挑発



2007年1月。

朝から快晴だった休日の午後、は夏油の体術指南を受けていた。防御から攻撃へ、攻撃から防御へ。緩急をつけたその動きを、夏油は丁寧に根気よく指導してくれた。

「お、今のはいい攻撃だ」

の拳を手で受け止めつつ、褒めることは忘れない。上手にのやる気を刺激するやり方は担任の術師よりも上手いと感じた。そもそも、担任はここまでに付きっ切りでは指導もしてくれない。やはり才能ある七海や灰原にその熱が向くのは当然で、野外での授業の時、はいつも見学しているだけだった。

「今の一連の動きは良かったよ。かなり動けるようになってきたし」
「…本当ですか…」

肩で息をしながらも、不安そうに尋ねるを見て、夏油は「もちろん」と笑いながら頷いた。

「少し休憩しよう」
「は、はい」

ポンと頭に手を乗せられ、は呼吸を整えながらも頷いた。ふたりで木陰に移動し、タオルで汗を拭く。天気はいいものの、やはり冬の気温らしい寒さ。身体の熱が引いて来ると多少寒さを感じる。

「あ、これどうぞ」

は用意していたスポーツドリンクを夏油へ差し出した。教えてもらうのだから、とこういった物はがマメに準備をしてくる。夏油は笑みを浮かべると「ありがとう」と言ってそれを受けとった。
校庭の端にある大木に背を預けて座りながら、ふたりは冬の澄んだ青空を見上げる。夏油がの指導を申し出てから約半年が過ぎようとしていた。

「あの…すみません。任務で疲れてるのに相手をしてもらって…」
「いや、そんなに疲れてないよ。今日は一件だけだったし」

他の生徒が休日ではあっても、今や特級呪術師となった夏油にはそれなりに任務の依頼が舞い込む。今日も午前中に都内での任務を終えたばかりだった。以前なら、任務が早く終わった後は東京で映画を観たり、買い物をしたりしていた夏油も今日はそんな気分でもなく。早々に高専へ戻って来た。その時、校庭でひとり走り込みをしているを見かけ、声をかけたのは夏油の方だった。

「それに私も少し体を動かしたい気分だったから、付き合ってもらって助かるよ」
「そうですか…?なら、良かったです」

そう言いながらも、夏油の気遣いを感じたはかすかに笑みを浮かべた。相手に気を遣わせないところが夏油らしい。

「ところで…術式の方はどんな感じ?」
「あ、はい。だいぶ以前よりは強化できてきてます。母にも教わりながら少しずつですけど、ある程度の攻撃では壊されなくなってきました」
「そうか。の家の術式は守りに特化してるものみたいだし呪力を向上させればもっと強くなると思うよ」
「はい、頑張ります」

夏油の言葉にが笑顔で頷く。その顏を見て、夏油はだいぶ感情を見せてくれるようになったなと思った。高専に入って来た頃のはその見た目の美しさとは裏腹に、あまり自分の感情を見せるのが得意ではない女の子だった。よく言えば落ち着いている。悪く言えば不愛想。その辺を五条がからかったり、突っかかったりするのを夏油は何度となくたしなめてきた。曰く、女は無駄に愛想を振るなと厳しい祖母から言われて育ったようで、別に意図してるわけじゃないということだった。

の祖母が生まれたのは男尊女卑の根強い時代。確かに愛想のいい女は男相手の商売女と見られ、男に媚びを売るはしたない女、と思われるようなところもあったのだろう。けれどもこの現代では、女は愛嬌という言葉があるように、古い時代の常識は通用しなくなっている。逆にのような愛想のなさすぎる女の子は珍しい。

