05―泣きたくなったら僕を呼んでね


窓の外で風に舞う木の葉を見ながら、ニューヨークも秋らしくなってきたな、とLは思った。昼間はポカポカと暖かい日もあるものの、日が落ちてくる時間には木枯らしがどこからともなく吹いてくる。その秋めいた風に外を歩く人々が首を窄めているのを見るだけで、Lまでが少し肌寒いような気がしてきた。Lはどちらかと言えば寒さは苦手な方で、こちらに来てすぐに後悔したのはその前に滞在していたロサンゼルスより、ニューヨークの冬がはるかに寒い、という事だ。
普段から殆ど野外へなど出かけないLだったが、それでも興味を引く事件などがない時は気晴らしに出かける事もある。そういう時に外が寒ければ裸足に靴、というわけにもいかないし、体温を守るためにコートなどという着慣れないものまで羽織らなければならない。普通の人が当たり前に思うような事がLは苦手だった。

(今回の事件が解決したら、どこか暖かい国にでも移動しようか)

そう思いながら日の落ちた外をぼんやり眺めていると、不意に『L』と呼ばれた気がした。振り返ると机の上に置かれているパソコンの画面に"W"というレタリングされた文字が表示されている。Lはペタペタ裸足のまま歩いて行くと、椅子にしゃがむように座りながらいつものキーを指先で叩いた。

「どうした?ワタリ」
『今、FBI捜査会議の場に着いたのですが、長官が"L"の意見を伺いたいと言っています』
「…長官…。ああ、あのごつい顔をした…」

頭に入っている大量のデータの中から、夕べのパーティで見かけた大柄の男の顔を引き出して、Lは唇に親指を当てた。
ここ最近はアメリカの政府から依頼を受ける事も多いが、それでも夕べのような公の場にLが"L"として姿を見せる事など一切ない。ただ昨日だけはニューヨークに滞在する為に用意されたホテルの中で、現大統領の息子の当選を祝うパーティがあると聞き、興味本位で顔を出しただけだ。今回の事件でも絡む事が多くなりそうなFBI長官や捜査官たちの顔や動向を資料以外で実際に自分の目で多少なりとも把握しておこうか、という小さな理由もあった。それもキルシュが"表の顔"での付き合い上、あのパーティに招待をされた事を聞いて、ふと思いついただけだった。
Lにとっては興味本位の気晴らし。ただそれだけの事だ。
といって、彼らはキルシュがLとの唯一の仲介が出来る"ワタリ"だとは思ってもいないし、彼の連れていた少年を"L"だとも気づいていない。あくまで"実業家キルシュ・ワイミーの同行者"として、ほんの10分ほど会場を覗いただけだ。当然、正装なんてものをしていないLは会場の中で浮きまくっていた。そこをキルシュに指摘されたLはすでにだいたいの捜査員達の顔や動向を頭に入れた事もあり、早々に会場を後にしたのだ。
一瞬、目が合った色鮮やかなドレスを纏う少女の事も頭の隅に残しながら――。

「…FBIは以前に私が指摘した事を考慮して捜査を行ってるのか?」

ふと脳裏に過ぎったの事を打ち消すように、Lは事件の事に思考を切り替えた。

『今朝も被害者が出た事から、本格的に捜査方針を変える方向との事です』
「…遅いな…。最初から言うとおりに動いていれば、今朝の被害は出なかったかもしれない。私の意見を聞く気がないのなら――」
『協力は出来ない、と伝えます』

"ワタリ"として変装し、捜査会議に出ているキルシュは、それだけ言うと通信を切った。これはFBIとの駆け引きのようなものだ。Lだって本気で協力しないつもりなら、わざわざ寒いニューヨークになど来る必要もない。今後、Lの思うようにFBIを動かすには最初にこういった多少の駆け引きが大切なのだ。これはLが"探偵L"として動き出した際、一番最初に学んだものだった。
当初は"表舞台に決して姿を現さない探偵"を胡散がる者も沢山いたが、今はその能力の高さを認める者も多い。それも手がけた事件を全て解決に導いてきたLの優秀さゆえだろう。

