違う、そうじゃない×××

とある日のゾルディック家敷地内。試しの門が開き、この家の番犬ミケはふと視線を前方へ向けた。騒々しい声が近づいて来る。ひとりは艶やかな絹糸の如き長い黒髪に長身の男、ゾルディック家長男のイルミ、もうひとりは淡い琥珀色のふんわりとした髪を胸まで伸ばした女の子、イルミの幼馴染であり、婚約者でもあるだ。幼い頃、親同士が決めた婚約だった。しかしふたりは未だに兄妹のような関係から抜け出せないでいる。ふたりは仕事を終えて戻って来たようで、正門を守っているミケは相変わらずの無表情でふたりを凝視しているが、ふたりはミケのことなどお構いなしに会話を続けながら歩いて来た。

「何言ってるの。屋根があるのはベランダだよ。だからの部屋はベランダ」
「は?誰が決めたの?そんなこと。うちのはバルコニーだし」

このふたりはミケが見かけるたびに、何かしらどうでも良いネタで言い合いをしている。仲がいいのか悪いのか。ミケにとってそんなことはどうでもよい。自分の餌じゃないと分かるや否や、再び定位置で門の方を凝視する。その横をふたりが未だに言い合いをしながら通り過ぎた。

「だから言ってるだろ。バルコニーっていうのはオレの部屋みたいに屋根がないものを言うんだよ。の部屋には屋根があるからベランダ」
「…ベランダって響きがイヤなの!あ、じゃあテラスってことにしようかな」
「ねえ、って時々バカだよね。テラスは一階にあるものだろ。部屋の床と同じ高さで出入り出来る部分をテラスって呼ぶんだよ。の部屋は5階だろ」
「はあ?頭の出来をどうこう言われたくないんですけど。イルミだってたまに天然入るじゃん」
「何それ。自然のままって意味だろ、天然は。やっぱり頭悪いよ、
「はいそれー!そういうとこが天然ボ・ケ!なのよ」
「オレのどこがボケてるんだよ」

心外だなという表情を出しているようだが、イルミのそれは眉が僅かに動いた程度でしかない。は笑いながら「気づいてないんだ」とイルミを見上げた。幼い頃からイルミという婚約者を見て来たは彼が自分の天然さに気づいていないことこそが天然だと思っているし、またそれが面白いと思っている。

「仕事先でも寝るならホテル取ればいいのに地面に穴掘って土ん中で寝ちゃうし、自分の針人間に名前とか付けて呼んでるし、嫌味を言っても真顔でド正論かましてくるじゃない」
「分からないな。それのどこがボケなの?」

右手の拳を顎に当てながらイルミが首を傾げる。

「わざわざホテル取って寝るほどじゃない、ただの仮眠だし。あと名前なんてつけてない。一号、二号ってつけただけ。そうした方が分かりやすいし命令しやすい時もあるからね。あと嫌味だと気づいてるけど、が分かってないようだからちゃんと答えてあげてるだけだよ」

やはり顔は至って無表情。は「そういうとこね」と呆れたように笑う。決してバカにしたいわけじゃなく、むしろはイルミのそういうところが面白くて好きなのだが、当のイルミは不満そうな口ぶりで持論を展開した。

「そういうとこって?」
「だーからーそういうとこも!もぉーイルミの分からず屋」
「それはだろ。だいたい話の趣旨がズレてる時点でがおかしい」

またしても言い合いを始めたふたりの声が、ちょうど執事室から戻ってきたキルア、そして邸宅まで送って来た執事ゴトーの耳にも届いた。イルミとはふたりがいることも意に介さず、互いに罵りあっている。キルアはその光景を見て"またかよ"と内心苦笑した。キルアが物心ついた頃からふたりが一緒にいるところを見て来たので、こうした光景も日常茶飯事だ。あまり喜怒哀楽を見せず、常に冷静でいて冷酷非道な兄が、僅かにでも感情を見せる相手がいるとするならば、このだけというのも気づいている。子供の頃から暗殺者になる為の教育や指導を受けて来たイルミの歪んだ愛情が、自分だけじゃなく、という幼馴染の婚約者にまで向けられていることを唯一気づいているのはキルアだったかもしれない。ふたりは昨日から隣国へ暗殺の仕事へ出かけていたはずだ。婚約者である前に、もゾルディック家の遠い親戚であり、本家をサポートする為の厳しい訓練を受けているので、仕事の内容によっては同行する場合があった。

