03―たったそれだけのこと、なのに
面倒な事になったな、とエラルド――いや、Lは思った。
偶然とはいえ、次期大統領候補となるデイビット・ホープの愛娘と、あんな形で接触してしまうとは彼も思わなかった。ただ自分の腕に倒れこんできた酔っている状態の、それもあんな格好の女性を廊下に放置しておくわけにもいかない。仕方なく自分の部屋まで運んだ事は人として当然だろう。
そこまでは、まあ良しとして…と、Lは溜息交じりで目の前の女性――に視線を向けた。
(そもそもの間違いは…彼女をすぐに帰さなかった事…)
頭の隅で後悔しながら、酔っ払い特有の舌ったらずな声を聞いていた。
パーティ会場では絶対に見せなかったであろう彼女のもう一つの顔。いや、こっちが素顔に近い姿なのかもしれない、とLは思う。
「何よぉ、少年。全然飲んでないじゃなーい」
「…私は未成年ですから」
「何それ。私なんか君くらいの歳から飲んでたし〜」
「…………」
(目が据わっている…)
グラスを傾け、満足そうにワインを飲んでいるを見ながら、Lは再び溜息をつく。
(私とした事がつい余計な親切心を出してしまった…)
と、Lは内心本気で後悔していた。
たまたま助けた女性が「今日誕生日だ」という。それも少し寂しげな表情で。
それを見た時、その場にいる自分くらいは祝ってあげようか…と普段では多分、いや絶対に思いもしないような事を考えたのがいけなかった。久しぶりにワタリ以外の人間と会話をしたから新鮮だったという些細な、そうほんの些細な理由で。
それも意外な事に彼女と過ごした短い時間が僅かでも楽しかったという、いつものLなら感じた事もない感情のせいで。
「はぁ〜やっぱり美味しい。エラルドも飲めばいいのに〜」
「もうやめた方が…」
そう言いかけてLは言葉を切った。言っても無駄。酔っ払いにまともな意見を述べても意味がない。酒を飲まないLでもその辺の事は理解できる。
はよほど空腹だったのか、Lが注文したイタリアンをぺロリと平らげ、ワタリに手配させた年代物のワインの味に感激し、先ほど自分が犯した失態など忘れ去ったかのように今もグラスを傾けている。少しは冷めたかと思っていた酔いも、自分の生まれ年のワインをがぶ飲みしたせいでさっき以上に酩酊しているようだ。
(一人娘がこれではホープ氏も心配だろうな)
およそLらしかぬ事を考えながら残りのパスタを口に運ぶ。
だいたい名前しか知らない――仕事時の偽名の一つだが――男の前で泥酔し、しかも格好が格好だ。少しは警戒心というものがないのか?とLは目を細めながら、頬がほんのりと赤いを眺める。
「ん〜何よその顔〜。あ、やっぱり飲みたくなった?」
「いいえ…。私は言ったとおり未成年ですし、その前にアルコールが好きではありませんので」
「ふーん。つまんない男ー」
「…………」
(つまらない…男……。この私が…?)
