10刻-襲撃




カランっという氷の小気味いい音が聞こえて、イルミはハッと顔を上げた。

「………」

見れば飲んでいたバーボンが空になっている。何が、とは言えないほど僅かな違和感を覚えたイルミは、ジっと空のグラスを見つめた。

「どうかしました?」

ふと顔を上げれば、イルミが座っていたソファの隣、少し離れた場所にが座っている。その手にはシャンパングラス。

(そうだ…この部屋に入ってからがシャンパンを飲むと言い出したからふたりで酒を飲み始めたんだった)

一瞬、自分がどこにいて何をしているのか分からなくなった。それは一秒にも満たないほどの時間で、ハッキリとした違和感とも言えないくらいのもの。

「作ります」
「……?」

何を言われているのか分からなかった。キョトンとしたイルミを見て、は手にしていたロックグラスを指さしてきた。

「グラス、空なので」
「ああ…」

イルミは手に持っていた空のグラスをへ差し出した。はそれに氷を入れて、酒を入れる前にマドラーでかき回している。そうしておけばグラスが冷えて酒も美味くなるのだ。

(へえ…気の利いたことするな…)

そう思いながらも、また何か意識の奥で小さな引っ掛かりを感じた。

(前にも…同じようなことを考えた気がする…いつだっけ)

イルミは考えた。しかし頭にモヤがかかったように答えは見えてこない。彼女と酒を飲むのは初めてなのに、前にもこういったことがあったような気もする。それはデジャブにも似た感覚だった。

「はい、どうぞ」
「…ありがとう」

の手からグラスを受けとる。そのままグラスに口をつけながらも、イルミの目はの綺麗な手に向いていた。過去へ戻る時、に手を握られて電流のような刺激が走ったことを思い出す。

(あれは何だったんだろう…)

そんなことを考えていると、もう一度の手に触れたくなった。だが彼女のグラスが空になっていることに気づく。さっきのお返しとばかりにシャンパンを注ぎ足そうとボトルへ手を伸ばしかけたその時だった。

「あ…いけない。私、ちょっと売店に行ってきます」

不意にが立ち上がった。

「…売店?」
「クレンジングクリームを持ってくるの忘れてしまって。さっきチラっと見たら売店に売っていたので買っておきたいんです。このままお酒飲んでたら忘れてしまいそうだし」
「そう…分かった」
「あ、何かイルミさんも必要なものがあれば一緒に買ってきますけど」
「いや…特にないよ」
「そうですか。じゃあちょっと行ってきますね」

はバッグから財布を取り出すと、そのまま足早に部屋を出ていく。ドアの閉まる音を聞きながら、イルミはふと窓の外へ視線を向けた。飛行船が飛び立ってから三時間を過ぎ、太陽も少しずつ傾き始めている。雲もない青空を眺めながら、イルミは先ほど覚えた違和感について思考を巡らそうとした。だがふと窓ガラスに映る室内を見て、ゆっくりと振り向いた。正面にあるキャビネットの上にはのバッグが無造作に置かれている。財布を取り出した後に締め忘れたのか、止めてあったボタンが外れたままで中身が見えてしまっていた。そこから女性らしい花柄のポーチが覗いている。

(あれは…メイクポーチか…)

何の気なしに立ち上がり、イルミはバッグの方へ歩いて行った。几帳面そうな性格なのに、こんな風に開けたままにして出て行ったに少しの違和感を覚えたのだ。

(さっきといい、これといい。よく違和感を覚える日だな…)

漠然としたものが残る中、のバッグを閉じようと手を伸ばす。だがふとポーチの隣に入れられているミニボトルに目が行き、無意識にそれを手にしていた。そのボトルには"クレンジングクリーム"という文字。イルミの目つきが変わった。








「はぁ…」

大勢の人たちが行きかうロビーを突っ切り、売店に入ったはまず渇いた喉を潤そうとミネラルウォーターを買った。ついでにイルミに説明したクレンジングも一緒に買う。手持ちはあるのだが残りも少ない。それにもしさっきの嘘がバレた場合でも、実際に買っておけば何とでも言い訳が出来る。

「……最悪」

買い物を済ませ、ロビーと客室を繋いでいる細い通路にあるベンチに腰を掛ける。比較的、人が少なく、そこはロビーに向かう家族連れが歩いているだけだった。嬉しそうに母親と手を繋いでいる女の子を眺めながら、買ったばかりの水に口をつけて一気に飲むと乾いた喉が潤っていく気がした。思った以上にシャンパンを飲みすぎたらしい。

