03-1:ソファに日溜りが落ちていた [ sofa ]




平凡 × ト × 平穏


「あー、いい匂いだ」

ブレッドが焼ける匂いにつられ、カノイがキッチンへ入って来る。はサラダを作りながらも、手早くコーヒーを入れると未だ眠そうな顔のカノイに手渡した。

「お、サンキュ」

カノイは砂糖やミルクも入れず、そのままカップに口付ける。満足そうな笑みを浮かべている彼に、は軽く笑うと、

「それ飲んだら顔、洗って来て下さいね。っていうかシャワー浴びて来て下さい。お酒臭いです」
「分かってるって。――あ、今日は何のブレッド?」

バスルームに向かう足を止め、カノイが尋ねると、が「ウインナーとハム、それに玉ねぎにチーズです」と作業をしながら応えた。それを聞いたカノイは満足そうに微笑むと、安心したようにバスルームのある二階へと歩いて行く。
はその気配を感じ、僅かに視線を向けた。

"そろそろ表舞台に出てもいい頃なんじゃないか?"

先ほどカノイにそう言われた時、ほんの一瞬心臓が跳ねた。彼には自分がクルタ族の血を引いていることも幻影旅団との間に何があったのかということも一切話していない。警察に言ったのと同じように自分は被害者だということにしてある。だからこそ身を隠してると言っても不自然には思われなかったし、カノイも協力してくれていた。まさかが身を隠してる本当の理由が、警察に見つかりたくないから、だとは思ってもいないだろう。保護プログラム中、勝手に姿を消してしまったのだから警察が探してないとも限らない。悪いことをして追われているわけではないにしろ、一度自由を知ってしまったとしては、もう施設での隠れた生活は嫌だった。
それに――。

(って、今更何を期待してるんだろう……バカみたい)

ふと脳裏に浮かんだ鋭く光る漆黒の瞳。未だに忘れることの出来ない強い視線。そして優しい、手――。もう四年も前のことなのに、はハッキリと覚えていた。

「みんな、元気かなあ……」

たった一日という短い時間でも、幻影旅団と過ごしたあの時間は色褪せることのない思い出となっていた。同時に、迎えに来てくれなかった、という痛みにも。

「―――誰のこと?」

「……わっ!」

突然背後から声をかけられ、は飛びあがらんばかりに驚いた。

「きゅ、急に声かけないで下さい、カノイさん!」

振り向けば、頭にバスタオルを乗せたカノイが笑いながら立っている。シャワーを浴びたせいで先ほどよりもスッキリした顔のカノイは、黒のシャツに着替えていた。

「悪い悪い。何か泣きそうな顔してるから声かけづらくてさ」
「……そんな顔してません」
「してたって。こーんなに目が下がってた」

カノイは指で両目尻をぐいっと下げて見せる。彼の切れ長な猫目が下がったせいで変な表情になり、は思わず噴き出した。

「私、そんな変な顔してません」
「いやいや。してたよ。捨てられた仔猫みたいな顔だったかな」

カノイは顔を元に戻すと、からかうように言って来る。しかしは"捨てられた"という言葉にドキリとして、すぐに顔を反らした。

「いいから早く朝ご飯食べちゃって下さい。今日は晴れてるしお店、開けるんでしょ?」

焼き立てのブレッドをオーブンから取り出し皿に乗せ、サラダと一緒にテーブルに置く。バーのカウンターがふたりのダイニングテーブル代わりだ。

「あ~そうだな。今日は天気がいいから開けようかな。――いただきまーす」

窓の外に視線を送りながらもカノイは勢い良くブレッドに噛みついた。この店の開け閉めはこんなカノイの気まぐれで決まる。

「なら準備しないと。フードの材料とか買い足さないと足りないですし」

もカノイの隣に座り、サラダにたっぷりとお手製のドレッシングをかける。こんな些細な朝食の時間も、にはたまらなく楽しかった。

「あー。そうだっけ。じゃあメシ食い終わったら一緒に買い出し行くか?」
「私は店の掃除をしてます。買い出しはカノイさん一人で行って来て下さい」
「えーっオレ一人かよ?」
「車で行けば沢山買っても乗せられるじゃないですか」
「そうだけどさー。掃除はミリヤに頼めるだろ」

ミリヤとはこの店のバンドでピアノを弾いている女性だ。24歳のカノイより二つ年下の22歳。なかなかの美人でピアノも上手い。彼女も店を開ける日は早めに来て準備を色々と手伝ってくれている。

「ミリヤさんだけに掃除任せるなんて出来ませんよ。ただでさえここに居候してる私のこと、よく思ってないんですから」
「そんなことないだろ。のことは妹みたいに思ってるってこの前言ってたし」

呑気に笑うカノイに、社交辞令に決まってるじゃない、と内心溜息をつく。鈍感、とつい口から出てしまいそうだ。から見て、ミリヤはカノイに好意を持っているように見える。というかカノイのことが好きなんだろう、と思う。そう気づいたのはがここに住むと決まった日だった。バンドのメンバー内で彼女だけが反対していたのだ。

「若い男女が一緒に住むなんて良くないわよ」

なんて言いながら、倫理的にどうだとか道徳心がどうだとか、色々と理由をつけては最後まで反対していた。しかしカノイは親もなく住む場所もないを放っておけないと「幸い部屋は二つあるし」と余っていた部屋を快く提供してくれたのだ。結局、そう言われるとミリヤも何も言えなくなり、最終的には渋々賛成した形だった。