「…"セレブ・ミンチ殺人事件"、か…」

Lはポツリと呟き、パソコンの画面をインターネット上のニュースサイトに切り替えた。ベタなミステリー小説のようなタイトルを誰がつけたのか、金持ちの娘ばかりを狙い、その遺体を細かく刻み捨てる事から世間からはそう呼ばれている。
そもそもLがこの事件に興味を持ったのは、犯人の明らかなる異質性。そしてFBIがそれらの表面的なものだけを見て犯人の事をただの頭のおかしい異常者だ、と決め付けた上で捜査をしている現状が少し気になったからだ。

(この犯人は異常者に見せかけて、実は非常に冷静かつ、まともな思考の持ち主――)

Lは自分が受けた印象のままプロファイリングを行った。そしてすぐにそれをアメリカ大統領へ連絡させたのだ。それはすぐにFBI長官へと伝わった。
Lのプロファイリングに、当初は「部外者の意見を受け入れるなどFBIの威信に関わる」と聞く耳を持たなかった長官だったが、大統領の口ぞえもあり、Lにこの事件への協力を申し入れてきたのはつい数日前の事だ。
本来ならロサンゼルスでも捜査は出来たのだが、今回の事件は単純な猟奇殺人ではないと考え、実際に事件現場に足を運びたいとLは考えた。そこで急遽ニューヨークへ来る事にしたのだが、Lが来ている事はFBIには秘密にしてあった。その方が何かと動きやすいのだ。

"探偵Lは難解な事件をいとも簡単に解決し、あらゆる機関を動かせる力を持ちながら、誰も顔や本名すら知らない謎の人物"

イギリスから始まり、ここ数年のうちにアメリカ全体にまでそんな噂が密かに広まった事で、誰もがその正体に興味を抱く。むろん、そんなLを邪魔に思う犯罪グループはあとを絶たない。その為、有名になればなるほど、Lとしての自分の身を守らなければならなかった。

数台のパソコンを操作し、ネット上の色々な情報を引き出しながら、淹れたての紅茶にボトボトと角砂糖を落としていく。最後の一つを指で摘んだ時、再びパソコンの中から自分を呼ぶ声がした。

『FBIはLの意見を全て聞き入れた上で今後は捜査をしていく、と言ってます』
「…そうか」

ワタリの言葉に短く応えたLは最後の砂糖を紅茶に落とし、スプーンでゆっくりとかき混ぜる。それを口に運びながらこれまでに纏めた資料の束をガサゴソと漁り、その中から一枚をつまみ出した。そこにはこれまでに気になった事を一つ一つメモしてある。
被害者は年齢も住んでいた場所もバラバラで、拉致された場所すら特定できていない。最後に目撃された場所や状況にも共通点はなかった。

(でも逆にそこが唯一の共通点…)

Lは何かを考え込むように一度、天井を仰ぐと親指を唇にあてた。

「では捜査官達に伝えてくれ。これは行きずりの犯行ではない。被害者同士に目だった接点はないように見えるが必ずどこかに接点はある。そして被害者と犯人にも必ず深い接点がある。まずは被害者の交友関係を数年前まで遡り、徹底的に調べろと」
『伝えます』

余計な事は一切言わず、ワタリはそこで通信を切った。Lはその後もパソコンを操作して資料に目を通す。事件発生からの全てのデータをL独自の推理でまとめたものだ。

最初の事件が起きたのは一ヶ月前。ハドソンリバーで人の足の指が浮いていると通報があった。そしてハドソンリバーのすぐ近くにあるリバーサイドパークには内臓の一部。その近くには潰れかけた眼球。DNA鑑定でそれら全てが同一人物のものであると分かった。そして一緒に見つかったアクセサリーから肉片が誰のものか、という事も。
キャサリン・デイビス。16歳。ニューヨーク市警に設置されている緊急出動部隊"ESU"のトップを父親に持つ少女だった。その事から警察に恨みを持つ人物の犯行かと連日騒がれたが、次の被害者が出た事で更に謎が深まった。
二人目の被害者はレニー・ペン。19歳。レニーは大手IT企業の会長を祖父に持つ、いわゆるセレブと言われる世界の住人だった。イーストリバーで発見されたレニーもまた遺体の一部しか見つからず、キャサリンと同様の手口から同一犯の犯行と思われた。
目撃者もなく、容疑者すら浮上せず、他の遺体部分は見つからない。二人の環境は全く異なり、共通点がない事から行きずりの通り魔的事件だと警察は断定し、またこの時から捜査に乗り出したFBIも同じような結論を出した。だがLだけはこの二人にほんの些細な共通点を見い出したのだ。
遺体発見場所がマンハッタン周辺であった事。
そして二人は年齢が若いにも関わらず、かなり高価な物を身につけていた事。見つかった肉片の傍には、どちらにも二人の年齢では買えないようなネックレスや指輪が落ちていたのだ。それが高価な物であればあるほど買った店には顧客データというものが残る。結果、二人の身元はそれで照合され、後にDNA検査でも遺体の一部と一致して分かったのだ。

