心臓に刺さった棘を摘み取れずにいる-03



1.


目を覚ました時、聞こえたのは雨音だった。暗闇の中、ジッとその音に耳を澄ませる。少し肌寒いのは季節の変わり目特有のものだろう。
オレはゆっくりと身体を起こした。

"すみません…場所を忘れてしまって。女中に詳しい道のりを聞いておくので明日の晩、また部屋へ来て下さい"

もう一つ、花の咲いていた場所へ案内をしようとしたは申し訳なさそうに言った。目の見えぬが人に連れて行かれたのならそれも仕方がないと苛立ちを隠し、オレは花の為にの申し出を承諾した。

「…だが…雨、か」

こんな天気ではを連れ出すのは無理かもしれないなと思う。さっきから聞こえる雨音は小雨程度のものではない。激しくもないが一定の音を奏でている。オレは窓のない闇に包まれた部屋を出ると、階下へ向かった。
ここは花街から少し離れた空き家の立ち並ぶ一画だ。数は少ないものの貧しい人間も暮らしている。華やかな場所の陰にはこういう廃れた村があることを、街の奴らは知らない。最初に見つけた時、どことなく懐かしさを感じ、空き家が多いこの村はねぐらにするには格好の場所だと思った。近くには大きな街もある。喰うには困らない。代わりに村の人間には手をつけなかった。まともな食事も出来ない人間は不味く栄養価も低い。それに人が少なければ一人消えただけで目立ってしまう。その点、街へ行けば高価な服を身に纏い、美味い食事をたらふく食べて肥えている人間が大勢いる。オレはそういった人間を選んで襲っていた。しかし勘のいい鬼狩りもいるもので、定期的に人が消えるという噂を聞きつけてやってきたのが、この前の男、左近さこんだった。水柱だと明かした男の名は入間左近。そう名乗っていた。鍛え抜かれた肉体と強靭な精神力、練磨された技の数々で鬼のオレを追い込んで来た左近は、今のオレにとっては宿敵とも言える。あの男を殺さなければ、オレの苛立ちは収まらない。

「もうすぐだ…力がつくまでもうすぐ…」

その時はあの鬼狩りをこの手で引き裂き、骨も残さず喰らってやる――!
一度戦った相手の技量は分かっている。あの域へ到達するまであともう少しのところまで来ていた。

(止みそうにないな…やはりこの雨じゃ花の方は無理か。女の方もそう思ってるだろう。ならば…予定変更だ)

軋む扉をゆっくり開ければ、湿った風が頬を撫でていく。濡れた土や草の匂いが漂う外へ足を踏み出せば、すぐに天から降り注ぐ雨がオレの身体を濡らしていった。サーっという静かな雨音は足音さえかき消す。オレは一気に走りだして速度を上げると、花街とは逆の方へ向かった。雨の日は比較的人間を狩りやすい。雨音と人間の持つ傘が聴覚や視覚を鈍らせるからだ。獲物を静かにさらい、人気のない場所で殺して喰らうにはうってつけの天気だった。

"――明日の晩、また部屋へ来て下さい"

一瞬、の言葉が脳裏をかすめたが、それを振り払うようにオレは一気に跳躍した。




2.


次の日の深夜、雨がやんでいたことでオレはのもとへ向かった。行く前に人間を喰らって行こうかとも思ったが、何となくやめておく。夕べは少し離れた街でかなりの数を喰らったのだ。腹は満ち足りている。おかげで前とは比べものにならないほど力が漲っていた。

(あと数人喰らえば、余裕であの男を殺れる…)

そう思えば自然と笑みが零れた。鬼狩りののたうち回る様を想像するだけで気持ちまで高ぶってくるようだ。

(それまでに花の方を確認だけしておかねば…そろそろ無惨さまに定期連絡する頃だ)

目的の建物が見えて来たところで速度を落とし、隣の建物へ上がると屋根の上から辺りを確認した。花街の大通りはまばらだが人はまだ歩いている。これから家路に着く人間たちだ。

(チッ…少し早く来すぎたか…)

すでに深夜。子の刻になるところだが、花街はまだ寝静まる前のようだ。仕方ない、と辺りを警戒しながら人気がなくなるまで待つことにした。ここからならの部屋窓がある屋根に容易く移動できる。一応、窓の方を伺ってみると、かすかに室内の明かりが洩れていた。どうやら起きているようだ。

(まだ客でもいるのか…?)