「つまらない」と生まれて初めて言われたLは、多少の自尊心が傷ついた。これまで何をしても優秀な成績を収め、トップの座を守ってきたLにとって、人から絶賛されこそすれ「つまらない」と称された事は一度もない。
の何気ない一言はLにショックを与えるには充分すぎた。
「…あれれ…どうしたの〜?項垂れちゃって…」
「いえ…別に何でもないです。酔っ払いの戯言、と聞き流します」
「はあ〜?何わけ分からないこと言ってるの〜?」
身を乗り出し、据わった目で睨んでくるにLは顔を引きつらせた。飲ませてしまったのは自分だが、これ以上酔っ払いに関わるのはごめんだ、と言いたげに立ちあがる。それに元々このホテルには捜査をする為に滞在しているのだから、これ以上一般人とは関わらない方がいい、とLは判断した。
「さん…もう飲まない方が。部屋まで送りますから」
「何よ〜。まだ残ってるもの…。それに部屋って言っても、キーがないと入れないし〜」
「私がフロントに連絡します。それならいいでしょう?」
「む……なーに?もしかして追い出そうとしてる〜?」
酔ってはいても何かを感じたのか、はLの態度にムッとした顔で立ち上がる。だがすでに泥酔に近い状態の足元はそれだけでフラフラと揺れていて、Lは慌ててその体を支えた。
「こんなに酔っていては、まともに会話も出来ませんから」
「うわ、バカにしてるー。それに私は酔ってなんかいませんよー」
「酔ってますよ…。全く…こんな状態でよく言えますね……これではホープ氏も苦労なさってるでしょうね」
「―――ッ」
その名を口にした瞬間、はLの腕を思い切り振り払った。その突然の行動に対処しきれず、Lも僅かに足元がよろめく。今の今まで楽しげに酒を飲んでいたはずの彼女が、今は怒ったように自分を睨んでいる。そんな彼女の態度にLも本気で戸惑った。
「…何するんですか」
「分かったようなこと言わないでよ…!あんたに何が分かるの?!」
「………」
急に大きな声で怒鳴られ、さすがにLも目が丸くなった。見ればの瞳からは涙が溢れ、ゆらゆらと揺れているのが分かる。
「さ――」
「会ったばかりのあんたに…私のパパの…苦労が何で分かるのよ…っ!」
「落ち着いてください…。気分を害したのなら謝ります」
女性がヒステリックになるところは極力見たくない。本気で怒っているの様子に、Lは宥めるように言った。それでも一度ついた怒りの炎は消えないのか、はフラつく足で歩いてくると、Lの胸元を強く握り締める。
「私は…いい子をずっと演じてきたの…。親の恥にならないように…何もかも我慢して…。本当の自分を隠して……」
「………………」
「本当は…ピアノも…バレエも…嫌いだった…。でもホープ家の娘として頑張って覚えた…」
「…………」
「好きな人に好きって言葉さえ言えない…代わりに好きでもない男と結婚させられるかもしれない…私の気持ちはないも同じなのよ…」
ぽろぽろ涙を零しながら自分のシャツを握り締めてくるを、Lは静かに見つめていたが、不意に小さく息をついた。
「…それでも…さんのような生活を誰もが出来るわけじゃありません。あなたは恵まれている――」
「だから何?!裕福だから我慢しろって?!そんなもの…私が欲しがったわけじゃない!」
「……、さん…」
「お金があるから幸せなの?!じゃあ私はどうしてこんなに苦しいのよ!お金なんかいらない…贅沢な暮らしなんかいらない!私が…私が本当に欲しいのは――」
はそこまで言うと、無表情のまま自分を見つめているLから掴んでいた腕を離した。
「……"本当に欲しいのは…"何です?」
そこから何も言おうとしないを見て、Lは静かな口調で尋ねた。はそんなLから視線を反らし、濡れた頬を手で拭う。
「……あんたには関係ない…」
「…ええ、関係ありません」
アッサリとそう言われ、はいちいち癇に障るとでも言いたげにLを睨む。
「……ワインと料理、ご馳走様!ご迷惑おかけしました!」
「え、あ、ちょ!酔ってるんですから急に歩いては危ないです!」
怒鳴ってドアの方へ行こうとしたの腕をLが慌てて掴む。だがそのせいで最初からフラついていたの足がグラリと傾いた。
「…きゃ」
「――わっ」
当然、の体は引っ張られた方へと傾き、そのままLに向けて倒れこんでくる。全てが一瞬の事だった。後は静かな部屋にドタン、ゴン、という鈍い音だけが響く。
「…い…ったぁい…」
「………私の方が重症ですよ…」
思い切り打ち付けた膝と肘の痛みを訴えるに、Lは仰向けの状態で呟いた。
と言うのも、が倒れこんできた事でその全体重をL一人の体で受け止めた際、床に後頭部をしたたか打ちつけたのだ。一瞬、大切な脳みそが揺れたような衝撃を受け、Lは暫く動けずにいた。いや、動けないのは他にも理由がある。
「…あ、あの…、さん?大丈夫ですか…?」
後頭部の痛みが次第に引いていくのを感じながら、一向に自分の上からよけようとしないに恐る恐る声をかける。またさっきのように怒鳴られても敵わない。それでも返事は返ってこない。Lは僅かに頭を動かしながら、胸元に顔を埋めているを見た。
「……さん?泣いて…るんですか…?」
「ぅ…るさい…」
Lの胸元を握り締めている手がかすかに震えていた。のくぐもった声を聞いたLも、それ以上は何も言えず小さく息を吐く。そして今動くのを諦めたように再び頭を戻して天井を仰ぐ。
先ほどの怒りが、未だ彼女の中で燻っているらしい。
(…私の、せいか?)
