04―少しだけ早まる鼓動


意識が戻るのと同時に、二日酔い独特の気持ち悪さに襲われたは小さく呻いた。
同時に昨夜のパーティの事や、ジェイとの事を思い出して深々と溜息をつく。目を開けることすら億劫で、はもそもそと布団の中を彷徨いながらも、他に何か忘れている気がして曖昧な記憶を辿った。

(…あの後…誰かに会ったような…)

ところどころ飛んでいる記憶の中、不意に黒い瞳の少年の顔が脳裏をかすめて、はぱパチリと目を開け、小さく声を上げた。

「そうだ、私…廊下に閉め出されて…」

その辺は覚えている。いや、今思い出した。そしてその後にあった出来事も、何となくだが覚えている。それすらポツポツといった程度で途中の記憶が抜け落ちていた。
パーティ会場で見かけた不思議な雰囲気を持つ、少年。彼と会話をしたのは薄っすらと覚えている。そしてそこが彼の部屋だったという事も…。

(そうだ…私、廊下で彼に助けられて…話してたのはあの子の部屋…だった?)

ふと少年と会話をしたのは寝室だった事を思い出す。それから何があったっけ?と首を捻ったのは、そこからプツリと記憶が途切れていたからだ。

「あれ…私どうやって…」

そこまで考えてからまさか!と慌てて体を起こした。そのせいで頭がグラリと揺れる。酔いは未だに健在のようだ。動くとほんの少し吐き気を覚えた。
しかし確かめずにはいられない。はなかなか開かない目を擦りながら、今、自分がいる部屋を見渡した。

「……ここ…」

見覚えのある寝室。でもホテルの寝室はどれも似たようなものだ。それにジェイに連れられて来た時点で酔っていたのだからハッキリ細かいところまでは覚えていない。
は今、自分が寝ている部屋が、夕べジェイに連れてこられた部屋なのか、それともあの少年の部屋なのか判別できないでいた。
それでもベッドには自分以外、他に誰も寝ていない事を確認して少しホっとした。朝起きたら隣には見知らぬ男が寝ている、なんてベタな状況は最悪の結果だ。

「…とりあえず良かった…」

ベッドサイドを見ても何も置いてはいない。何となくあの少年から紅茶を勧められた記憶はあった。でもあの時のカップはどこにも見当たらない。

「……名前、何だったっけ…」

それすらも曖昧ではあったものの、その少年と一緒に食事をした事をふと思い出した。ついでに誕生日なら、と言われて自分の生まれ年のワインをご馳走になった記憶がかすかに残っている。

(やだ…私ってば会ったばかりの男の子と…)

助けてもらったあげく、食事までご馳走になっていた事を後悔しながらも、最後に飲んだワインがとても美味しかった事まで思い出していた。

(あれ…でもその後はどうしたんだろう…)

あの少年がワインを注いでくれたところまでは何となく思い出した。だがその後の事はハッキリ思い出せない。

(やだ…私、何かしたかな…)

これまでも大学の友人達と飲んだ時に酔ってしまった事はあるが、ここまで記憶が抜け落ちていた事は一度もなかった。だからこそ不安になる。
とは言え、今はまず喉の渇きを潤したい。はゆっくりとベッドから抜け出した。ただ立ち上がった瞬間からクラクラする。揺れている気がするのはまだ少し酔っている証拠だろう。

「最悪…」

ワインでの二日酔いは相当きつい。はつい飲みすぎてしまった自分を恨みつつ、ゆっくりと歩き出した。リビングには冷蔵庫が設置されていて、中にはミネラルウォーターが入っているはずだ。それを一気に飲み干したかった。

(…あぁ…そう言えばジェイも水くれたっけ…)

少しづつ戻っていく記憶。ついでに思い出したくない事まで思い出してしまった。水を飲んだ後、ジェイにキスをれた光景が浮かび、は二日酔いとは別に、軽い眩暈を感じて溜息をつく。

