灰谷竜胆



重厚なドアを引いて開けると、仄暗い店内のカウンターにぐったりとしている女の背中と、その女の腰に厭らしく腕を回してる男が見えた。店の中に一歩足を踏み入れると、グラスを拭いているバーテンと目が合う。バーテンの男はホっとしたように頷くと、視線をカウンターにいる男女に向けた。このラウンジバーはオレがオーナーとして経営している店の一つだ。
ここのバーテンに呼び出されたオレは迷うことなくカウンターに歩いて行くと、徐に男の背後へ立った。

「ねえねえ、ちゃーん。そろそろ送ってくから出ようか」
「…んー…まだ帰らない…ってか…お兄さんだぁれー?」
「やだなあ、忘れちゃった?さっきワイングラス2杯も奢ったでしょ。この店は結構高いんだよー?」
「…そうかな~。まあ、ご馳走様ー」
「いや、言葉だけ?」
 「他に何があんだよ」
「いや、だからさあ。今からオレと――」

背後から声をかけると男は途中で言葉を切った。そのまま恐々と後ろを振り返り、引きつった顔でオレを見上げている。男は二十代半ばくらいのチャラそうな奴だった。

「え…っと…」
「たかがグラスワイン2杯奢っただけで、コイツをホテルに連れ込もうとしてんの?ならその金返してやるからとっとと帰れ」

スーツの胸ポケットから財布を取り出すと、一万と言わず、万札を数枚取り出して頭から降らせると、男はギョっとしたようにスツールから飛び降りた。

「すすすすみません…!」

何故か謝りながらも足元の金をちゃっかりかき集めると、男はよろけた足取りで店を飛び出していく。それを見送りながら「アイツは今度から入れなくていいから」とバーテンに伝えた。とりあえずの隣に座って「飲みすぎ」と言ったものの、彼女はすっかり酔い潰れている。とうとうカウンターテーブルに突っ伏して眠ってしまったようだ。

「コイツ、何時から来てんの」
「午後10時過ぎです。来た時からすでに酔ってまして…そこで先に店にいたあの男が声を。なのですぐに竜胆さんに電話をした次第で」
「マジか…ったく…ひとりで飲むなっつってんのに」

このバーテンから"今、さんが酔っ払って来たんですが、速攻で男にナンパされてまして――"と連絡が来た時は大いに慌てた。は酔っ払うと懐っこい性格が更に懐っこくなって誰彼構わず甘える傾向がある。だから普段はひとりで絶対に飲むなと釘をさしてあった。なのにコイツは全然分かってないんだから嫌になる。おかげで兄貴や鶴蝶たちと飲んでた店を飛び出して、夜の六本木を必死に走る羽目になっちまったんだから笑えねえ。コイツは別にオレの彼女でも何でもねえのに。

――ハァ?まーだ付き合ってねーの、オマエら。

さっき兄貴にも散々煽られたが、オレだって何も考えていないわけじゃない。でもとは友達以上恋人未満みたいな距離を保ちすぎて逆に言いにくくなってるだけで。
頬杖をつきながらの頬にかかる髪を耳にかけてやれば、長いまつ毛の影が真っ赤になった頬に出来てるのが見えた。薄っすらと開いた艶のある唇の隙間からは小さな寝息が漏れていて、どんだけ飲んだんだと溜息が出る。

「オレにもグラスワインね」
「はい」

バーテンはすぐにと同じワインをグラスに注いでオレの前へと置いた。あの男に強請ったのは彼女が普段から好んで飲んでいるものだ。

(…知らない男に強請るなよ、ったく)

そんなにひどい客は入れないようにしてるものの、ああいうナンパ男は一定数いるし、は目立つタイプだからこそ心配はつきない。彼女の頬を指で突きつつ寝顔を眺めながらワインを煽った。
普段はこんなになるまで飲まないのに何かあったのか、コイツ。なんてアレコレ考えているうちにオレも多少酔いが回ってきたからを連れて帰ることにした。

、起きろ。そろそろ帰んぞー。送ってやっから」

肩を軽く揺すってみてもとんと起きる気配はなく。再び頬を突いたり鼻を上に押し上げたり悪戯をしていると、さすがにも「う~ん…」と顔を上げてオレの方へ顔を向けた。優しく頭を撫でてやれば、まるで愛しい人を見つめるみたいにふわりと微笑んだ。

「竜ちゃん…来てたんだー」
「来てたっつーか…まあいいけど…」

のとろんとした目を見て軽く笑う。ほら、帰るぞ、と言いながらの体を支えつつ、彼女のバッグを手に持ち、もう片方の手を繋いで店を出る。この時期は夜でも蒸し暑くて空気が重たく感じた。

「ん~あっつーい…」
「ああ、あぶねえって」

酔っぱらい特有のおぼつかない足取りではフラフラとしながらオレに寄り掛かってきた。コケそうで怖いから繋いでいる手に指を絡ませる。火照っているのか、彼女の手は燃えるように熱い。