(今朝見つかったと言う遺体の一部…。その被害者が分かればまた一歩、犯人へと近づける)

今回、遺体の一部が発見された場所はセントラルパークだったのを思い出し、Lはパソコンにそれを打ち込んで新たな資料を作る。

「…やはりマンハッタン…か。しかし何故今回はわざわざ見つかりやすい場所に…」

これまでは遺体の一部を川にばら撒き、明らかに犯行を隠そうとしていた節がある。しかし今朝見つかった遺体の一部と思われるものはセントラルパーク内のベンチに置いてあったというのだ。まるで見つけてくれと言わんばかりだ、とLは思う。

(マンハッタン周辺に詳しい人物…そして犯行がエスカレートしている?)

犯人は今回自分の犯行を見せ付けているようだな、と思いながら、Lは温くなり始めた紅茶を飲み、顔を顰めた。
その時――不意に部屋のチャイムが鳴り、僅かにLの指先が跳ねた。おかげでカップが乱暴にソーサーへと置かれ、ガチャンと耳障りな音を立てる。

(――誰だ?)

ゆっくりと振り向き、ドアを見つめる。ここへ来るのはワタリしかおらず、そのワタリも今はFBIの捜査会議に出向いている。いくら優秀なワタリでもこんなに早く戻ると言う事はない。ホテルのサービスも全て断っているのだから、ルームサービスを頼まない限り、ホテルの従業員が勝手に部屋へくると言う事もなかった。

(…無視するか)

単なる間違いかもしれないと、Lはポットから暖かい紅茶を注ぎなおす。このフロアはビップ専用で、今日から暫くはLが貸切にしておいたが、時々酔っ払ったお偉いさんが顔パスで間違えて上がってくる事がある。昨夜のようなパーティが今日もあったのなら、いつも泊まっている部屋にフラフラと上がってきてもおかしくはない。馬鹿なビップは常にホテル側が自分の為に部屋をキープしてくれている、と勘違いしている輩もいるのだ。
だが次にチャイムが鳴った時、Lもさすがにムっとした。最初の時とは違い、連続でキンコンキンコンと不愉快な音が部屋に鳴り響く。

(うるさい…)

恨めしそうにドアを睨みながら、Lはゆっくりと立ち上がり、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。その間もチャイムは騒々しい音を響かせている。
全くどこの酔っ払いだ。そう苛立ちながらもドアの方へ歩いていくと、それまで鳴り続けていたチャイムが不意に止んだ。

「………?」

突然止まったチャイムに驚きつつも、相手が諦めたのかとドアスコープから廊下を見る。だがそこに誰かがいる気配もなく、Lは訝しげに首を傾げた。そして注意深く何か聞こえないか耳を凝らしながら静かにドアノブをまわす。その瞬間、ドアが強い力で引っ張られ、Lは一瞬で応戦体勢に入るために素早く手を離した。それと同時に目の前に突きつけられた物を見て、Lは瞬時に攻撃しようとした手を止めた。

「――Happy Birthday!To.Me!」
「……………」

静寂に包まれた廊下に甲高い声が響くのと同時に、Lは視界一杯に見えるのが自分を攻撃する為の武器ではなく、青色のバラだと分かり深々と息を吐いた。

「…あれぇ…驚かないんだ」

Lの鼻っ面に突きつけられたブルーローズの束を手で避けると、はつまらなそうに唇を尖らせた。その姿を捉えるとLの口から再び溜息が洩れる。ドアスコープから姿が見えなかったのは、が見られるのを見越してしゃがんでいた為だろう。
は黒い皮のロングコートに白いブラウスシャツとジーンズ。ブーツにキャスケットというカジュアルな格好をしており、その手には10本ほどのブルーローズを持って立っていた。

