序章にすぎない

こんなはずではなかった、と頭の隅で思う。この男と出会ってから今日まで上手くとまでは行かなくとも、どうにか逃げ延びて来た。偶然――かどうかは分からないが――行った先で遭遇しても、誘われる前に何かと言い訳や理由を作り、その場から速やかに消える。そうすればこの男と深く関わらないで済むのだ。この、いつ何時なんどき、殺人衝動が沸き起こるか分からないような男、ヒソカと――。

「やあ、偶然」
「…ヒソカ?」

仕事を終えて上から逃亡するためにビルの屋上へ行くと、会いたくない人物が振り向いて微笑む。その妖艶な光を宿す瞳の奥に、尽きることのない欲望が渦巻いていることを、私は知っている。

「偶然?嘘ばっかり――」
「うん、う・そ」

悪びれることなく笑うヒソカを見て溜息を吐き、私は「さよなら」と言って歩き出そうとした。その私の腕をヒソカが掴む。その瞬間、手刀で攻撃を仕掛けると、その手もあっさり拘束された。

「怖いなあ。その殺気…本気だったでしょ」
「アンタに手加減するほどボケてない。放してよっ」
「やっと捕まえたのに放すと思うのかい?このボクが?」

月明かりを背に笑むヒソカは、神秘的でいておぞましいほどに美しい。ぞくりとしたものが背中を走り、つい視線を反らしてしまった。油断した。まさか仕事の後を狙われるなんて。きっと逃走ルートを先読みして私がここに来ることを見越していたんだろうと思うと妙な悔しさが沸いた。

「じゃあ私をどうする気?殺す?」
「まさか。ボクが壊したくなるのは強者だけさ。はまだまだボクには敵わない」
「…む」
「そこが可愛いと思ってる」

弱者扱いをされて思わず睨むと、ヒソカはニッコリ微笑んだ。珍しく邪気のない自然な笑顔で、私の心臓が思わぬ反応を示した。

「あれ?頬が赤くなった。もしかして照れてる?」
「そ…そんなわけないでしょっ?放してよ!じゃないと追手が――」

ターゲットを殺したことで仕事は終えた。ターゲットに辿り着く前に邪魔をしてきた護衛どもは片付けたものの、ターゲットを殺した後に生きてた者は放置してきたのだ。追いつかれる前に逃げ切れる自信があったから。この男に捕まるまでは――。

「皆殺しじゃなかったんだ」
「仕事終えたなら無駄な殺しはしない。ヒソカみたいに快楽殺人者じゃないもの」
「酷いなあ。ボクだって相手は選ぶさ。それに君の兄貴ならきっと皆殺しにして煩わしい追手なんか最初から来ないようにするんじゃないか?」
「私とイルミは違う――」

と言いかけた時、その煩わしい追手が屋上へなだれ込んで来た。ボスをやられたことで全員が怒り狂っている。その手にはあらゆる武器が握られていた。

「もう…ヒソカのせいで逃げ遅れたじゃないっ」
「うーん…それは悪かったけど…ボクも君との時間は邪魔されたくないから…仕方ない。ゴミ掃除、手伝うよ」

言った瞬間、ヒソカは念を込めたカードを今にも発砲しようとしている男達に投げつけた。アッと言う間に首と胴体が切り離されていくのを仲間の男達が唖然とした顔で見ている。

「コ、コイツら、念能力者だ…!」

言うや否や我先にと逃げ始めた男達に向かって、私も自身の力で残りを始末しようとした時だった。どこからともなく飛んで来た無数の針が、逃げ出そうと走って行く男達の後頭部に次々に刺さっていく。声もなく地べたに伏した男達を見て、私は溜息をつき、ヒソカは苦笑を漏らした。

「嫌だなぁ…もうお迎えが来ちゃったよ」
「はあ…迎えなんて頼んでないけど」

ウンザリ顔で振り向くと、屋上を囲む柵の上に予想通りの人物が立っていた。長い黒髪をサラサラと風になびかせ、相変わらず無表情のまま月光を浴びている姿は、さながら死神のようにも見える。

「余計なことしないでよ。イルミ」
「せっかく迎えに来たのにモタついてるからさ。しかもヒソカと仲良くね」

イルミは淡々とした様子で柵から飛び降りると、僅かに顔をしかめながらヒソカを睨んでいる。イルミとヒソカは元々敵同士というわけでもなく、互いに必要な時に協力し合うような関係だ。でもその関係が壊れそうになることがある。それは、まさに私が絡んだ時に他ならない。

「な…仲良くなんかしてない!私は捕まってたのっ」
「捕まってたなんて酷いなあ。これからデートに誘おうと思ってただけだよ」

ヒソカはくつくつと笑いながら手にしていたカードをクルリと回す。その瞬間、カードが赤い一凛の薔薇へと変わった。その薔薇を私の髪に挿す辺りは相変わらずキザな男だ。そしてその瞬間、肌がピリついたのは、イルミの殺気が駄々洩れているからだろう。見れば綺麗な黒髪が総毛だっているようにふわついている。