「竜ちゃん、ひとり~?珍しいね~」
「オレだっていっつもいっつも兄貴と一緒じゃねえよ」
「そうなんだー。蘭さんは家ー?」
「いや、今は鶴蝶と飲んでる…って、バカ、危ないって」

フラフラとしていた脚がもつれたのか、前のめりにコケそうになっているのを何とか引き戻すと、は楽しげにケラケラと笑い出す。人の気も知らないで寝起きのわりにひとりご機嫌だ。

「どーする?タクシー乗れそう?」
「ん~」

の家は六本木から車で約10分のところにある。ただここまで酔っていると車に乗った途端、気持ち悪くなりそうだ。とりあえずタクシーが通らないか確認しながら歩いていると、繋いだ手がビンっと後ろへ引っ張られたのが分かった。振り向くとが俯いたまま立ち止まってる。

「何だよ、どうした?」

気持ち悪くなったのかと顔を覗き込むと、は「まだ…帰りたくない…」と我がままを言い出した。

「帰りたくないって…まだ飲み足りねえのかよ」
「……違うもん」

はムっとしたようにかすかに口を尖らせた。そういう可愛い顔をされても困る。このまま連れて帰りたくなるじゃねーか。

「…まだ…竜ちゃんと一緒にいたいってこと!」
「…は?」

一瞬、勘違いしそうになったものの、単なる甘えたモードか?と思っていると、は絡めていた指にきゅっと力を入れて握り返してきた。

「…竜ちゃんち泊っても…いい?」
「………いや、え?」
「いい?ダメ?どっち?」
「………」

何だ、その2択。と突っ込みたくなったものの、オレが躊躇ってるうちにの方がオレ達の間にあった友達のラインを軽く超えて来るんだから困ってしまう。

「…酔っ払ってんだろ、オマエ」
「酔ってなきゃ言えないもん。だいたい竜ちゃんがわたしのことどう思ってるのか分かんなくてイライラするから、つい飲みに行っちゃったし…こんな酔っ払ったのも竜ちゃんのせいだからね。責任とってよ」
「……オマエこそ、オレの気持ち分かってねーじゃん。さっきだってどんな気持ちでオマエを迎えに来たと思ってんだよ…案の定男にナンパされてっし、あげく泥酔してるし――」
「だからー竜ちゃんがわたしの彼氏になってくれたらすぐに解決するじゃない」
「……ハァ。オマエ…もっとムードとかさー場所とか、オレだってちゃんとしたかったのに何でオマエが先に言うわけ…」

ガックリ項垂れるとは何故か得意げな笑みを浮かべてオレを見上げた。結局のところ、場所だとかムードがどうとか考えてモタついてたオレの方が間抜けだったってことかもしれない。コイツのこと大事にしすぎて迂闊に手が出せなくなったって自覚もある。同じ気持ちだと気づいた時に、すぐ行動に移せば良かったのに。

「考えるな。感じろってどっかの格闘家も言ってるじゃん」
「いや、格闘家じゃなくて俳優な?ブルースリーの名言の台なし感がすげえわ、オマエが言うと」

ガックリと項垂れつつ、この相手にそれなりの場所でムードを作って告ろうと思ってたオレが間違っていたかもしれない。でもコイツのすっとぼけたとこも大好きなんだから今度ばかりはオレの負けだ。

「じゃあ…ウチ、来る?」
「うん」

ガシガシと頭を掻きつつ尋ねると、は何とも素直な可愛い笑顔で頷く。その顏を見てるとシチュエーションなんて何でもいいかと思えてくるから不思議だ。

「明日の朝になって今のやり取り忘れて"何これ?!"とか騒ぐのなしな?」
「忘れないよ~そんなの」
「オマエ、泥酔して何回記憶飛ばしてると思ってんだよ」
「絶対、今日は大丈夫だもん」
「…ほんとかよ」

ジトっとした目で見下ろせば、はアルコールで染まった頬をふわりと緩めた。

「とりあえず……好きって言ってくれたら…絶対忘れない」
「ちょっとは忘れる心配してんじゃん」
「もー…言ってよ…」

口を尖らせて服を引っ張って来るはめちゃくちゃ可愛い。その想いのまま、彼女の手を引き寄せてぎゅっと抱きしめる。

「……すき」
「ちゃんと名前もつけて」
が好きだ」
「…へへ」
「何笑ってんだよ。つーかオレばっか言わせてオマエは言わねえの?」

体を僅かばかり離して見下ろせば、は潤んだ瞳で見上げてきた。

「竜ちゃんが好き。ずっと好きだった――」

彼女からのその言葉は容易くオレの理性を打ち砕く。すぐに屈んでちゅっと軽く唇を啄んでやれば、分かりやすいくらい赤くなっていく。大胆なくせに照れ屋で、彼女のこういうわけ分からないところが、やっぱり可愛い。

「これくらいで赤くなってていいのかよ」
「…な、何が」
「これから帰ってもっとすげーことしようと思ってんだけど」

耳元で意地悪く囁けば、バカ、と彼女の小さな声がオレの鼓膜を震わせた。
とりあえず――鶴蝶に朝まで兄貴を引き留めておいてとメッセージを送っておこう。