02―あんな表情、知らない


(…何か…冷んやりして気持ちいい…)

火照った顔に冷たいタオルの感触。朦朧とする意識の中で、ふとそんな事を思った。ゆっくりと目を開ければ、ぼやけた視界の中に誰かが映り、そこでハッと我に返る。同時に一瞬で記憶が蘇り、自分が廊下にいた事を思い出したは小さく息を呑んだ。

「…気づきましたか?」
「あ…あなた誰…?」

聞き覚えのない男の声に驚いた。今の状況が整理できない。さっきまで廊下にいたはずの自分が、今はフカフカのベッドに寝かされているというところまでは受け入れられたとしても。目の前に見知らぬ男がいるのはありえない状況だ。薄暗い部屋では男の顔もよく見えない。

「…どうやら大丈夫そうですね」

男は質問に答える事なく静かに立ち上がった。そしてベッドサイドにあるライトをつける。僅かに明るくなった事では目を細めた。けれども、目の前に立っている人物を認識した瞬間「あ!」と声を上げた。

「あ、あなた、さっきのパーティで…」
「…はい。あなたもいましたよね。デイビット・ホープ氏と」

淡々とした口調で話すその人物は、先ほどパーティで見かけていた白い長袖シャツを着た少年だった。

「父を知ってるの?」
「ホープ氏は有名ですし、誰でも知っていますよ」

少年はそう言って微笑むと、の額にあったタオルを手に取った。

「あ、あの…もしかして私を助けてくれた…とか?」

この状況を把握して恐る恐る尋ねると、少年は小首を傾げながら振り向いた。

「助けたというと少し語弊がありますが…廊下が騒がしいので気になってたんです。でも急に静かになったので何となく覗いた時にあなたがよろめいているのが見えて…咄嗟に支えた、という感じです」

ちょうど私の部屋の前だったので、と付け足され、はおぼろげな記憶を辿りながら気まずそうに目を伏せた。

「…あ…ありがとう…。えっと私は…倒れたの?」
「多分、かなり酔ってらしたかと。少し前に廊下を走るような音も聞こえましたし…その恰好のところを見るとシャワーも浴びたんでしょう。その後に走ってはアルコールが回っても不思議じゃない。それで倒れたんでしょうね」

淡々と説明されたは顔が赤くなった。確かに廊下を走った記憶もある。

(じゃあ私ってば酔っ払ったあげく、急に走ったせいで意識を――そう言えば未だにアルコールが残っているような…)

頭を少し動かしただけでぐわんと回るような感覚に顔をしかめつつ、見知らぬ少年に助けられたという何とも恥ずかしい失態には溜息をついた。

「ほんとにありがとう…。あの…ご迷惑おかけして…」
「いえ…。驚きましたが…いい刺激になりました」
「はあ」

よく分からない説明をされ、は訝しげに目の前の少年を見た。先ほどパーティで見かけた時と同じく真っ白なシャツを着ている。そこでふと小さな疑問が浮かんだ。ここは高級ホテルの、それもスイートルームしかないフロアだ。なのに何故こんなにも若い少年が泊まってるんだろう。部屋を見れば自分が先ほどいた部屋と全く同じタイプのように見える。

「あ、あの…君、ここに泊まってるの?」
「はい」
「…そ、そう。あ、さっき一緒にいた方は?」
「ワタリですか?彼なら先に帰しました」
「…ワタリさんていうの…」

(そんな名前だったっけ?)

ふと先ほど父のデイビットから聞いた名前の記憶を辿ってはみたが、ハッキリ覚えているわけでもない。一緒にいた少年がそう言っているのだから「ワタリ」というのが彼の名前なんだろう。
はそう納得しつつも、少年の説明を理解した時、少しだけ驚いた。

「え、帰したって…彼は君の保護者じゃないの?」
「……………」

の言葉に少年は徐に目を細めた。その不満そうな表情には何か悪い事でも言ったかしら、と首を傾げる。
詳しくは聞かなかったが、少年といた男性は何かの施設を所有していると言っていた。この少年もその施設の子だろうと、デイビットが言っていたのだ。ならば、、あの初老の男性は当然この少年の保護者。そう思うのも当然だろう。

「え、と…」
「ワタリは私の保護者ではありません。部下みたいなものです」
「えぇっ?」

相変わらず淡々と話す少年に今度こそ唖然とした。あの初老の男性が目の前にいる、どう見ても未成年の男の子の部下…などとは到底信じられない。そんなの疑問を知ってか知らずか、少年は親指を唇に当てながら、ふと天井を仰ぎ見た。

「…もしくはパートナーです」
「パートナーって…。君、いったい…」
「エラルドです」
「え?」
「君ではなく。私はエラルドと言います。さん」
「え…何で私の名前…」