「やだなぁ、イルミ。そんな殺気向けられたら興奮しちゃうじゃないか」
「前に…言ったよね。に近づいたら許さないって」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「………」

目に見えない殺気の応酬に、私はほとほと疲れて来た。誰よりも変人な快楽殺人者と、誰よりもマイペースな職人殺人者の間に立たされた私は、この後の展開が手に取るように分かる。イルミの感情のない視線が私に向いた時点で、どうやってこの場から逃げるかを思案していた。

、オマエにも言ったよね。ヒソカには近づくなって」
「だから私から近づいたわけじゃないってばっ。仕事を終えてここに来たらいたんだもん」
「すぐ逃げればいいだろ」

珍しくイルミが怒っている。普段はこんなに感情を表すことはしないのに。いや、顏だけ見ると全然分かんないけど、駄々洩れの殺気でかろうじて怒っているのだけは分かる。ヒソカはヒソカで楽しそうにしながら「はボクとデートしたいから逃げなかったんだよ」なんてうそぶいた。イルミの首がギギギっと油の指してないロボットみたいな動きでヒソカの方へ動いた。

がオマエとデートしたいはずないよ」
「そそそうだよ…!私はこれから用事が――」
「オレと一緒に帰るんだよ。家出は許さない」
「……家出?」

イルミの発言に私はぐっと言葉に詰まった。笑みを浮かべていたヒソカが「、家出したの?」と目を丸くして驚いている。

「あれ。ヒソカ、知らなかった?は一昨日から家出中でね」
「そうなのかい?」
「そ、それは…まあ…」
「それまた、どうして」
「え、えっと…それは…」

あの家を飛び出した理由。それは兄イルミの束縛が激しいからだ。でもそれを本人の前でヒソカに言えばまた面倒くさいことになりそうだ。イルミはとにかくシスコン、そしてブラコンだ。それも私と、弟のキルアにだけ執着する。キルアを溺愛するのは分かる。ウチの中で一番才能がある後継者候補だから。でも私はあの家で唯一の妹だからという理由だけで溺愛され、束縛される。そんなの納得いかない。でも…"彼"がそんな私を助けてくれると言った。だから私は――。

「ああ。イルミの束縛が嫌なんだね、は」
「そ…(んなにハッキリ言わなくていいのに)」

楽しげに笑うヒソカに、イルミの猫目のような黒が不機嫌そうに細められた。

「ボクならを束縛なんてしないのに。自由にさせてあげるからボクのところにおいでよ」
「…い、いい。遠慮しとく…」

ヒソカまで私に執着する理由は分からないけど、イルミを刺激して遊んでるとしか思えない。ここはサクッとお断りしておいた。それ抜きにしても変態の餌食になるつもりは、私もさらさらない。

「ははは。フラれたね、ヒソカ」

ニッコリ微笑むヒソカも怖くてぶんぶん首を振れば、表情のない顔でイルミが笑う。今度はヒソカの目が細められた。

「だいたい何でヒソカはオレのに近づいて来るのさ」
「オレのって言葉は聞き捨てならないけど…そうだなぁ。ゾルディック家唯一のお姫様はやっぱり興味をそそられるよね」
はオマエの好み・・じゃないだろ」
「違う意味で、タイプだけどね」
「……死にたいの?」

艶やかな唇に弧を描くヒソカを見て、イルミの殺気がますます暴れている。ヒソカも笑みを浮かべてはいるが似たようなものだ。殺伐とした空気がふたりの周りを囲んでいる。互いに一歩も退かないといった様子だ。よし、ここは一先ず避難しておこう…と足音を忍ばせ、先ほど逃走用に使おうと思っていたロープの場所まで下がっていく。ヒソカもイルミも睨み合いを続けていて、私の距離がふたりから離れていることに気づいていない。

「どうしたらを諦めてくれる?」
「どうしたらイルミは許してくれるわけ」
「許すはずないだろ。とのデートなんて」
「でもきっとは行きたいと思ってるはずさ」
「は?まさか。思うわけないだろ」

ヒソカの言葉には大いに反論したかったが、ここで何か言ったら逃げようとしているのがバレてしまう。ぐっとこらえつつ、ふたりを見ながら足だけを動かして遂にロープが結ばれている場所に辿り着く。しかし最悪のタイミングでイルミがこっちを見た。

はヒソカとデート……って、あれ。何か遠くない?」
「えっ?あ、あの…ふたりの殺気が肌に悪いから非難したというか…」

と笑って言いながら瞬時にロープを握り「ごめん!イルミ!」と謝罪だけして屋上から勢いよく飛び降りた。このまま一気に下まで降りれば逃げ切れる。そう思った時だった。不意に何かが身体を覆ったかと思うと、見えない力で上に引きもどされて行く。そして屋上よりも空高く舞い上がった私は引力に導かれるようにヒソカの腕の中へと吸い込まれた。

