17刻-美しい男



船内をイルミにエスコートされながら歩く。大ホールのようなレストランでは船客たちがそれぞれディナーを楽しんでいた。そこでの食事を終えたイルミとはウエイターの案内で隣のフロアにあるバーラウンジへと通された。

はお酒好き?」
「人並みには…好きな方かも」
「そう?じゃあもう少し飲んでこうか」
「え?」
「ずっと部屋に閉じこもってて退屈だろ。次の国までは安全だから少しくらい羽伸ばしたら」

イルミは言いながらを窓際のカウンターテーブルへ連れて行く。こういった場所はイルミの方が慣れている。は素直に頷いてスツールへと腰を掛けた。
さっきのレストランでは様々な国の料理を出せるようでメニューが豊富だった。はよく分からないので全てイルミに任せてしまったが、イルミは料理を決めると、その料理に合うアペリティフからメインのワインまで全て完璧に選んでくれた。ゾルディック家は暗殺一家ではあるが地元の名家でもある。それなりの教育を受けているのが分かるほどに、イルミの仕草や、ナイフとフォークの使い方さえ、上品で優雅だったのを思い出す。

「お酒はシャンパンが好きだったよね。頼む?」
「あ…そ、そうね」

と応えながら、はふと前にイルミと飲んだ時のことを思い出した。何がキッカケだったのかは分からないが、突然イルミにキスをされ、そのことでが驚いた拍子につい過去へ戻る力を使ってしまったのだ。またふたりでお酒を飲んでしまったら同じことにならないかと思った。

「どうしたの」
「え?あ…ううん。何でもない」
「そう?じゃあ…このシャンパンでいい?部屋で飲んでたのと同じだし」
「うん。イルミは…?」
「オレはだいたいバーボンかウイスキーのロックだけど今夜はに合わせるよ」

イルミは言いながらもウエイターにシャンパンを注文している。それはすぐに運ばれてきて、ついでに生ハムやチーズ、チョコレートといったものまでが出て来た。

「わ、美味しそう」
、好きかなと思って」
「え…それで頼んでくれたの?」
「そうだけど…ダメだった?」
「あ、ううん…ありがとう」

一見、イルミはそんなに女性に対して気遣いを見せるタイプには見えなかっただけに――失礼だけど――は少し驚いたものの、さりげない優しさが嬉しくてお礼を言った。イルミは「いや…」と言いながらも、何でがこんなことくらいで礼を言うのか分からないと言った顔でグラスへシャンパンを注ぐ。

「じゃあ、乾杯」
「乾杯」

互いにグラスを合わせ、シャンパンを飲む。前よりも緊張がほぐれている為か、それはとても美味しく感じた。ホっとするように息を吐き出したは、目の前に広がる暗い空を見つめる。あと一日と少しで次の国へ到着するが、そこでもまた誰かが待ち構えているかもしれないのだ。でも不思議と恐怖はない。隣にいる存在が、を安心させてくれるからだ。

「美味しい…」
「そう?なら良かった」

いつもと変わらず表情はあまり変わらない。でも一言一言が、以前よりも柔らかく聞こえる。他人だった関係が、少しだけ近づいたような、そんな柔和にゅうわな空気を感じた。
は視線をそっとイルミに向けた。上品なシャツを羽織り、イルミの動作に合わせて絹のような髪がさらりと動くさまは見惚れるくらい美しい。最初に感じた冷たい印象も、今は逆にイルミの魅力を引き立たせているようにも思えて来る。それにイルミの持つ物静かな独特の空気。これが何とも言えず心地いい。

(何か…落ち着く…)

特に会話などないのに、何かを話さなければという居心地の悪さは感じられない。むしろ会話がなくてもふたりの時間は成り立っていた。しかしその静寂を一本の電話が破った。

「あ…」
「電話?」
「はい…えっと…」
「出ていいよ。オレはここにいるから。あ、でも目の届かない場所には行かないで」
「分かった。ごめんね」

はスツールから下りようと足を伸ばした。しかし少し高めのものだったらしい。足が床につかない。するとイルミがさり気なくの手を掴んで支えになってくれた。おかげで無事に下りることが出来たは「ありがとう…」と言ってイルミを見上げる。その自然でいて紳士的な動作にの胸がかすかに鳴った。

「はやく電話しておいで」
「…うん」

かすかに笑みを浮かべたイルミに、の頬がほんのり赤くなる。こんな風に女性的な扱いをされたのは久しぶりで、勝手に心臓が速くなっていくのを感じながら、はすぐにバッグからケータイを出した。こういう店では店内でのケータイ使用が禁じられている。は足早にバーラウンジを出たところにあるケータイエリアへ行った。かけてきた相手が相手だけに、一応周りを確認しながら通話ボタンを押す。

「もしもし」
『今はどの辺?』

相手はの動向を知っているとでもいうように確信を持って訪ねて来た。相変わらずだと苦笑しながらは窓の外へ視線を向けた。そこには星一つない暗闇があるだけだ。

「あと一日半くらいでクカンユ王国よ」
『なるほど…ギリギリだな』

と電話の相手――クロロが苦笑した。

「そっちは?」
『…ん?』
「ちゃんといてくれてるの?ヨークシンに」
『当然だ。前にも言ったように10日間だけは待つ。でもまあその分じゃ間に合うだろ』
「うん…」
『何だ。何か問題でも?』

