01-気が付けば君を探してる



彼に出逢うまでの私は抜け殻だった。どうしようもないほどに――。


(…誰、だろう)

政財界の大物が多数来ている、とあるパーティ会場。どこを見ても黒や紺のスーツ姿ばかりが目につくモノクロの世界に、その少年は真っ白なシャツとジーンズ、という場違いな姿で立っていた。かなり目立つその格好に誰もが興味深げな視線を送る。彼が何者なのか、誰も知らないようだった。

「どうした?
「…パパ…」

そこへ彼女の父、デイビット・ホープが歩いて来た。

「あの男の子…誰かしら」
「ん?」

そう尋ねると、デイビットもまた怪訝そうに眉をひそめ、会場の隅に立つ少年を眺めている。そして知らない顔だな、と呟いた。

「ああ、でも彼の隣にいる男は…何度か見た顔だ」
「隣…?」

そう言われて改めて視線を向けると、少年の隣には確かに年配の男性がピタリと寄り添うようにして立っていた。小柄で白髪。口ひげといった風貌の男性が、少年に何やら話しかけている。

「彼は?」
「確か…キルシュ…と言ったか…。以前、大統領に紹介されたんだが…イギリスの方で何かの施設を所有してるらしい。多分あの少年もそこの子だろう」
「施設…。ふーん」
「それよりジェイのお相手でもして来なさい。まだ今日は顔を合わせてないだろう?」

デイビットにそう言われ、は多少顔をしかめたものの、素直に「分かったわ」とだけ応えた。
ジェイとは数ヶ月前にデイビットが娘に紹介した現大統領の甥っ子で、現役のFBI捜査官をしている男だ。出会いは形式的なものだったが、明らかに二人を見合いさせるような流れであり、それがには面白くなかった。恋人すら自由に選べない自分の立場や環境に苛立ちを覚える。本当なら、こんな堅苦しいパーティなど来たくもなかった。それでも現大統領の古くからの友人で、次期大統領候補と呼び声の高い父のいう事に逆らうほどの勇気もない。
は言われた通り、広い会場の中を見渡してジェイを探した。その際、先ほど見かけた少年と目が合ったような気がして小さく息を呑む。少年は表情も変えないまま、黙ってを見ている。その大きな瞳からは何の感情も読み取れない。ただからすれば、うそ臭い愛想笑いを浮かべる大人達の中で、その無表情なはずの少年だけがとても感情豊かに見えた気がした。誰にも媚びる事のない強い眼差し。その印象だけがの中にこびり付いた。

お嬢さん」

不意に背後から呼ばれ、ハッと我に返る。振り向くと、そこにはジェイが笑顔を浮かべて立っていた。

「あ…」

内心驚きながらも笑顔を浮かべつつ、チラリと少年の方に視線を戻す。しかし今の今までいたはずの少年の姿は、もうそこにはなかった。

「…っ…?」
「どうしました?」
「あ、いえ…」

訝しげな顔をするジェイに、は曖昧に笑って首を振った。それでも忽然と姿を消した少年が気になり、辺りを見渡してみる。だが会場の中に少年の姿は見当たらない。こんなスーツ姿ばかりのモノクロな会場内で、あの白いシャツを着た少年ならすぐに見つけられるはずだ。来たばかりでもう帰ったという事だろうか。

「どうしたの?キョロキョロして…。誰かを探してるとか?」
「え?あ、いえ…別に」

気もそぞろという様子のに、ジェイは困ったように微笑みながらウエイトレスが運んできたワイングラスを彼女へ渡した。もそれを受け取り、黙って互いのグラスを合わせる。その近くで父のデイビットは、どこかのお偉いさんと楽しげに談笑しているのが見えた。

「先ほど父上からお嬢さんが退屈していると聞いて飛んできましたよ」
「あ…こういうパーティは苦手で…。それより…お嬢さんってやめてくれますか?私も明日で二十歳ですし…」
「ああ、すみません。そうですね。では…さん、とお呼びしても?」
「…出来ればそうしてください」

