ほんの少し昔のこと



「ルールは簡単、わたしの結界を五条先輩のお好きな技で攻撃して下さい。壊されたらわたしの負け。壊されなかったらわたしの勝ちです」

は淡々とした顔で説明した。当然、勝負と一口に言っても、直接やりあうわけじゃない。その方法では戦う前から結果は見えている。だからこそ、互いの得意なもので勝負をしようとは考えたのだ。

「はっ。体術でやりあうんじゃねーのかよ」

五条がバカにしたように笑った。しかしは真顔で「当たり前です」とキッパリ言った。

「最弱で非力なわたしが最強である五条先輩に戦闘で挑むはずがないじゃないですか」
「……」

キリッとした顔で堂々と言い切ったを見て、さすがの五条も呆気に取られる。以前から変わった後輩だとは思っていたが、やはり少し人よりズレてる感が否めない。自分のことを非力だと認め、それでもなお五条に勝負を挑んで来る一風変わった後輩を、五条は面白いと思った。弱いくせに生意気な女は嫌いだが、は自分に挑んで来るだけの度胸がある。そういう人間は五条も嫌いじゃない。

「ちょ、ちょっと!正気なの?あんな馬鹿、放っておきなってば」
「いえ、硝子先輩。やらせて下さい。確かにウチの術式は防御のみでしかありません。でも呪術師をしていた母はそれでも我が家の術式を誇りに思っていました。戦えなくても仲間を守ることは出来る。そう思って戦って来たと話してました。その母が誇りに思っていた結界術を"呪術師として終わってる"などと言われて黙ってられません」
…」
「わたしが母に直々に教わった結界術が終わってるかどうか。それをハッキリさせたいんです」

普段それほど感情を見せないが、先輩である五条に勝負を挑んだのは、自分の為というよりは母親の為だった。その思いに気づいた家入は小さく息を吐いて仕方ないわね、と苦笑した。

「勝算はあるの?」
「分かりません」
「え…」
「でも…今わたしの呪力がこれまでにないほど上がっているのが分かるんです。これなら完成形に近い結界が作れる気がします」
「本当にやるのかい?」

夏油も心配そうな顔で歩いて来た。少し離れたところでは五条がすでにスタンバイをしていて「早くしろよ」と叫んでいる。

「やります。夏油先輩に言われてから術式強化の訓練は怠らずにやってきました。それを試したいんです。現代最強である五条先輩の攻撃に耐えられたなら…それは大きな武器になりますよね?」

真剣な眼差しで夏油を見上げる。その瞳には恐怖も迷いも見られない。強い子だ、と夏油は笑みを浮かべた。

「もちろん。でも、ケガをしないよう攻撃が当たる瞬間、はその場から離れるんだ。分かった?」
「はい。わたしもまだ死にたくはないので」

はそう言ってかすかに微笑む。
余談だが――五条はこの時、初めての笑顔というものを見た。

この後、の作り出した結界を、五条は"赫"で攻撃した。本気でお願いしますというの言葉を受けて、何の迷いもなく容赦もしなかった。それは己の六眼が捉えていたの呪力が、それに耐えうるほど向上しているのが分かっていたからだ。

「わたしの勝ちです。五条先輩」

結果――五条の放った"赫"でもの結界は破壊できなかった。見事なまでの完敗。ただ、伏黒甚爾から味わされた屈辱とは程遠い感情が芽生え、この時の五条はどこかスッキリした顔でそれを受け止めた。

「なかなかやるじゃん」
「ありがとう御座います」
「さっき言った言葉は撤回する。悪かったよ」

五条がこれほど素直に他人を認め、謝罪したのは初めてだった。さすがにも驚いたのか、キョトンとした顔をされ、五条は不愛想な後輩の表情を僅かでも崩せたことに満足をした。

この時から、五条のに対する見方が変わった。態度が随分と柔らかいものに変化をしていったのもこの頃からだ。




「おい、。オマエは堅物すぎんだよ。勉強もいーけどもっとこーいうのも経験しろ」
「…何ですか、これは」
「え、オマエ、桃鉄知らねーの。人気ゲームだよ」
「ゲーム…」
「テレビゲームもやったことねーのかよ、オマエは。いいか?これはな…」

