雨音と雷鳴がかき消す嗚咽-06



どんよりとした薄曇りの空からポツポツと水滴が落ちて来たと思ったら、すぐに本降りに変わり、アスファルトの色を変えていく。湿った匂いが立ち込め、髪や体を濡らしていく冷たい雨に、鹿紫雲は小さく舌打ちをした。足を速め、昨日見つけたホテルの中へ飛び込んだ時は全身がびしょ濡れで、鹿紫雲は首を振って猫のように髪や顔に滴り落ちて来る水滴を飛ばした。を抱えているから、手は使えない。

「クソ…何でオレが…」

重たい足を引きずりながら、寝床にしていた部屋へと向かう。建物内に侵入者がいないのは入る前に探っておいた。この一帯に来た泳者や呪霊は鹿紫雲がほぼ殺してしまったからか、新たな敵が来る気配がない。つまらない。明日には移動することを鹿紫雲は考えていた。

「よいしょっと…ったく…コイツ、いつまで気失ってんだ」

をベッドに降ろし、溜息交じりで見下ろす。鹿紫雲同様、も今の雨に打たれてずぶ濡れだった。

「…クシュ!う~冷える…コイツ良く濡れた状態で寝てられんな…」

雨に打たれて起きるかと思えば未だそんな気配もない。すでに秋が深まり、夕方には一気に気温が下がって来る。濡れているせいで余計に寒さが増した。

「このままじゃマズいな…」

体調を崩すわけにはいかない。鹿紫雲は濡れた服を脱ぎ捨て、軽くシャワーで流してから持って来た服に着替えた。体のあちこちに出来た擦り傷が地味に痛むことで、忌々しいと言いたげに未だ意識のないを睨む。あのマンションで気を失ったを抱えながら、移動中も数人の泳者と交戦になった。全て殺したものの、呪力は消費されていく。雑魚とは言え、それなりの術師を相手に、意識のないを抱えたままでの戦闘はそれなりに大変だった。どうにか戻って来たものの、鹿紫雲は疲れ切っていた。

「あー…もこのままにしとくとマズいか…」

雨に濡れたまま放置すれば風邪を引くかもしれない。今、に倒れられたら大変なのはここへ来るまでに証明済みだ。最近はから充電できることをアテにしすぎてたかもな、と鹿紫雲は自分を戒める。

「とりあえず脱がすか…」

意識のないを仰向けにすると、鹿紫雲はまず薄手のコートを脱がした。水をたっぷり吸っていたせいで中に着ている薄手のニットも湿っている。腹のところからめくって一気に脱がすと、形のいい胸が露わになった。

「こうして見るとイイ女なんだけどな…」

苦笑交じりで独り言ちる。薄っすらと開いた柔らかそうなくちびると、夕べは赤く染まっていた頬も、今は寒さで透き通るような白さだ。あの時は珍しくその気にさせられた。の羞恥で震える姿と、僅かに怯えた表情が、鹿紫雲の捕食欲を刺激したのかもしれない。鹿紫雲は遠慮もなく、の体を眺めまわしていたが、とりあえず風邪を引かれては困るので雨に濡れたカーゴパンツも脱がす。下着だけの姿で横たわる女の身体は、薄暗いライトに照らされ、白く艶めかしい。鹿紫雲の喉が違う乾きを訴えるように小さく鳴った。

「…ったく、いつまで寝てんだよ…犯すぞっ」

一瞬湧き上がりそうになった劣情を振り切るように、バスタオルで濡れた髪を簡単に拭いてやると、鹿紫雲はの隣へ寝転がった。とにかく連戦してきたことで身体が疲れている。出来れば今すぐ充電したいところだった。寝返りを打ち、意識のないの顔を見つめながら、先ほど特級呪霊相手に攻撃していた光景を思い出す。乱雑に電撃を放っていたせいで一気に呪力を消費していたのに、今はもう満タンになっていた。相変わらず燃費のいいヤツだ、と苦笑が零れる。

「まあ…勝手にもらうか」

どうせ今夜は戦いに行く元気も呪力もない。鹿紫雲はの体を抱きしめるように抱えると、布団をかぶって目を瞑った。こうして肌を合わせるだけで勝手に充電されていく。おまけに暖かい。すでに微睡みながらもの体温に顔を埋め、鹿紫雲は疲れ切った意識を閉じた。