の言葉に、ジェイも嬉しそうな笑みを浮かべる。そしての手を取ると、「テラスへ出ましょう」と歩き出した。確かにここにいれば、顔しか知らない父親の知り合いに色々と話しかけられる。それはそれで煩わしいと思ったは、素直にジェイに着いて行った。

「はあ…夜風が気持ちいい」
「そうですね。今夜は涼しくていい夜だ」

の隣で、ジェイは優しく微笑んだ。その横顔を見ながら確かに素敵な男性だなとは思った。
年齢は確か25歳。この若さでFBI捜査官としても実績を上げているらしい。何故、大統領の甥っ子がそんな危険な仕事を選んだのか不思議だったが、ジェイが以前、自分は政治家よりも悪人を捕まえることの方が向いている、と話していた。
の父、デイビットはFBI長官とも親しく、その関係でもジェイと接点があり、今回の話が進められたようだ。家柄も文句なく、スラリとした高身長で整った容姿。そして紳士的なジェイの振る舞いに、デイビットは一目で彼を気に入ったようだった。特定の恋人がいなかったには、このお見合いを反対する事すら出来ず、時々ジェイとデートも重ねている。そして、こういった公の場でも顔を合わせると、こうして一緒にいる事が多くなった。
は彼に対し、特別な愛情というものは感じていない。だがジェイの方はまんざらでもないらしく、今も会えた事で嬉しそうに顔をほころばせている。

「今週は忙しくて会えないと思っていたから、こうして会えて良かった」
「…父が急に言い出して…。今日はFBI長官もいらっしゃってるんですよね」
「ええ。僕と一緒に先ほど。今日はパーティといっても半分は仕事のようなものでして。叔父…いえ、大統領は忙しい方ですので会うのも大変だ」
「ああ…今抱えている事件の事で?」
「そうです。今回は大統領に呼ばれた長官の付き添いで来ました」

ジェイはそう言いながらニッコリ微笑むと、ゆっくりとワイングラスを傾けた。その顔には若干、疲労の色が伺える。

「大変…そうですね。ジェイさんがやってる事件ってあれでしょう?今、テレビのニュースで騒いでいる女性ばかりを狙った連続殺人事件…」
「はい。遺体を細かくバラバラにするといった手口から異常者と考えてましたが――」

と、そこでジェイは言葉を切った。今の話を聞いて、の顔が僅かに青くなったからだ。

「すみません…手口など話すべきじゃありませんでしたね…。配慮が足りませんでした」
「い、いえ…。それで…?」
「まあ、とにかく…手がかりすらなかったこの事件の事で、ある人から情報をもらえると大統領から長官へ連絡があったので今回は急いで出向いてきたんです」
「…ある人からの情報…?」
「それが…まあ僕にもよく分からないんですが…捜査官の中では有名な探偵がいるんですよ」
「え…探偵…?」
「ええ。とても優秀な探偵です。これは世間に極秘にしてますが、これまでの色々な事件でFBIは何度も彼の世話になっている」
「えぇ?」

その話を聞いては驚いた。探偵なんていっても一般人のはず。それがFBIに協力する事も驚きだが、国の機関がその探偵に世話になり、事件を解決しているという事実には唖然とした。

「内緒ですよ?彼の事は我々FBIの中でも極秘扱いで、僅かな人間にしか知らされていないんです」
「わ、分かり…ました。誰にも言いません」
「まあ…僕としては情けないんですけどね。そんな探偵などに助けてもらわなければ事件を解決出来ないなんて…」

ジェイはそう言いながら苦笑いを零した。だが彼がそう思うほどに、その探偵は優秀なんだろう。出なければFBIという政府の機関が一般の探偵なんかに協力してもらうはずなどない。

「では今回の事件もその探偵が…?」
「ええ。我々のプロファイリングが間違っていると、大統領直々に連絡してきたようで…」
「大統領に?彼はただの探偵でしょう?なのに――」
「彼は普通の探偵じゃない」
「え?」
「…誰も彼の顔を知らないし…名前すら知らない。通り名はあるようですが…それを知っているのも長官まで。僕のような下っ端にはそれすらも極秘扱いですよ」
「そんな下っ端なんて…。今度FBI長官直属のチームに引き抜かれたと聞きました」
「…いえ、それでも僕はチームの一員でしかない。扱う事件は今までよりも難しいものですが、責任だけ大きくなってもね」

