不実な関係


死ぬまでの間に出会える人の数は、ある程度限られていると聞いたことがある。
その中でも好意的に付き合える人の数は減少し、恋愛ともなれば、そこから更に減るらしい。
死ぬまでの間に、自分はどれくらいの人と出会い、その中の誰に恋をするんだろう。
そんなことを真剣に考えていた頃の自分を思い出したのは、わたしの隣に眠る男のせいだ。
それは一カ月前からわたしの家に居候してる男で、名前をイザナといった。
変わった名前だし本名かどうかは知らない。年齢は二十五歳。これも事実なのかは、とんと分からない。
わたし達は一カ月前の雨の夜に出会った。

その日、わたしの勤めていた小さな製薬会社が、どこぞのIT企業に買収されたとかで、社内中その話題で持ちきりだった。その企業から社員が来るためなのか。元々いた社員の大半がリストラ対象となり、わたしもその対象に入っていることを知った。
二十六歳、未婚、彼氏なし。その上「無職」が追加されるとは、まさに絶望まっしぐらだ。来月からの生活を思えば、その日の仕事は全く手につかなかった。
会社終わり、真っすぐ帰る気にもなれず、小雨も降り出したことで、わたしは会社近くにある行きつけのバーへ寄った。今の製薬会社に勤めてから通いだしたので、マスターとも気心が知れている。そこでわたしはやけ酒と称して大いに飲んだ。愚痴も言ったかもしれない。

――ド素人が製薬会社に来て何しようっていうのかな!

何でも金に物を言わせて色んな会社を買収する企業にはウンザリする、と文句を言いながら、マスターの作るカクテルをアホほど飲んだ気がする。気がするというだけで、あまりわたしにその記憶は刻まれなかった。新しく来た男の客が、わたしの一つ隣に座ったからだ。マスターの様子から見て新規の客だと思った。
褐色の綺麗な肌をした男は、白髪にゆるくパーマをかけている。顔立ちは驚くくらいに端正で、わたしも酔いの回った頭でイケメンすぎる、くらいは思ったはずだ。でもいくら酔っていようとも、見知らぬ男に自分から声をかけたりするほど、わたしは社交的でもなかった。ついでに言えば、わたしは最近、恋人に裏切られ、悲しい別れを経験していた。男なんてこりごりだという思いもあり、もっぱらマスター相手に愚痴の続きを吐き出していた。

――アンタ、そこの製薬会社の人?

二十分ほどが立ち、常連客が来てマスターがそちらへ向かった時だった。見計らったかのように、一つ空けて座っていた隣の男が話しかけてきた。そうですけど、と戸惑いつつも答えると、男は隣いい?と言いながら、空いてた椅子へと詰めてきた。最初は新手のナンパかと思った。

――ちょっと話が聞こえたんだけどさ。リストラされたって?大変だったな。

そんな労いの言葉を言われ、酔った頭の隅で、何でそんなことを聞くんだろうと思っていたけど、あまり深くは考えられなかった。近くで見たその人が、あまりに綺麗だったから。
その後、お酒を飲みながら少し愚痴を言ったかもしれない。後は他愛もない会話をして、深夜も過ぎた頃。男が言った。

――だいぶ酔ってるし送ってやるよ。

普段ならお断りするはずの言葉だった。けどあの時は一人で歩けないほどに酔っていて、雨の中をよく知りもしない男に送られるハメになってしまった。促されるままタクシーに乗って、我が家のマンションについた時、イザナと名乗った彼にお礼を言ってから、当然わたしだけ車を降りた。でも数歩、よたついた足で歩いた瞬間、水たまりのあるところで転んでしまった。

――大丈夫かよ…。

帰ったはずのイザナくんは、わたしが転んだのをタクシーの中で目撃して、途中で降りて戻って来てくれたようで、あの時は酔っ払いながらに嬉しかったのは覚えてる。びしょ濡れになったわたしを、雨に打たれながらも呆れ顔で見下ろしてたイザナくんは、それでも部屋までわたしを運んでくれた。
結局、見知らぬ男を家に上げてしまった形になり、後々自分でも驚いたけど、その日の夜は一人じゃいたくなかったのかもしれない。
雨に濡れたことで体が冷えて、心も寒かった。
わたしを送ったことで帰ろうとしたイザナくんに「まだいて欲しい…」と言ってしまったのは、きっとそういう理由だった。
まさか自分が会ったばかりの男の人に縋ってしまえる女だったなんて、と驚いたけど、案外自分のことは分からないものなのだ。
あれから一カ月。イザナくんは今もわたしの家にいてくれてる。

(いつの間に帰って来たのかな…)

隣でわたしにくっつくようにして眠る彼の寝顔を眺めながら考える。今夜は遅くなると思ってたけど、時計を見れば、まだ午前一時だった。
イザナくんはあの日以来、わたしのマンションで寝泊まりをしてるけど、きっと他にも泊まらせてくれる相手がいるのかもしれないと感じてる。
時々ふらりと出かけて行っては、二日ほど戻らないこともあるけど、こうしていつの間にか戻ってくる、どこか不思議な一面がある人だった。
仕事の話も一切しないから何をしてる人なのかも分からない。わたしのお願いするまま傍にいてくれて、何故かその流れで家に居ついたけど、帰るところがないようにも見えないのに、今のとこ、出て行く気配はないようだ。

