予想外の逃走劇

1.

太陽が顔を隠し、黒いカーテンのような闇が空を覆う頃、私はいつもの仕事着を身につけた。夜に紛れる上下黒のピッタリとしたパンツスーツは多少の攻撃にも耐えうる生地で出来ている。この服は念能力者の手で作られていて、頑丈な割に着心地は軽くとても動きやすい。デザインも自分の好みを伝えれば考慮してくれるところも気に入ってる。

「出かけるのか?」

長い髪をゴムで縛りながら寝室を出ると、リビングのソファに座って読書をしていたクロロがふと顔を上げた。彼は世界一有名な盗賊集団のリーダーということだけど、イルミに仕事の依頼をしてきたり何かと懇意にしているようだ。以前、イルミが受けた彼からの殺しの依頼を私が手伝った時に紹介された。恐ろしいともっぱら評判の幻影旅団のリーダーが、まさか自分達と歳も近い男とは思わなかったから、意外すぎて驚いたのは覚えてる。今回、イルミのことを相談したら「家を出て来い。オレがかくまってやる」というので言われた通り、藁にも縋る思いで家を出て来た。私に寝床を提供してくれた恩人でもあるし、イルミを敵に回すことを恐れない、数少ない人間でもある。

「ちょっと仕事に行ってくるね」
「仕事?依頼が入ったの?」
「うん、仕事用のアドレスに依頼があったから」

これは本当のことだ。ただし、私専用ではなく、この依頼はゾルディック家全員で共有しているサーバーに来ていたものだ。こっそり依頼がないか調べて誰もチェックをしていない新しいメッセージの中から適当なのを見つけた私は、受けた後ですぐにその依頼だけを削除しておいた。もちろん家族にバレないようにするためだ。

「そこからイルミにバレることは?」
「ないと思う。まあ依頼人が家族の誰かに連絡したらバレるけど、普通は一度依頼を受けたら向こうから連絡してくることはないし」
「そうか。なら行き先を教えておけ。帰りは迎えに行ってやる」

クロロはそこで本を読んでいた目を私に向けた。冷酷非道と聞いていたけど、意外と面倒見の良い性格らしい。

「場所はここ。でも迎えなんていいよ、悪いし…」

ターゲットのいる住所と地図の書かれたメモをクロロに見せると、彼は一瞥したあとでもう一度私を見上げた。会った時から思っていたけど、吸い込まれそうなほど大きな黒目が魅力的だ。でも私はもうひとり、そんな瞳を持っている男を知っている。

「万が一ということもある。迎えに行くよ」
「え…?」

クロロはその端正な顔立ちにやわらかな笑みを浮かべている。普通の女であれば必ず恋に落ちてしまいそうなほどの魅惑的なそれは、男の色香すら漂わせている気がした。きっと女に困ったことなんかないんだろうなと思う。そんな男が何で小娘の家出に、ここまで親身になって協力してくれるんだろう。何か裏があると疑った方がいいのかな。イルミだけじゃなく、お父さんも「幻影旅団には関わるな」と以前、兄弟全員に言い聞かせていたし、やっぱり危険なんだろうか。悪い人と思えなくて、つい頼ってしまったけど安易すぎたかもしれない。

「何を考えてる?」

黙ったままの私に気づき、クロロが僅かに眉根を寄せた。彼の真意を聞いてみたいけれど、今は時間がない。

「ううん…じゃあ…お願いしようかな。あ、ならターゲットのいるビルの傍に駅があるの。そこで待ち合わせしない?」
「分かった」

クロロは頷くと、再び本に視線を戻し「行ってらっしゃい」と片手を上げた。
この後――クロロの言う"万が一"が起きた。依頼主が娘の私じゃ不安に感じたのか、ゾルディックの人間に確認メッセージを送り、イルミに居場所がバレることになったのだ。




2.

最悪だ――。頭の中でメリーゴーランドの如く、その言葉がぐるぐる回っていた。ただ仕事をしに行っただけでヒソカに見つかり、ついでにイルミまで迎えに来てしまった。最後はクロロが何かを察知したように気球で迎えに来てくれたものの。何故か私に気がある素振りを見せた。ならば彼には頼れない。その場から逃げ出した私は、近くの駅まで行き、そこから適当に電車へ飛び乗った。

まさかヒソカに続いてクロロまでが私に触手を伸ばしてくるとは思わなかった。やたらと親身になってくれたのは男の眼で見られていたせいだったらしい。危なかった。まともな恋すらしたことがない私には男の下心なんて分からないし、男の欲望を満たせるほど、私は男を知らない。
暗殺者が女で、ターゲットが男だった場合、殺せる距離まで近づきたい時に最も有効なのはハニートラップだ。私はお母さんから当然のようにやり方を叩きこまれてはいるけど、男という生き物を理解しているわけじゃない。

