雁字搦めのそれを、恋と呼ぶにはまだ。-12




結界の中での一日はアッという間に過ぎていく。常に移動を続けながら泳者を探すついでに、次のアジトも探す。たちがいた場所から少し歩くと街の駅前商店街へ辿り着いた。駅前なら店も多いし、寝泊まり出来るホテルなど沢山ある。それが視界に入るたび、の心拍数が地味に上がるのは、夕べ鹿紫雲にあんなことを言われたせいだ。あの場の空気に流され、キスまでは許してしまった手前、もし次、鹿紫雲に迫られたら拒み切れない。

――お楽しみは次のアジトを見つけるまでとっといてやるよ。

あんなことを言われたせいか、ホテルを見かけるたび気が気じゃなかった。なのに泳者はそんなの心情を無視して襲って来る。この時も、は鹿紫雲の一メートルほど後方を歩いていた。いつ「今夜はここに泊まろう」と言われるかヒヤヒヤしながら辺りを見渡していたせいかもしれない。突然、背後に立った存在に反応するのが僅かに遅れてしまった。気づいた時には身体を何か細いもので拘束されていて、口元にもズルリと何かが巻き付く。ヌメっとした何か光沢のある物体。その正体に気づいた時、の身体が総毛だつ。

(へ、蛇…?これ…蛇だ…!)

の身体を締め付け、口を塞ぐように巻きついている為、悲鳴すら上げられない。ただ前を歩いていた鹿紫雲はこの状況をとっくに把握していた。

「ったく、ボケーっとしてっからだぞ、

頭を掻きつつ、呆れ顔で振り返る鹿紫雲は「なあ?オマエもそう思うだろ」との背後に立っている人物に声をかけた。

「ん-…!ん~…!」
「黙れ、女。暴れるとソイツは余計に巻きつくぞ」

すぐ耳元で不気味な声がする。視線だけで仰ぎ見れば、黒い長髪を垂らした黒装束の男がを睥睨していた。歳の頃は40歳前後。男から感じる呪力は冷たくヌルヌルとしている。まるで男自身が蛇のように見えては軽く身震いをした。

「フン、式神使いか…しょぼ」
「黙れ。この女を殺されたくなければ大人しくオレに殺されろ」

鹿紫雲が耳をほじりながら余裕の笑みを浮かべたのを見て、男の殺気がざわりとした音を立てた。この男――強い。の肌に男の殺気が突き刺さり、咄嗟に視線を鹿紫雲へと向ける。しかし、そこに鹿紫雲はいなかった。

(え?いない?)

がそこに気づいた時には黒装束の男も動いていた。を抱えたまま後方へと跳躍する。その瞬間、二人がいた場所に激しい雷撃が落ちて地面に黒焦げの穴が出来た。焦げ臭い匂いが辺りに充満し、黒煙が舞い上がる。視界の悪い中、男は大きな鳥を召喚し、空中を浮遊しながら鹿紫雲を探しているようだった。すると周りのあちこちで雷の落ちる音が響いて来る

(鹿紫雲くん…適当に力使ってる?視界を遮って自分も見えてないんじゃ…)

鹿紫雲の放ったであろう電撃は、男やの周りを乱雑に切り裂くだけで何も攻撃になっていなかった。その間、は蛇の式神に拘束されたままで身動き一つ出来ない。男に抱えられたまま空中浮遊しているのはさすがにいい気分ではなかった。男の気持ち次第では落とされる可能性さえある。けれど、このまま拘束されているのは良くないと本能で分かっていた。

(わたしを人質にしたところで鹿紫雲くんは痛くもかゆくもないってのに…。いや、もし死んだりしたら充電器がぶっ壊れてちょっと困るってとこかな)

鹿紫雲にとって自分はそれくらいの存在価値しかないだろう。はそう思っていた。黒煙の隙間から、大きな大きな雷が落ちてくるまでは。

「チィッそこかっ!」

視界が遮られ、あげく自分達の周りを乱雑に走る電撃のせいで、身動きの取れていなかった男が頭上から落ちて来る雷に気づき、回避しようと動く。鹿紫雲はごと最大級の電撃を喰らわせようとしているのだ。彼女に自身の力は影響されないことを利用しようしているらしい。