「…まずいなぁ…」

嫌いではないが、特別好意を持っているわけでもない。それにジェイはの父であるデイビットが紹介してきた男だ。その男とキスだけとはいえ、男女の関係になりそうな流れになって来た事を思うと憂鬱になるのも当然だった。
はあっと息を吐きつつ、フラフラとリビングに向かう。その時、ふと寝室のクローゼットが開いている事に気づいて足を止めた。

「あ…」

視線を向け、小さく声を上げる。開け放されたクローゼットの中には、昨夜のパーティでが着ていた紫色のドレスがかけられていた。

(という事は…良かった…。私、ちゃんと自分の部屋に戻ってきたのね…)

自分が部屋を出た時にバスローブだった事はちゃんと覚えている。そしてそれは今も着ていた。このドレスがあるという事はどうにかして自分の部屋に戻ったという事だろう。

(もしかして…あの子の部屋で電話を借りてフロントマンを呼んだのかも…)

そんな記憶はないが、今の自分の状態ではそれすら覚えていない。とりあえず自分の部屋だという事が分かり、何となくホっとしながらリビングに向かう。当然そこにも、あの少年の姿はなく、改めて安堵の息を漏らしながら冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。それを飲みながらソファへ腰をかけた。全身がだるい。リビングにある時計に目をやれば、お昼近い時間だった。

「…はあ…帰らなくちゃ…」

出来ればこのまま二度寝といきたいところだが、今日は自分の誕生日だ。夕べのパーティほど盛大ではないが、友人などを呼んでの気軽なパーティを自宅で予定している。
デイビットは自分の知人なども招待して盛大にやろうとしていたが、は自分の誕生日にまで仕事を持ち込んで欲しくないと上手く断ったのだ。

「…いけない。夕べジェイに言うの忘れてた…」

その事を思い出したは深く溜息をついた。デイビットはの我がままを聞く代わりに、パーティにはジェイも招待する事を条件に出してきたのだ。本来なら夕べ会った時に話すはずがあんな事になった為、すっかり忘れていた。

「…まあ…いっか。忘れたって言えば…」

大学の友人もいるところへジェイが来ても困るだけだろう。それに夕べの今日で何となく顔を合わせづらい。

「…シャワーでも浴びよう…」

まだフラフラするが、いつまでもホテルにいるわけにもいかない。は覚悟を決めてバスルームに向かうと、シャワーを浴びた。体が温まったせいで余計、頭がクラクラしたものの。そのままバスルームを出ると新しいバスローブを羽織って寝室へと向かう。ただ着替えはあのドレスしかないと思うと、また憂鬱になってきた。

「はあ…こんなの着て出たら目立っちゃう」

クローゼットの中にあるドレスを見ながら溜息をつく。そこでふと違和感を感じた。

(…このドレス…クローゼットにかけたっけ?)

振り向くと先ほどまで自分が寝ていたベッドがある。ドレスは夕べ確かにこのベッドの上に脱ぎ捨てたはずだ。

「…戻ってきてからかけたのかなぁ…その辺全然覚えてない」

首を捻りながらドレスを手にすると、寝室の中にあるミニテーブルへと目を向けた。

(そう言えば…夕べ飲んだミネラルウォーターのボトルもない…片付けたっけ?)

あのボトルはジェイがテーブルに置いた、という事はかすかに覚えているが、片付けたかどうかまではやっぱり記憶にない。

「ダメだ…。暫く禁酒しようかな…」

昨夜の深酒をおおいに反省しながら、そんな事を呟く。と言っても、今夜は誕生日パーティがある。主賓がシラフで通せるほど大学の友人も甘くはない。すぐに「無理か…」と苦笑しながら、着替えを済ませた。