に胸を貸したまま、Lは真剣に考えた。Lは特別悪い事を口にしたつもりはなかったし、その事でがあれほど怒るなどとは微塵も思っていなかった。ましてや泣かせてしまうなど、もちろん想像もしていない。
何が悪くて、を怒らせ泣かせてしまったのか、これまで女性とプライベートで個人的に接点を持った事がないLには分からなかった。
(…暖かい…)
もちろん女性からこんな風に縋りつかれた事すらないLは、胸元にあるの体温を感じながら、ふとそう思った。普段のLは人に触れられる事も好まない方だ。ただこの時ばかりは自然と腕をの背中へまわしてしまいそうになる。こういった経験がないLでも、それが男の本能だと理解していた。
でも勝手にそんな事をしてまた怒鳴られたくはない。Lは初めての経験ながら、冷静にそう頭の中を切り替えた。
「あ、あの…さん…?大丈夫…ですか?」
「………」
これ以上、この状態が続くのは何となくまずい気がして、Lは思い切って声をかけた。それに対しは無言のまま首を振る。アルコールのせいで感情の起伏が激しくなっているのか、なかなか涙が止まらないようだ。
その時、彼女が僅かに動いた気がした。
「…きしめてよ…」
「…え?」
が小さな声で呟いたのを、Lは半分ほどしか聞き取れなかった。
「何て、言ったんですか?」
もう一度頭を上げての方へ視線を送る。すると、は顔を埋めたままの状態でハッキリと「抱きしめてって言ったの…っ」と今度はLにも聞こえるように言った。
「え、だ、抱き…っ?」
もちろんLは女性にそんな事を言われた事もなければ、した事もない。当然ギョっとしたように目を見開く。その様子が伝わったのか、も僅かに顔を上げた。そして固まっているLを見ると不満気に唇を尖らせる。
「………こういう時…男は優しく抱きしめるものでしょ…」
「…っ……そ…そう…なんですか?」
あまりに突然そんな事を言われ、Lは更に顔が引きつった。だが涙で濡れたの瞳を見ていると、さっきのように自然と腕が動く。恐々と、壊れ物に触れるように弱々しくの背中に腕を回すと、もまた安心したかのようにLの胸元に顔を埋めた。
「………」
これでいいんでしょうか、とはさすがに聞けず。Lは固まった状態でを抱きしめていた。初めて抱きしめた女性の体は柔らかく、包むように背中へまわした腕からは彼女の体の細さが伝わってくる。
(女性の体は…皆こんなに細いんだろうか…)
そんな事を考えながらもの気が静まるよう、少しだけ腕に力を込める。その時、ふとが笑った気がした。
「…さん?」
「エラルド…もしかして…女の子抱きしめるの初めて?」
「…はい?」
その問いにドキっとして顔を上げると、は挑発的な目でLを見ている。何となく心の奥を読まれたような気がして、Lは背中に回した腕を解いた。
「…何故、そんな事を?」
「だって…ぎこちないから…」
「………」
さっきまで泣いていたクセに…と内心思いながら、Lは少しだけ体を起こした。
「泣き止んだならどいて下さい」
「あ、図星だ」
「…………」
まだ瞳は涙で潤んでいるわりにはそんな事を言って笑っている。どうやらアルコールは抜けていないようだ。
「…まだ相当酔ってるようですね。早く部屋に戻って寝た方がいいです、よ――」
そう言ってを自分から離そうとした瞬間、シャツの胸元をぐいっと引っ張られる。気づけば目の前にの瞳があり、至近距離で向かい合っていた。色白の滑らかな肌や、自分を見つめるブルーグリーンの瞳、赤く色づいた形のいい唇が、視界に飛び込んできて、Lはギョっとしたように身を引こうとした。
「な、何する――」
「…キス」
「―――は?」
「しようか…」
その言葉に今度こそLの体は固まった。の涙で潤んだ瞳から視線を反らせず、鼓動が信じられないほど早くなっていく。
「…エラルド…顔真っ赤だよ」
囁くように言いながらの手がLの頬を包む。その感触にビクリと体が跳ねた。慌てて視線を反らすように下げると、のバスローブが肌蹴けて胸の膨らみがちらりと覗いている。そこで再び視線を戻せば、ゆっくりと近づいてくる唇。それが視界に入った時、Lは思わず喉を鳴らした。
「ちょ――ん、」
抗議の声を上げる間もなく。その柔らかいものはLの唇を塞いだ。初めて感じた他人の唇の感触に、全身、電気が走ったように震えるのが分かった。つい床についたままだった手をの背中へとまわすと、そのまま強く抱き寄せながら、彼女の唇を受け止めた。それでも頭の中では冷静ないつもの自分がやめろ、と叫んでいる。
(会ったばかりの女性と何をしてる)
(相手は酔っているだけだ。早く離して追い返せ)
そんな理性が働く。しかし18歳という若さでは理性よりも本能の方が勝るのは仕方のない事だった。唇から、体を抱きしめる腕から、の体温が伝わってくる。そしての両腕はLの首へと回った。
「…エラルド…」
僅かに離れた唇から吐息と一緒に漏れる甘い声。その声に反応するように、今度はLから求めるように唇を寄せる。だがはそのままLの首筋に顔を埋め「震えてる…可愛い…」と小さく呟いた。
(…可愛い?私が…?)
