傷ひとつ濁らせるねむたげな夜更かし-01



女は孤独を纏っていた。己の死さえ恐れぬというのに、何より孤独を恐れていた。穢れた世界で誰よりも清く、優しい心を持っていた。そして、何も映すことのない、美しい瞳を。

あの女と出逢ったのはまだオレが上弦になってすぐの頃だった。いつもの狩場でヘマをした。鬼狩りと遭遇し、その日の食事をすることも出来ないまま、今より更に血気盛んだったオレは、相手の器量に気づきもせず真っ向から勝負を挑み、再生が追いつかない程の手傷を負わされた。

「…クソッ!何なんだ、アイツは…!」

鬼狩りと言えど大抵の人間なら簡単に殺せるはずだった。だがあの男は鬼であるオレの身体をいとも簡単に切り裂いてくる。これまで出会った奴とは格が違う。圧倒的に技の精度と手数が違う。後にそれが柱という存在だと知ったが、あの時のオレは話にしか聞いたことのないソレが、まさか自分の前に現れるとは思ってもいなかった。

(どこか安全な場所で身体を再生することに集中しなくては…)

明らかに血肉が足りないこともさることながら、今よりも断然遅い再生に苛立ちながらあの夜、オレは鬼狩りの男に背を向け、逃亡した。オレの中では1、2を争うほどの屈辱的な夜だった。

「ここまで来れば大丈夫か…」

夜明けまであと数時間。余裕で傷を治し、太陽が上がる前に逃げられる。深夜の街をかけながら大きな建物が並ぶ一画に出ると、走る速度を落としてどこか入れる場所はないかと探った。ふと見上げれば僅かに窓の開いている部屋が見える。鬼狩りが追って来ているなら外より建物の中の方が安全だと考えたオレは迷うことなく屋根の上へと飛んだ。もし中に人間がいるなら好都合。食えば力となり再生も速まる。だがあまり騒がれると鬼狩りに気づかれる可能性があった。殺るなら素早く静かに。そう思いながら開いている窓に手をかけ、自分の身体が通れるくらいまで静かに開けていく。その時――。

「……誰?」
「―――」

暗い室内に足を踏み入れた刹那。弱々しい女の声がオレの耳に届いた。見れば室内の奥に布団が敷いてあり、そこに小柄な女が体を起こし、こちらを伺っている。一瞬だけ迷った。殺すか、この場から去るか。いや…相手は女だ。オレの中に女を殺すという選択肢はそもそもない。ならば――。
その時、外で人の走る気配がした。

(クソ…!やはり追って来てたか…!)

窓の隙間から外を覗けば、さっきの男が刀を手に辺りを探っている様子が見て取れた。傷はまだ半分も再生していない。あの男に斬り落とされた左腕は肘から下がなく、首に食い込んだ刃に切り裂かれた肩はパックリと開いたままだ。少しずつ戻ってはいるが酷いありさまだった。

「…あの…誰かいますか…?」
「……チッ」

今この女に騒がれでもしたら鬼狩りに見つかり、手傷を負ったオレは今度こそ首を斬られてしまう。多くの時間を費やし、体を鍛え、鍛錬に励み上弦になったばかりだというのに、ここで死ぬわけにはいかない。オレは素早く動いて女の背後に回ると、その細い首にかろうじて動かせる右手をかけた。

「……え…誰?」
「黙れ。大きな声を出したら貴様の首をへし折る」

女の耳元で囁くように告げれば、触れている喉の辺りが上下に動いた。

「分かったなら頷け」
「………」

オレの言葉を理解したのか、女は一度だけゆっくりと頷いたのが見えた。安堵の息を漏らしつつ、外へ意識を向ける。鬼狩りはしばらく辺りをうろついていたが、やがて気配は遠ざかって行った。

「……つっ…」

安堵した途端、傷の痛みを思い出す。再生していくむず痒さと焼かれているような痛みが同時に襲い、オレは女の首から手を放してしまった。自由になった女は少し身じろぎはしたものの、叫ぶことはなく、むしろ驚いたように尋ねて来た。

「あ、あの…もしかして…ケガ…されてます…?」
「…っ…話すなと…言っただろう…」
「大きな声は出しません…。ただケガをされてるなら治療を――」
「オレにかまうな…っ」