「このドレス、やっぱり目立つなぁ…」

鏡の前に立ち、色鮮やかなドレスに溜息をつく。こういった色やデザインもパーティ会場では映えるが普段着て歩くものじゃない。こんな昼間にパーティードレスでロビーに下りるのは躊躇われるが、ここは仕方ないと諦める。一応、家に電話をすれば迎えも呼べるのだが、こんなに酒臭くては運転手からデイビットに告げ口されてしまうだろう。それも面倒だった。
ホテル前には常にタクシーが待機しているので、この際ドレスでロビーに下りる恥ずかしさは我慢しよう、とは部屋を出た。
誰もいない事を確認してからエレベーターホールまで歩いていく。その時、ふと隣の部屋の前で足を止めた。

(確かこの部屋…よね。あの男の子に迷惑かけたし、一言挨拶した方がいいかな…)

ただ、記憶もところどころ飛んでいる状態のまま。どんな顔で会えばいいのやら分からず、あれこれ考えた結果。後日お礼に伺うことにして、そのままエレベーターホールに向かった。
暫く滞在するような事を少年が話していたのを思い出したのだ。ならば明日にでも改めて来た方がいい。

「はあ…酔っ払って倒れて、食事まで…」

次第に曖昧だった記憶を思い出すにつれ、はガックリと頭を項垂れる。あの少年にとっては多大なる迷惑だったに違いない。

(それに…あの少年、確かパパのこと知ってたんだっけ…。うわ、最悪)

思い出せば思い出すほど、恥ずかしさと後悔で頭が痛くなる。"次期大統領候補のデイビット・ホープの娘は酔っ払いの最悪な女だった"と言いふらされでもしたら大変だ。選挙の為に頑張って動いている父親の事を考えると、このままあの少年を無視するわけにもいかない。やっぱり後でフォローしておこう…と決心しつつ、はいつもの世界へと戻って行った。


△▼△


「お誕生日おめでとう〜!」

一斉に友人達が叫ぶのを見ながら、は「ありがとう」と、ホープ家の一人娘らしい堂々とした笑顔を見せた。夕べの泥酔した姿、そして今朝の二日酔いで苦しんでる姿は微塵も想像させないほどの可愛らしい笑顔だ。
夕方6時に始まったの誕生日パーティには大勢の友人達が顔を見せ、それぞれがに色々なプレゼントを手渡してくる。その一つ一つを開けては「嬉しい!ありがとう」という言葉を繰り返しながら、は庭に用意させたパーティ会場を見渡した。
並べられたテーブルの上には豪華な料理、そして高価なシャンパンやワインが何本も飾られている。友人の殆どがにプレゼントを渡した後はその前に集まり、好き勝手に酒や料理を味わっていた。プレゼントを渡す、という形式的なものを終えれば、彼らは単にパーティを楽しみに来たに過ぎない。
祝いの言葉を並べ立て、プレゼントを渡した後はサッサとテーブルの方へ歩いていく友人達。それを見ながら、心から自分の誕生日を祝ってくれる人間など、この中にはいないんだという現実をは分かっていた。
ホープ家の一人娘の友人。その肩書きが欲しくて近づいてくる人間は一人や二人じゃない。はそれも分かっていて皆と付き合っている。理由はどうあれ、大学での生活は楽しいものであり、表面的な付き合いでも友人達と騒いだりするのはそれなりに気晴らしになる。
そんな彼女でも、"本当の友達"と呼べる人間が一人もいない現実が、時々無性に空しくなる事があった。

(…こうして見てると下らない人間の集まりみたい)

偽りの言葉と愛想笑いが飛び交う中、ホープ家の使用人達が忙しそうに料理を運んでいく。それをさも当然のように手を伸ばしながら、酒を飲み、楽しげに笑っている友人達を眺めていると、何となく寂しさを感じては視線を反らした。

「――お誕生日おめでとう」
「あ、ありがとう――」

不意に声をかけられ、また新たに友人が来たのかと慌てて笑顔を作ってから振り返る。でもそこに立っていたのは大学の友人ではなかった。

「…ジェイ…さん?」
「さんはいらないと言ったはずですよ」

そう言いながら、優しい笑みを浮かべているのはジェイ・クリフだった。手には大きな花束を抱えている。デイビットから誘うよう言われていたが、夕べはその事をすっかり忘れて今日のパーティの事は話していない。にも関わらず、この場に現れたジェイを見て、は少し驚いた。