(そっか…この適当に撃ってる電撃はこの為の布石…でもこの男は式神を使って回避することも可能かもしれない。ということは外側から攻撃を仕掛けても確実に当たるという保証は――)

そこまで考えた時、ならば内側からならどうだろうと思った。この男は鹿紫雲に意識が向いていて腕の中の弱々しい女のことを一ミリも警戒していない。蛇の式神で拘束してあるという安心感もあるはずだ。ならば――。とは本来の自分の力を、落ちて来る鹿紫雲の電撃に合わせて解放した。

「ぐあぁぁぁっ」

案の定、男は腕の中から電撃がくるとは思っていなかったようだ。の発した電撃で、上からの攻撃を避けようとしていた体が止まる。そこへ鹿紫雲の大きな雷が落ち、男はその身に何万ボルトもの電流を浴び、空中で白目を剥いたままこと切れた。同時にそれは、ごと下へ落下するということを示している。

「きゃぁぁっ」

の放った電撃でとっくに蛇の式神は消滅していて、身体は自由になったものの。は男の亡骸と一緒に地面へ真っ逆さまに落ちていくしかなくなった。しかし途中でガシッと腕を掴まれた感覚に視線を上げる。

「か…鹿紫雲く…」

それは空中へ跳躍していた鹿紫雲だった。鹿紫雲は掴んだ腕を引き寄せ、の身体を抱えると、そのまま地面へと着地した。

「ったく…何ボーっと歩いてんだよ!だから捕まんだろーがっ」

思わず怒鳴ったものの、はよほど怖かったのか鹿紫雲の首に両腕を回してしがみついたまま。泣いているのか、鹿紫雲の耳元で鼻をすする音がかすかに聞こえた。

「………おい。もう大丈夫だから」
「…ん…うん…ありがと」
「………(可愛い…)」

安心させるように言えば、更にぎゅうっと抱き着いてくる。これまではそれほど意識をして見ていなかったが、こうして抱き着かれると、の腕や肩の線がやたらと細く感じた。こんなに華奢だったか?と思いつつ、子供のようにしがみついてくるに鹿紫雲の胸奥が小さく鳴ったのはうん百年ぶりだった。

「…よく…アイツを攻撃したな。あの状態で気づいたのはかなり良かったぞ」

先ほど、の機転の良さで自分の攻撃を当てることに成功したのはまさに鹿紫雲の読み通りだ。ただ、彼女がそこに気づいてくれるかどうかという問題はあったものの。がキッチリと自分の仕事をしたのは期待以上の働きだった。そっと小さな背中に腕を回し、ポンポンとあやしながら言えば、は首にしがみついていた腕を緩め、涙を溜めた瞳で鹿紫雲を見上げた。

「…やっぱり…あれで良かった?」
「………(クソ可愛いな、コイツ)」

すんと鼻を鳴らしながらも、涙をこらえながら訊いて来るに、鹿紫雲の頬がじわりと熱を持つ。最初はに対し何も感じなかった鹿紫雲だが、ここ最近はやたらと女に見えてしまう。夕べのように一度男としての欲が芽生えてしまえば、もはやそれは止めどなく駄々洩れ状態になってしまった。鹿紫雲はの濡れた頬へ指を伸ばすと、涙を拭いながら自然と唇を寄せ、彼女の小さな唇にそれを重ねる。てっきり暴れるくらいはするかと思えば、はただジっと鹿紫雲の唇を受け止めていた。

「…怒んねーの」

触れただけのキスの後、鹿紫雲が訊ねるとはハッとしたように顔を上げてからプイっとそっぽを向いた。しかし彼女の頬はほんのりと赤い。

(そんな顔されると変な気分になんだけど…ってか、コイツ、わざとか?)