背中を軽く突き飛ばすと女は簡単に布団へ転がった。だがそのせいで女が振り向く。一瞬だけ目が合った気がして、つい舌打ちが出た。姿を見られれば人間ではないとバレる。バレれば少なからず悲鳴を上げられる。そう思っていた。だが女はジっとオレを見つめたまま、そっと手を伸ばしてきた。その瞬間、頬に温もりを感じ、ビクリと肩が跳ねる。

「…何する――」
「呼吸が…荒いです…傷は酷いんですか…?」

女はオレの頬へ手のひらを滑らし、細い指先がくちびるへ触れる。無遠慮に触れて来る女に、オレは唖然とした。この姿を見て悲鳴を上げることもなく、まして平然と触れて来た人間は初めてだった。

「傷は…すぐ治る…治ったら出て行くからそれまでここにいさせろ…」
「え…治るって…」

女は不思議そうに首を傾げながら、その月を映したような澄んだ瞳を何度か瞬かせた。その表情はあどけない。オレの姿を見ても怯えてる様子すらない。けれども、よく見れば女の視点はオレから僅かばかり反れている気がした。もしかして――。

「お前……目が見えないのか…?」

今更ながらに気づき、つい訪ねていた。その不躾な問いかけに女は怒るでもなく、それどころか笑みすら浮かべて「はい」と頷いた。

「あ、でも昼間とか明るければ薄っすらと見えるんです。今は部屋が暗いので全く見えてないですけど…」

女はわたわたと何故か言い訳するように説明している。それはオレが気にしないようにと気を遣っているようにも見えた。そんな些細なことをオレが気にするはずもないのにバカな女だ、と思う。

「あ、あの…どこをケガされたんですか…?やっぱり少しは治療した方が…」
「いい…だいぶ治って来た」
「…はい?」

オレの言葉を聞いて女は意味が分からなかったのか、聞き間違えたと勘違いしたようだ。もう一度説明を求めるように耳を寄せて来る。深夜、それも見知らぬ男が自分の部屋に忍び込んで来たというのに呑気な女だと呆れた。コイツが男だったならサッサと喰らって傷を治し、すぐに出ていくところだが、相手が女ならそれも出来ない。
オレが何も応えずにいると、女は戸惑うように顔を上げた。

「えっと…」
「…何だ」
「名前…聞いてもいいですか?」
「…は?名前…だと?」
「はい。あ、私はと言います」

女は丁寧な所作で布団の上に正座をし直し、オレを正面から見据えた。だがやはり姿は見えていないのか、今も柔らかい笑みを浮かべている。

「……オレ…は…」

こうして正面から見ると、その女がとても美しいことに気づいた。濡れ羽色の長い髪、綺麗に切りそろえられた前髪から覗く月明りのように優しい色の瞳は、どこか懐かしいと思わせる雰囲気がある。

「……猗窩座あかざ

気づけばバカ正直に名乗っていた。鬼が人間の、それも女に自己紹介なんて自分でも笑ってしまいそうになった。
と名乗った女は「猗窩座…さん」と確かめるようにオレの名を口にする。その瞬間、とうに失くしたはずの心が胸の奥で疼いた気がした。こんな優しい音で今の自分の名を、誰かに呼ばれたことはない――。

(今…の名…?じゃあ…前の名は?オレはどんな名前で呼ばれてた…?)

一瞬、そんな考えたこともない疑問が頭を過ぎる。人間だった頃の記憶など鬼になった時点で消え失せたはずだ。今はただ強く在りたい。それだけだ。柄にもない感傷に襲われたことで動揺していたのかもしれない。目の前の女がオレに近づき、塞がりかけてる肩の傷に触れてくるまで、それに気づかなかった。傷口にかすかな温もりを感じてハッと我に返る。

「触るな…っ」
「あ…猗窩座さん…肩が裂けてます…っ」

触れただけで気づいたのか、女が再びわたわたと慌て出した。

「いちいち騒ぐな…。こんな傷、大したことはない。それに…もう治った」

言ってる傍から傷が塞がり、痕すら残らない。女は「え?」と驚いた声を上げてからもう一度オレの肩に触れて息を飲んだ。

「傷が…ない…」

信じられないと言った様子で、戸惑い顔のまま瞳を揺らしている。その表情はオレが何者なのか測りかねているといった感じだ。

(もう行くか…傷は塞がった。ここに身を隠す理由もなくなった)