私の身近にいた男と言えば兄弟たちだけで、執事や父さん以外で大人の男と言えば、イルミしか私は男という生き物を知らない。イルミは私のことを世間知らずだって言うけど、そう育てたのはイルミなのだ。だからヒソカやクロロが私の何に興味を持ったのか全く分からないし、男女のことに疎い私は彼らをどう対処したらいいのかが分からない。だから考えるより先に逃げてしまう。家族以外の人間には必要以上に近づいたことすらない。
イルミが望んで、イルミにそう、育てられた。彼以外の男など知らなくていいというように。私も前まではそれでいいと思ってた。でもそれが普通じゃないと気づいた時、私は激しく動揺した。

「ここまで来れば大丈夫かな…」

電車を途中で降りて、無人の小さな駅の改札を出るとホっと息を吐いた。家から持って来た荷物などは、私の念能力"ドールハウス"の中に置いたままだったのが幸いだった。

「参ったなァ…今夜はどこで寝よう」

随分と都会から離れたさびれた町で降りてしまったことを後悔しながら、誰も歩いていない道を歩き出す。本当なら今夜もクロロの用意してくれたホテルでヌクヌク寝られると思っていただけに、この現実が悲しい。

「イルミってばこうなること分かってたからクロロにも近づくなって言ってたのかな…」

男が女をそういった対象で見る生き物だというのは知っていても、現実にそれを自分に向けられると、思ってた以上に動揺してしまう私がいた。仕事で自分から仕掛けるのは得意でも、あれは仕事と思うから演じられるだけだ。

(まあ…ハニートラップはイルミの猛反対を受けて一回しかやったことないけど…)

ふとあの時の尋常ではないイルミの怒りを思い出し、ぶるっと身震いした。あれはお母さんに練習と称して初めてハニートラップを仕掛けさせられた時だ。誘惑し、近づいてからターゲットを殺せと言われただけなのに、それを後で知ったイルミがお母さんと珍しく口論になったほど怒り狂った。あの時は驚いたし怖かったけど、イルミに愛されてる証拠のような気がして、ほんとは嬉しくもあったのに、何でこんなことになっちゃったんだろう。そんなことを思い出したら、イルミから逃げて来たはずなのに、もうイルミが恋しくなった。この矛盾的な気持ちは何なのか。本当は気づいているのに気づかないふりをする。イルミから逃げて来た理由を――。

「はぁ…まずは寝床確保かなぁ…。"ドールハウス"で寝てもいいけど、あまり念を使いすぎると疲れちゃうし…」

私の能力は燃費が悪い。異空間を作り出すにはそれ相応の力を使うからだ。

「パソコンでこの辺の宿でも探すか…」

一度"ドールハウス"へ入り、普段着に着替えると荷物の中からパソコンを取り出す。ついでにケータイを持って外へと出た。するとすぐにケータイが鳴りだし、ハッと息を飲む。
まさかイルミ?それとも――。
恐々とケータイのディスプレイを確認すると、そこには想像した人物ではなく、思わず笑顔になってしまう相手の名前が表示されていた。

「もしもし、キル?」
『あーやっと繋がった!』

その電話は弟のキルアからだった。咄嗟に逃げ出してきたからキルアには何も言うことなく家を出て来てしまった。きっと心配かけたに違いない。

「ごめんね、キル。お母さんとお父さん、怒ってる?」
『いや、怒ってるって言うより、めちゃくちゃ心配してる。母さんはずっと泣いてて、父さんはじっちゃんと一緒にを探すって家を出たきり戻って来てねえし』
「えっ!そうなの?」
『でもまあ、その分じゃ兄貴からも上手く逃げてるっぽいな』
「あー実はさっき見つかったんだけど…」
『…っマジで?』

驚くキルアに先ほどあった経緯を話すと、キルアの爆笑する声が通話口から駄々洩れてきた。閑静な暗闇に、キルアの明るい声が響くミスマッチな空間が出来上がる。

『やっべぇな、その状況!つーか、に付きまとってる男ふたりって何者?』
「え?あー…まあ…ちょっとヤバいくらいには…強い連中というか…」

キルアにどう説明していいものか分からず、言葉を濁す。ふたりのことはキルアに話さない方がいい気がした。何でも興味を持つキルアが、クロロやヒソカといった強者に興味を持てば、どういう行動に出るか分からない。

『へぇ。まあ兄貴と付き合いのあるような連中じゃ相当ヤバいってことだけは分かる』
「う、うん、そうなの…」
はマジで変な男からモテるよなー無駄に』
「む、無駄にって何よ」