ジェイはそう言いながら笑う。大統領の甥っ子、という自らのコネは使いたくない、と前に話していたのを思い出した。も笑みで返しながら、ふと謎の探偵の話が気になった。

「でも顔や名前すら知らない相手の事を信用出来るんですか?」
「…僕も最初はそう思いました。でも…彼は恐ろしく優秀だ。これまで彼に解決出来なかった事件は一つもありません」
「…え、一つも?」
「はい。彼は興味を持った事件しか扱わないが…彼が捜査した事件は全て解決。大した奴ですよ」

話を聞きながらは多少なりとも、その探偵に興味を持った。自分が日々味わっている退屈な日常とは大きくかけ離れた世界にいるその謎の人物に。

「それで…その探偵さんが指摘してきたという話は済んだんですか?」
「ああ、たぶん今頃長官が大統領と話している……というか、こんな騒動な話はもうやめましょう。せっかくさんと会えたんですから」
「え、でも…」
「それより…今度の週末に開かれるお父上の誕生日パーティは別荘でやるとか。楽しみにしてますよ」
「あ…そう、ですね」

突然話を変えるジェイに、曖昧に笑みを返しながら、週末のパーティの事を思い出し憂鬱になった。父であるデイビットの誕生日パーティではあるが、プライベートな友人よりも今日のような大物を沢山招待しているのだ。またしても堅苦しいものになるに違いない、とは心の中で溜息をついた。
今日のパーティも、父デイビットの古い友人でもある現・大統領の息子――ジェイにとっては従姉妹――の選挙当選祝いという名目なのだ。誰の息子が政治家になろうと、にとったらどうでもいい話だった。次期大統領に立候補する父と少なからず関係している事、そしてジェイが出席するという理由付けで、も急遽このパーティへ連れてこられたに過ぎない。いい迷惑だ、と内心思う。

(はあ…もう帰りたい…)

ワインを飲み干しながら新たにワインを注いでくれるジェイに微笑む。こんな"お嬢様"を演じるのも限界なのだ。

(こんな事なら仮病つかってでも断れば良かった。つまんないパーティ…皆が嘘偽りの言葉や笑顔で周りを欺いている…)

みえみえのお世辞なんていらない。私が本当に欲しいのは――。

心の奥にある素顔の自分を隠すように、はワインをもう一度ゆっくりと飲み干した。


△▼△


「――大丈夫ですか?さん…」

フラつく体を支えながら、ジェイが心配そうな顔でを見る。

「大丈夫…です。すみません、飲みすぎちゃって…」

そう言いながらもはふわふわする頭を切り替えようと小さく息を吐き出した。
すでにパーティは終わり、招待客は帰り始めているが、は進められるがままワインを飲みすぎて、酔っ払ってしまった。それを見たジェイがデイビットに説明し、今夜はをこのホテルに泊める許可をもらい、彼女を最上階にあるフロアへと連れて来たのだ。デイビットは娘の失態にいい顔は見せなかったが、ジェイの手前もあり怒るという事も出来ず、彼女をジェイに任せてどこかの政治家と行ってしまった。そんな無責任な父の態度にも少なからず腹を立てていたが、今は文句を言う気力もない。

「いえ…。ああ、この部屋です。このフロアは貸しきってあるというし、今夜は泊まって行ってくれて構わないと叔父が…」
「…貸切…?じゃあ大統領も今夜はここに?」
「いや、そうじゃないみたいですが…他の招待客の為でしょう、きっと」
「…そうですか…すみません、本当に」
「いいえ。飲ませすぎた僕も悪い」

ジェイはそう言って苦笑すると、の体を支え、部屋の中へと入った。スイートルームなだけあって、リビングはかなりの広さだ。そして当然、奥には別に寝室もある。ジェイはそこまで彼女を支え、フラつくをベッドへと座らせた。