今更この女に正体がバレたところでどうってこともない。ゆっくり立ち上がると、気配を感じたのか、女がオレを見上げるように顔を上げた。変な女だ。深夜に侵入されたというのに平然としている。この女はオレが鬼だと知ったところで驚かない気がした。

「猗窩座さん?どうしたんですか…?」
「…心配しなくても何もしない。オレは出ていく」
「え、でも誰かに追われてたんですよね…大丈夫なんですか?」
「………」

気づいてたのかと少々驚いた。目が見えない分、気配に敏感なのかもしれない。さっきもオレが音もなく侵入した時、すぐに気づいていた。なのに悲鳴すら上げなかったことを思い出す。

「お前は…おかしな女だ」
「…え…」
「オレが怖くないのか?普通の人間じゃないことは気づいたんだろう?」

オレの問いに女はしばらく黙っていたが、ふと笑みを浮かべて静かに首を振った。

「怖いものはありません。この場所には色んな方が見えますから」
「…場所…?」

そこで思い出した。オレが逃げ込んだこの大きな建物。その看板には"京極屋"という名があった。いわゆる人間の男が通う――。

「ここは遊郭か…」
「はい」
「……」

ならばというこの女は毎夜、男を相手にしている遊女――。
女の達観したような態度はそういうことなのかと少し納得がいった。こんな場所で働いていれば何が起こったとしても仕方ないと諦めてしまいたくなるのだろう。そんな人間の気持ちなどオレには分からない。だがやはりそうだ。この女は今ここで、例えばオレが殺そうとしても命乞いすらしないだろう。そんな目をしている。

「邪魔したな…」

それだけ言って窓の方へ歩いて行く。その時、窓際に置いてあるテーブルの上の一輪挿しに花が挿してあるのに気づいた。その形を見て思わず手に取る。それは彼岸花だった。

(だが白、か…これまで赤ばかりだったが初めて見た色だ…これをどこで…?)

しかし今夜はもう無惨さまに頼まれたものを探しにはいけない。窓を開けて空を見上げればまだ暗く、大きな月が辺りを照らしている。それでもあと二時間ほどで夜が明けるだろう。太陽が出る前にねぐらに戻らなければ。
オレはそっと花を戻した。

「あ、あの…本当に怪我は大丈夫なんですか?」

窓枠に足をかけた時、女が歩いて来た。薄い着物の上に羽織りを一枚、肩へ引っ掛けている。なるほど、こうして見ればそれらしく見えるな、と思った。月明りに照らされた女の色白な肌は艶やかに光っていて、男なら誰でもそそられるような空気を持っている。

「言っただろう…もう治った」
「なら…良かったです…」

本心からなのだろう。女はホっと息を吐き出し、笑みまで見せた。どこまでお人よしなんだと呆れてしまう。

「……良かった?いきなり押し入って脅した相手のケガの心配をする……お前はバカなのか?」
「バ…バカって…酷い…」

女はスネたように口を尖らせた。子供のようなその表情にしばし呆気に取られる。仮にも遊女がするような顔ではない。

「…呑気な女だ。オレの正体も知らないで」
「正体…」
「オレは―――」

鬼だ、と言おうとしてやめた。言ったところで何の意味もなく、この女は驚きもしないだろう。それにもう二度と会うこともない。

「猗窩座さん」

今度こそ出て行こうと窓から身を乗り出したその時、女に呼び止められた。

「あの、これ…」

女は手探りで一輪挿しにあった白い花を取ると、それをオレに差し出した。

「…何のマネだ…」
「何となく…気にしておられたようなので」
「…白い…彼岸花…」
「花言葉は…"また会う日を楽しみに"」

その言葉にドキリとしたが、侵入者に花を渡す女に本気で呆れて手を振り払おうかと思った。だが女は再び手探りでオレの手を掴むとそっと花を握らせ、上から包むようにもう片方の手を置いた。女の温もりが手を伝ってオレの身体のどこかを暖めていく。人間の体温をこうもシッカリと感じたのは――初めて?いや…以前にもこんな温もりを感じたことがあった気もする。

「お気をつけて…」

という女は柔らかい笑みを浮かべて言った。その微笑みはオレの手に握られている白い花のように可憐で、この世で最も清いもののように見えた。




猗窩座が好きな私です。そして何故か突然、猗窩座でこの話を書こうと思いました笑
ちょっとした短いお話です。


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