もう一人の先輩術師



2006年――この年、星漿体を護衛するという大切な任務は、最強と呼ばれる二名の生徒が就いたものの、失敗。高専においてはあっさりと敵に侵入を許した。侵入者は高専二年の五条悟が撃退。この襲撃は関係者に深い傷跡を残して終結した。

「すげーよな、五条悟。瀕死の状態にされてそこから復活とか、もうオレ達の次元とは違いすぎだろ」
「まあ、うん百年に一人生まれるかどうかっていう六眼持ちで五条家直伝の無下限まで扱えるんだし、そこですでに"人"じゃねーよ」

談話室、補助監督たちの間で何度となく繰り返される会話を聞きながら、は読んでいた本を静かに閉じた。あの襲撃から二カ月は経つというのに、未だそんな話題で盛り上がっている先輩に少し呆れつつ、談話室をあとにしたは自販機コーナーへ向かった。授業も終わった夕暮れ時。そろそろ任務に出ている同級生たちも帰って来る頃だ。

「はあ…」

何か飲み物を買おうと思ったものの、少し息苦しさを覚えては窓を開けた。もうすぐ秋になるというのに、まだかすかに蝉の鳴き声がする。

(気持ちいい…)

厳しい残暑も今週に入ってからはだいぶ和らぎ、ふわりと頬に触れる風は秋の訪れを知らせるかのように冷んやりとしている。

(だいぶ…修復工事も進んだなぁ)

校舎の窓から見える広大な敷地。その一画には大きな重機などが置かれている。二か月前の襲撃で破壊された壁や建物を修復する工事が行われていたが、戦いの爪痕はすでに消え、元の風景になりつつある。それがをホっとさせた。高専に入った時から分かってはいたものの、身近な場所で殺し合いがあった現実は、少なからずを動揺させ、更にはこのままでいいんだろうか、という疑問を残すことになった。呪術師を目指すということは二カ月前のような事案ばかりじゃなく、現場に出て呪霊祓徐に当たらなければならない。なのに自分には戦闘するだけの身体能力が足りない。頼みの綱である術式は結界術であり、戦闘に何ら役には立たないという理由から、今日も現場での任務は外されていた。

(やっぱり…わたしも母のように呪術師は諦めた方がいいのかもしれない)

親がそうだからと言って子供までが同じとは限らない。はそう考えて高専に入学し、呪術に関すること以外にも戦う術を模索していた。でも思うような成果は得られず、ここ最近は自分の将来のことを悩んでいた。そんな中で起きた高専襲撃。その異例な事態を圧倒的な力で収束させた五条悟を見て、は自分の限界に気づかされた。

(わたしには無理だ。低級呪霊にすら手こずっているようじゃ呪術師なんて――)

同級生の七海や灰原の域にも届かない今の自分では。そう思った。その時、背後でガコンという音がしてハッと息をのむ。

「はい」
「ひゃ…」

振り向いた瞬間、頬に何か冷たい物を当てられ驚いた。目の前にはいつも自分が飲んでいるカフェオレの缶。視線を上げると、そこには一つ先輩の夏油が優しい笑みを浮かべて立っていた。この高専で五条と並び、最強と言われている先輩術師だ。

「げ、夏油先輩…」
「ただいま」

その言葉を聞いて、任務帰りなのだと気づいたは「お、お帰りなさい」と応えてカフェオレを受けとった。

「…ありがとう御座います」
「うん。はひとり?」
「七海くんと灰原くんは今日、東京郊外での任務に出ています」
「そう」

夏油は頷いて、自販機コーナーへ設置されたベンチへと腰を下ろした。夏油もまた、二か月前の侵入者による襲撃事件で瀕死の重傷を負ったものの、もう一人の二年生、家入硝子の治療のおかげで一命をとりとめた。今はすっかり前の生活に戻っているが、以前とは変わったことが一つだけあった。