「はぁ…美味しい…」

冷たい水で喉を潤すと少し気分が落ち着いて来た。だが心臓はさっきと同様、未だドキドキとうるさいくらいに鳴っている。

「…何であんな…」

そっと唇に触れた途端、さっきの感触を思い出し頬が一気に熱くなる。
イルミにキスをされた――。
その事実はいくら時を戻そうとの記憶からは決して消えてなくならない。
ほんの10分前、は突然イルミに抱き寄せられ、キスをされた。その瞬間、何が起きたのか理解できず、身体が固まってしまった。そのせいでイルミのキスを素直に受け入れてしまったような形になった。何度も啄まれ、唇が離れたあとも数秒間はフリーズしていた。

"…不思議だな"

唇を離した後で、イルミがポツリと呟いた。

"に触れていると…胸が疼く"

その言葉で我に返った。が抵抗する様子を見せなかったからなのか、もう一度唇を寄せて来るイルミを見て、は自分で思っている以上に動揺していたらしい。慌ててイルミから離れ、咄嗟にいつも身につけている砂時計を握りそれをひっくり返した。その瞬間、は10分前まで時を戻すことが出来たのだ。その後は何が起きるか分かっている。イルミがその気になる前に目の前から消えてしまえばいいだけだった。

「もう…どういうつもりよ…」

イルミの考えてることが全く分からない。何でいきなりキスをしてきたのかさえ。仮にもは依頼人であり、イルミはその仕事を引き受けた暗殺者だ。いわば仕事として契約をしている関係であり、簡単に手を出されても困ってしまう。

"お主自身に興味を持った、ということかもしれんぞ?"

その時、ゼノに言われた言葉を思い出した。は笑い飛ばしてしまったが、まさか本当にそうなんだろうかと頭を抱える。そしてゼノにもう一つ言われたことを思い出した。

"万が一イルミが何か悪さでもしたなら思い切り引っぱたいてくれてかまわん"

「………」

いきなりキスをされた。それも、何度も。アレはゼノの言う"悪さ"のうちに入るだろう。恋人でもない会ったばかりの男が何の断りもなくキスをしてきたのだから当然だ。とはいえ、さすがに引っぱたくという選択肢はない。ゼノにも言ったように凄腕の殺し屋を感情のまま殴って生き急ぎたくはない。

(イルミ…慣れた感じだった。まさか欲求不満で適当に近くにいた私に手を出そうと…?それとも…私、軽い女に見えたのかな…)

イルミの謎行動が理解できないは、頭の中でアレコレ考えてみた。一応、客として来てからイルミにはきちんと接してきたつもりだ。容易くキスをされるほど、尻の軽い女に見られることはしていないつもりだった。

「はあ…ダメだ…分からない。会ったばかりの男の考えてることなんて」

も年頃であり、これまで恋人が全くいなかったわけではない。と言っても付き合ったのは一人だけだ。幼い頃、流星街を出たら世界を見せてくれると約束をした幼馴染、クロロ・ルシルフル。流星街を出て数年後、再会した後のことだ。

"やっと見つけた"

再会した時、クロロは嬉しそうに微笑んだ。ずっと探してたと言ってくれた。大人になって再会した幼馴染が恋人に変わるのに、あまり時間はかからなかった。けれど、その関係は去年、終わりを迎えた。クロロが盗賊になっていたことはも気にしていない。子供の頃から何でも気になったものは手に入れたがる性格だったからだ。ただ、クロロのその性格ゆえに欲しいものがあればどこにでも行き、数か月も姿を見せない。時々連絡が入るだけの関係に、の方が疲れてしまった。クロロといても孤独を感じるなら、何も期待することのない前の関係に戻りたい。そう思うようになった。何を言おうとクロロは素直に受け入れてくれる。それは別れもまた同じだった。

"私達、幼馴染に戻ろう"

我慢の限界がきてそう告げた時、クロロは「分かった」とすんなり別れを受け入れた。の目には、そんなクロロが酷く冷たい男のように感じたのだ。それ以来、言葉通りクロロとは以前のような関係に戻った。元々兄のように思っていた相手だ。別れたとはいえ普通に連絡も来るし、用があれば依頼もされる。半年も経てば本当の兄妹のような関係になっていた。

(クロロ以上に分かりにくい男がいるとはね…)

クロロとイルミを比べることなど出来ないが、強引で意味不明といった点は少し似ている気がした。
それよりも、力を使ったことがバレていないか気になった。以前イルミに使った力とは別に、さっき使用したのは瞬時に使えるものだ。面倒な手順など必要なく、が戻りたいと願えばすぐに過去へ飛べるが、仕事で使う時のものとは違い、戻れるのは10分前程度と短い。そしての傍にいた人間に限っては戻ってすぐ小さな違和感を覚えるが、戻ったという記憶はない。ただ強い念使いは同じ場面になった時、デジャブのように感じることがある。それが欠点だった。普通の人間なら気づかれない程度のごくごく小さなものでも、イルミのような強い念能力者はそういう些細な違和感に気づきやすい。そのリスクを承知では力を使ってしまった。それほどパニックになったと言っていい。