「ど、どうして…」
「お父上に聞いてね」
「…パパから…?」
「夕べあなたにワインを勧めすぎた事をお詫びしようと先ほどホープ氏に電話をしたんですよ。その時にパーティには何時に行くんだと聞かれて…」
「あ、すみません…私、夕べは言いそびれちゃって…」

苦笑気味のジェイの様子に、彼をパーティに呼ぶ予定だった事がバレていると気づいたは慌てて笑顔を作った。そんな言い訳を信じたのか、それとも最初から分かっているのか。ジェイは大人の対応で「いいんですよ」と微笑む。

「夕べはさんも酔ってましたしね。あれからちゃんと寝ましたか?」
「え、ええ…すぐ…」

笑顔で頷きながら、思い出したくない色々な出来事が再び蘇ってしまった。笑顔を取り繕うの口元が僅かに引きつる。確かにあのまま寝ていれば、見知らぬ少年に迷惑をかけることもなかっただろう。

あの変わった少年の顔を思い出しては、また罪悪感を感じる。あれから帰宅した後も少しづつ夕べの出来事を思い出してきたのだ。と言っても、それは全てではなく、断片的なもの。自分が酔っ払って少年に絡んでいた事などを多少思い出したくらいだった。
それでもの頭痛を更に悪化させるに充分すぎるくらいには恥ずかしい記憶だ。

「大丈夫?顔色悪いけど…」

黙り込んだを見てジェイが心配そうに声をかける。そこで我に返り、はいつものように笑顔を浮かべた。

「ええ、大丈夫です。それより…FBIも今は忙しいんじゃ…。あの事件も解決してないんですし」
「まあ、そうなんですけどね。あなたの誕生日くらい多少サボってもいいんじゃないかと」

おどけたように肩を竦めるジェイの言葉にはも小さく笑った。

「まあ今朝も被害者が出たんで、あまり長居は出来ないんですが」
「え…また?」
「ええ…。今朝、セントラルパークの清掃係が公園内のベンチで遺体の一部を発見して…」

ジェイはそこまで言って言葉を切った。

「…すみません。あなたの誕生日にする話じゃありませんね」
「い、いえ…。じゃあ、まだ身元は…」
「分かりません。身元の分かるものは近くにはなかった。でも…遺体の指についていたらしい高価なダイヤの指輪は発見しました」
「ダイヤの指輪…。と言う事は…また…」
「ええ…どこかの金持ちのお嬢さんかもしれません」
「…怖いわね…。ダイヤの指輪は盗って行かなかったのならお金目当てでもなさそうですし…」
「…必ず僕らが捕まえてみせますよ。だからそんな顔をしないで下さい。今日は主役なんですから」

不安そうな顔をするに優しく微笑むと、ジェはその手に持っていた大きな花束を差し出した。

「あ、これ…。さっき聞いたばかりで、こんなものしか用意出来ませんでしたが…」
「いえ…凄く綺麗。ありがとう」
「そのバラ、新種らしいですよ。花屋の店員がやたらと進めてきたもので」

ジェイは困ったように笑うと、ふと腕時計に目をやり「そろそろ行かないと」と言った。

「これから捜査会議なんですよ。こうしている間にも殺人犯が次の被害者を狙っているかもしれない」
「あ…エントランスまで送ります」
「いえ、気にしないで下さい。今日はあなたの友達が大勢来てるんでしょう?」

そう言ってジェイは、主役そっちのけで楽しんでいる若者達へと目を向けた。も友人たちへ目を向けると「ええ、まあ」と苦笑いを浮かべる。友人達は主役がいない事にも気づかずに騒いでいるようだ。