+ + +



かすかな雨音がしていた。ゆっくりと覚醒していく中で、小さく雷鳴も聞こえてくる。ああ、外は雨か。微睡みながらは考える。今は何時なんだろう。室内が暗いことは目を瞑っていても分かった。随分と眠っていた気がして、起きなくちゃと思うのになかなか起きられないのは、温かいこの場所が心地いいからだ。それは懐かしいとさえ思う人肌のようだった。呪術師という裏稼業から、一般企業の受付嬢という何とも真逆な仕事に就いたあと、も人並みに普通の恋をした。恋人がいた頃は互いの体温を感じながら眠ったこともある。でもあの頃はまだ呪術師だった頃の名残もあって、つい視えてしまう呪霊を無視することも出来ず、恋人から見れば随分とおかしな言動をしてしまっていた。そのうち不気味がられ、破局した時は、心底呪術師になったことを悔やんだものだった。

――視える側の人間に普通の恋愛は難しい。

高専にいた時、先輩の呪術師がそう言っていたことを思い出す。

(だったら呪術師と恋をすればいい、なんて言ってた頃もあったなぁ…。結局無理だったけど)

呪術師は全員どこかがイカレている。そう言ったのは最強の担任だったか。あれは見事に当たっていた。過去に一人だけ付き合った呪術師がいたものの、その男もまたイカレた方の人間だった。

(彼は…まだ生きてるのかな…)

一級術師になるのに命を懸けているような男だった。そんなものになったって、結局はあっさり死ぬかもしれない世界なのに。何故、呪術師は戦いの中に喜びを見つけられるんだろう。きっとそれを見つけられない人間が、自分のように辞めていくのかもしれない。

(まあ…わたしが知る中に鹿紫雲くんみたいな戦闘狂はいなかったけど…)

心地のいい温もりに包まれているせいで懐かしい過去の恋愛を思い出しながら、ふと闘争欲の強い男の顔を思い出す。そこで一気に覚醒した。

(そうだ…今、わたしはゲームに参加してて――)

あまりに寝心地が良すぎて、すっかり自分の家だと思い込んでいた。しかし鹿紫雲の顔が浮かんで現実を思い出す。パチっと目を開ければ、そこは暗闇だった。

「え…ここ…どこ?」

何も見えない。それに少し息苦しい。ただ暖かいものに包まれているという感覚はあった。その正体に気づいたのは視線を横に動かした時だった。

「か…っ鹿紫雲…くん…?」

すぐ目の前。至近距離に鹿紫雲の寝顔が薄っすら見えて、は思考が一瞬停止した。

(な、何で…っ?何で鹿紫雲くんが隣で寝てるの…?)

混乱した頭で考えた時、昼間のことを思い出した。自宅マンションに行ったこと。そこで特級呪霊に襲われそうになったこと。鹿紫雲が助けに来てくれたこと、その後は――。

(記憶がない…)

だんだんと目が慣れてきた頃、自分が寝ているのはベッドだと分かった。布団をすっぽり被っているせいで真っ暗だと感じたが、僅かに上を向くとキラキラしたシャンデリアが見える。ここは夕べも泊ったラブホテルだ。ここにいるということは鹿紫雲が運んでくれたに違いない。意識を失ったという記憶はないが、それ以外に考えられなかった。ただ、そこまではいいとして、この状況はどういうことだと再び疑問を抱く。鹿紫雲はを抱きしめるようにして眠っていた。

(ま、まさか…)

嫌な予感がして何気なく布団の中を覗き込む。そこで軽い眩暈がした。服を着ていない。一瞬最悪のことを考えたが、冷静になれば分かる。下着を身につけているし、鹿紫雲は服を着ている。それに何かされた感じもしない。大丈夫だ、と少しだけホっとした。とはいえ、何故自分だけこんな姿で寝ているのか納得できない。夕べ裸を見られたとはいえ、勝手に服を脱がせるなんて許せない。その思いが行動になって現れた。パシンと鹿紫雲の額を殴る。その刺激で鹿紫雲が「ん…」と首を動かし、ゆっくりと目を開けた。

「あ…?気が付いたのか、オマエ…」

視線を彷徨わせていた鹿紫雲は、ふとを見下ろし、小さく欠伸を噛み殺した。

「気がついたのか?じゃないっ。何でわたしの服脱がせたの…?!」
「…るせぇ…寝起きからキャンキャンわめくな…」

の体から腕を放し、鹿紫雲は寝返りを打った。

「オマエが意識失って、ここへ戻る途中、雨に降られたんだよ…濡れたままだと風邪引くと思って脱がせた。余計だったか?」

普通に言い返され、言葉に詰まる。やはり意識を失っていたらしい。ついでに自宅マンションからここまで運んでくれたようだ。そうなると怒りにくくなってしまう。

「…う…じゃ、じゃあ何か着せてくれても…」
「何でオレがそこまでしなきゃいけねーんだよ…こっちも戻る途中で泳者と遭遇して、オマエ抱えながら戦ってたんだぞ。疲れてたし早く寝たかったんだよ」
「…ご、ごめん…」

