7刻-旅の始まりに



客が多かったせいで飛行船に乗り込むまで10分以上を要し、受付でルームキーを受けとったのは更に20分後だった。

「はあ…凄い人ですね…」

ふたりで部屋に向かいながら、が疲れたように息を吐く。夕べはゼノが帰った後で荷造りをしたり、店を暫く休む旨の連絡を常連客にしていたので殆ど寝ていない。

「メインのオークションは終わったけど、その後には残った品物のオークションが開催されるから」

イルミが船内ロビーを見渡しながら説明した。

「あ、そうでしたね…」

毎年ヨークシンで行われるドリームオークションは10日間の予定だが、それが終わった後は売れ残った品物が少し値下がりして小規模のオークションが開催される。メインでは高額で買えない品物が安値で買えるチャンスがある為、こちらの方もかなりの人が集まるようだ。

「ということで部屋は一部屋しか取れなかったけど、いいよね」
「……え?」

あまりにもサラっと言われ、は一瞬何を言われたのか分からなかった。乗船の手配や受付など全てイルミがやってくれたのだが、見ればその手には一枚のカードキーしかない。

「あの…部屋が一つしか取れなかったってことですか?」
「うん。元々ゾルディック家で確保してる部屋があるから乗れたんだよ。ひとりなら満室で乗ることすら叶わなかったと思うよ」
「………」

呆気にとられてしまった。その可能性を考えていなかった。他のことで気を取られ、この時期は普段よりもヨークシンに向かう人が多くなるということさえ忘れていた。しかし一部屋しか取れなかったということは、イルミと相部屋ということだろうか。そう考えた時、は頬の熱がかすかに上がった気がした。イルミは当然のように「いいよね」と言っていたが、さすがに即答できなかった。事情が事情とはいえ、会ったばかりの男と一週間も同じ部屋で寝泊まりするというのはさすがに抵抗がある。イルミはそんなの気持ちなど気づきもしないようにサッサと廊下を歩いて行く。

(どうしよう…同じ部屋なんて困るかも…)

と言っても他に部屋がないのだ。無理だと言ったところでの選択肢はひとつしかなかった。

(大丈夫…よね…?ゼノさんのお孫さんだし…仕事を頼んでるわけだし…)

イルミが男とはいえ、プロの暗殺者だ。同じ部屋で寝たからと言って普通の男と同じように邪な考えは持たないだろう。ふとそう思った。ただそれはの希望的観測でしかない。

「ああ、この部屋だよ」
「あ、はい」

先を歩いていたイルミがあるドアの前で立ち止まり、の方へ顔を向けた。少し後ろを歩きながらアレコレ考えていたはハッとしたように顔を上げる。

「え…ここ…」
「飛行船を使う時、ゾルディック家の人間はこの部屋って決まってるんだ」

が見上げた扉のプレートには"ロイヤルスイートルーム"と彫られている。この飛行船で一番高ランクの部屋だった。それを見て、彼らゾルディック家は暗殺一家であると同時に地元の名士としても有名で、国の人々からは慕われていると聞いたことがあるのを思い出す。仕事で世界中を飛び回ることも多いだろうし、航空会社からすれば最高のお得意様のはずだ。

、何してるの」
「え?あ…」

が驚いている間にイルミはドアを開けて中へと入ったようだ。オートロックなので閉まってしまえば当然キーがないと開けられない。慌てて締まりかけたドアから中へ入り、室内を見渡したは再び驚くはめになった。

「わぁ…素敵な部屋…」

ロイヤルスイートというだけあり、室内は豪華の一言に尽きる。とにかく広い。そして壁一面が窓になっており、暖かい日差しが降り注いでいる。その窓に沿って設置されているソファは5~6人は座れそうだ。ソファの前には楕円形のテーブルがあり、上にはアイスペール、中にはシャンパンが入っている。しかし奥に扉があるのを見つけて何の部屋だろうと開けた時、大きなベッドが置かれてるのを見て、の心臓が大きな音を立てた。

(ダブル…ベッド?!何で一つしかないの?!)

キングサイズとはいえ、ベッドが一つという光景に、思わず顔が赤くなる。いくら何でも知り合ったばかりの男と同じベッドで眠れるほど図太く出来ていない。

、何か飲むかい?――どうかした?」

荷物の中身をキャビネットにしまいながら、イルミがふと振り返り、寝室の扉の前で立ち尽くしているへ声をかけた。

「あ、い、いえ…」

どう言えばいいのかも分からず口ごもると、イルミがの方へ歩いて来る。そしてベッドを見てから何かに気づいたようにの顔を覗き込んだ。

「ああ…もしかして気にしてるの?」
「え…?」
「オレに何かされるって思ってるんだ」
「い、いえ、まさか…」

思ってもいないことを言葉にされて頬がカッと熱くなる。しかし表情には出さず慌てて首を振った。いくらこの状況とは言え、そこまではも思っていない。ただ良く知らない男と同じベッドで寝ることに抵抗があるだけだ。すると、何を思ったのかイルミはふと口元に笑みを浮かべながら更に顔を近づけて来た。至近距離で見る漆黒の虹彩は妖しく揺らめき、一瞬吸い込まれそうな感覚になる。

「ふーん。でも…オレは興味あるけどね、君に」
「…イルミ…さん?」

身を屈めたイルミに互いの鼻先が触れそうなほどの距離で見つめられ、の喉が小さく鳴る。肩から艶のあるイルミの黒髪がさらりと垂れて、仄かにオークウッドの香りがした。身体が硬直して、金縛りにあったかのように動けない。なのにイルミの香りに包まれると、心臓だけがドクドクと早鐘を打つ。

「イルミでいいって言ったよね」
「あ、あの…」

イルミの手が頬を撫で、ビクリと肩が揺れた。ゆっくりと動く指先が、肩に垂れたの柔らかい髪を優しく梳いて行く。たったそれだけのことなのに、首元がゾクリと粟立った気がした。イルミの長く綺麗な指先は、人の命を奪う為に使われるものでもある。

「着物姿も凄く良かったけど…こういう格好も似合うね」

普段と変わらないテンションで褒められ、じわりと顔が熱くなる。今日は気温が高い上に移動で動きやすいようタンクトップにジーンズといった軽装だ。こういう姿で会うのは確かに初めてだった。上に何か羽織れば良かったと思う。ジっと見つめられ、イルミの独特の空気に飲まれそうだ。は無意識に少しだけ後ろへ下がった。

「ああ、ごめん」

イルミは不意に呟き、すぐにから離れると、部屋に設置された冷蔵庫を開けた。その音でもハッと我に返る。

「で、何か飲む?」

もう一度イルミが訊いて来た。

「シャ、シャンパンを…」

咄嗟に応えた。頬が燃えるように熱い。シラフでは、ふたりきりのこの空気に耐えられそうになかった。