「イザナくんはどこの誰ですか…?」

少し上体を起こして寝顔にかかった前髪を指で避けながら、そんな問いかけをしても、答えなんか返ってこないのに。

「ん…?」

かすかにイザナくんの顏が動いてドキリとした。今の些細な刺激で起こしてしまったみたいだ。イザナくんは眠そうに目を擦りながら「起きたのかよ…?」とわたしの方へ腕を伸ばした。背中に回される手に抱き寄せられて、イザナくんの胸元に顔を押しつけられる。その際、ふわりと甘い香水の香りが鼻腔を刺激してきた。普段つけてるイザナくんの香りじゃない。

「…また服着たまま寝てる。ちゃんと着替えて」
「んー…めんどう」
「…でも香水臭い」
「……分かったよ」

ぐいっと胸を押すと、イザナくんは渋々といった様子でベッドから抜け出した。そのままバスルームへ向かったのか、ドアが開く音の少し後から、シャワーの音が聞こえてくる。どうやら帰宅後、シャワーも浴びないままベッドに潜り込んでいたらしい。何て奴だ。

「あ…そうだ…着替え出さないと」

イザナくんは着替えを出しておかないと、素っ裸で出てきてしまう。ついでにシャワーに入る時はいつも服を脱ぎ散らかしていくから、それも片付けないといけない。

「ったく…どこのお坊ちゃまよ」

仕方ないからわたしもベッドを抜け出して、予想通り落ちている彼の服を一つ一つ拾っていった。

(あ、また新しい服…)

手にしたカジュアルな印象のトップスは見たことがない。イザナくんは荷物も何もなく家に居ついたけど、着替えをとってくる様子はなく、その都度買ってるんじゃないかと思うくらい、帰って来るたび新しい服が増えていった。

(そう言えば最初にここへ来た時の服ってどうしたんだっけ)

ふと思い出して首を捻ったものの、気づけばわたしのクローゼットにはイザナくんのこうした服が少しずつ増えてきたから、最初に会った時に着ていた服のことは、すっかり忘れていた。
酔っていたから薄っすらとしか覚えてないけど、確かビシっとハイブランドのスーツでキメてた気がする。

「…スーツなんて今は全然着てないしなぁ…やっぱり記憶違いかな」

まあ何を着ても、きっとイザナくんなら何でも似合うだろうけど。
そんなことを思いながらイザナくんの服に顔を埋めると、やっぱり知らない香水の香りがする。分かってはいたけど、こんな風にあからさまに女の匂いをつけて帰って来たのは初めてだ。
でも仕方ない。わたしとイザナくんは恋人という明確な関係じゃないのだから。

「イザナくん。着替え、置いておくね」

脱衣所に入り、棚のところへ着替えを置く。ついでに新しいバスタオルも出して、着替えの上に重ねて置いておいた。これで素っ裸では出てこないはずだ、と安心して脱衣所を出て行きかけた、その時。突然バスルームの扉が開いて、濡れた腕がわたしの腰に巻き付いた。

「わ…っ」

グイっと引き寄せられ、バスルームに引きずり込まれる形でイザナくんに抱きしめられている状況に、頭がついて行かない。

「な、何してるの?」
「一緒に入る?」
「は…入らない。放してよ」
「…ぶはっ。、真っ赤じゃん」

驚いて顔を上げると、イザナくんは急に吹き出して肩を揺らしている。濡れた髪を上げているから、綺麗な顔の全貌が惜しげもなくさらされていて、シャワーに入る時でさえ絶対に外さないピアスがカラン…と揺れた。

「笑ってないで放してよ…」

バスルームにパジャマのまま入ってることの違和感もそうだけど、密着している相手は素っ裸で、そっちの方が気になってしまう。あまり見ないように顔を反らしているわたしが面白いのか、イザナくんは笑いを噛み殺していた。

ってさぁ。オレの一つ上のわりに、こういう経験値低いよな」
「な…何それ…」

コツンと額同士を合わせるようにしながら、イザナくんが笑う。至近距離で見るイザナくんの大きな瞳は、水晶のように淡いバイオレットが滲んで凄く綺麗だ。ただ今の台詞は聞き捨てならない。まあ、当たってるから何も言い返せないんだけど。

「エッチする時も未だにぎこちないし?」
「…ちょ…」

背中を撫でるようにイザナくんの手のひらが移動して自然と胸に辿り着く。パジャマの上から膨らみをやんわりと揉まれたせいで、ビクリと体が跳ねてしまう。イザナくんとは、まだ片手で足りるくらいしかそういうことをしてないから、未だにこういう急な行為は慣れない。

「可愛い反応すんね、相変わらず」
「や、やめてよ…」

明るい場所で性的なことをされるのが恥ずかしくて、イザナくんのしっとりと濡れた胸元を軽く押す。でも腰をホールドされてるから、あまり距離は出来ない。

「ダメ?」

くつくつと喉を鳴らしながらわたしを見つめるイザナくんは、擦り寄る猫の如く、甘え上手だ。でも欲に孕んだバイオレットは、確実に獲物を捕食する獣のように虹彩が熱を帯びている。目を伏せて困っているわたしを見て、内心ほくそ笑んでいるに違いない。

「…ん」

イザナくんが屈んだのはピアスの音で気づいた。視線を上げたと同時に唇を塞がれて、ちゅっと戯れるような口付けが降ってくる。
こんな時なのに、イザナくんと初めてキスをした時のことを思い出していた。