キスを許してくれたと思えば拒否してみたり、でもまた今キスをすれば頬を赤らめる。鹿紫雲からすればの方が何を考えてるのか分からない。いいように弄ばれてるとさえ感じてしまう。

(現代の女ってよく分かんねえ…)

過去で鹿紫雲が相手をして来た女達は接吻にさえ持ち込めれば、後は最後までOKというのがだいたい多かった。今よりも性に関することは、あまりおおっぴろげに出来ない時代。そんな中で接吻するまでのハードルは高いものの、それを許してくれるのは相手もその気があるということだ。それ以前に鹿紫雲はまどろっこしい女とは付き合ったこともないので、唇はいいのに身体はダメというの心理が理解できない。

(いや…ダメとは言ってねえか…。場所の問題…だったか?)

そこで思い出した。次のアジトはちゃんとしたホテルにしようと考えていたことを。寝て起きたら充電満タン、さあ泳者を探しに行くかのノリで出かけて来たので、今の今まですっかり忘れていた。元々が戦闘狂。その場の空気で夕べはその気になったが、それが過ぎれば女のことなど頭の隅に追いやられていた。でも今、またに触れたことで思い出し、腰の辺りがやけに疼く。現代に戻ってからは戦うことを優先にしてきたことで、男の欲などすっかり忘れていたが、一度思い出したことでムラっとくるサイクルが早い気がした。

「ここ…目立つし危なそうだから早く移動しよ」

すっかり気分も良くなった様子のは、鹿紫雲から離れて先を歩いて行く。その後を歩きながら鹿紫雲は駅前通りを素早く見渡した。するとメイン通りではなく、一本奥へ入った裏路地に見覚えのあるギラギラとした看板の建物がある。これまでも何度か泊ったことのあるラブホテルと外見はさほど変わらないそれは、鹿紫雲が求めていたものだった。

「おい」
「え?」

前を歩くを呼び止め、鹿紫雲はズンズン歩いて行くと、徐に彼女の腕を掴んだ。「ひゃ、な、何?!」と驚くを無視し、そのまま腕を引っ張りながらラブホテルらしき建物へと歩いて行く。

「ちょ、どこ行くのっ」
「ホテル」
「は?」
「そこにあんだろ」
「え、で、でもまだお昼だけど…休憩するの…?」

は戸惑い顔で鹿紫雲を見上げたが、鹿紫雲は振り向きもしないまま「オマエを抱く」とひとこと言いのけた。これにはもギョっとしてしまう。これまで鹿紫雲は泳者と戦うことを優先にしてきたはずで、夕べのシチュエーションのようにならなければそんな気すら起こさなかった。なのに今、泳者との戦闘よりもホテルへ行くことを優先させようとしている鹿紫雲には驚いた。

「ちょっと待って…!勝手なこと言われても困るんだけどっ」
「あ?オマエ、夕べ場所がちゃんとしてなきゃ嫌だっつってたろ」
「…う…(お、覚えてたか)」
「それとも…まだ何かとゴネて焦らす気かよ」
「ゴ、ゴネてるわけじゃ――」
「じゃあ来いよ」

鹿紫雲は強引にの手を引いて行く。それ以上抗うことも出来ず、手を引かれるままは鹿紫雲の広い背中を見上げた。会ったばかりで、まだ互いに何も知らないのに本当にいいのかと思ってしまう。でも鹿紫雲に惹かれていることは確かで、触れられることが嫌なわけじゃない。さっきも危ないところを助けられ、しかもあの最中のことを信用して攻撃を仕掛けてくれたことは素直に嬉しかった。が気づいてくれるだろうと考えての攻撃は、これまでの鹿紫雲なら考えられない戦い方だ。だからこそ、いきなりキスをされても不快に思うどころか、胸奥がやけにざわめいてドキドキしてしまった。と言え、この気持ちに名前を付けるのはまだ早い。頭ではそう思ってしまう。なのに、繋がれた手の熱さがじわじわと侵食するように、の体内に熱が広がっていく気がした。