(……ミリヤさんがあんなにアピールしてるのにカノイさんってホント女心が分からないと言うか……)

美味しそうに最後の一口を頬張るカノイを横目で睨みながら、は溜息をついた。
と言って自分も男女の恋愛に詳しいわけじゃない。悲惨すぎる子供時代を送っているせいで臆病にもなっていたし、未だにトラウマとして心に傷が残っている。男性恐怖症とまではいかないが、年配の男性客が傍に来ると全身に鳥肌がたつこともあった。座長が連れて来た大勢の"客"を思い出すのだ。だいぶ記憶が薄れてきてはいるが――人間の防衛本能かもしれない――全身を触れられた記憶が肌で覚えているのだろう。自分で望んだことではないにしても出来れば自分のしてきた全てを、ここの人達にだけは知られたくないと思う。汚れた、忌わしい、自分の過去だけは――。

「ご馳走さま。今日も美味しかった」

ポンと頭に手を置かれ、はハッとしたように顔を上げた。視線を向ければカノイが笑顔で立っている。

「な、なら良かったです」

何とか笑顔を見せても立つと、食器をシンクへと運んだ。カノイも同じように皿を下げて来ると、

「ホント、は料理上手いよな。女優だったお母さんに教えてもらったとか?」
「いえ…母は忙しかったし……」
「あ~。のお母さんはスターだったし、そりゃ忙しいか」

カノイは楽しそうに話しているが、母親の話題を出されはかすかに手が震えた。思い出したくもなかった母の顔が浮かんでは消える。もうこの世にはいないのに、母親に対する恐怖や怒り、過去の痛みはなかなか消えてはくれない。

「どうした?急に黙り込んで……って、あ……悪い。お母さんの話は辛いよな……」

カノイは勘違いしたのか、申し訳なさそうに頭を掻く。殺された母親のことを思い出させてしまったと思っているようだ。真実を知らないカノイに、の方が罪悪感を感じる。は気にしないでと明るく返し、簡単に洗い物を済ませた。

「あー何か腹いっぱいになったら眠くなって来た……」
「ちょっと!ダメですよ。買い出し行くんでしょ?」
「行くけど……少し昼寝しちゃダメか?」
「ダメです」
「即答かよ」

ソファに再び横になろうとするカノイを引っ張り起こせば、苦笑交じりで突っ込まれる。カノイはオーナーというわりに呑気で気まぐれな性格だった為、毎日こんなやりとりをしていた。

「んじゃあ我が歌姫の命令ってことで買い出しに行くとしますか」
「誰が歌姫ですか。それより私がいないからってまた寄り道しないで下さいね。今日はCDショップに寄るの禁止します」
「え、マジ?」
「大マジです。だってカノイさん、何時間でもCDショップに居座るじゃないですか。ホント音楽オタクなんですから」

以前カノイと一緒に買い出しへ行った際、CDショップに寄っていいか尋ねられついて行ったことがある。欲しいCDを買って終わりだと思っていただったが、カノイは店中のCDを視聴しまくり二時間は動かなかったのだ。その後もマニアックなCDばかり置いているショップや中古を扱うショップにまで連れまわされ、戻った時には足がぱんぱんだった。カノイは興味のある曲を見つけると周りが見えなくなる。はその時初めて彼の"本質"を知った気がした。

「いやオタクって……。音楽好きって言ってくんない?せめて愛好家とかさ」

当のカノイはのきつい一言に苦笑した。しかしは澄ました顔で、

「言葉変えればオタクです。部屋のCDどれだけ増やす気ですか。あれじゃそのうち寝る場所なくなりますからね」
「そん時はの部屋で寝かせてくれよ。元々オレの寝室だったわけだし――」
「却下」
「はやっ!」

の素っ気ない言葉に苦笑しつつ、カノイは出来るだけ急いで戻ると言って買い出しに出かけて行った。

「はあ。ホント、どこまで本気なんだか」

呆れながら、本当に寝る場所がなくなりそうな部屋を思い出し溜息をつく。このビル自体カノイの持ち物で二階には居住スペースがあるのだが、間取りはリビング10帖、ベッドルーム8帖、そして3帖ほどの小部屋がある2LDK。お世辞にも広いとは言えない。
なのでが一緒に住むと決まった時に、カノイは寝室を彼女に与え、自分はリビングで寝起きしている。それは申し訳ないから自分はリビングでいいと最初に言ったのだが、

「いやリビングは仕切りもないしオレも出入りするし女の子は何かと困るだろ?」

と言ってきかなかったのだ。確かにそれは助かっている。着替えも安心して出来るし寝る時も一人でゆったりと眠れる。しかしそのせいでカノイの私物は全てリビングに移された。――小部屋にはの私物を置いている――

その為、彼の趣味である大量のCDでリビングの半分が埋め尽くされ、そこでは落ち着いて眠れないのか、カノイは時々店のソファで寝てしまうことがあった。

「やっぱり私の部屋の方に少し置いてあげないとダメかな」

店の掃除をしながら、は溜息をつく。こんな些細なことで悩んでいる自分が、は少しだけおかしかった。昔とは違う、平穏な毎日。それが悲惨な過去を背負っている少女にとっては何よりも幸せな時間だった。

「……カノイさんじゃないけど私まで眠くなってきちゃった……」

不意に出た欠伸に、つい苦笑する。
掃除の手を止めソファに腰をおろせば、窓から暖かい日溜まりが落ちていた――。


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