「な…何ですか?」

夏油がジっと自分の顔を見ていることに気づいたは、少し眉間を寄せながら「顔に何かついてますか?」と慌てたように手で顔を払っている。その姿に夏油は小さく吹き出した。

「いや…そうじゃなくて。もだいぶ感情が出るようになったなと思っただけ」
「え…そう、ですか?」
はもっと笑ったらいいのに。可愛いんだから」
「…か、かわ…っ?」

何気ない夏油の一言にの頬がほんのりと色づく。

「げ、夏油先輩でもそんなこと言うんですね」
「そりゃ私も男だからね。可愛い子には可愛いと言いたくなるよ」
「い…意外です…五条先輩ならともかく」

変な汗が額に浮かび、は動揺を誤魔化すようタオルに顔を埋めた。の中で、夏油という男は五条と同様、問題児ながらもどちらかと言えば常識人で真面目。そんな印象を持っていたからこそ、さらりと女性を誉める姿に少し驚いたのだ。
夏油はの反応に軽く吹き出すと、親友の名前を出され「まあ悟はその辺、私より奔放だから」と笑っている。

「前から任務先で女性がいると、よく連絡先を渡されていたしね。今もその辺は変わらないんじゃないかな」
「…あんな軽薄な人がモテる世の中なんですね」

ポツリと呟けば、夏油が少し驚いた顔でを見た。

は悟が嫌い?」
「いえ、嫌いでも好きでもありません。苦手なだけです」

キッパリ言い切るに夏油は一瞬、呆気に取られように目を丸くした。

「ははは…まあ…はよくからかわれてるもんな。仕方ないか」
「わたしが弱いせいなので仕方ないです。何しに高専に来たんだって自分でも思いますし…もっと自分に出来ることを模索した方が将来の為にもいいのかと思い始めてます」
…」

どこか達観している後輩に、夏油が何かを言いかけたその時、背後から良く知った人物が近づいて来る気配を感じた。

「あれー?お二人さん。まーた仲良く体術の授業してんの」

その声にふたりが振り向くと、校舎の方からスラリとした高身長の男が歩いて来るのが見える。その顏にはラウンド型のサングラス。白銀の雪を思わせる柔らかそうな髪を揺らしながら、五条悟は指でサングラスをズラして二人を見下ろした。

「悟…任務は終わったのかい?」
「ああ、あんなちょろい任務、速攻で終わった。んで?傑はと仲良く体術訓練か」
「まあね。天気もいいし、悟もどう?」

タオルで汗を拭いながら夏油が見上げると、五条悟は冬の青空のように澄んだ綺麗な瞳を僅かに細め、鼻で笑った。

「するかよ。ってかが今更体術の訓練したところで何も変わんねーんじゃね」
「…悟。何事もやって無駄なことはないよ」

相変わらず辛辣な親友に夏油も飽きれたように溜息を吐く。しかしは特に気にした様子もなく立ち上がった。

「夏油先輩、お付き合い下さってありがとうございました」
「…?」
「昨日の授業の復習をしなければいけないので、今日の訓練はこれくらいにしておきます」
「…そう?じゃあ…お疲れ様。また時間の合う時にね」
「はい。――では五条先輩、失礼します」

そう言って頭を下げると、五条は苦笑い浮かべながら「相変わらず可愛げねえヤツ」と肩を竦めている。それでもは表情一つ変えずにその場を後にする。どうせ自分がいなくなった後も、夏油に何かしら文句を言うんだろうなと苦笑が洩れた。

"何であんなヤツにかまうんだよ。どんだけ鍛えても呪術師になんかなれねえだろ、は"

夏油がに指南を始めた頃、五条がそう言ってたのを、たまたま娯楽室前を通りかかった時に聞いてしまったこともある。その時も夏油は「やってみなきゃ分からないだろ」と言ってくれていた。強さが全てという偏った価値観を持つ五条よりも、夏油は弱者の気持ちに寄り添ってくれる。には夏油のそんな優しさが有難かった。だからこそ指南を受けるなら何かしら成果を出さなくてはならない。そう思えるようになったからこそ、自らの術式を高める為の努力も惜しまなかった。

――呪術師じゃなくても術師をサポートする補助監督の道もある。

父にそう助言された時、もそれを選択肢の一つとして考えるようになった。

(もっと…もっと強い結界を張れれば、いざって時に役立つこともある)