かすかに光が揺らいで影が動いているのが分かる。しかしそれだけでは部屋にだけなのか、それとも他の人間がいるのかまでは判断できない。一刻、一刻と時はゆっくり過ぎていく。

(クソ…ッまだか…)

もともと気は長い方じゃない。待つのは嫌いだった。

(とっくに花街の終わる時刻は過ぎているというのに…相手の男がまだしつこく迫ってるのか…?)

不意に、男に組み敷かれているの姿が頭に浮かぶ。白い肌を惜しげもなく男の前に晒し、艶めかしい姿で喘いでいる姿が。その光景がこの前の川岸で見せた恥じらう姿と重なった。

「……ッ」

胸がむかつき、苛立ちが増幅されていく。その感情のまま、強く拳を握り締めた。

(何だ、この不快感は…どうにもイライラして気が収まらない…)

遊女が客と何をしようがオレには関係ない。そう、この苛立ちは待たされていることへのものだ。そう思うのに苛立ちが一向に収まらず、オレは限界だとばかりにの部屋の窓へ飛び移った。店前の大通りにはすでに人の姿もなく、どの店も提灯の灯りを消して店じまいを済ませたようだ。辺りは最初に来た夜のように静まりかえっていた。

(外はもう大丈夫そうだな…。問題は中…)

いつも開いていた窓は閉まっていて中を伺うことは出来ない。だがやはり――人の気配がする。僅かに話し声が聞こえたということは、まだ客がいるのかもしれない。

(人間の男など殺してしまえばいい…にバレることなく静かに殺れば問題ない)

それが本音だった。だがもし、ここで客が消えれば鬼狩りにオレがここへ来たと知られてしまうかもしれない。何をしに来たのかに話されたら無惨さまの探し物のことも漏れる可能性がないとも言い切れなかった。鬼狩りに青い彼岸花のことを知られるわけには――。

「ではお大事にして下さいね、さん」
「……遅くまでありがとう。千鶴ちゃん」

その声にハッと息を飲む。中から聞こえた声は幼い女のようだった。

(客じゃなかったのか……)

が話していた女中かもしれない。中へ踏み込まなくて良かったようだ。襖の閉じる音がしたということは、もう部屋の中にはだけということになる。オレは窓に指をかけた。鍵はかかっていない。軽く横に滑らせるだけで窓は開いた。

「………」

室内は静かだった。もう眠ってしまったのか?と思いながら、音もなく部屋の中へ侵入する。この前は匂いでオレに気づいたも、今夜は何の反応も見せない。代わりに布団の敷かれている小部屋から小さな咳が聞こえて来た。だ。オレは迷うことなく小部屋の襖を開いた。

「…
「あ…猗窩座…さ…?…ゴホッゴホッ」

は布団に横になっていた。驚いた様子で体を起こそうとした拍子に額に乗せてあった手ぬぐいが滑り落ちる。

「何を寝ている…花の咲いている場所へ案内してくれるんじゃなかったのか」

傍らにしゃがみ、顔を覗き込むと、は申し訳なさそうに眉を下げた。

「す…すみません…体調が…ゴホッゴホッ…」
「……具合が…悪いのか?」

さっきから変な咳ばかりしている。よく見ればの白い頬が火照ったように赤みを帯びていた。呼吸も荒い。人間がかかるという感冒かんぼうのように思えた。

「夕べ…猗窩座さんを待っている間に眠ってしまったようで…ゴホッ…窓を開けたままだったので冷えてしまって…」
「……待っていた?」
「は…はい…」
「………」

あんな雨なのに?と少々驚いた。しかも夕べはかなり冷え込んでいた。人間の、それも女の身ではキツかったに違いない。

「お前は…だからバカだと言うんだ。あんな雨の中、お前を連れて花を探しに行くと思ったのか?連れて行くはずがないだろう」
「え…」
「それに窓など開けておかなくても勝手に入る。今みたいにな」