「今、水を持ってきます」

ジェイはそう声をかけてからリビングへと戻っていく。その後姿を見ていたは大きく息を吐き出した。途端に部屋の中にアルコールの匂いが漂う。

(…久々にやっちゃったかな…。でも何も食べてない私を無理に引っ張ってきたパパだって悪いんだから)

先ほど冷たい目で自分を見ていたデイビットを思い出し、はベッドに倒れこんだ。パーティに遅れるという理由で夕飯も口にせず、ここへ来たのだ。パーティでも料理は出るが好きに食べまくるという事は出来ない。子供の頃から人目を気にしなければいけない環境は、にとって苦痛でしかなかった。

(どうせパパはジェイと私が二人きりになればいいと思って置いていったんだ…)

ふとミネラルウォーターを手に戻ってきたジェイを見てそう思う。とジェイが結婚すれば、今の大統領とも今後いろんな意味で懇意に出来て強い味方となるからだ。いつかは政略結婚させられるだろうと分かってはいた。それでも、いざ現実味を帯びてくるとは今の現状から逃げ出したくなった。

さん、大丈夫ですか?これ飲んで」
「…ごめんなさい。ありがとう」

ジェイが戻ってきてペットボトルの水を差し出す。は体を起こして受け取ると、それを一気に飲み干した。冷たい水が喉に心地いい。そのまま深く息を吐き出せば、ジェイが小さく笑みを漏らした。

さんが酔うところ、初めて見ましたよ」
「…すみません。何も口にしてなかったから…」
「言ってくれれば、こっそり料理を運んできたのに」

そう言いながらジェイは水で濡れたの口元をそっと指で拭った。その感触にドキリとして思わず顔を上げる。
ジェイとは何度かデートをしているが、未だ清い関係のままだ。こんな風に部屋で二人きりになるのも初めての事だった。

「あ、あの――」
「酔っているあなたも可愛い」

不意にそんな事を呟いたジェイは、の隣に腰を下ろした。ギシ…っとベッドが軋む音がする。戸惑うように顔を上げるに優しく微笑むと、ジェイは彼女のアップにしていた髪をそっと解いた。

「あ、あのジェイさん…」
「あなたも…そろそろ僕の事を"さん付け"で呼ぶのはやめて下さい」
「え…」
「ジェイ、でいいですよ」

いい、と言われても…とは酔った頭で、あれこれ考えていた。この空気は何となく"そういう雰囲気"であり、ジェイの彼女を見つめる目は先ほどよりも熱い。それに気づいたは僅かに視線を反らした。この年齢なのだから男を知らない、という事はないし、普段はデイビットの目を盗んで夜遊びなんかもしている。大学の友達と一緒に多少なりとも悪い事をした経験もある。公になれば親が困るので今は大人しくしているが、それなりの経験はある方だった。だからこそ分かる男が女を求めている空気。そしてそれを拒む術をは知っていた。だがジェイはこれまで付き合ったボーイフレンドとは違う。父がの将来を考えて、紹介してきた男だ。あまり無下に断る事も出来ない。といって、この場でジェイと関係が出来てしまえば、このまま彼と結婚しなければいけなくなるかもしれない。ジェイがいくら素敵な男性だとしても、自分の将来が決まってしまうとなれば話は別だ。その前にはジェイの事を、そこまで愛してもいなければ、特別な感情があるわけでもない。
酔った頭でそこまで考える。そのせいで僅かに隙が出来ていたのをは気づいていなかった。

「…分かっているとは思いますが…僕はあなたが好きです」

突然の告白に反応して顔を上げた時だった。ジェイの大きな手がの首の後ろへと回され、強く引き寄せられた。気づけば互いの唇が重なり、の瞳が大きく見開かれる。ジェイは何度も角度を変え、彼女の唇を確かめるかのように優しく口づけながら、もう片方の腕をそっとの背中へと回した。