思わず言い返したものの、他にモテた記憶はない。その辺をキルアに尋ねると、キルアは苦笑交じりでこう言った。

の知らないとこでストーカーまがいの男達がいたってこと。まあ、これ兄貴に口止めされてるからオレから聞いたってのは内緒にしろよ?』
「え…イルミに口止めって…」
『新入りの執事の中にもいたし、街中でを見かけて見初めた男連中が、屋敷の周りをうろついてたのも知らないだろ』
「えぇっ?し、知らない、そんなの…」
『だろうなぁ。そいつら全員、兄貴に消されちゃってるから』
「……は?」

まさに寝耳に水。青天の霹靂。私の知らないところでそんな事件が起きていたなんて。
しかも気づかないうちにイルミに守られてたなんて――。
そう言ったらキルアが呆れたように溜息をついた。

『守られてたって思うの思考がすでにヤバいって。兄貴はを独り占めしたいだけだろ』
「え…それは知ってるけど…」
『知ってんのかよ。まあ…はオレ以上に兄貴に洗脳されてるっぽいしなー。だから今回の家出はオレもマジで驚いた』
「洗脳って…。ただホントに針を刺そうとするから咄嗟に逃げただけだし――」

と、そこまで言って言葉を切った。あのイルミの針がこのキルアの頭の中にあるのを私は知っているからだ。キルアは当然気づいていない。それはキルア自身を守る為だと知ってるから、私も本人には何も言えずにいる。いくら才能の塊でも、キルアはまだ12歳だ。
世界にはまだまだ想像もつかないような強者が大勢いて、もしそんな奴らと相対した時、気の強いキルアが無茶なことをしないとも限らない。イルミはキルアの性格を良く分かってると思った。

「と、ところでキルは私に何か用事だったの?それとも心配してかけてくれただけ?」
『ん?あ!そーだった!』

やっと本題を思い出したのか、キルアは大きな声を上げると、意味ありげに実はさぁと前置きをしてから言った。

『家出、オレもしてきたんだよねー』

キルアのその一言に、今度は私が声を上げる番だった。




3.

暗闇に乗じて絶で気配を消されたら、さすがのオレでも見失った。それににはあの能力もある。アレに入られたらその瞬間から絶と同じ状態になるんだから見つけるのは困難だ。
というよりは…絶対に無理。

「あーあ。逃げられちゃったねぇ」
「…ヒソカのせいだよ」

呑気に笑いながらトランプを切っているヒソカをジロリと睨む。クロロはとっくに姿を消してどこへ行ったか分からない。を追いかけたのかもしれないけど、が本気で逃げれば誰にも追えないのは分かってるから、クロロでもきっと無理だろうな。
それにしてもがクロロを頼るなんて、思ってもいなかった。まあ、さっきの様子じゃ少しも男の下心を分かってなかったってとこだろうけど…気分は良くない。

「ボクのせい?違うだろ。君が彼女に怖いことしようとしたからじゃないか」

ニヤニヤしながら向けて来るヒソカの視線が不快だった。彼女の家出の原因をこの男に話したことは失敗だったかもしれない。でも聞かれたことに、つい正直に応えてしまう性格なんだよな、オレって。

「別に本気で木偶にしようとしたわけじゃない。がヒソカみたいな男に騙されないよう、ちょっとだけコントロールしようと思っただけなのに」
「イルミはちょっとだけのつもりでもからすれば完全に操られるって思ったんだろうし、そりゃあ逃げるよね」
「………」
「それにボクは彼女を騙したりなんかしないよ」
「どうだか」

これ以上、ヒソカと問答していても仕方がない。踵をひるがえして再び屋上の柵を超える。とりあえず一度自宅に戻ることにした。

「とにかく、もうには近づかないでよ。次、もしデートに誘ったりしたら殺すから」
「うーん…それは難しいなァ。それにボクは君が今まで消して来た連中みたいに簡単に消されるつもりはないよ」
「あっそ。でも忠告はしたから」

それだけ言って屋上から飛び降りる。このビルの連中が殺されたことで生き残った誰かが通報したんだろう。パトカーのサイレンが近づいて来る。下へ着くと同時に集まって来た野次馬をかき分け歩き出したオレの横を、数人の警察官が走って行く。

「…ご苦労なことだね」

この事件は迷宮入りだろうに――。
いや、ゾルディック家が関わった仕事は全て、真相が暴かれることはない。永遠に。

「さて…次はどこを探そうかなぁ…」

軽く首を捻りながら、の次の行動を予想する。その時、オレのケータイが鳴った。

「母さん…?」

また"を捕まえたの?"という催促の電話かと思ったけれど、母さんから聞かされた内容は弟のキルアまでが家出をしたというものだった。に続いてキルアまで――。
ゾルディック家に、初めて不穏な空気が流れ始めたような気がした。



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