インスタント怪物ショー-05



土煙や何かが燃える匂い。瓦礫の山に転がっている死体。それらを目の当たりにしても、特に何も感じなくなっていた。平穏な日々に浸りきって鈍っていた危機感は、少しずつ戻ってきている。それでも心の中は不安なもので満ちていた。目の前の建物を目にするまでは。

「…良かった。無事だ」

どうにか原型を保っている自宅マンションを見上げて、はホっと息を吐いた。次の日、戦いに行くという鹿紫雲に頼み込み、自分の家を見に来たのだ。鹿紫雲は敵がいればどこでもいいらしい。ここまで来る途中にも泳者や呪霊と遭遇し、ポイントを稼いでいた。

「ここがの家か?」
「うん、そう。良かった…自分のいる結界の中にあって」

鹿紫雲の話では死滅回遊に参加した者はその瞬間、ランダムで国内のあちこちに点在する結界に飛ばされるらしい。は袈裟の男に連れられて入ったのか、自ら結界に入ったのかは記憶が曖昧で不明だった。しかし自分のマンションに行けるのだから、そのままそこの結界に放り込まれたのだと分かった。

「ちょっと部屋を見て来るから、鹿紫雲くんは外で待ってて」

言いながらエントランスに走って行くと、後ろから「おい!」と鹿紫雲が追いかけて来た。

「中は安全なのか?泳者がいたらどーすんだ」
「あ、そっか…」

のマンションは多少外壁が崩れているものの、誰かが拠点にしていてもおかしくはないほど原型は残っている。当然、中には泳者が潜んでいる可能性があった。

「オレも行く」
「え…」
「オマエに死なれちゃ困んだよ。何回言わせんだ」
「う…うん」

サッサと歩いて行く鹿紫雲を、もすぐに追いかけた。夕べあんなことがあったのに普段と変わらないノリの鹿紫雲を見て、は僅かに目を細める。無理やり手を出そうとしたくせに、何も態度が変わらないのも何となく癪に障った。少なくともは夕べなかなか眠れなかったというのに。

「おい、オマエの部屋は何階――って何だよ、その仏頂面は」
「別に」
「チッ。可愛くねえな。女ならもう少し愛想よく出来ねえのか」
「鹿紫雲くんに可愛いと思われなくていい」
「…そういうとこな」

そっぽを向いたを見て、鹿紫雲はまた舌打ちをして歩いて行く。は無言のまま前を歩く背中を睨みつけた。こうして接している分には現代人と何ら変わらないのだから嫌になる。

(鹿紫雲くんの目的は宿儺と戦うこと…それ以外でも他の泳者や呪霊との戦いを楽しんでるみたいだけど…ほんとにわたしをここから出してくれる気あるのかな)

でも宿儺という名前は呪術師時代に聞いたことはある。呪物となって国内中のあちらこちらに呪物となった指が散らばっているというのも聞いたことはあった。でもまさかそれが受肉してこの現代に復活したという話はさすがに驚いた。自分が辞めたあと呪術界がえらいことになっている。あの最強呪術師はいったいどうしたんだと思っていたら、鹿紫雲があっさり「五条?ああ、羂索に封印されたらしい」と教えてくれた。羂索とはをこのゲームに参加させた袈裟の男だという。今の名前は夏油傑。その名前もを驚かせた。最強呪術師で担任でもあった五条悟の同級生で、呪詛師に堕ちた人物として高専ではあまりに有名な男の名だったからだ。

(あの男、通りで見たことあるはずだ…。高専の資料で見たことがあったんだ)

でもその最悪の呪詛師も去年、五条が殺して決着がついたことすら、は知らなかった。

(全く…どうなってるの、呪術界…)

平和な世界に戻ったつもりが、水面下では色んな思惑が絡み合い、様々な事件が起きていた。結果こうして自分も巻き込まれている。こうなってしまった以上、ここから出られたとしても前の生活には戻れない気がしてきた。

「おい、ボケっとすんな」

階段途中で立ち止まっていたを見て、鹿紫雲が上から声をかけてくる。ハッとして再び階段を上がる。

「もう…何でエレベーター止まってるのよ」

原因は外の電線がグチャグチャになっていたことだろうが、迷惑にもほどがある。こんな住宅街で戦闘なんかしないで欲しいと思いながら、は自分の部屋がある階に辿り着いた。

「オマエの部屋どこだよ」
「ああ…そこの803号室」

言いながらポケットに入れてある鍵を取り出した。しかしそれより先に鹿紫雲がドアノブを回し――。

「あ?開いてるぞ」
「え、嘘!」

鹿紫雲がドアを引くと、あっさり開いたドアを見て、は血の気が引いた。慌てて走って行くと自分の部屋へ飛び込む。中はめちゃくちゃに荒らされていた。

「酷い…」
「あーあ。こりゃ他の泳者が侵入したな」

部屋はあちこちの棚が開けられ、冷蔵庫などは何も入っていなかった。食料を漁りに来た人間がいるのだろう。寝室などはクローゼットが開けられ、床には衣服が散らばっていた。

「最低…」

自分の部屋に見知らぬ人間が侵入し、勝手に荒らしていった光景があまりに悲惨で怒りが湧いて来る。あの袈裟の男はこうなることが分かっていたから自分を連れ出したのかと今更ながらに理解した。そのついでにの力を見抜いて気まぐれでゲームへ参加させたのだろう。