「私はおかしくないもん――あ、キル!」

イルミの遠慮のない発言に言い返そうとしていただったが、ふと気配に気づいてキルアの方へ視線を向ける。イルミは猫目のような黒い瞳を弟に向けると「キル。こんなところで何してるの」と言いながら、後ろに控えている執事のゴトーを見た。その目はどこか非難めいた空気を漂わせている。視線は合わせず、ゴトーは黙ったまま一礼し「お帰りなさいませ。イルミさま」と声をかけた。言われなくとも分かっていると言いたげに。

「キル、また執事室で遊んでたんだ」
「…別にいいだろ?仕事はしてる。その帰りに寄っただけだし」
「その時間でやれること、あるよね」

イルミはジっとキルアを見つめる。これ以上言わなくても分かるだろ?と言いたいのか、その表情のない瞳の奥底でジワジワと淀んだオーラを滲ませながら、キルアが降伏するのを待っているかのようだ。しかし、その重苦しい空気を変えたのは、やはりだった。

「聞いてよ、キル。イルミったら私の部屋にあるのはベランダだって言ってきかないの」
「…は?ベランダ?」

何のことやらサッパリ分からないキルアが、その大きな猫目を丸くする。時々このイルミの婚約者は訳の分からないことを口にするので、キルアですら首を傾げたくなることが多々あった。キルアとふたりで、イルミの弟でキルアの兄であるミルキに悪戯をし、独房に入れられた時も平然とした顔で眠っていた神経の図太さは自分と似たものがあるのを感じているキルアだが、彼女のおかしな拘りを向けられたと時にきちんといなせるのはイルミしかいないかもしれないなと思っている。ただふたりに甘い空気などないので形ばかりの婚約者だろうと、この時はまだそう思っていた。

「まだ言ってるの、
「だってベランダは嫌だもん」
「…じゃあもうバルコニーでいいよ」

根負けしたのか、イルミが溜息交じりでさじを投げたように肩をすくめるのを見たキルアは少々驚いた。話の内容はよく分からないが、イルミが他人の言うことを素直に受け入れるという姿はこれまで殆ど見たことがない。少なくともキルアはいつも言い負かされて来た。イルミの言葉は正論だからだ。なのに恐らくの屁理屈であろう意見に、イルミは渋々とはいえ、それを甘受したのだろう。キルアは一瞬、背後に控えているゴトーと視線を合わせた。相変わらず表情のないゴトーも内心ではキルアと同じ気持ちだったに違いない。眼鏡を直すふりをして、その奥にある鋭い目をほんの僅か、和らげたのをキルアは気づいた。

「ほんと?バルコニーでいいの?」
「だからいいって言ってるだろ。ほんとは頑固だな」
「イルミだってそうでしょ。ほんとは納得してないクセに」
「はあ…納得してもしなくてもはそうやってオレに絡んで来るよね」

溜息をつきながら、風に吹かれ、頬にかかったその艶やかな黒髪をイルミは指で避けながら、の乱れた髪もさりげなく直してあげている。結局、この婚約者には敵わないということなのか、その表情のない顔でも口元は僅かに弧を描いていた。まるで駄々をこねる愛しい恋人を見つめるように、その漆黒の瞳をかすかに細める。キルアの瞳には、それが優しい眼差しのように映った。

「つーかさ…ひとつ聞いてい?」
「なーに?キルア」

色々思うことはあれど、とりあえず気になったふたりの会話に出て来るもの。ベランダやバルコニーがどうしたのかとキルアはに尋ねた。するとはその白い頬をぷくっと膨らませた。