「…何の用ですか。今日はお誕生日でしょう」

明らかに迷惑そうな顔でLは言った。その空気は当然にも伝わる。少しムっとしたものの、すぐにコートのポケットから例のカードを取り出し、半目状態のLへと突きつける。

「これ、どういうつもりか聞きに来たの」
「…どういうつもりも何も…ただのバースデーカードですが」
「そんなの分かってる。私が言ってるのはこれの内容!」

シレっとした顔で応えるLにの目も釣りあがる。その機嫌の悪さを見て、夕べもを怒らせたことを思い出したLは、それ以上何と言えばいいのかと困ったように頭をかいた。

「内容…ですか。別にそのままの意味ですが…」
「何よそれ!普通こんなメッセージ、お祝いのカードに書く?!肝機能障害とか脳の低下とか、どこの医者かと思ったわ」
「面白いこと言いますね。一応私の名前も入れておいたんですが」
「…そんなの分かってるってば。本気で答えないで」
「ちょ…どこ行くんですか!」

プリプリ怒りながらもLを押しのけ部屋へ入っていくを見て、Lは酷く慌てた。昨日と違い、室内にはワタリに用意させた捜査用のコンピューター機器がある。それに今は連絡待ちの状態だ。そんなところへ部外者でもあるを入れて、万が一正体がバレたら大変な事になる。

「…どこって…廊下で立ち話もなんだから少しくらいいいでしょ?」

運良くリビング前の通路で足を止めたは、少しスネたように俯いた。その寂しそうな顔を見て、Lも溜息交じりで一度ドアを閉める。

「よくないですよ…。また酔ってるんですか?」
「…む。酔ってないわよ…。そりゃシャンパン少しは飲んだけど昨日ほどじゃ…っていうか、その事で話もあって…」
「…なんです?」

もごもごと口篭るに、Lは訝しげな顔をした。先ほどまで怒っていた様子なのに今は僅かに目を伏せ、子供のような表情を見せるの言動が、Lにはまったく理解できないでいた。

「…さん?」
「――昨日はごめんなさいっ」
「―――っ?」

何も言おうとしないに声をかけた瞬間、突然大きな声で謝罪され。ついでに頭をペコリと下げられたLは驚きのあまり固まった。

「な、何の事です?」

やっとの思いで尋ねたが、は頭を下げたまま顔を上げようとはしない。彼女の手は体の前でぎゅっと握り締められており、持っていたバラが苦しそうに見えた。
Lは暫く黙っていたが、ふぅっと小さく息を吐いてからリビングの方へ歩き出す。

「…とりあえず…片付けますので待ってて下さい」
「…え?」
「紅茶でもどうですか?」

Lのその言葉を聞き、はやっと顔を上げて戸惑うように首を傾げた。

「…いいの?」
「強引に押しかけて来たのはあなたですよ。何を今更…」

そう言いかけて言葉を切ると、Lは「ちょっと待ってて下さい」と急いでリビングにあるパソコンの電源を切り、散らばった事件の資料を片付けた。その後、を招き入れると、暖かい紅茶をカップに注いでテーブルへと置く。

「どうぞ」

Lがソファを進めると先ほどの勢いはどこへやら。はおずおずと腰を下ろし、まるで借りてきた猫のように縮こまる。困ったような、気まずそうな表情を見せるを見て、Lは色んな顔を持っている人だ、と内心苦笑した。

「それで…さっきの謝罪の意味と…私に話、というのは?」

紅茶を飲み、少しは落ち着いたかと思った頃、Lからそう切り出した。
その問いには一瞬、視線を泳がせてから目の前に座るLを真っ直ぐに見据えた。彼女の瞳からは意志の強さが伝わってくる。

「…昨日は助けてもらった上に酔っ払って迷惑かけてしまって…それを謝りに来たのと…。後はこの花のお礼に…」
「何だ、そんな事ですか」
「そんな事って…っ」

アッサリ言われた事ではムっとしたように目を細めたが、Lはその様子を見てここは素直に聞いた方がいいと判断した。

「昨日の事なら私は気にしていませんし…。その花はただの気まぐれです。なのでさんが謝る事もお礼を言う事もないですから…」

そう言いながらも、次第に目つきがキツくなっていくに気づき、答えを間違えたか?とLは焦った。普段ワタリ以外の人間とは殆ど接触しないLにとって、その他の人間とコミニュケーションをとるのはどちらかというと苦手な方だ。Lは普通のつもりでも、相手にとって必ずしもそうではない…という事を、昨夜のとのやり取りでも多少は理解した。ただ何をどう間違えているのかが分からない為、この状況もLにはどうしていいのか分からない。
当然、Lのそういった環境や心理を知らないは不満そうに目を細めた。