「隣や他の部屋も似たようなもんだぞ」

いつの間にか他の部屋を見に行っていた鹿紫雲が戻って来た。

「…何泣いてんだよ…」
「だって…」
「はあ…」

その場に蹲って鼻をすすっているのを見て、鹿紫雲は深い溜息を吐きつつしゃがんだ。

「こんなもん片付ければ元に戻んだろ?建物じたいが残ってて良かったじゃねーか」
「そうだけど…自分の家で知らないヤツが好き勝手してたかと思うとゾっとするのっ」
「…じゃあどーすんだよ。ずっとここで蹲ってんのか」
「………」

何も応えないに、鹿紫雲はイラっとしたが、いつまでもここにいるわけにはいかない。溜息と共に立ち上がった。

「おら、早く行くぞ。約束は果たしたんだ。今度はオレにつき合え」
「……使えそうなものバッグに詰めるから、もう少し待ってて」
「チッ。早くしろよ?オレは下にいる」

サッサと出て行く鹿紫雲の背中に舌を出しながら、は手の甲でぐいっと頬の涙を拭った。鹿紫雲が言ったように、ずっとここにいるわけにもいかない。それは分かっている。とにかく今は鹿紫雲に手を貸し、早くこのゲームから脱出することだけを考えよう。心を奮い立たせ、立ち上がると、床に散らばった衣類をまとめてベッドの上に置いた。ベッドカバーがめくれていることを見ても、誰かがここで仮眠を取ったのは明らかだ。

「気持ち悪い…」

男か女か知らないが、自分のベッドに赤の他人が寝ていたなど想像もしたくない。

「はあ…これお気に入りだったのに…」

散らばっていた衣類の中の服を手に取ると、足跡のようなものがついてしまっている。侵入者は土足で部屋の中を歩き回ったようだ。

「これもダメ…これも…破けてる…。はあ…最悪…」

唯一無事だったのは下着類だ。でも明らかに人の手がかき回した痕跡があった。知らない人間が触れた下着を身につける気がしない。その中で未開封の物があるのを見つけた。デザインが気に入って買ったものの、まだ使っていないものだ。それをバッグに詰めていくと、後は秋物のショールやストールも入れておいた。
その時、何の前触れもなく、背中にゾクリとしたものが走った。

「え…」

いつからそこにいたのか。振り向くと寝室の窓から見えるベランダのところに真っ黒い塊がいた。どす黒い呪力を肌に感じ、の額から汗が一筋流れ落ちる。一目で特級相当だと分かった。

(コイツも…泳者?)

鹿紫雲の話では過去、現在の呪術師の他に、能力を開花させた一般人と、ついでに相当強い呪霊も混ざっているとの話だった。鹿紫雲から言わせれば殆ど雑魚、ということだったが、目の前の呪霊は明らかに異様な力を放っている。は動けなかった。鹿紫雲に伝えたくとも声すら出せない。動けば殺される。本能がそう訴えていた。

(…何の…音…?)

ざわざわざわ…と不気味な音が聞こえて来る。視線だけ動かしてみると、いつの間にかの周りを黒い何かが囲んでいた。その動きは何かが密集しているかのような変な動きだ。は視線を左右に動かし、それが天井にまで及んでいることに気づいた。するとそこから一つだけ、小さな黒い物体がポトリと落ちた。

「え……き…きゃあぁっぁあっ!!」

の目の前、足元に落ちたそれがカサカサと動いたのを見た瞬間、たまらず声を上げてしまった。全身に鳥肌が立ち、その恐怖で無意識的に電撃を放つ。囲んでいた黒い集合体が、一斉に弾け飛んだ。

「いやぁぁあ!!!ゴ…ゴゴゴゴキブリー!!」

黒い物体と思っていたものはゴキブリの集合した姿だった。は大のゴキブリ嫌いだ。その恐怖が彼女から冷静さを奪っていく。四方八方に電撃が飛んで、それが本体の方へも攻撃となって飛んで行った。

「――!っ…しゃがめ!」

突然、背後から鹿紫雲の声が響いた。考えるより先にがしゃがむと、頭上を線状のいなづまが走る。それは本体へぶつかったかのように見えた。

「チッ!逃げられた!」

鹿紫雲が来たことで不利だと考えたのか、黒い呪霊はどこかへ姿を消してしまった。

「おい!大丈夫か?ケガとか――」

頭を抱えて震えていたに鹿紫雲が駆け寄った。しかし応えるより先には突然、両腕を伸ばし、鹿紫雲にしがみつく。

「おい…っ」
「こ…怖かった……」

小さな声が零れ落ち、しがみつく手にいっそう力が入る。その手はガタガタと震えていた。

「…オマエ、元呪術師だろがっ。シッカリしろよ」
「だ、だだだって…ゴゴゴキブリ呪霊がいるなんて思わないよ!」
「つっても、しっかり撃退してたじゃねーか」

鹿紫雲は苦笑気味に言った。大きな呪力を感じ、ついでにが相手を攻撃していると気づいた鹿紫雲はすぐさま上に戻って来た。しかし駆けつけてみれば雑魚の方はが全て感電死させていたのだ。

「まあ…あの本体はヤバかったけどな…」
「な…何が本体なのかすら分かんない…」

ただただ黒くて動くものに囲まれているとしかには分からなかった。思い出すだけで震えが止まらなくなる。

「…あ、オイ!」

突然グッタリと鹿紫雲の腕にしなだれかかってきた体を抱きとめる。あまりの恐怖で一時的に意識を失ったようで、揺さぶっても目を開ける気配がない。鹿紫雲は呆気に取られるしかなかった。

「マジかよ…」

まさかの事態に、鹿紫雲は盛大に溜息を吐いた。