16刻-デジャヴ



昼に起きた時、隣にイルミはいなかった。少しばかりホっとしたのと同時に、何故か寂しいなんて思いもこみ上げては少しだけ驚いた。久しぶりに男の腕に体を預けて眠ったせいなのかもしれない。

(やだ…これじゃ欲求不満みたいじゃない…)

頬がかすかに赤くなるのを手で隠し、はバスルームへ駆け込むと、寝汗を流すのにシャワーを浴びた。しっかり髪や体を洗ったあとは寝起きの冷えた体を湯舟に浸かって温める。それだけでだいぶ頭もスッキリした。今度はきちんと服も用意したので、風呂から上がった後はきちんと着替えて、髪を乾かす。最後に軽くメイクを施し、淡い色の口紅を塗っていたは、そこでふと手を止めた。

「な…何でメイクなんてしてるの…」

しかも昨日よりは念入りに。今は仕事でもなくプライベートな旅だ。ここまでしっかりメイクをする必要などない。現に出発当日は簡単なナチュラルメイクしかしてなかった。

「バカみたい…」

手の甲で唇に塗った口紅を拭う。イルミを知らないうちに男として意識している自分にも驚いた。店主と依頼人から依頼人と暗殺者へ関係が変わったけれど、それだけの関係だったはずなのに。そう、夕べはただ一緒に眠ったという関係だ。それもお互い疲れていたから一つしかないベッドを共有した。それだけだ。

(…何で…ドキドキするの)

イルミの腕に抱きしめられた温もりを思い出すと心臓が勝手に音を立てる。イルミの腕に包まれて眠るのは、想像以上に心地良かった。最初に会った時の畏怖の念はもうない。今、イルミにあるのは確かな信頼感や安心感だ。両親が殺され、祖父もどこかへ旅立ち、はずっとひとりだった。そんな寂しさを埋めてくれたクロロでさえ、常にのそばにはいてくれない。だから結局幼馴染という関係に戻った。イルミは仕事を依頼した相手だが、誰かに守られているという安心感は思った以上にの孤独を埋めてくれた。

「あ、起きた?」

突然、背後から声がして驚いた。その拍子に手にしていた口紅が洗面台の上にカランと落ちる。

「あ…イルミ…」

振り向けばイルミがいつもの無表情で立っていた。慌てて口紅を拾い、ポーチに突っ込む。

「あれ、口紅塗らないの?」
「え…?」
「拭いた跡があるし…」

そう言ってイルミは自分の唇を指した。言葉の意味を一瞬考え、気づいた時。慌てて鏡を見れば、確かに手の甲で拭った口紅が薄っすらと滲んでいる。

「失敗でもした?」

イルミは言いながらのポーチを取り、中から口紅を取り出した。何をするのかと思いながら顔を上げると、イルミは口紅のキャップを外し、それをの口元へ持って行く。ギョっとして後ずさろうとしたが、洗面台に阻まれて下がることが出来ない。

「オレが塗ってあげる」
「……い、いい、そんなの」
「いいからジっとしてて」
「……」

思わず素直に頷きそうになったのは、イルミがほんの僅か口元に笑みを浮かべたからだ。イルミはの唇に口紅をそっと充てると、丁寧に塗っていく。誰かに口紅を塗られたのは初めてで、やけに心臓がうるさくなった。唇の形に添って塗られると、じわりとした甘い刺激が走る。自分で塗るのとは違い、イルミにされるとまるで愛撫を施されているような甘さを含んでいる気さえしてしまう。

「ん、出来た。いい感じ」

塗り終わると、イルミは満足そうに言って、の肩を掴み鏡の方へ向き直らせた。鏡には淡いピンクベージュの唇と同じように頬を染めているが映っている。呆けたような自分の顔に、は恥ずかしくなった。

「ほら、可愛い」
「…え?」

イルミはひとこと言うと、の頭をくしゃりと撫でて「食事に行こうか」とバスルームを出て行く。しかしはデジャブのような感覚に襲われ、喉の奥がかすかに鳴った。

"ほら、可愛い"

前にも誰かにそう言われた気がしたのだ。それも同じような場面で。頭の中に一瞬浮かんだ光景は、何とも懐かしい記憶に感じた。その時、イルミが再び顔を出した。

?どうした?早くおいでよ」
「…う、うん」

ハッと我に返ったの前に、イルミが手を差し伸べる。そっと指先を伸ばせば、優しい体温に包まれた。