何故か妙に腹立たしかった。オレとの小さな約束を守ろうとしていたことも、そのせいで病になったことも、感冒ごときで寝込んでしまう弱い身体も、何もかも。
なのに――は苛立ちを見せたオレに、ただ嬉しそうに微笑んだ。

「もしかして……私のことを気遣ってくれたんですか?」
「…何?」
「雨の中、私を連れて行くはずがないと…おっしゃったので…ゴホッゴホッ」
「……チッ。咳き込むなら話すな。体も起こすな。寝てろ、バカが」

の肩を押すだけで、その細い身体が容易く布団の上に倒れる。ふと脇を見れば先ほど落ちた手ぬぐいがあった。

「…これは…」
「あ…それは氷水につけてから絞って…額に乗せるものです…熱を…ゴホッ…冷やすのに使います…」
「ふん…こんなことをしなければならないのか。だから人間は…」

枕元には水の入った器があった。拾った手ぬぐいをそれにつけて軽く絞ると「ほら」との顔に落とす。は「わ…冷たいっ」と驚いたような声を上げた。大げさな女だ。だがそのせいで再び手ぬぐいが顔の横へ落ちた。溜息交じりで拾うと、今度はそれを額の上に乗せてやる。

「………」
「あ…ありがとう…御座います…」

が恐縮したように言って来た。もちろん耳には届いていた。しかし反応出来なかった。オレの頭の中でこれと似たような光景が一瞬だけ浮かんだからだ。全身に痺れたような感覚が走る。

「あ…あの…猗窩座さん…?どうか…ゴホッ…しました…?」
「…っ…いや…」

細い手が布団から伸びてオレの手に触れた時、ハッと我に返った。応えながらも頭の奥がジンジンとした痛みを訴えて来ることで思わず顔を手で覆った。

「…ぅ…」
「猗窩座…さん…?どうかしましたか?」
「何でも…ない…っ」

オレの手を掴んで来るの手を振り払う。少しだけ頭が混乱していた。

(何だ…?今の…光景は…。オレは……前もこんな風に誰かの額へ手ぬぐいを乗せたことがある…?)

バカな、と頭を振った。あり得ないことだ。鬼が人間の看病などするはずがない。こんな記憶などオレは――。

「…猗窩座さん…?」
「…帰る」
「……え…」

そう言って立ち上がろうとした時だった。が身体を起こし、オレの腕を掴んだ。再び手ぬぐいが落ちる音がした。

「行かないで…」
「…な…離せ…っ」

思わず驚いて手を振り解こうとした。だがの悲しげに揺れる瞳を見た途端、腕の力が抜けていく。

「もう少しだけ…そばにいて…くれませんか…」
「…お前は具合が悪いんだろう?なら花の場所へは案内できない。オレがここにいる意味はない。また日を改めて――」
「わ…分かってます…でも…少しだけ…そばにいて…欲しい」
「………」

苦しそうに息をしながら哀願してくるを見ていると、胸の奥がチリチリとした痛みに支配される。先ほど感じた苛立ちとはまた違う。まるで体のどこかに棘が刺さっているかのようで何とも言えず気持ちが悪い。なのに――の手を振り解けない。

「猗窩座…さん…?」
「…チッ。お前が寝たら帰るからな」

仕方なく傍らに座り込むと、は本当に嬉しそうな笑顔を見せた。それは闇を照らすような儚げでいて、暖かな光のような笑みだった。




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