と、そこまで言いかけては言葉を切った。父親であるデイビットを知っているのだ。一人娘の名前も知っていて不思議じゃない。

「えっと.…エラルド…くん?」
「エラルドで結構です。くん、などと呼ばれると気持ちが悪い」
「………ご、ごめん」

(何か…大人びた子…)

今もそうだが、先ほどから話す少年の口調には内心そう思った。見た感じは17〜18歳。もしくは自分と同じくらいかもしれない、と思いながら、目の前でグラスに水を注ぐエラルド、と名乗る少年を見る。

「じゃ、じゃあエラルド…?」
「はい」
「あなたは…ここで何を…?」
「今日、ロスから移動してきたばかりですが、しばらく滞在してここで――」

と、エラルド少年はそこで何かを考えるように言葉を切った。そしての手に水の入ったグラスを握らせる。

さんには関係のない事です」
「な…何よそれ。今、ちょっと言いかけたくせに――」
「ああ、お水、たくさん飲んだ方が二日酔いになりにくいですよ」
「え、あ、ちょっと――」

何も説明せずにスタスタと寝室を出て行く少年を見て、は慌ててグラスをボードに置くとベッドから起き上がった。同時に今の自分の格好に気づき、再び赤面する。

「って、私ってばバスローブのまま…っ?」

肌蹴た胸元を直して軽く項垂れる。こんな格好のままで廊下に倒れてるところを見つかっていたら、と想像すると軽い眩暈すら感じた。

(…出くわしたのが彼で良かったのかも…。もし大統領や、そのSPの人達だったら最悪だった。パパにどやされるだけじゃ済まないし)

ふと先ほど聞こえた大統領の声を思い出して安堵の息を漏らす。父と話すために部屋をとったのかもしれないし、泊まっていたわけじゃないとしても。とりあえず見つからないで良かったと思った。

「あ、あの…エラルド…くん?」

そっとベッドから足を下ろす。とりあえず、このままここに居座るわけにもいかない。
そこへ再び少年が戻ってきた。しかも紅茶の乗ったワゴンを押している。

「くん付けはやめて下さいと言ったでしょう。私は子供じゃありません」
「あ、ご、ごめん…なさい…」
「それと、まだ動かない方がいいです」
「え?」
「まだ多少、アルコールが残っているようですので」
「………う、うん…」

言われてみれば、まだ頭がフワフワする。立とうとすればさっきの二の舞になるかもしれない、とここはエラルドの言うとおりにベッドへと上がった。それでも随分とスッキリしてきた気がする。

「暖かい紅茶です。落ち着きますよ」

エラルドはそう言うとベッド脇の椅子に上がり、しゃがんだ格好のまま紅茶を口にした。その不思議な座り方には驚いたが「あなたもどうぞ」とカップを進められ、素直に受け取る。

「美味しい…いつも飲んでるやつだわ」
「そうですか。さんは趣味がいいですね」
「………あ、あり…がとう」

どう見ても年下にしか見えない少年に、そんな言い方をされたは複雑な気持ちになりながら、カップをソーサーへと置いた。そしてエラルドをジっと見つめる。

「どうしました?私の顔に何か…」
「え?あ、ううん…。というか…君って何歳くらいなのかなあと思って」
「私、ですか?」
「うん。何だか若く見えるけど、話し方とか物腰が凄く落ち着いてるから…」
「私はこれでも18歳ですが」
「えっ?じゃあ、やっぱり年下?」
「…さんは確か19歳でしたよね。1歳しか違わないじゃないですか」

の言葉に明らかに不満気な顔をする。名前どころか、の年齢まで知っているところにまた驚かされたが、スネた彼を見ては吹き出しそうになった。ついでにある事を思い出し、慌てて「今、何時?!」と辺りを見渡す。

「今は夜中の0時を少し過ぎた頃ですが…」
「えっ嘘…!」
「何ですか…?何か用事でも…」

あまりに驚いているに、エラルドも訝しげな顔で首を傾げている。は小さく溜息をついた。

「…ううん。そうじゃなくて…今日は私の誕生日なの」
「…誕生日…ですか?」
「うん。あーもう0時過ぎちゃったんだぁ。0時ちょうどに私の生まれ年のワインを開けようと思ってたのになあ…」
「…今夜はそれ以上、飲まない方がいいと思いますが…」
「でも、せっかく20歳の誕生日なのに……」
「…20歳ですか」
「そう。何だか特別でしょ?20歳って。だから……あ、って事で、私は君より2つ上になったのね」
「……そう、みたいですね。でも1つも2つも、それほど変わりませんが」

再び不満気に目を細めるエラルドは、紅茶のカップを置きながらふと顔を上げた。

「でも、という事は0時ちょうどに、あの恋人の方とそのワインを飲む予定でも?」
「え?あ、ううん。そうじゃないけど…って、あの恋人って誰のこと?」
「あのFBI捜査官の男性ですが。あなたの恋人なのでは?」
「………」