(大丈夫…瞬時に戻れる力のことは誰も知らない。もちろんイルミも…。とぼけていればバレることはないはず。最悪バレても私と彼の間に何が起こったのか知られなければ問題ない)

あの時イルミが何を思ってキスをしてきたのかは分からないが、その瞬間と同じ状況にならなければさすがに同じような展開にはならないはずだ。これから長い時間を共に過ごし、着いた先では仕事をしてもらうのだから気まずい関係にはなりたくない。はもう一度水を飲みながらホっと息をついた。

「そろそろ戻らないと怪しまれちゃう…でも…大丈夫かな」

ベンチから立ち上がり、ふと独り言ちる。さっきのキスは回避したものの、また部屋でふたりきりになれば何が起こるか分からない。そんな状態があと一週間も続くのだ。

「そうだ…寝る時もどうすれば…」

部屋にあった大きなダブルベッドのことを思い出し、がっくり項垂れる。キスをしてきたということは、イルミがを女として見ている証拠でもある。少しだけ身の危険を感じた。

「大丈夫…もし何かして来ようとしたら今度こそ…」

いや、無理か、と溜息をつく。何の戦闘能力もない自分が暗殺者のエリートであるイルミを撃退できるはずもない。

「もう…ゼノさんてば…何で彼に任せるのよ…」

今朝、電話で話した時は感謝もしたが、仮にも年が違い男女が一緒に旅をするなんてやはり無謀だったのかもしれない。部屋に向かって歩きつつ、今夜をどう乗り切ろうかと考えていた。だから、気づかなかった。背後から飛んで来た細い針に。

「……ッ?」

すぐ後ろでキィィンっという金属の弾ける音がして、はハタと足を止めた。

(…何――)

振り向こうとした時だった。突然、前から現れた人物に腕を引っ張られ、声を上げる間もなく抱えられていた。

「…イ…イルミ?!」
「動かないでジっとしてろ」

イルミは言いながらも手にした太く長い金属のようなものを後ろへ素早く投げた。いやの目には何をしたのか分からなかったが、投げた気配がしただけだ。またすぐに背後で金属同士がぶつかるような音が響く。

(何…?何が起こってるの…?)

イルミはの身体を片腕で抱えて走っていたが、客室エリアに入る前に再びその手に金属――よく見れば針のようだ――を持ち、身を翻してから後ろへ投げた。その時の視界に映ったのは、いつの間にか背後にいた知らない男の額に針が刺さった光景だった。男の顔が皮膚の内側から盛り上がるように波打ち、ボコボコと表面が盛り上がって歪んでいく。

「が…は…っ…」

言葉にならない声を発した男は、ゆっくりと後ろへ倒れてそのまま動かなくなった。

「…な…何…あの人…」

自分の見た光景が信じられないといった顔で呟く。イルミはを下ろすとゆっくりとした足取りで男の方へ歩いて行った。傍らに立ち、しゃがみ込むと指で首辺りに触れる。脈を確かめてるようだ。ついでに男の服の襟元を下げて何かを確認しているようだった。

「イ…イルミ…」

事情を問うようにその名を呼ぶ声も震える。目の前で人が殺されたことだけは分かった。イルミは立ち上がると、相変わらず表情もない顔で戻って来た。

「おいで」
「…え、ちょ…」

イルミはの手を取るとすぐに自分達の部屋へと戻る。倒れた男を放置したままにするんだろうかと驚いていると、部屋に入ったところで設置された固定電話を使い、イルミは誰かに電話をかけ始めた。

「ああ、イルミだけど。うん。オレの部屋の前に男が一人死んでるから片付けておいて。こっちの命を狙って来たようだけど、ただの素人だから。うん、じゃあ頼むね」

その会話を聞いていたは命を狙って来たというイルミの言葉にギョっとした。
何故イルミがいきなり男を殺したのか意味が分からなかったは、ふとさっきの状況を思い出した。イルミが受話器を置いて振り向く。

「まさか…」
「…分かった?」
「………狙われたのは……わた…し?」

信じられないと言った様子で視線を彷徨わせていたが、ふとイルミを見つめる。

「うん、そう」
「…っな…何で私が…」
「本当に何も聞かされてないんだ」
「…え?」

イルミは軽く息を吐くと、立ち尽くすの腕を引いてソファへと座らせた。自分も隣に座り、ジっとを見つめる。は少し混乱していた。赤い瞳が不安げに揺れる。そんなを見つめながら、イルミはいつもの淡々とした口調で言った。

「オマエは命を狙われてる」
「……ッ?」
「オレの仕事はを守りながら無事にヨークシンへ連れて行くこと。そしてターゲットを殺すこと。この二つだよ」

イルミの説明に、今度こそは言葉を失った。