1刻...戻し屋



時計――それは一日の時刻を知る方法。古くは太陽の動きで測り、紀元前1500年頃には日時計なるものが発明された。進化した現代では機械仕掛けのものが多く、デザインも用途に合わせて選べるようになり、大きさも大小様々なものがある。そんな時計を売る店が、ここパドキア共和国デントラ地区にもあった。祖父から受け継いだ時計屋を、今は孫の女主人がひとりで経営している。一見何の変哲もない普通の店に思えるが、その時計屋には一風変わった裏メニューなるものがあった。これはそんな裏メニューを求めて訪れる客と、女主人の物語である。







「ここか…」

自宅のあるククルーマウンテンから街に下りて来た男は、目的地を見つけて足を止めた。艶やかで絹糸のような長い黒髪に、すらりとした長身。細身ではあるが鍛え抜かれたしなやかな筋肉は服の上からでも分かるほどだ。闇を思わせる黒く大きな瞳は只者ではない空気を漂わせている。男が見上げているのは繁華街から少し外れた住宅街にポツンと佇む時計屋。外装は木造のモダンな造り。祖父の代からあるというその店も現在は今風の店構えになっていた。

木彫りの看板には浮き文字で【ときはかり・ゼンマイ屋】と書かれている。そして留紺とめこん色の暖簾にはお洒落な砂時計の絵が描かれていた。黒髪の男は意を決してその暖簾をくぐる。漆を施した木造りの引き戸は上部分にガラスをはめ込まれたシンプルなもので、開けるとカラカラと軽い音を鳴らした。

「…へぇ」

店内に入った男の目にまず入ったのは、壁一面に飾られた色々な国の変わった時計たち。壁時計に柱時計、からくり時計などの変わったものもある。置時計に至っては飾り棚にぎっしりと置かれていた。中には男がこれまで目にしたことのない変わったデザインの時計もあり、それほど時計に興味のない男でも少しは楽しめた。いくつか手に取って眺めるくらいには。知らないものを見た時の刺激や好奇心は暗殺一家の長男として生まれた男にも当然のようにあった。知らないことは知りたくなる。だが――今の彼には時間がなかった。

「いらっしゃいませ」

手にした置時計を棚へ戻した時だった。不意に声がして男は振り向いた。奥の扉からカウンターに出て来たのは自分と同じ年頃の女。彼女が"ゼンマイ屋"の女主人だろう。目も覚めるような赤色の長い髪を後ろで結いあげ、可愛らしい姫桜をあしらった茜染めの着物を着こなしている。

「今日はどのような物をお探しですか」

女はニコリともせず、男に尋ねた。僅かに警戒した空気を感じる。とはいえ、男も愛想がない方だがこの女主人も相当なものだ。髪の色と同じルビーのような赤色の瞳と、左目下のホクロ、赤い紅をさした形の良いくちびるが、なかなかに色っぽいと男は思った。細身で小柄。この女主人が本当に自分の望むものをくれるのだろうか。

「欲しいのは時計じゃなくて"裏メニュー"なんだ。予約はしてないんだけど今すぐは無理かな。あ、急いでるんだ。出来れば今日がいいんだけど」

女の前に歩いて行くと、開口一番に男は自分の目的を告げた。女は僅かに眉をひそめて何やら男を凝視し始めた。裏メニューの条件に合うかどうかを見ているのだろう。男はそれ以上何も言うことはせず、黙って女の返事を待った。

「ゾルディック家の方なんですね。条件はクリアしています。では、こちらに」

女はそこで初めて笑顔を見せた。その不意打ちの笑みに男の心臓が音を立てる。これまで感じたことのない音。男は戸惑うように自らの胸元へ視線を下げた。体調がおかしいというわけではない。なのに普段では起こりえない現象に男は戸惑いながら、目の前の女主人を見る。女が何故自分のことをゾルディック家の者だと分かったのか不思議ではあったが、男の祖父がこの店の元店主と仲がいいことは聞いている。きっと祖父と似たような空気を感じたのかもしれない。

女主人は艶のある笑みを浮かべながら男を店の奥へと促した。それまでの冷たい印象の顏が、ふわりと柔らかく微笑むその様は何とも艶っぽい。廊下をゆっくりと進んで女主人は木彫りの扉を開けた。中は狭い個室になっていて、真ん中にソファが二つ、間にパソコンの乗ったテーブルが一つ置かれているだけだ。女主人は男に手前のソファを進めると、一度更に奥の扉へと消えたが、すぐにカップの乗ったトレーを手に戻って来た。