「……っん、」

腰を強く抱き寄せられると重なったままの唇が薄く開く。そこからジェイの熱い舌が入り込み、は思わず声を漏らした。ゆるゆると動く、決して強引とは言えないジェイの舌の動きに、の体が震える。アルコールが回った頭がクラクラするせいで上手く思考が働かない。
その時――背中のジッパーをゆっくりと下ろされた感覚で、不意に現実へと戻った。

「…や…やめて……」

ジッパーを下ろしながら唇を首筋へと滑らすジェイに、思った以上に弱々しい抵抗を口にする。だが今の彼にはそれだけでも十分だったようだ。ハッとしたように動きを止めて、ジェイは顔を上げた。

「…すみません…。嫌、でしたか?」
「い、いえ……急なことに驚いて…」

今の関係上、ハッキリとは言えず曖昧に返すと、ジェイは困ったように頭を掻いて、もう一度「すみません」と謝った。

「焦ってるのかな…。ついあなたの気持ちも考えずに失礼な事を…」
「…いえ…」

あくまで真面目な対応をするジェイを見て内心苦笑しつつも、何とか断れた事にホっとする。悪い人じゃないというのは今の彼を見ても分かるが、それとこれとは別問題だ。

「…もう、大丈夫かな?アルコールは――」
「だ、大丈夫です…。シャワーでも浴びて寝ますから…」
「…そう…。では…僕も今夜は大人しく帰りますよ」

少し名残惜しそうに笑うと、ジェイはゆっくりと立ち上がった。

「でも…僕は真剣です」
「え?」
「あなたが好きだという事は…信じてください」
「…ジェイ…さん」
「さんはいらないと言ったでしょう」

ジェイはそう言って笑うと、小さく息を吐いた。

「僕らの出会いは政略されたものだけど…互いの家の事など僕は関係ないと思ってる。それだけは信じてほしい」
「……はい…」

とりあえず返事をすると、ジェイはホっとしたように微笑んだ。

「では…お休みなさい。また連絡します」
「……お、お休みなさい…」

先ほど会った時のように爽やかな笑顔を浮かべると、ジェイは静かに部屋を出て行った。少ししてドアの音が閉まる音を聞いた途端、は深々と溜息を吐きながらベッドへと倒れこむ。

「……どうしよう…っていうか本気になられても困る…んだけど」

(だいたい彼が知ってる私は本当の私じゃないし…真剣だとか言って上辺で好きになられても困るわよ…)

19歳、という年齢らしく。先ほどの"お嬢様"といった顔から普通の女子大生という顔へ戻る瞬間。一人になったこの時間が、今のにとっては一番ホっとするものだった。

「まいった、なあ…」

まさか、あそこでキスされるとは。油断してた、とガックリ項垂れる。ジェイとは何度かデートをしたが、いつも彼は紳士的であり、これまで指一本触れてこようとはしなかったのだ。ノリの軽い大学のボーイフレンドとは間逆で、あんな真面目な男の人もいるんだ、と多少信用していたのがいけなかった。

(キスも…既成事実とかになっちゃうのかな…)

ジェイの性格ならキスしただけで責任を取る、とか言い出しかねない、と少しだけ気分が重くなる。

「…っていうか…着替え、どうしよう」

ふと背中に寒さを感じて下ろされたジッパーを最後まで下げると、はそのままバスルームへと向かった。ここに泊まるのはいいとして、着替えは今まで着ていたドレスしかない。あのパーティ用のドレスを明日ここを出る時にも着るのはさすがに勇気がいった。

「あんな紫なんて派手な色、パパってばセンスゼロね…」

溜息交じりでシャワーブースへと入る。スイートルームのそれは無駄に広く、また周りは全てガラスと鏡で囲まれていた。

「…あ…」

その時、鏡の中の自分を見ては小さく声を上げた。見れば白く細い首元に、僅かにだが赤い痕が残っている。先ほどのジェイの行為を思い出し、僅かに顔が赤くなった。

「やだ…あの時…?っていうか、これ見つかったら困るじゃない…」

小さな赤い痕。でも分かる人が見れば分かってしまう。あの胸元が開いたドレスじゃ首元なんかは隠れない。といって着替えはないし――。

「…はあ…最悪」

グッタリ項垂れながらも仕方なくそのままシャワーを浴びた。だがスッキリするどころか、残ったアルコールのせいで体がダルい。このまま眠って、着替えは明日考えようと思いながら、は欠伸を噛み殺しつつバスローブに身を包んだ。
その時、静かな空間に人の話し声が響いてきて、リビングに戻ったはふと足を止めた。