理性が飛びそうになりながらも、その言葉の真意を考える。だが答えに行きつく前に、首筋に触れた唇の感触にまた思考回路が遮断された。背中に回した手が自然な動きでの腰を上へとなぞっていく。その手が柔らかい膨らみへと触れた時、一瞬だけ躊躇した。しかし首筋に感じる熱い吐息と、女性の体への好奇心から僅かな理性も簡単に崩れ去り、Lはそのままの胸に触れた。
(…柔らか、い)
初めて触れる女性のそれに、Lは腰の疼きを感じた。それが何を意味しているのかは経験がなくとも分かる。最初はバスローブの上から遠慮がちに動かしていた手が、肌蹴た場所から中へ移動するのに時間はかからなかった。じかに触れた膨らみを掌で包むように動かすと、Lの耳元でが甘い声を漏らす。
「…、さん…」
たまらず名を呼び、もう一度彼女の唇を求めるように体を僅かに離そうとした。
「……ん…」
「……………さん?」
そこで気づいた。
離そうとしても、はグッタリとしたままLの首筋に顔を埋めている。しかも全体重をかけてLの体に寄りかかるような体勢だ。
(…もしかして)
Lは少しだけ力を入れてを自分から引き離した。
「…あの……寝て…ます?」
恐る恐る項垂れたままのの顔を覗きこむ。そして――。
「こういうオチ、ですか」
はあっと深い溜息が漏れる。Lの予想通り、はスヤスヤと気持ち良さそうに眠ってしまっていた。首筋に吐息がかかったのも、甘い声を出しているように聞こえたのも、熟睡状態にある彼女の寝息に違いないとLは思い切り目を細める。
(人を煽るだけ煽っておいて…)
つい男としての性なのか、頭の隅でそんな事を思う。それでも。会ったばかりの女性となし崩しに関係を持たなくて良かった、という理性も戻って来ていた。
(…思っていた以上に泥酔してたのか)
今では子供のように眠っているを見下ろし、息を吐く。あれほど感情的になった理由も何となく分かって、Lはガシガシと頭をかいた。
(さて、どうしよう)
さっきまで熱で火照っていた頭も、本能に疼いていた体も、今はすっかり冷めてしまったLは、自分の膝の上で丸くなって寝ているを見た。とりあえず肌蹴ている胸元を元に戻し、そっと彼女を抱きかかえる。いつもの自分さえ取り戻せれば女性の裸など興味はない……はず。
相手はどうだか知らないが、Lからすれば先ほどの行動も半分以上は好奇心だ。
「……初めてのキスが…これでは笑い話ですね」
それでも多少動揺している自分に気づき、苦笑いを浮かべる。そして自分の腕の中で安心したように眠るを見て、もう一度「はあ…っ」と深い溜息をついた。
「…ファーストキスの相手、か」
別に二人の間に愛があったわけでもないのに。
たったそれだけの事なのに、胸の奥が今もドキドキしていた。
それと同時に――大変な人と関わってしまったと、Lは少しだけ後悔したのだった。
酒癖の悪いヒロインと、それに振り回される少年Lが書きたかっただけ笑
とりあえず最悪の出会いからスタートです。
09/11.25