「……は?」
「おかえり、

真っ逆さまに下へ落ちていたはずなのに、気づけばヒソカの腕に抱かれている。それもお姫様抱っこという形だ。そこで気づいた。私の身体を引き戻したモノの正体に。

「ヒソカ…バンジーガム使ったでしょっ!」
「やだなぁ。が落ちてケガでもしたら大変だと思って助けたんだよ」

シレっとした顔でヌケヌケと助けたと言い切るヒソカに、私はわなわなと身体が震えた。せっかくふたりから逃げられると思った矢先の逆戻り状態に、言葉も出ない。そしてイルミは相変わらず表情のない顔をこっちへ向け、手には――。

「ちょ、ちょっとイルミ!針は投げない……で…ひゃぁ!」

カカカッと無数の針が地面に突き刺さるのを、気づけば見下ろしているのは、ヒソカが一気に跳躍したせいだ。しかも私を抱きながら。

「早くを下ろしなよ、ヒソカ」
「危ないなあ。君の兄貴はほんと短気だよねぇ」
「お、怒らせてるのヒソカでしょっ?やめてよね、イルミが怒ると面倒なんだからっ…ひゃぁっ」

言ってる矢先からどんどん針が飛んでくる。今度はヒソカもカードで応戦しつつ「このまま逃げようか、ふたりで」と妖しい笑みを口元に浮かべた。

「聞こえてるよ、ヒソカ」
「聞こえるように言ったんだよ」

こ、このふたりの戦いに巻き込まれたくはない。こうなったらヒソカのバンジーが及ばない距離まで瞬時に逃げるしか方法はない。でも、どうやって?そう思った時だった。私の視界に突如バルーンのようなものが飛び込んで来た。これは――。

、遅いから迎えに来た」
「クロロ!」

まるで救世主のように颯爽と気球に乗って現れたクロロは、ヒソカに抱かれている私を見て怪訝そうに眉をひそめた。

「返してもらおう。彼女はオレの女だ」
「…へ?」

言った瞬間、私はヒソカの腕の中からクロロの腕の中へ瞬間移動をした。しばし呆気にとられていると、クロロの右手に本が開かれた状態で持たれている。きっと彼の能力に違いない。そして屋上で睨み合っていたふたりはと言えば、さすがにポカンとした顔で私とクロロを見上げていた。

「クロロ…何のマネ?」
「そうだよ。ボクらのを横からあっさりかっさらう気かい?」
「まあ、盗むのが本業だからな」

クロロが淡々と応えると、イルミはムっとしたように目を細めたが、ふと隣に立ったヒソカも睨みつけた。

「…っていうかヒソカ。僕らじゃなくてオレのだから」
「やれやれ…君のシスコンには困ったものだなぁ。目下のボクたちの敵はクロロだろ?」
「それもそうだね」

イルミとヒソカは何故か分かりあっている。とても厄介だ。それにクロロも加わったらもっと厄介だ。

「ク、クロロ…あの…あまり兄を刺激しないでくれる?後でどんな目に合うか…。それに私、泊るとこはお世話になってるけどクロロの女になったつもりは…」
「じゃあ早くオレのものになれ。そしたらイルミが追いかけてこれない場所までさらってやる」
「それは許さないよ、クロロ。オレの妹を返してもらう」

イルミの手に再び針が握られ、一瞬で気球に向かって飛んで来る。バルーンに穴を開けて落とす気だ。私は咄嗟にクロロから離れると、バルーンに繋がっているロープの一本をナイフで切った。ここまでで0.02秒。墜落する前に切ったロープを握り締め、私は一気に下へと飛び降りた。

…?!」

クロロもイルミの針に気を取られて一瞬、動きが遅れたようだ。気球から飛び降りた彼が気づいた時には、すでに私は宙ぶらりんになったロープから飛び降りて暗闇へと身を潜めていた。もちろん絶を使って。

「ふう…危なかった…」

あの3人の戦いに巻き込まれたら、いくら何でもキツい。

「それにしても…何でヤバい男にばっかり追いかけられるの?まさかクロロまでそうとは思わなかった…。相談した時家出しろって言ってきたのはそういうことだったんだ…」

そうと分かればもう頼れない。ここは逃げるが勝ちだと闇に乗じて、その場を去った。

一方、に逃げられた3人はしばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。

「はあ…また逃げられたか。残念」
「…クロロのせいだよ。何なのさ、オレの女って」
「オレに相談してくれた時点で好きだということだろう」
「は?何それ。クロロ、バカなの?」
「バカなのはオマエだろ?妹に熱上げすぎだ。悪いことは言わないから早く妹離れした方がいい」
「他人に言われたくないよ。これはウチの問題だし」
「まあまあ…ケンカするなよ、ふたりとも。はボクが美味しく頂くよ」
「「変態は黙れ」」



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