淡々と話すエラルドを見ながらは少しだけ目の前にいる少年が怖くなった。何故、彼はそこまで知ってるんだろう?というか詳しすぎる。

「え、と…エラルド…」
「はい」
「彼……ジェイっていうんだけど…」
「はい」
「彼は恋人じゃないの」
「そう…なんですか?」
「まあお見合いみたいなものはしたし何度かデートはしてるけど…ハッキリ付き合ってるとかじゃなくて…」
「そうですか。でも…」
「え?」
「いえ…」

エラルドは僅かに口篭り、またポットから紅茶を注いでいる。それを見つめながらは気になっていた事を聞いた。

「それより…どうして君がそんな事を知ってるの?父が有名でも娘の私の事まで詳しいなんて…誰かから聞いたとか?」
「…まあ…そういう事です。次期大統領候補となる方の家族の事ですから…嫌でも耳に入ってきますよ」
「そう…。そう、よね…」

と、納得はしてみたものの、どこか腑に落ちない。この少年はいったい何者なのか?と考え出すと、また迷路にハマっていく気がした。
高級ホテルのスイートルームに一人で泊まり、大統領の周りにいる人物の事に詳しすぎるくらい詳しい。18歳の少年がそこまで知っているなど普通ではありえない。

(もしかしてエラルドはFBI関係の誰かの息子さん、とか…?)

一番思いつく辺りでは考えた。今日も長官を始め、その部下達も多数、招かれていたはずだ。彼がもしその関係者の誰かの息子というならば、多少詳しくても不思議じゃない。

(いや、でも、じゃあワタリという人との関係は…?彼はエラルドとは関係ないのかな…。部下とかパートナーって言ってたけど、あれも意味不明だし…)

「どうしました?難しい顔をして」
「え?あ…何か…君って不思議な子だなあと思って…」
「子…。私は子供じゃないと言ったはずですが」
「あ、ごめんね。そういう意味じゃ…」

エラルドは子供扱いされるのがどうにも気に入らないようだ。まあ、18歳と言えばそういう年頃かもしれないなと内心苦笑しつつも、は目の前で仏頂面のまま紅茶を飲んでいる少年に興味が沸いてきた。

「えっと…エラルドはしばらく、このホテルに?」
「ええ。滞在する事になりました」
「そう…」
さんは?」
「え、私?私はとりあえず今日は泊まって…明日のお昼には帰るわ」
「そうですか」
「というか…そろそろ部屋に帰らなくちゃ。こんな時間だし…」

そう言って再びゆっくりとベッドから出る。よく考ればこんな格好のまま、助けてもらったとはいえ、知らない男の子と二人でいるのも気まずい。

「動けますか?」
「うん。もう大丈夫みたい」

そう言って立ち上がるとエラルドも一緒に立ち上がった。思ったよりも身長の高い彼に驚きながら「背、高いのね」と目の前のエラルドを見上げる。

「そうですか?まあ私は猫背なのでいつも驚かれます」
「座ってる時も猫背だもんね。伸び盛りなんだから姿勢をよくしないと」
「分かってはいるんですが…あまり姿勢を良くすると推理力が半減するので」
「…え?推理?」
「いえ、何でも」

これまで淡々としていたエラルドは急に慌てたように首を振った。何となく訝しく思いながらも、とりあえず助けてくれたお礼をもう一度告げる。

「じゃあ本当にありがとう…」
「いえ。もう飲み過ぎないように」
「うーん…分からないけど…頑張ってみる」

が素直にそう言うとエラルドは初めて笑顔を見せた。その意外なほど純粋で可愛い笑顔にもつられて笑顔になる。
そこへ不意にキンコーンという部屋のチャイムが鳴り、その音にはドキっとした。

「ああ、きっとルームサービスです。先ほど頼んだもので」
「あ、そ、そう。ビックリした」

こんな夜中にルームサービスをとるエラルドに苦笑いを零す。エラルドはそのままドアを開け、ボーイと軽く言葉を交わすとまたドアを閉める。彼の手が引いているワゴンには沢山のケーキが並んでいて、それを見たは思わず唖然とした。

「これ…君が頼んだの…?」
「はい。いけませんか?」
「い、いけなくないけど…」
「私は極度の甘党なんです」
「そ、そうなんだ。男の…わりに珍しいね」

思わず"男の子"と言いかけ、慌てて言い返る。じゃないとまたスネてしまいそうだ。
エラルドはそれに気づいた様子でもなく「そうですか?」と首を傾げながら、ワゴンをリビングまで押して行った。そして徐に振り向くと少し考えるような仕草で天井を仰ぎ、再びを見る。

