓ガラスにスモークを貼っているわけでもない。気づく人は気づく程度に視線は集めていた。
「何も外でしたわけじゃないし」
「そ、そういう問題じゃ…」
と言葉が尻すぼみになったのは、五条があまりに優しい眼差しで見つめて来るからだ。素直に鼓動が鳴って、は慌てて視線を反らした。前の五条とは明らかに違う空気に、ここ最近は戸惑うことばかりが増えた。どこまで本気なのか分からない婚約も、にしてみればツラいだけだ。こんな風に戯れで触れられるのも。
「か、からかってるならいい加減やめて下さい…。それにもうゲームは終わったはずです」
「…勝手に終わらせるなよ」
「勝手なのはどっちですか。わたしは…わたしは前の生活に戻りたいだけです」
そうハッキリ告げると、五条は小さな溜息を吐いた。そんな些細なことでもの鼓動が嫌な音を立てる。五条に呆れられたかもしれないと思うだけで手がかすかに震えた。前の自分は五条にどう思われるかなど気にしたこともなかったはずだ。その頃の自分に戻れたら、こんな重苦しい空気にも耐えられたのに。
「…戻ります」
はそれだけ告げるとアクセルを踏み込んだ。五条は何も言わず、視線を窓の方に向けたのが視界の端に見えた。
(五条先輩は…わたしをどうしたいんだろう…)
あの記憶が抜け落ちた夜で全て終わったと思っていたのに、いきなりお見合いをこっそり仕組んで、それだけじゃ飽き足らず婚約するとまで言いだした。どう考えても本気で結婚をしようと思ってるようには見えないのに、一体何を考えているのか。いくら考えても答えは見えてこない。これ以上、深入りしてしまうと忘れたくても忘れられない気がした。
「…」
「……っ」
不意に五条が口を開いてビクリと肩が跳ねた。
「次の信号右に曲がって」
「え…?でも…」
「寄りたいとこあんの。いいから曲がって」
「……はい」
五条は窓の外に顔を向けたまま言った。さっきとは違い少し機嫌が悪いようだ。こういう時は逆らわない方がいいというのは長年、五条の後輩をやっていたはよく分かっている。言われた通り、信号を右に曲がると、「次の交差点も右に曲がって」と五条が言った。このままでは高専とは全くの逆方向になってしまう。だがはどこへ行くんですか、とは聞けなかった。五条の言うがままに車を走らせて約5分。「そこのマンションの駐車場に入って」と言われ、はハッと息を飲んだ。
(こ、ここって…)
そこは以前、連れて来られた五条のマンションだった。来た時は意識を失っていたものの、帰りは当然、外観をみている。はそれを覚えていた。ということは今日五条は高専ではなく、このマンションに帰るということだろう。
「…つきました」
地下駐車場、そこのエレベーター近くに車を止めたは、エンジンを切らないまま言った。だが五条は「ウチの駐車場に車いれて」と言って来る。
「ここだと邪魔になるから」
今は特に他の車はないものの、そう言われると断れず、は五条の部屋番号が書かれているスペースへ車を入れた。
「エンジン、切って」
「え…?」
「早く」
真意が分からないまま、五条に言われた通りエンジンを切ると、一気に静けさが戻る。何故、と思ったものの、何となく機嫌の悪そうな五条に聞きづらい。五条はひとり車を降りて、何故か運転席のドアを開けるといきなりの腕を掴んだ。
「え…?」
「おいで」
「ご、五条先輩…?」
驚きつつも固まっていると、五条は強引にを車から降ろし、キーを抜いてリモコン操作でロックをかけた。
「え、ちょ、五条先輩…」
五条は強い力での腕を引っ張って歩いて行く。そのまま止まっていたエレベーターに乗り込むと、徐にサングラスを外した。やはり機嫌が良くないようで、澄んだ青色が僅かに細められている。
「あ、あの…」
「前の生活に戻りたいんだ?」
「え?」
唐突に言われての肩が軽く跳ねた。思わず顔を上げると、五条は少しだけ身を屈めての肩越しに顔を埋める。気づけば腰を抱き寄せられていた。
「今さら…前の生活になんて戻れなくない…?」
「…も…戻れます。先輩がこういうことをしなければ――」
「僕が無理」
「……っ」
耳元で呟かれた言葉はいつもよりも少しだけ低音での鼓膜を揺らした。それだけで一気に鼓動が速くなってしまう。五条が自分を好きになる確率が0に等しいと分かっていても、こんな些細なことで期待してしまうのが嫌だった。なのに、五条は容易くの心を揺さぶってくる。
「…最近、毎日のこと考えてるんだけど」
「え…?」
「…どうしたらいい?」
まるで子供が困り果てているような、そんな響きが混じる言葉に、の方が動揺してしまった。