「…もっと他に言い方ってないわけ?」
「言い方、ですか…」
「少なくとも私は…このお花もらって嬉しかったからお礼を言いに来たのに…。それを気まぐれで送ったって言われたら少しは傷つくでしょ」

さっきと同様、少しスネたような口調。それでも素直な気持ちを口にするに、Lは確かに自分の言い方も悪かったと反省するように頭をかいた。

「…すみません。つい、こういう言い方になってしまうんですよ、私は」
「…分かってるなら直せば…?」
「…………」

ポツリと呟くに、今度はLがムっとしたように目を細める。その顔を見たは小さく吹き出した。「ごめん。冗談だってば」と笑うに、Lもそれ以上言い返す事も出来ず、黙って紅茶を口に運ぶ。

「あ、そうだ。私、お詫びとお礼をかねてケーキ持ってきて…って、いけない!廊下に置きっぱなし!」

この突然の訪問でどことなく気まずそうに足の指をもぞもぞと動かしていたLは、突然廊下に走って行くを驚いたように見ていた。全くもって落ち着きのない人だ…と内心呆れていると、はすぐに戻って来て大きな箱をテーブルの上に置く。その箱の大きさにLがギョっとしていると、は「開けてみて」と可愛らしい笑顔を見せた。

(この人はいつも笑っていればいいのに…)

の怒った顔ばかり記憶に残っているLは内心そんな事を考えつつも、目の前にドンと置かれた箱へと手を伸ばした。

「これ、私に?」
「うん。確か甘党だって言ってた気がして…」
「気がして…というと、あまり覚えてないんですか?」

の言い回しにLがふと顔を上げれば、は困ったように視線を彷徨わせている。まあ、あれだけ泥酔していれば記憶がないのも無理はないか、とLも納得した。

「…ごめん…ね。半分以上、記憶がなくて…」
「半分、ですか」
「あ、でもエラルドがケーキとワインをご馳走してくれたのはちゃんと思い出したの。ただその後の事が曖昧で…私、君に絡んでた…よね」
「ええ、まあ多少は…」

そう応えながら、半分以上も覚えてないと言われたことで、Lの脳裏にあのキスの記憶が蘇る。の様子を見ている限り、あの前後の事は全く覚えていないんだろう…と、Lはどこか釈然としないものが込み上げてきた。人生初めての経験をして、Lも多少は動揺したのだ。それを相手が全く覚えていないというのは何となく納得いかない。

「ごめんなさい…。あんなに酔った事なかったんだけど…。ホント迷惑かけちゃって…」

は本気で申し訳なさそうな顔をしている。確かに夕べは酷く酔っていたし感情の起伏も激しかった。初めて会った人間に怒鳴られた事などなかったLにとっては、かなり刺激的な夜だったといえる。――まあ他にも刺激的な出来事はあったが。

「いえ…元々酔っていたあなたに更にワインを飲ませたのは私なので私にも責任はあります」
「そんな事は…」
「いいえ。なのでそのブルーローズはお詫びといった意味も含めて送らせて頂きました」

そう言って彼女の手にあるバラを指差すと、は驚いたようにLを見て、すぐに「そっか…」と小さく息を吐く。その表情が寂しげで、Lはまたしても答えを間違えたか?と思ったりもしたが、がすぐに笑顔を見せたので少しだけホっとした。

「じゃあ、おあいこって事でそのケーキ、食べない?」
「はい。ありがとう御座います…というか…。今日は誕生日パーティがあったのでは?」
「あったわよ。でも…早めに終わらせちゃった」