「この声…」

よく聞けば廊下の方からその声は響いてくる。それも一人や二人じゃない。

「…もしかして…大統領?」

先ほどジェイがこのフロアは貸切りにしてはあるが大統領が泊まるというわけじゃないと言っていた。でも今の声は聞き覚えがある。何度か会ったこともあるが、今ではテレビのニュースで毎日聞いている声だ。

(…誰と会ってたんだろう…気になる)

僅かに溢れた好奇心には勝てず、はそっとドアの方まで歩いて行くと、スコープから廊下を覗いてみた。狭い視界では何も見えないが、まだ廊下ではボソボソと話す声が聞こえる。という事はすぐ近くにいるという事だ。

(秘密の談合かな…)

なんて思いながら覗いていると、不意に人影が目の前を横切った。同時に思わず声を上げそうになり、慌ててドアから離れる。

「…え、今の…パパ?」

先に帰ったはずの父親がこのフロアにいた事で多少は驚いた。だがデイビットと大統領は友人だ。パーティの後に会う時間をとったとしても不思議ではない。それにデイビットがいるなら一緒に連れて帰ってもらった方がいいという事に気づき、急いでドアを開ける。

「…パパ」

廊下に出てからそう声をかけたものの、デイビットはすでにエレベーターホールまで行ってしまったようで、そこには誰の姿もない。

「嘘…ちょっとパパ…!」

思わず廊下を駆け出し、エレベーターホールまで向かう。そこで無情にも扉が閉まる光景が視界に飛び込んできた。

「嘘でしょ…もう〜」

はあっと息を吐き出しながらその場にしゃがみこむ。酔っている上に一気に走ったせいで、少し頭がクラクラした。それに、と今の自分の格好を見下ろす。風呂上りに飛び出したおかげでバスローブしか羽織っていない。

「はぁ…やっぱり泊まるしかないみたいね…」

そう呟いてゆっくりと立ち上がった。完全にアルコールが回ったのか、足元がフラつく。風呂上りに走った事を後悔しながら、はそのままフラつく足で自分の部屋へと向かう。でもそこで最悪な事を思い出し、ふと足を止めた。

「やだ、私、部屋のキー…」

慌てて両手を見下ろしたものの、持って出ていないのだからあるわけがない。

「もーー嘘でしょ…」

最近のホテルは殆どがオートロックだ。当然、キーを持っていなければ部屋にすら入れない。は自分のマヌケさにウンザリしながらその場にしゃがみこんだ。バスローブ姿ではロビーにスペアキーも取りに行けない。

「最低…最悪……あのまま帰れば良かった…」

こんな格好でホテルの廊下にいるのだからボヤきたくもなる。といって、ずっとこうしているわけにも行かず、は廊下を見渡した。

(とにかくスペアキーを持ってきてもらわないと…)

バスローブ姿のままフロントマンと顔を合わせるのも嫌だったが、この際仕方がない。

(確か下の階なら廊下に電話があったはず…)

まずはフロントに繋がる電話のところまで行かなくてはならない。まだ酔っているようでフラフラするが仕方ない、とはすぐに立ちあがった。その瞬間、視界がぐるりと回って足元がよろける。

(…危ない――)

倒れる、と覚悟したその時、体が何かに包まれるのを感じた――。

手直しをして再掲。

無性にLを描きたくなりました。(しかも若かりし頃のL)
ヒロインはメロニア編に登場した大統領、デイビット・ホープの娘という設定にしちゃいました。
なので苗字変換はないのですが楽しんで頂ければ幸いです。
09/11.22