「あのね。今夜イルミと映画を観る約束をしたの。それで夕飯の後にエントランスまで回るの面倒だしベランダから行くよって言うから、私の部屋は"ベランダじゃなくてバルコニーだよ"って言ったら、イルミが"バカなの。あれは屋根があるからベランダだよ"って言いだして――」
「だって実際そうだから」
「む。さっきはバルコニーでいいって言ったクセに、やっぱり納得してないじゃない、イルミってば」
「あれはに合わせてあげたんだよ。オレは大人だからね」
「人を子供みたいに言わないでよ」
は子供だろ。どう見ても。間違ってるのに認めようとしないところなんか特に」
「自分だってそうでしょー?」

「…………」

またしても下らないことで言い合いに発展したふたりを見て、キルアの口元が引きつった。このふたりに関わってはいけなかったのだと頭が理解した時、キルアは再び言い合いを始めた兄とその婚約者から、そっと距離を取ったのだった。

「あ、キル、行っちゃったけどいいの?」

イルミに喰ってかかっていたがふと振り返る。イルミも気づいてはいたが、ちゃんと屋敷に入ったのは確認したので特に問題なしと判断した。

「いいよ。今はキルより、コッチの方が大事」
「え、何が?バルコニーの話?」
「………」

まるで伝わっていないと気づき、イルミの目が僅かに細められる。大きな瞳を更に大きくしながら不思議そうにイルミを見上げて来るは、やはりまだあどけないように見える。比較的、根明とは言い難いゾルディック一族の中で、は間違いなく"陽"の類に入る珍しい存在だった。それはキルアも同じであり、イルミにはふたりが少し眩しく映るのだ。

「ベランダでもバルコニーでもどっちでもいいよ。が好きな方で呼びなよ」
「あ、面倒くさいって思ってるでしょ」
「思ってないよ。と話してると飽きないし」
「…え」
「オレは結構好きだよ。がどうでもいい話にムキになってくるとこ」

相変わらず表情は変わらないままのイルミに、の眉がぐっとひそめられた。どうでもいいと称されてしまったことは怒りたいが、好きだと言われたことは嬉しい。そんな複雑な顔だった。

「バカにして…」
「え、してないけど。好きだって言っただろ」

またしてしても真顔で好きだという言葉を口にしたイルミに、の頬がほんのり赤くなる。これまで婚約者でありながらも兄妹のように接していたが、実はイルミのことをこっそり想っていたとしては心臓に悪い一言だった。

「す…好きってどのくらい?」
「どのくらい?」

今度はイルミが眉を僅かにひそめた。

「だから…あ、あるでしょ。大きさと言うか…好きの度合いというか…」
「ああ、そういうこと」

モジモジしながら説明するを見下ろし、イルミはうーんと空を仰いだ。自分の中で計り知れないの存在は、イルミの心の大半を占めて来た気がする。仕事以外で心を満たしてくれる、そんな人間は他にいなかった。――才能あふれるキルアが生まれるまでは。

「キルの次、かな」

パっと頭の中に浮かんだことを口にした。ふたりに対する愛情をはかったことはないし、好きの大きさとは違うかもしれないが、今大切に育てなければいけないのは弟のキルアであり、イルミがキルアを大事にしていることは彼女も分かっている。なので気持ちの大きさ的に分かりやすい例としてキルアの名を口にしただけだった。だが、この言葉足らずの一言が大きな誤解を生む。

「は?」
「キルの次に大切な存在だよ」
「………」

の大きな目が半分以下に細められた瞬間だった。自分の名前よりも真っ先に弟の名前を出されたことに沸々と怒りが湧いて来る。バチンという乾いた音と共に「イルミのバカ!」という怒鳴り声が庭に響く。はそのまま脱兎のごとく走り去り、その場に残されたイルミは赤くなった頬にそっと手で触れた。オーラもこめない普通の平手を喰らっただけなので痛くはないのだろうが、少しだけ驚いたといった表情だった。

「……何で怒ったんだろう」

僅かに首をひねりながら、イルミは屋敷へ入って行く。キルアを送り届けた後、それをこっそりと見ていたゴトーは大きく頭を振りながら執事室へと戻って行った。

「誰かイルミさまに女心を教えてやってくれ…」