責めてたはずが何故か謝るはめになった。意識を飛ばしたのはわざとじゃないが、鹿紫雲に負担をかけたのは間違いない。

「ま、寝てる間に充電もさせてもらったしいーけど」
「…え…充電?」
「あーそうそう。オマエ抱えて寝てたら充電がすっげー早かったし、今度から一緒に寝ようなー?」
「は?」

ニヤニヤしながら頭を撫でて来る鹿紫雲に、の頬が引きつる。自分の意識のない間に服を脱がされたばかりか、勝手に充電までされてた事実に何とも言えない恥ずかしさがこみ上げて来る。

「か、勝手に決めないでよ」
「いいだろ、別に。くっついて寝た方があったけーし」
「そ、それは…」

確かに鹿紫雲の体温に包まれていたさっきまでは、それが心地いいとさえ思っていた。とはいえ、男と女がくっついて眠るなど、色々問題がある気もする。夕べは未遂で終わったものの、いつまた鹿紫雲が変な気を起こすか分からないのだ。

「で、でも恋人でもないのに一緒に寝るのは――」
「じゃあ恋人になりゃいーのかよ」
「……は?」

鹿紫雲は体を起こすと、上からを見下ろして来た。含みのある笑みを口元に浮かべている。室内には未だ雨音が響いていて、しばし沈黙が続く。合間に雷鳴が轟き、室内が一瞬だけ青白く光った時、不意に鹿紫雲が笑った。

「何マジになってんだよ」
「…な、なってないしっ」
「顔、赤くなってんじゃん」
「み、見えるワケないでしょ。暗いのに」

言った瞬間、鹿紫雲の指がの頬へ触れる。冷んやりとした感触にびくりと肩が跳ねた。

「顔、熱いけど?」
「……それは…っ…くっついてて暑いからだもん…」
「暑い?さみーだろ、この部屋。あちこち停電してやがるしうぜぇ」

そもそも鹿紫雲が暴れた時に電線を破壊していくのが原因なのだが、本人はそこまで考えていない。

「オマエもそろそろ何か着とけ。風邪引かれたら困るしな」
「そ、そうだった…!」

言われて未だに下着姿だということに気づく。シーツで隠しつつ、ベッドの下にある鞄から着替えを出すとニットのワンピースを素早く着込んでホっと息をついた。と言って暖房もつけられない部屋では寒いことに変わりない。秋雨なのか、まだまだ雨も止みそうになかった。

「んじゃー来いよ」
「…え?」
「まだ2時だし寝るだろ?さみーからコッチ来いつってんの」
「ひゃ」

ぐいっと腕を引っ張られてベッドへ倒れ込むと、鹿紫雲の腕がすぐに体へ巻き付いた。男に抱きしめられるのは久しぶりで、勝手に心臓が反応してしまう。

「ちょ、ちょっと」
「何だよ」
「抱き枕じゃないんだからここまでくっつかなくても――」
「さみーんだよ、オレは。いいから黙って大人しく寝ろ」
「……」

結局、鹿紫雲はの体を抱き寄せ、腕に包むようにして寝始めた。硬い胸板に顔を押し付ける形になり、の鼓動は速まるばかりだ。背中に回った腕の強さに意識が集中していく。

(落ち着け…鹿紫雲くんは充電できる抱き枕くらいにしか思ってないんだから気にしないで寝ちゃおう…)

ぎゅっと目を瞑り、寝ようとしてみたものの、やはり脳が冴えてしまったのか、全くといっていいほど眠くならない。こうして抱きしめられることが、こんなにも心を乱されるとは思ってもいなかった。

(でも何か…安心する…)

とくん、とくん。顔を寄せた胸元から、かすかに心臓の音が聞こえる。雨の音と鼓動。それが耳に心地よく響いてはゆっくりと目を瞑った。

「やだ…何で涙なんか…」

自然と零れ落ちた涙に自分で驚く。鹿紫雲の体温が暖かいせいで、抱きしめてくる腕が安心するせいで、どうしようもなく泣けてしまう。そして気づいた。こんなにも人肌を欲していた自分の中にある孤独に。その時、再び大きな雷鳴が空に轟いた。