「でもあれなら少しくらい外しても誰も気づきませんから」
「そう?まあ、でも…さすがに皆、若いなあ」

酔って騒いでいる若者達を見ながら笑うと、ジェイは意味深な視線をに向けた。

「もしかして…あの中に"元カレ"なんかもいるのかな?」
「えっ?ま、まさか…」

ドキっとしたものの、すぐに笑顔で首を振る。ジェイはちょっと笑いながら「なら良かった」と大げさにホっとしてみせた。でもすぐに真剣な表情でを見つめてくる。

「…夕べ…僕が言った事に嘘はないから」
「え…?」
「それだけは信じて欲しい」

ジェイはそれだけ言うと「本当にもう行くよ」とエントランスに向かって歩き出す。見送る為、その後をも追いかけながら、夕べのジェイとのキスを思い出す。そういう雰囲気になったからといって、彼とはまだ婚約すらしていない。この話が上手く流れる方向へ持って行きたかったのに、キスだけとはいえ微妙に既成事実を作ってしまったような気がして、は内心困っていた。。

「じゃあ、ここでいいよ。車で来てるし」

エントランス前で振り返り、ジェイが言った。

「はい。捜査、頑張って下さいね」
「ありがとう。また連絡するよ」
「…はい」

その言葉に曖昧に微笑む。次に連絡が来た時にデートに誘われたら、断った方がいいのかどうか一瞬だが迷った。これまではジェイも紳士的に振る舞い、には指一本触れてはこなかった。しかし昨夜の事を考えれば今までとは微妙に違う。次に二人きりでデートをした時に、この間のような空気になってしまったら今度こそ断れないような気がしたのだ。
のその微妙な反応にも気づかず、ジェイは車に乗り込むと「今日は飲み過ぎないようにね」という台詞を残して帰って行った。の顔が多少引きつったものの、とりあえず車が見えなくなるまでは笑顔で見送る。

「言われなくても飲まないわ…」

まあ泥酔するほどには…と心の中で付け加える。ジェイの車が見えなくなると、は軽く溜息をつきながら、パーティに戻ろうとした。その時、門の方から一台のトラックが入ってくるのが見えて足を止める。見ればそれは花屋のトラックで、荷台に何か大きなものが乗っている。

(誰、からだろう…)

今夜招待した友人は殆どが顔を出している。父、デイビットの友人や知人から送られてきた花もほぼ届いていたはずだ。

(他に花を送ってくるような人なんていたっけ…)

少しだけ気になり見ていると、トラックはエントランス前で止まる。それに気づいた使用人が数人ほど走ってきた。もちろん送られてきた花を中へ運ぶ為だ。

「あ、お嬢様…いらしたんですか」
「その花、誰から?」

古くからホープ家に勤めている使用人頭のテスに尋ねる。彼女はが幼少の頃から面倒を見てくれている女性だ。テスは花屋の店員から何やら受け取り、の方へ戻ってきた。

「えっと…花に添えられていたカードには"FROM.エラルド"と――」
「えっ?」

その名を聞いた瞬間、は慌てたようにそのカードを奪う。の交友関係をだいたい把握しているテスは「そんな友人いらっしゃいましたか?」と首を傾げていたが、は返事もせずにカードを見つめていた。

(エラルド…って、もしかして夕べの…?)

その名前を見た時、確かに夕べ会った少年がこういう名前だった事を思い出す。同時に、あの少年から花が贈られてくるとは想像すらしていなかったはかなり驚いた。

"さん、お誕生日おめでとう御座います"

そのカードはそんな文章から始まっていた。それだけならありふれた祝いのカードだったろう。
を驚かせたのは、その後に続く長ったらしいメッセージだった。

"今日が本番とはいえ、あまり飲みすぎないよう気をつけてください。アルコールを大量に摂取すると脳の低下に始まり、肝機能の低下…――"

「な、何これ…」

アルコールがどれほど体に良くないか、という説明が長々書かれているメッセージカードを見て、は呆れたように目を細めた。こんなに長いメッセージカードは見た事がない。というか、お祝いのカードにこんな内容は論外だ。

「…私のこと馬鹿にしてんの?」

お祝いと言うよりは、まるで説教のようなそのメッセージを読み終えると、思わず手の中でクシャリと握りつぶす。

(そうよ…思い出した。夕べもあの子と話してて馬鹿にされたような気持ちになったっけ…)