「良ければ…さんも一緒にどうですか?ケーキ」
「…え?」
「これを頼んだのは偶然ですが…ちょうど今夜はさんのお誕生日という事ですし。一緒に食べませんか」
「え、いい、の?」
「はい。まあさんが食べられれば、の話ですが」
「ケーキは好きよ。あ、ただ…」
「どうしました?」
「…その前に夕飯食べてないから、お腹空いちゃった…かも…」

先ほどの酔いが冷めてきたのと同時に、空腹だった事を思い出す。その瞬間、ぐうぅ…っと派手にお腹が鳴り響き、その音では顔が真っ赤になった。
エラルド少年はといえば、腹の音を聞いて大きな目を見開いたかと思うと、真っ赤になったの顔を見て小さく吹き出している。

「な、何よ…」

エラルドが声を出して笑う姿を見るのはこの時が初めてで、その笑顔が可愛いとは思うものの。は自分が笑われた事で更に赤くなった。

「…かなりお腹が空いてるようですね」
「わ、笑わなくてもいいでしょっ」

肩を震わせているエラルドには真っ赤になりつつ抗議をする。それでもエラルドは笑いを噛み殺しつつ、部屋の電話の受話器をあげた。

「すみません。でも…なら一緒に夕飯もどうですか?」
「……え?」
「私も今夜は食事をしていませんので」

そう言われては迷った。今日、しかもつい先ほど会ったばかりの少年と食事を一緒にする理由がない。これでも家庭環境のせいで警戒心は強い方だ。個人より、彼女の家柄に魅力を感じて近づいてくる人間は腐るほどいる。そのせいもあってプライベートで接する相手は選ぶ方だ。
でも――は自分が断らないだろう、と分かっていた。この少年はあまりに謎めいていての好奇心を煽るのだ。

(…見た感じ変わってはいるけど悪い子じゃなさそうだ。それに彼が何者かってところも凄く気になるし…)

静かに返事を待っているエラルドを見ての心は決まった。

「…あ…うん…じゃあ…お言葉に甘えちゃおうかな」
「決まりです。では…お誕生日ですのでフレンチかイタリアンでも。さんはどちらがいいですか?」
「あ、私、イタリアンがいいな」
「分かりました。では私もそれで」

嬉しそうに答えるを見て、エラルドは楽しげに微笑むと、すぐにルームサービス係に電話をしている。そして注文した後、すぐにもう一本、電話をかけ始めた。

「ああ、ワタリ。こんな時間にすまないが…今から言う年代の赤ワインを至急部屋に届けてくれ。ああ…」

その会話を聞いては唖然とした。今、エラルドが頼んだものは先ほど話した自分の生まれ年のワインであり、今夜飲もうと思っていたものだったからだ。

「…では頼みます」

エラルドはそこで電話を切ると、後ろで驚いた顔をしているを見た。

「どうしました?」
「…エラルド……今のワイン…」
「ああ…飲みたかったんでしょう?さんも少し酔いが冷めたようですし、ワタリに頼めば何でも手に入りますので頼んでおきました」
「で、でもあれ高いのに――」
「大丈夫ですよ。私からさんに誕生日プレゼント、という事で」
「それでも…会ったばかりのあなたにプレゼントしてもらう理由がないわ」
「理由…?」

の言葉にエラルドは首を傾げた。

「理由なんていりませんよ。私がそうしたいからしているだけです。それに…」

と、そこでエラルドは楽しげに口元を上げた。

「たまたま助けた女性がその日、誕生日だった。こういう偶然もまた楽しいですから」

よく分からない説明をされ、は一瞬唖然としたが、すぐに苦笑いを浮かべた。どうやらこの少年には普通の常識は通用しないらしい。ここは食事同様、エラルドの好意に甘えようとは思った。

(それにしても…やっぱり気になる)

彼の言う部下兼パートナーというワタリ、という人物。何故、彼はこの少年の言う事を聞いているんだろう。目の前でケーキをテーブルに並べ始めたエラルドを眺めながら、は首を傾げた。実はエラルドは大金持ちの息子で、あのワタリという初老の男性が執事、というなら頷ける。それならば部下、と説明したのも納得がいく。
あれこれ考えていると、エラルドがふと顔を上げた。

「どうしました?」
「っていうかワタリさんて何者…?何かの施設を所有してるってだけじゃないの?」
「……まあ、半分は当たっていますが…。ワタリはその他にも色々と手がけてますし、また人脈もあります。大抵の事は叶えてくれますよ」

アッサリと言い切ったエラルドに、はまた分からなくなった。この18歳の少年が一人の大人を平気で動かし、それを当然のように振舞う。大人びた表情も、この年齢で見せる顔じゃない。
最初から変わった子だとは思っていたが、更に謎が深まった気がした。

アメリカという設定上、Lの偽名は今回エラルドで。

09/11.23