「今日は肌寒いので準備が整うまで温かい飲み物をどうぞ」
「…あまり時間がないんだけど」

男はついそう言っていた。特にせっかちな方ではないと自負しているが、今回は違う。男は珍しく焦っていた。見た目はそう見えなくとも、つい急かしてしまうくらいには。しかし女主人はくすりと笑い「"今"の時間はあまり問題ではありません」と男を見つめた。その血の如く赤い瞳は男の焦燥感を一瞬で消すほどに落ち着く空気を持っている。男はそこで、自分がとてつもなく間の抜けたことを言ってしまったと気づかされた。

「それも…そうだね」

女に言われて逸る気持ちが急に落ち着いた気がして、男は素直に頷いた。香ばしいコーヒーの匂いに誘われ、前に出されたカップに手を伸ばし、ゆっくりと味わうように一口飲む。冷えた体が喉から胸にかけてじんわりと温かくなったことで、男はいつもの冷静な自分を取り戻した。ざわざわと胸の奥を痛めつけていた嫌な音も止んだ気がする。
女は契約書とペンを男に差し出すと「ここにお名前と、戻りたい日時、場所をお書き下さい」と微笑む。指示された場所に男はさらさらと名前や明確な日時を書き込んでいく。終わるとそれを女主人へと渡した。

「ありがとう御座います。やはりイルミ様でしたか」
「オレのこと、知ってたの」
「ゼノ様から何度かお話を伺ったことがあります。容姿も何となく聞いていたもので」
「へえ。どんな話?」
「とても…お強いとか。それに…」
「それに?」
「いえ。余計な話でした」

女主人はそう言って微笑むと、それ以上そのことについては語らなかった。

「"裏メニュー"の値段はご存じですか?」
「うん、聞いてる。最低で五千万、最高で二億ジェニーだよね」
「その通りです。イルミ様の場合は数時間前ですので五千万ジェニーとなります。先払いになりますがよろしいですか?」
「うん」
「では、こちらに振り込みをお願いいたします」

女主人はイルミの方へパソコンを向けた。画面には銀行口座が映し出され、振り込むだけとなっている。イルミは迷わず自分の口座から五千万ジェニーを女主人の口座へ振り込むと、振込完了の画面を映したパソコンを女主人の方へ向けた。

「これでいい?」
「はい。ありがとう御座います。では――ゼノ様のお孫様なら知っているとは思いますが、確認の為に今一度、お話しさせて頂きます。よろしいですか?」
「うん、いいよ」

今のイルミに先ほどのような焦りはない。快く承諾すると女主人は「ありがとう御座います」と軽く笑みを浮かべてから説明書きを胸元から取り出し、イルミへ見せた。

「大切なのは戻りたい過去や時間、日付が明確であること。戻る日や場所に深く関係のある物を持っているのなら、なおいいです。なくても構いませんが、そうなると多少のタイムラグが発生する場合がありますので、そこはご了承願えれば」
「うん。ああ、それは他人の持ち物でもいいのかな」
「もちろんです。その時刻やイルミさまが戻りたい理由に深く関係のあるものでしたら」
「じゃあ…」

イルミはポケットから黒光りのする銃を出してテーブルへと置いた。ゴトリ…と鈍く重たい音がする。しかし女主人は眉一つ動かさず、その銃に触れた。

「良い感じに持ち主の殺気が残っていますね。これなら問題ありません」

女主人はそう言って頷くと胸元からある物を取り出した。それはチェーンで首から下げているのだろう。碧い砂の入った小さな砂時計だった。

「まず、この銃はイルミ様がお持ちください」
「え、こう?持ってるだけでいいの?」
「はい、結構です。では、もう片方の手は私の手に」

女主人の細く白い手が差し出される。その手に自分の手を重ねると、女主人はイルミの手をやんわりと握りしめた。白く細い指がイルミの指に絡まる。その瞬間、ビリビリと電流のようなものがイルミの全身を貫いた。同時に心臓がドクンと音を立てる。

「どうかしましたか?」
「…いや」

互いの指を絡ませた手をジッと凝視してると、女主人は不思議そうに首を傾げたがイルミは軽く首を振った。女の様子から特に何か力を使って攻撃されたとも思えない。女主人の手からは彼女の念を感じるが、それは今から行う仕事のせいだろう。