「夏油先輩はおひとりですか?」
「うん。今日はひとりで埼玉の方にね」

コーヒーを飲みつつ、夏油はに「座れば」と隣に座るよう、促した。言われるがまま隣に腰を下ろすと、ももらったカフェオレを開けて「頂きます」と一口飲む。あれこれ考えて疲れた頭に、程よい糖分が沁みていく。

「それで…は何を悩んでるのかな」
「…え?」

不意に言われた一言にが驚いて顔を上げると、夏油は苦笑いを浮かべていた。

「そんな顔してたから」
「あ…いえ…悩みと言うか…」
「自分だけ任務に呼ばれないこと?」
「……」

核心をつく問いに、は静かに目を伏せた。夏油はこういうところがある。何も言わなくても、他人の些細な変化によく気づく人だ。

「分かってます。わたしの術式はもちろん、今の体力や体術の技術では七海くんや灰原くんに劣っているということは。一緒に行ったところで足手まといになるだけです」

の話を聞きながら、夏油は一瞬俯いたものの、ふと顔を上げての頭へポンと手を置いた。

は呪術師になりたいのかい?」
「え…?」
「いや、選択肢はそれだけなのかなと思って」
「いえ…というより、そこまで考えては…」
「そう。確かに今のの力では現場に出るのは危険だ。だけどにも出来ることはあるだろ」
「出来る、こと…」
「自分の術式を高めることだって可能だし、もしそうなればサポートにも回れる。確かの家って代々直伝の術式を継承してるんだったよね」

そんなことも知っているのかと少しだけ驚いた。先輩たちのサポート任務は何度もついてはいるが、家の話までしたことはない。夏油はのそんな疑問に気づいたのか、「ああ、私は灰原に聞いたんだ」と笑った。

「由緒ある家柄なんだって?」
「え、えっと…まあ…そうみたいです。祖母も昔は術師の経験があるような話をしてました。でも戦闘術には欠けると言うか…」
「そう。なら一般家庭の私と違って、そういう血を受け継いでるってことだし、もし呪術師になることに拘りがないのなら自分の術式強化を目指してみたら?」
「術式強化…」
「守ることだって戦闘においては大切なことだからね」

夏油は穏やかな顔で微笑む。そう言われると重かった心が軽くなっていくようで、もかすかに笑みを浮かべた。

「夏油先輩はどうして…そんなに優しいんですか」
「え…優しいかな」
「優しいです。だいたい皆、わたしの術式を知ると高専に何をしに来たんだって言うのに」

そう、もう一人の最強術師である先輩はに会うたび、揶揄して来る。夏油も相棒のことだと気づいたのか、苦笑いを浮かべた。

「そう、だな…私ものような不安があるから気持ちが痛いほど分かるのかもしれない」
「え、夏油先輩が…?」
「仲間に置いて行かれる気持ちはね」
「ど、どうしてですか?夏油先輩は凄く強いのに…」

星漿体の任務は失敗こそしたものの、夏油が強いことには変わりない。あの時は相手が悪かったという話も家入からチラっと聞いて知っている。なのに、夏油が仲間に置いて行かれることを不安に思っているなんて、には信じられなかった。

「…世の中にはどれだけ努力しても、決して辿りつけない領域がある」
「え…?」

ふと夏油が言った。思わず仰ぎ見ると、夏油はどこか遠い目をしながら、何かを考えこんでいるように見える。その瞳に映る先に、彼は何を見ているんだろう、とは思った。現代最強となった五条悟を相棒に持ち、才能を開花させていく姿を隣で見ている夏油には、何か思うところがあるのかもしれない、と。

「そうだ。ちょっとした体術なら私が教えてあげるよ」
「え、夏油先輩が…?」
「ん?私じゃ不満かい?」
「ま、まさか…!」

が慌てて首を振ると、夏油は声を上げて笑った。その明るい顏を見て、も何故かホっとする。

「でも夏油先輩、忙しいのに…いいんですか」
「大丈夫だよ。今は…誰かの役に立ちたいんだ」
「夏油先輩はいつも役に立ってるじゃないですか」

が苦笑交じりで言うと、夏油はかすかに微笑んだ。その笑みはどこか寂しげで、の記憶に強く刻まれた。