と、このゲームがいかに面白いかを語り出した五条の話に、は真剣な顔で耳を傾けている。その光景を夏油と家入が苦笑交じりで眺めていた。

「五条のヤツ、自分の下らない趣味にを引きずりこもうとしてない?」

頬杖をつきながら、家入は目を細めて溜息を吐く。

「まあ下らないかどうかは置いておいて…前より打ち解けたのはいい傾向だよ。最近、私との体術稽古にまで参加してくるしね」
「あー…がそんな話してたなぁ。夏油に指南してもらってるのに、五条が横から口を出してくるから、どっちの意見を聞けばいいのか凄く困るって」
「あははは。は真面目だからね。悟のその場の思いつきみたいな話をされてもちゃんと聞くんだから偉いよ」
「どーせ七海とかは聞いてくれないから、素直に聞いてくれるに構うんでしょ。以前の態度とえらい違いよね、全く」
「ああ、何かの面白さに気づいたとか言ってたな。打っても響かない感じがジワるらしい」
「ったく…気づくのが遅いのよ、アイツは」

そんな会話をしながら、未だ桃鉄について熱弁を振るう五条を見る。その姿は意外と楽しそうだ。

「雨降って地固まる、か」
「だね」

夏油の言葉に家入も笑い、しばらく先輩後輩のかみ合わない会話を聞いていた。

この数か月後――同級生の灰原が任務先で亡くなり、その直後、が慕っていた夏油が前代未聞の事件を起こす。
それをキッカケに五条は変わり、教師を目指すことを決断。も迷っていた進路で、呪術師の道は最初から諦め、補助監督の道を進むことを決意する。その決断の裏に自分の得意なことを伸ばすといいと助言してくれた夏油の言葉があった。

「は?、補助監督になんの」
「はい…迷いましたが、今日担任にそう伝えました」

いつもの校庭で体術訓練をした後。ふたりはあの大木の下に座り、沈んでいく太陽を眺めていた。夏油が高専を離反してから一年。五条は四年生、は三年生になっていた。夏油が離反後、五条自らがに体術指南をしてやると申し出てくれたのは半年ほど前からだ。夏油の件以来、ふさぎ込みがちだったを見かねたのか、それとも自分自身もそう言う気持ちを払拭したかったのか。とにかく五条は親友のやり残した穴埋めをしようと、時間の空いた時はの訓練につき合うようになっていた。

「でもあと一年あるんだし、今から決めなくてもいーんじゃないの、進路なんて」
「いえ、こういうのは早い方が。補助監督になるには、それなりにまた術師とは違うことを学ばなきゃいけないので」
「……そっか。まあ…がそう決めたなら…オレは何も言えないけど」
「先輩、また"オレ"になってます」
「え?あ…いけね」

後輩に指摘され、五条は苦笑交じりで頭を掻いた。以前、夏油に一人称は"僕"か"私"に変えた方がいいと言われ、その時は一笑に伏したのだが、教師を目指すと決めた時、身の振り方を変えようと、まずはそこから改めることにしたのだ。たったそれだけで、やはり印象が違うのか、後輩からは前ほど怖がられなくなった気がする。

「僕、ね。僕…。なーんか、どっかのお坊ちゃんみたいだよな」
「五条先輩は立派なお坊ちゃんじゃないですか。五条家の」
「ああ…まあ言われてみりゃそうだけど…。そういうの家だってそーなんじゃなかったっけ。術式相伝してるくらいだし」
「はい、まあ」
家って…確か巫女の家系だったよな。っていうか、その前に歌姫の遠い親戚だっけ」
「そうです。歌姫先輩とは遠縁ですが幼い頃に何度か会ったこともあって、高専に入ってからも未だに良くしてもらってます」
「ああ、知ってる。前はよくをイジメるなって会うたびグチグチ言われてたし」
「え、そうなんですか?」

初耳だとは驚いて隣の五条を仰ぎ見た。歌姫から再三にわたって「五条にだけは近づくな」「気をつけろ」と今も時々言われている。けれども、以前ほど威圧的ではなくなった五条のことはも苦手じゃなくなっていた。親友を失い、自ら変わろうとしている姿を見て、陰ながら応援している。

「歌姫もには甘いからなー。あの様子じゃ卒業したら京都校に来いって言われるんじゃない?」
「今はあちらも人手不足のようですね。でも本当に辞令が出たならわたしはどこでもいくつもりです」
「ま、オマエならどこ行っても変わらなそうだな。は見た目可愛いんだし変な男には引っかかんなよ?」
「…変な男、とは?」
「だから…エッチ目的のようなヤツだよ」
「…五条先輩みたいな?」
「…テメ、デコピンすんぞ」

の冷静なツッコミに、五条の目が細くなる。しかしは真顔で言った。

「それに大丈夫です。わたしは婚前交渉に一切興味がないので」
「は?じゃあ結婚するまで誰ともエッチしないってこと?」
「もちろんです」
「オマエは昔からほんとお堅いよな。女はもっと可愛げある方がモテるよ?」
「モテなくて結構です」

プイっと顔を反らす後輩に、五条は深い溜息をもらす。
数年後、この少し距離のある先輩後輩という関係が大きく変化することを、この時の二人は想像すらもしていなかった。