気のせい、だ。そう思おうとした。なのに少し冷んやりとしているはずの女の手からは、仄かな熱を感じるほど指先に神経が集中していく。絡められた指から女特有の滑らかな肌の感触が伝わって来るせいだろうか。女主人はもう片方の手で砂時計を持つと、それを逆へとひっくり返した。碧い砂がサラサラと下へ落ち始める。

「戻れるのは最高一週間前まで。イルミ様の書かれた日時は数時間前なので、数分後にはその場所・・・・へ戻れます。なので心の準備だけはしておいて下さい」
「うん」
「もし、今回も目的が果たされなかったとしても、次に私が力を使えるのは一か月後。故に今回のイルミ様の望みを叶えるのはこれが最初で最後のチャンスと思って下さい」
「分かってる。次は失敗しない」

そう、余計なことは考えるな。次こそは確実に殺る。――女主人に応えながらも、イルミは夕べのことを思い浮かべた。それだけで苛立ちが復活してしまうほど、夕べはついてなかったと言っていい。

ヨークシンでの仕事を終え、家に戻ってすぐに他の仕事の依頼が舞い込んだ。前の仕事よりも確実に楽な仕事で、イルミはいつものようにターゲットの自宅まで向かった。相手はどこぞの国のマフィアのボスで簡単な仕事になるはずだった。

しかしイルミがいざ針を打ち込もうとしたタイミングで、予期していなかった人物が現れた。イルミの狙った射線を遮るように恋人らしき女が横切ったのだ。ターゲットに刺さるはずだった針が、その女の後頭部へ刺さり倒れた。おかげで本命の男に気づかれてしまったのだ。ターゲットがポケットから拳銃を取り出す。イルミはすぐに立て直そうと針を握った。しかし更に邪魔が入ってしまった。他の組織の男達がまさに最悪のタイミングで乱入し、それぞれが手にマシンガンを撃ちだし、イルミの獲物をあっさりと撃ち殺してしまった。

イルミからすれば迷惑以外のなにものでもなかった。自分のターゲットをあんな形で掻っ攫われるとは思わない。結果ターゲットは死んだ。しかし自分が殺ったわけではないので報酬を断ろうとしたが、依頼人は誰が殺ろうと死ねばいいと喜び、イルミに多額の報酬を振りこんで来た。しかしイルミだけは納得がいかなかった。とにかく獲物を横取りされたのが不愉快だった。暗殺者としてのプライドがその結末を良しとしなかった。
あの瞬間に戻れるならば、次こそ確実にオレが殺すのに――。

心の底から苛立ちを覚えたイルミの脳裏に、祖父ゼノから聞いたある女の話が過ぎった。
――"戻し屋"。それは時を操る能力者の呼称。ゼノでさえ突発的なトラブルで仕事を失敗した時、何度か利用したことがあるという話をイルミは思い出した。その時は祖父に「オレは失敗しない」と言ったし思ってもいたが、実際に不可抗力で失敗してみると、どうしてもやり直したくなった。そこで帰宅早々、ゼノにもう一度詳しくその話を聞きに行った。

「ほう。イルミでもやり損ねることがあるんじゃの」

ゼノがさも愉快そうに笑ったのも癪に障ったが、どうにか時計屋の女主人のことを聞きだし、一睡もせずその足でこの"ゼンマイ屋"へと来たのだった。ゼノには「殺しそこねたならまだしも相手は死んで報酬も貰えたんならいいじゃろ」と言われたが、これは暗殺者としてのプライドの問題でもある。次こそ必ず自分の手で殺す――。イルミの望みはそれだけだった。

(それにしても…不思議な感覚だ)

目の前に置かれた砂時計の砂が、静かにサラサラ落ちていく。女主人に握られた指先から伝わる熱と相まって、イルミは睡魔にも似たような感覚に襲われた。まるで夢を見ている感覚――。夕べから今、この瞬間までの記憶が逆再生されていく。その時、ふとイルミは大事なことを聞き忘れていたのを思い出す。

「…お前の…名前は…?」

うつらうつらとしながら意識が遠くなるような中で、イルミは囁くように尋ねた。視界に映る女主人の姿はすでに曖昧で形がぼやけていく。しかし、脳裏にはしっかりと女主人の姿がこびりついていた。意識が何かの力で強く引き戻されそうな感覚の中、その名前はしっかりと聞き取れた。

「私の名前は。今後ともどうぞ、ご贔屓に――」



イルミのお話復活しました✨改行やテンプレ変更。