エラルドに早く謝りに来たくて…と笑顔で応えると、Lは不思議そうに首を傾げた。

「私の為に…ですか?」
「た、為ってほどじゃ……それより早く食べよう」

は照れ臭そうに視線を反らすと、箱を開けて中から大きなピンク色のケーキを取り出した。

「…クリームがバラの形、ですね」
「うん。家に来てくれてるシェフが毎年、私の為に焼いてくれるローズケーキなの。今年はゲストに出さないで持ってきちゃった」
「…いいんですか?そんなケーキを私なんかと食べて」
「いいの。酔っ払ってる人たちに出すより、ケーキが好きなエラルドに食べてもらった方がシェフも喜ぶわ」

は持参したピクニック用のプラスチックナイフでケーキを切り分けていくと、持って来た紙の皿へと乗せてLの前に置いた。慣れていないのか、切り分けられたケーキは心なしか形が崩れている。

「ごめん、私こういうのやった事なくて…」
「まあ…ホープ家のお嬢さんならそうでしょうね」

そう言ってからLは少しだけ後悔した。が悲しそうな顔で目を伏せたからだ。そんな顔を見ていると、夕べ感情をぶつけるように怒っていた彼女の事を思い出し、Lは「すみません」と小さく謝った。

「また嫌な言い方をしてしまいましたね」
「え?あ…ううん。本当の事だから…」

笑顔で誤魔化すと、はケーキを一口食べて「形は崩れちゃったけど美味しいよ」と微笑む。それすらもどこか寂しげでLは気になった。

「いただきます」

すすめられるがまま、ピンク色のクリームをフォークで掬い、ぱくりと口にすれば、ふわりとバラの香りがしてその後に甘みが口内へと広がっていく。

「美味しい…」
「でしょ?うちのシェフのオリジナルで見た目も可愛いし私のお気に入りなの」
「ありがとう御座います。美味しいケーキを私の為に持って来て頂いて」

Lが素直にお礼を言うとはどこか嬉しそうな笑顔を見せて一緒にケーキを食べ始める。やっと明るい表情を見せたに、Lは心のどこかでホっとしていた。
は家の事や親の話を出されると途端に悲しげな顔をする。夕べもそうだった。その時が言っていた内容もLはよく覚えていた。ようするには家の事情で何もかも決められて身動きがとれず息苦しい…そういう事なんだろう、とLは一人納得する。

「…そう言えば…昨日あんなのあったっけ?」

Lがあれこれ考えている間、は会話を探すようにパソコンの方へと目を向けた。

「ああ、あれは仕事で使うので運ばせました」
「…仕事って…エラルドまだ18歳って言ってなかった?」
「…………」

つい正直に答えてしまったLは内心しまった、と思った。ただ、この場合どう誤魔化せばいいのか考えていたものの、もそれほど本気にしていないのか、すぐに別の話題を振ってくる。

「…昨日って言えば、私気づいたら自分の部屋で寝てたんだけど、もしかしてエラルドがフロントマン呼んでくれたの?」
「え?ああ…まあそうです」
「やっぱり。ありがとね…っていうか私ちゃんと自分で戻った?」
「いえ。さんは途中で眠ってしまったので私が部屋まで抱えて――」
「えっ!」

淡々と説明するLの言葉を聞いたは突然大きな声を出した。その声に驚いて目を丸くするLに、は「嘘、でしょ」と確認してくる。この場合、彼女の言う「嘘」とはどういう意味だろうと思いつつ「いえ、本当ですよ」と応えれば、の頬が少しずつ赤くなっていった。

「…ご…ごめん…。私寝ちゃったんだ…。じゃあ…部屋まで運んで寝かせてくれたのは…」
「ええ、私です。ついでにドレスもベッドへ投げ出したままだったのでクローゼットにかけて――」
「えっあれも…?そうだったんだ…」

Lの説明にガックリと項垂れたは深い溜息をついた。彼女の様子を見て、やはりその前に自分がした事を覚えていないようだ…とLは僅かに目を細める。は申し訳なさそうに「他に何か迷惑かけた?」と尋ねて来た。しかし今ここで「私にキスまでしましたよ」と告げるのは何となく気が引けた。もしそれを言えば彼女が本気で落ち込んでしまいそうな気がしたのだ。

「いえ、特に何も」

Lはを気遣い、そう応えておいた。Lにとって初めてのキスではあったが、相手が何も覚えていないのであれば敢えて言う必要もないと思っていた。体の関係を持ったわけでもなく、どっちにしろこれ以上関わる事もない相手なのだ。かなり酔っていたとはいえ、あんな行為を恋人でもないLに自分がしてしまったなどと彼女が知る必要もない。