少年のどこか人と違う飄々とした雰囲気を思い出し、また苛立ちを覚える。沸々と湧き上がる怒りを何とか抑えていると、そこへエラルドから贈られた花がトラックから降ろされ運ばれてきた。

「―――ッ」
「まあ、素敵な花!」

テスが感激したような声を上げる。確かに、エラルドから送られた花は今日誰にもらったものよりも素晴らしいものだった。

「…ブルーローズ…」

オブジェのように台に生けられた大量の青いバラ。その周りには少量の紫のバラが綺麗にコーディネイトされている。その大きさにも驚かされたが、青いバラを初めて見たは素直にその深い青色の花に見入っていた。

「お嬢様、これブルーローズですよね」
「…ええ…」
「でも確かこの花はまだ品種改良されてないのでは…」
「そうね…。きっと白いバラを何かの染料で染め上げたのよ」

一瞬驚いたが、青いバラはまだこの世に存在しないはずだ。そう考えたは冷静に答えた。それでもテスは感動しきりで花を見上げると「例えそうでも凝ってますし綺麗ですわ」と贈られた本人以上に感激している。

「どこに飾ります?これだけ素敵なのですからお嬢様のお部屋ではなく、パーティ会場にでも運ばせましょうか」

テスはそう言いながら花屋の業者に指示を出そうとした。それを見たは慌てて「待って」と呼び止める。

「それは…私の部屋に」
「え、いいんですか?お友達にも見せてさしあげればいいのに」
「いいの。酔って大騒ぎしてる人たちに見せてもボロボロにされるだけよ」
「…ああ、そうかもしれませんね。ではお部屋に運ばせます」

納得したように頷くと、テスは再び花屋の方へと歩いて行く。それを見ながらもパーティ会場になっている庭へと歩き出した。

(エラルドってば…何で花なんか…)

ふと手の中にあるカードを見下ろし、溜息をつく。確かに夕べ誕生日だと話したし、デイビットの娘と知っているエラルドがこの家に花を送る事は容易いだろう。でも成り行きで助けてもらい、ルームサービスで一緒に食事をしながら祝ってもらっただけの少年に、こんな素敵な花まで贈られるとは思っていなかった。メッセージカードは少々度が過ぎていたが、サプライズという意味ではこの突然の贈り物はにとって確かに嬉しいものだった。

(…お礼…言いに行った方がいいわよね。夕べ迷惑もかけちゃったし…その事でも行こうと思ってたんだから)

ふと足を止めて考えながら、それにしても…と手の中のカードをもう一度開く。

「あいつ…私のことからかってるのかな」

ふざけたメッセージを読み返しながら深々と溜息をつく。
その時――突然肩を叩かれ、ビクリと体が跳ねた。

「何してんだよ、ゲストほったらかして」
「…ゲイル?」

顔を上げると、大学で同じ講義を受けているゲイル・ハーパーがほろ酔い顔で立っていた。ゲイルの父親は貿易会社の社長で、本人も将来はその会社を継ぐよう教育をされている筋金入りのお坊ちゃまだ。何度か仲間同士で飲み会をしているうちに気が合い、と親しくなった関係でもあったが、最近はジェイとの事もあり、二人で会うのは避けていた。

「別に…。向こうで飲んでれば?」
「主役がいないと盛り上がらないだろ」
「嘘ばっかり。私なんかいなくても皆、楽しそうよ」
「オレはつまんない」

ゲイルはの腕を掴み、エントランスホール脇にある小部屋へと連れ込んだ。そこは客人が来た時の為に使用人が待機している部屋で、今はパーティ会場の方に借り出されているのか誰もいない。そんな場所へ連れ込まれては少し戸惑った。

