己の名前も知らぬまま生まれてしまった-04



夜が明け始めた頃、オレはねぐらへ帰りついた。扉を閉めたギリギリのところで朝日が昇ったのが分かる。ホっと息を吐き出し、二階のいつもの部屋へ向かう。だが窓のない部屋に入ったところで背筋が寒くなった。

「お帰り、猗窩座」
「…む…無惨さま…!」

正面に座って微笑む主を見た瞬間、膝をつきこうべを垂れる。

「こんな時刻まで出かけているとは珍しいな」

無惨さまはゆったりとした様子で言った。オレが話さなくてもどこにいたのかは全て知っているのだろう。小さく喉が鳴った。

「ああ…責めているわけではないよ、猗窩座。少々驚いてはいるがね。まさかお前が遊女と親しくなるとは」

無惨さまはうっすらと笑みを浮かべているようだった。人間の女を殺さないことを許して下さってはいるが、それでも今回のことはどう思っているのか分からない。オレは正直にと接触している理由を話した。

「……あの女はあまり見かけない色の彼岸花が咲いている場所を知っています」
「―――」

一瞬、空気が揺らいだ。暫しの沈黙の後に、無惨さまは「猗窩座…顔を上げろ」と言った。言われた通り、ゆっくりと顔を上げる。この瞬間はいつも酷く緊張する。闇の中で光る紅梅色の双眸がオレを真っすぐに捉えていた。

「その場所はもう確認したのか?」
「いえ…それはまだ」
「何故だ」
「……案内役の女が病でふせせっておりまして、それが治り次第――」
「猗窩座…」

言葉を遮られ、ビクリと肩が跳ねる。無惨さまはゆっくりと立ち上がり、オレの方へ歩いて来ると目の前にしゃがんだ。その瞳はかすかな怒気を孕んでいるように見えた。

「お前はいつからそんなに親切になったんだ?」
「………」
「たかが人間の女が臥せっていようと…無理やり引きずってでも案内させればいい話なんじゃないのか」
「は…っ」

恐ろしいほどの怒気が室内に充満していく。無惨さまが本気になれば、オレなど一瞬で消滅させることが出来るだろう。どれほど人間を喰らい、力をつけようとも、この方にだけは敵わない。

「猗窩座…」
「はい…」
「…猗窩座」
「はい」

無惨さまはオレの頬を手のひらでそっと撫でる。その感触にゾクリと全身が粟立った。

「私はお前が人間の女を殺しも喰らいもしないことを許している。それはお前がそれをしなくてもここまで上り詰めるほどの力をつけたからでもある。分かっているな」
「…はい」
「お前を作ったのは私だ。鬼の力も、強靭な肉体も、名前さえ、お前に与えた」
「心から…感謝しています」
「ならば何故、私の心を煩わせる?」
「……ッ」

見えない力に攻撃され、全身が軋むような激痛に襲われた。

「…は……はっ…」
「呼吸が乱れているぞ、猗窩座」

内臓がねじれたような感覚でまともに息を吸えず、オレは床に手をついた。上から押し潰されるような圧迫感が襲う。ミシミシと骨が軋んだ。

「私は何もその遊女を殺せと言ってるわけじゃない。必要な情報を女から奪えと言っている。簡単なことだろう?」
「…は…い…」
「お前は異例の速さで上弦にまで上り詰めた。私はお前に期待しているんだよ、猗窩座」
「…光栄、です」
「なら早く私の元に探し物を持ってこい。分かったな?」
「仰せの…ままに」

再び頭を垂れると、無惨さまは「いい子だ」とオレの頭へ手を乗せ、ゆっくりと立ち上がった。

「あの花街には近々堕姫だきを潜入させる。お前はそれまでに女から花の在り処を聞き出せ。上手く情報を奪えたなら…」

無惨さまはドアの方へ歩いて行きながら「お前の願いを一つだけ聞いてやろう」と言ってから気配を消した。やはり本体ではなかったらしい。

「……く…っ」

室内がいつもの空間になったところで、オレは限界とばかりにその場へ倒れ込んだ。見えない力に押し潰され、全身の骨が砕けたのだ。再生するまでは動けそうにない。

「……はあ…」

どうにか仰向けに寝転がり、深呼吸をした。それだけで激痛が走るが、これくらいで済めばいい方だ。

(やはり…無惨さまはお見通しだったな…)

ふと苦笑が洩れた。様子を見ていたが、オレがモタモタしていると焦れてここへ来たんだろう。堕姫を花街に潜入させるということは、狩場をあの兄妹に譲れと言っているようなものだ。それがオレへの罰というわけか。それならそれで構わない。狩場になる場所など他にいくらでもある。今オレがやるべきことは一つ。に花が咲くもう一つの場所へ案内させることだ。それが終わればオレはこの街から去らなければならない。

(明日…いや…あの様子じゃ明後日くらいにならなければ動けないだろう)

夕べのを思い出し、溜息をつく。熱を出し寝込んでいたに「そばにいてくれ」とせがまれ、仕方なく承諾したのが間違いだった。オレの手を握りながら眠ってしまったを眺めていたら、ついオレまでうたた寝をしてしまった。とんだ失態だ。仮にも人間の前で眠ってしまうとは呑気にもほどがある。目を覚ました時は夜が明ける寸前だった。急いでの部屋を飛び出し、この塒へ帰って来たのだ。オレが帰る時もは眠っていたが、まだ少し息が苦しげだったことを思い出す。

「人間とはなんて不便で弱い生き物だ…。あのくらいの熱で動けなくなるとは…」

鬼の身体は多少の傷なら瞬時に治る。大きな損傷もこうして時が過ぎれば綺麗に治って行く。無惨さまから受けた傷もすでに完治した。数日前よりもかなり再生力は上がっている。

「願いを一つだけ…か…」

ゆっくり身体を起こし、先ほど無惨さまに言われた言葉を思い出した。

「欲しいもの…」

その刹那――の笑顔が浮かんで慌てて打ち消した。何をバカなと自分に驚く。無惨さまが言った"欲しいもの"とは、まさしく無惨さまの血のことだろう。もし有益な情報だったら再び血を分けてやろうという意味のはずだ。無惨さまの血を更に与えてもらえるならば、オレは今よりも強い力を手に入れられる。どんな鬼でも無惨さまの血は何よりも欲しいと願う。無惨さまの手足となる為に鬼に生まれ変り、今の名を授けてもらったあの瞬間から、オレが求めて来たのは強さだ。他には何もいらない。昔の記憶も、名前も、全て忘れた。

今のオレは上弦の鬼―――猗窩座だ。

「他には何も…いらない」





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