何も呪霊を祓うだけが仕事じゃない。そう言ってくれた夏油の優しさに報いる為にも、は自分に出来ることをやっていこうと心に決めた。






「まだ無駄な努力してんの」

この日も任務に行けず、時間が空いたが一人で呪具を使った訓練をしていると、通りかかった五条に声をかけられた。は手を休めないまま「努力に無駄なことなんてないと思いますけど」と返す。存在そのものが才能の塊ような男にはきっと自分の気持ちは分からない。議論するだけ無駄だと思うが、ついそんな言葉が口から出てしまった。その態度が気に入らなかったのか、五条はムっとしたように顔をしかめると、そのままの方へ歩いて来た。

「あ…何するんですかっ」

五条はの持っていた呪具を奪うと、それを後ろへ放り投げた。

「じゃあ何で無駄な努力って言葉があんだよ」
「人それぞれなんじゃないですか。少なくともわたしは無駄だと思いません。何かを身につければ必ず役立つこともあると思ってるので」
「…はっ。オマエの術式は呪術師に向かねえ。体術や呪具だけで補えると思ってンの」
「思いません」
「ハァ?」
「ただ…こんなわたしでも…高専で出来ることはあると思ってます」

はキッパリ言うと、放り投げられた呪具を拾う。

「だから…どんな場面でも多少抗える術は身につけておきたいと思ってるので訓練してるんです」

言いながら再び呪具を振るうを見て、五条の中によく分からない苛立ちがこみ上げて来た。その時、「何してるんだ」と校舎の方から夏油、その後ろから家入が歩いて来る。

「夜蛾先生が呼んでるぞ」
「ああ…」

夏油の言葉に素っ気なく返したものの、五条は未だの方を睨みつけている。ただならぬ空気を感じた家入は溜息交じりで項垂れた。

「ちょっと五条…またに絡んでんの?いい加減後輩イジメやめなさいよ」

を可愛がってる家入は怖い顔で五条の前に立ちはだかった。

「イジメ?オレは身のほどってヤツを教えてるだけだろ。結界術しか使えねえ。それって術師として終わってんじゃん」
「おい、悟――!」

肩を竦めて笑う五条に、夏油が怒ったように口を挟んだ時だった。それまで一心不乱に呪具を振るっていたの動きがピタリと止まった。それに気づいた3人が一斉にの方を見る。

「何だよ…オレの言ったこと何か間違ってるか?」
「ちょっと!いい加減にしなさいよ、五条!」
「硝子は黙ってろ」

五条は家入を押しのけ、の方へと歩いて行く。しかしの様子がいつもと違うことに気づき、ふと足を止める。ゆらゆらとした呪力がの身体から溢れ出るのを、その六眼が捉えたからだ。
負の感情――の身体からはそれが溢れていた。

「いっつも何考えてるか分かんねー顔してたけど、やっと感情出したな。何か文句あんなら受けて立つけど」

五条の言葉にはゆっくりと振り向いた。その顏は普段とは違い、確かに怒りの感情を見せている。

「わたしと…勝負しませんか。五条先輩」

その言葉を聞いた時、五条はよく意味が分からなかった。それほど驚いたと言える。それは後ろで見守っていた夏油と家入も同じだった。呪術師としては底辺にいる女が、現代最強の五条悟に勝負を挑んだのだ。それはまさに前代未聞の事態。

「…は?オレと、オマエが…?バカ言うな。勝負になんねーわ」

ようやく言葉の意味を理解し、目の前の後輩が冗談で言ったのではないと気づいた五条は当然のように笑った。しかし――。

「やってみなければわかりません」

は引く気がないようだ。普段は冷静な後輩が挑むような強い眼差しで五条を射抜いて来た。一点の曇りもなく澄んだ瞳は、少なからず五条を苛立たせた。

「分かった。受けて立ってやるよ。その代わり大怪我してもしらねーからな」

不敵な笑みを浮かべてを見下ろした五条に、もまた「望むところです」と言い返す。
こうして、最強の男と、最弱の女が一発勝負をすることになった。