の僅かな動揺に、クロロはいち早く反応した。

「問題はないよ。大丈夫」

そう応えながらも、は護衛としてイルミという暗殺者が同行していること、"傍観者"という者達に狙われていることを話すかどうか迷った。しかしあまり長々話せないのか、クロロは『問題ないならいい。着いたら連絡しろ』と電話を切ってしまった。こういう淡泊なところも相変わらずらしい。

「もう…いっつも自分の都合だけなんだから…」

すでに切れてしまったケータイを睨みつつ、はムッとしたように独り言ちた。付き合っていた時からクロロは何も変わらない。いつも自由奔放で、他人に合わせることなど皆無だった。それがツラくて幼馴染という関係に戻ったが、それで全てが平気になったわけじゃない。最初はやっぱり寂しかった。クロロがあっさり別れることを受け入れたことも。それでも、別れた直後よりだいぶ気持ちが楽になったのは、クロロが一切何も変わらなかったからかもしれない。別れた後も平気で連絡を寄こすし、会いに来ては仕事を頼んで来る。あまりに変わらないので本当につき合っていたのか、いや。本当に別れたことを理解しているのかと疑ったことすらある。その辺の疑問をクロロ本人にぶつけたこともあった。するとクロロは「幼馴染に戻ろうと言ったのはだろ」と言いのけた。

「オレはそれを実行してるまでだが?」

シレっとした顔で言われた時は、も唖然として何も言い返すことが出来なかった。クロロとは本来こういう男なんだろうと理解もした。そもそも自由に生きて来た彼を自分のところへとどめておくことなど無理な話だったのだ。そう思ったらも吹っ切れてしまった。未だにその関係性は変わらないが、やはり勝手なクロロに振り回されれると文句の一つも言いたくなってしまう。これが幼馴染というものだったりする。クロロ=ルシルフルという男のことを理解しようとしたところで、きっと誰ひとり理解出来やしないのだ。

「向こうで会ったら一発殴ってやろうかな…念を使えない今がチャンスだし」

ブツブツ言いながらバーラウンジへ戻る。だが途中でふと足を止めた。窓際のカウンターで飲んでいたイルミの隣に、知らない女が座っているのが見えたからだ。女は何やらイルミに笑顔で話しかけている。

「…知り合いかな。綺麗な人」

長い髪をアップにして、黒いミニドレスに身を包み、スラリとしたその女性は、色気もあって目立つタイプの美人だ。何となく席に戻りにくくてどうしようか迷っていると、不意にイルミがの方へ視線を向けた。

、どうした?」
「あ…」

女も同時に振り向いたのを見て、は行っていいものかどうか考えあぐねていると、「彼女、オレのツレなんだ」とイルミが女に話しているのが聞こえた。

「あら、そう。ごめんなさいね」

女は少しムっとしたように返すと、スツールから下りての方へ真っすぐ歩いて来る。彼女のヒール音が、やけに響いて聞こえた。すれ違う瞬間、女はをチラっと見下ろすと、鼻でフンと笑って歩いて行く。その態度には呆気に取られてしまった。女の目にはハッキリ"こんな小娘が彼のツレ?"という感情が見て取れたからだ。

「…失礼な人」

女のあんまりな態度に少しムっとしながらイルミのところへ戻ると、「何か怒ってる?」と訊かれてしまうほど、のくちびるが尖っていた。

「え、あ…いえ…っていうか、さっきの人は…」
「ああ、一緒に飲まない?って誘われただけ」
「そ…そうなんだ…」

どうやら逆ナンというのをされていたようだ。は再びスツールに座ると、シャンパンを一気に飲み干した。その様子に少しだけ目を見開いたイルミは、もう一度シャンパンを注いだ。

「どうしたの。やっぱり何か怒ってる?電話の相手と何かあったとか」
「え?あ……まあ。でもそれはいつものことだから」

クロロのことを思い出して苦笑する。それより今、気分が悪いのはイルミが女を惹きつけてしまったことによって起きた二次災害的なマウントの方だ。でもイルミは気づいていないのか、呑気にチョコを食べている。

「で、電話は誰から?」
「あ、ヨークシンにいる例の幼馴染からで…ちゃんと向かってるかの確認です」
「そう。オレのターゲットはまだヨークシンにいるって?」
「そういう話はしなかったけど…何も言ってなかったからいると思う」
「ならいいけど。ああ、も食べたら?このチョコ美味しいよ」
「あ…うん」

促されるままチョコを手に取り、それを口へ運ぶ。ほろ苦いビターの味がした。

「美味しい」

の一言に、イルミはふっと笑みを浮かべる。その柔らかい笑顔は、小さな苛立ちも消すくらいの威力があった。

(あまり笑わない人の笑顔って…何か心臓にくるかも…)

勝手に動き出す鼓動に戸惑いつつ、ふとイルミと一緒に行った時、クロロはどんな顔をするんだろう、と思った。