「――ご馳走様でした。とても美味しかったです」

Lがケーキを食べ終えてからそう言うとは嬉しそうに微笑む。昨日会ったばかりの女性とこうして向かい合いながらケーキを食べるのも、気まぐれで祝いの花を送るのも今日で最後だ、とLは思っていた。

(そろそろ帰さないとワタリから連絡が来るかもしれない)

ふと時計を確認したLは、そろそろ捜査会議も終わった頃だろうと考えていた。時間を気にするその空気を敏感に感じ取ったのか、も食べ終えた皿を片付けながら腕時計に目をやる。

「あ…じゃあ私そろそろ帰るね」
「そうですね。もう遅いですし…」
「うん…」

そう言いながらもは僅かに目を伏せて残りの紅茶を口に運ぶ。彼女の仕草はまだ帰りたくないとでも言っているようにLには見えた。でもまさかそんな事はないだろう、とすぐにその考えを打ち消す。

(…まずいな。これ以上彼女をここに置いておくわけには…でも今日の彼女はどこか様子が違う)

いつワタリから連絡が入るか、とパソコンの方を気にしながらも、Lはなかなか立ち上がろうとはしないの様子が気になった。昨日会ったばかりのの事をよく知っているわけではないが、それでも彼女の元気がない事くらいは分かる。今日の誕生日パーティで何かあったのか?と思うのと同時に、そこで初めて彼女が何故わざわざ自分に会いに来たのかという事を考えた。昨夜の謝罪と花のお礼を言いに来たとは言われたが、この部屋の事は知っているのだから電話一本でも事足りるのではないか。人と普通に接点を持った事のないLにはそんな風にしか考えられなかった。

さん」
「…え?」
「どうしました?元気がないようですが…」

感じた事をそのまま口にすると、はハッとしたように顔を上げた。それでもすぐに笑顔を見せるとそんな事はないと首を振る。だがは再び時計を見ると「帰らなくちゃ」と自分に言い聞かせるように立ちあがった。

「…大丈夫ですか」

何となくの様子が気になって尋ねた。それでもは「何が?今日は酔ってないよ」と笑う。

「いえ…そういう意味ではないんですが…」

とは言ってみたものの、これ以上に深入りする理由もなければ、Lの立場上、色々と問題もある。の父は大統領候補であり、当選確実と言われている人物だ。実際そうなるだろうとLも確信している。そして、そうなった場合、大統領となったデイビットは探偵Lとの関わりも増えてくる事はまず間違いない。その娘と個人的に知り合いになれば後々まずい事にもなりかねないのだ。Lとしては面倒な事は極力避けたい所だった。

「じゃ…本当に色々とありがとう、エラルド」
「いえ、私こそ、ご馳走様でした」

ドアのところまで送りに出ると、Lは当たり障りない言葉を口にする。は笑顔で首を振ると「もう…会うこともないと思うけど…」と小さな声で続けた。

「そうですね。お元気で」
「……うん。エラルドもね」

はそう言って軽く手を振ると踵を翻す。エレベーターホールの方へ歩き出すその後姿を見送りながら、これで二度と会う事はない…とLは部屋の中へ戻ろうとした。

「――エラルド!」

その時、突然名を呼ばれたLは、条件反射なのか、それとも呼ばれるのを待っていたのか。すぐに廊下へと飛び出した。

「…何ですか?」
「……また…会いに来てもいいかな…」
「…………」
「エラルドと一緒にいると……何となくホっとするの」

そう呟くように言ったは笑顔なのに、その瞳にはかすかに涙が浮かんでいるように見えた。心細くて今にも泣き出してしまいそうな、子供のような顔。そんなを見ていると、Lは自然と自分の生まれ故郷を思い出した。あのホームで、見捨てられたような気持ちになりながら迎えが来る事を望んでいた自分の顔と、今のの顔が重なって見えたのだ。
面倒な事は避けたい。自分の生活に他人を入れたくない。
を拒む理由は沢山ある。なのに――何一つ、口に出来なかった。

「泣きたくなったら、いつでも――」

代わりにありえない台詞を口にし、その一言での顔が泣き笑いに変わったのを、Lはホっとしたような気持ちで見ていた。


09/11.28