「何するの?皆のところに戻らないと――」
「いなくても気づかないって。もそう思ってるんだろ?」
「だからって…」
「それより…何で最近オレのこと避けるわけ?」

不意に切り出され、はドキリとしたように顔を反らした。

「避けるも何も…そんなつもりないわ」
「そう?さっき来てた奴のせいかと思った」
「さっき…?」
「スーツ着た長身のイケメン」

ジェイの事を言っているのだと気づいたは溜息をついた。先ほど花束を抱えて来たジェイの事を何か勘違いしたのだろう。

「彼はパパから紹介されたってだけ。別に付き合ってるわけじゃ…」
「でもデートしてるんだろ?前に大学まで車で迎えに来てたらしいじゃん」

誰かから聞いたのか、ゲイルは不満気に言った。生まれつき裕福な家庭で育ち、望むものを何でも手に入れてきたプライドの高いゲイルには、モノにしたと思っていたが他の男ともデートをしている事実が許せないのかもしれない。

「彼はパパの友人の甥っ子でもあるの。嫌でも無下に断れないのよ」
「へえ。じゃあ将来のフィアンセってわけか。次期大統領になる父親を持つと、娘はやっぱり政略結婚とかさせられるんだ」
「…まだハッキリ決まったわけじゃ…っていうか何でゲイルにそんなこと言われなくちゃいけないの?」

はそう言いながら不満気に顔を反らす。その態度にゲイルもムっとしたようだった。

「オレ達、付き合ってるんだぜ?そのお前が他の男とデートなんてしてたら気分悪いだろ」
「自分だって他の子とデートくらいするでしょ?それに付き合ってるって言っても干渉しあうような関係でもないじゃない」
「ふーん。そういうこと言うんだ」
「最初に言ったでしょ?私は自由じゃないの。自分の意志で何でも決める事は出来ない…だからゲイルの事は好きだけど普通の付き合いは――」
「本当にそれだけかよ」

不意にゲイルが意味深な目でを見た。

「どういう意味?」
「…どうせ未来がないからオレとの付き合いも真剣には出来ない?そうじゃないだろ」
「…ゲイル…」
「お前が適当に男と付き合ってすぐ別れちまうのも、親に反対されるからとは別の理由があるからだろ?」

その一言にの顔色が変わった。

が誰とも本気で付き合えないのは…他に好きな奴がいるからなんじゃないか?」

キッパリと言い切られ、は目を見開いた。誰にも干渉して欲しくない、心の奥深くにしまい込んだ傷。
何故それを知っているのか、と問うように、はゲイルを見つめた。その気持ちを察したように、ゲイルは小さく息を吐く。

は覚えてないかもしれないけど…前に二人で初めて飲んだ時、が酔っ払って話してた…。凄く好きな人がいたって…でもそいつは使用人の息子で――」
「やめて!」

は泣きそうな顔で耳を塞いだ。ゲイルは驚いたように言葉を切ったが、の目に涙が浮かんでいるのを見て、溜息をつく。動揺したの様子を見て、自分の言った事は間違ってなかったと確信したようだ。

「…やっぱ、まだ好きなんだ、そいつの事。あの時はただの初恋の相手だ、なんて明るく笑ってたけど、あの時のお前は今みたいに泣きそうな顔してた」
「違う…!」
「違わないよ。まだ忘れられないんじゃないのか?そいつはお前の事を裏切ったのに…」
「………っ」

最後の一言での瞳から涙が零れ落ちた。

「その男はお前のオヤジに金を詰まれて…お前をアッサリ捨てて逃げ出した。お前は笑い話として話してくれたけど…つらかったんだろ?」
「違う…!あんな人の事なんか忘れた…」
「じゃあ何で本気で誰とも付き合わないんだよ。また裏切られるのが怖いからじゃ――」
「違うってば…!」

ゲイルの言葉に反論しながら涙を拭う。それでも涙は溢れて唇を噛み締める。過去の傷には誰にも触れられたくない。そう言いたげにジっと耐えているを見ながら、ゲイルは再び溜息をついた。

「オレは…知っての通り軽い奴だったし、いい加減な奴だけどさ…。の事は本気で好きになった…。だからにも本気で向き合って欲しかっただけ」
「…ゲイル…」
「女に対してこんな風に思ったのも初めてだったから上手く伝わってないとは思ってたけどさ」
「ごめ…ん…私…」
「いい、分かってるよ。もどうせオレが本気じゃないと思って誘いに乗ってくれただけだろ…?オレとの間に未来はないって分かってたんだもんな」

自嘲気味に笑うゲイルに、は違う、とも、そうだ、とも言う事が出来なかった。ゲイルの言った事は当たっている。だけでは決められない未来が、自分には確かにあるのだ。それでもなりに、ゲイルの事は好きだった。普段はいい加減でも、落ち込んでいる時にいつも下らないジョークで笑わせてくれるゲイルの優しさが。

「悪い。こんなこと言っても仕方ないか」
「…ゲイル…」
「…オレ、そろそろ帰るよ。祝う気分でもないしな…」
「…ごめん…ごめんね、ゲイル…」
「いいって…。それより今日の主役がそんな顔で戻るなよ?は笑顔が似合うんだから」

最後にそう言って笑いながら、ゲイルはの頬に軽くキスをして「誕生日おめでとう」と告げると、静かに部屋を出て行った。それは二人の別れを意味している。
ゲイルの姿が見えなくなった瞬間、我慢の限界とばかりに涙が溢れ出す。ゲイルを傷つけてしまった事も、彼がの心の傷を見抜けるくらいに想っていてくれた事も、全てが苦しかった。

過去の淡い恋、それで出来た心の傷。相手の男の事が忘れられないんじゃない。そんなもの今となってはどうでもいい。ただ、あの出来事があってからは誰とも本気で向き合えなくなっていた。若い頃、ひたむきに愛した人から裏切られた傷はなかなか癒えてくれず、癒えるどころか傷口が更に広がっているような気さえする。

人間なんて汚い。己の欲望を満たす為なら平気で他人を傷つける。お金に目が眩み、平然と嘘をつき、媚びてくる。
他人を妬み、僻み、見下ろしたがる。 そんな人間に囲まれている現実に、は疲れ切っていたのかもしれない。
自分を想ってくれていたゲイルを、勝手な思い込みで傷つけてしまった自分自身の事すら汚いとさえ感じる。

(私も同じ…。最低の事をした)

ゲイルの本当の想いに気づかず、彼も遊びだろう、と軽い気持ちで向き合ってきた自分の愚かさに胸の奥が痛む。もしかしたら今まで付き合った相手の事さえ、知らないところで同じように傷つけていたのかもしれない。
息苦しい現実から少しでも逃れるために利用してきた男達。
彼らも皆、自分を捨ててお金を選んだあの男と同じだ、と決め付けていたのかもしれない。

(一番汚いのは…私…)

綺麗な人間なんかいないのかもしれない。でも、それでも――純粋な心のままでいたかった。


「――あら、お嬢様?会場に戻ったんじゃなかったんですか?」

エントランスホールに出るとテスが驚いたように言った。その声に顔を上げると目の前には運ばれてきたブルーローズが見下ろしている。"不可能"とさえ言われた色を施された花。それを見ていると、不可能な事などないのだ、と言われているような気がする。
同時に、あの真っ白いシャツを着た少年の顔が鮮明に思い出された。

夕べのパーティ会場。あのモノクロの世界で、ただ一人、色をつけた少年。エラルドを見た時、視線が釘付けになった。
あの時、何故彼にだけ目がいったのか、今分かった気がした。
何色にも染まっていない白。その色を身に纏ったエラルドそのものが、には純真無垢な存在に見えて眩しかったのだ。

「"不可能なんてない"ってこと…?」

はブルーローズを見上げながら、早まる鼓動を感じて、ふと呟いた。


ブルーローズも今は改良に成功して世に出回ってますが、この時代はまだ不可能と言われてたんですよね。
青いバラは高価ですけど、目の保養になるくらい綺麗です。
しかしながら今回はLとの絡みなしですね笑


09/11.27