02

 
1.

「ではお疲れ様でした」
「うん。また頼むよ」

タクシーの後部座席から脂ぎった顔を赤らめた先生が手を振ってくる。わたしは曖昧に笑顔で頷きながら深々と頭を下げた。

「ハァ~疲れた…」

先生の乗ったタクシーが見えなくなってから、思い切り息を吐き出す。まさか、早い時間からキャバクラに付き合わされるとは思わなかった。まあ、おかげで今夜はいつもより早めに終わったし、今の先生はウチのお得意様でもあるから、しっかり接待をしておけば後々助かることもある。

「経費はかさんじゃったなー…」

受けとった領収書を眺めながら溜息を吐く。以前の接待の時、一度行ってみたいというキャバクラに案内して、先生が気に入ってくれたのは良かったけど、今度は接客についてくれた女の子をいたく気に入って、指名する羽目になった。
今日もその子に会いたいが為に、食事もそこそこにオープン直後からその店へ行きたがり、仕方ないから付き合ったのだ。これも次の新薬を使ってもらうためだ。
今時、こんな接待をやる必要性を感じないけど、上から言われれば仕方がない。

(それにしても…何で医者ってエロいオッサンばかりなんだろ)

エロくない医者に会ったことがない。だから体調を崩して病院に行った時、担当の医者を見ながら、この人も夜になると弾けるタイプかなーなんて目で見てしまう癖がついてしまった。
そんなどうでもいいことを考えながら、次に来たタクシーに乗り込む。自宅の住所を告げて、シートに凭れ掛かると、中途半端に飲んだアルコールが回ってくる気がした。明日は休みで良かったとつくづく思う。

リストラ対象に入ってると知ってから三か月が過ぎた。でも未だに直接的な解雇通知書も届かず、通告もされていない。至って通常業務は出来ている。
ただ、やっぱり気づけばいなくなってる人は結構いるし、代わりに見知らぬ社員が増えた。ウチを買収した会社から派遣されてきたんだろうけど、全く会社員らしくない。新しい人は派手な私服で社内を歩き回り、どういう仕事をしているのかと首を捻りたくなる。わたしは営業だから、他の部門のことはあまり知らないけど、前と比べて随分と社内が閉鎖的になった気がする。

(まあ…すぐクビになると思ってたから助かってるけど…)

と言って呑気にしてもいられない。いつ通告されるか分からないし、次の仕事もぼちぼち探しておかないと。
その時、ケータイがピロンと小さな音を立てた。メッセージが届いた音だ。確認してみれば、そこにはイザナくんからのメッセージ。つい笑みが零れた。
珍しく、ここ一ヶ月は毎日のようにわたしの家に帰って来るから、今日もそうなのかもしれない。
メッセージを開いてみると、案の定"まだ仕事ー?"と入っていた。時計を確認すれば午後十時を少し過ぎたとこで、すぐに"今タクシーで帰ってる"と送っておいた。

「あ…いけない。ご飯…」

わたしは接待だから軽く食べてきたものの、イザナくんは食べて来なかったのかもしれないと思った。

(家に何かあったっけ…?コンビニで何か買ってこうかな…)

とは言え、自宅マンションはもうすぐ目の前で、コンビニに行くには戻ってもらわないといけない。

(いっか…帰ったら聞いてみよう)

毎晩のように帰ってくるようになったイザナくんは、食べてくる時もあれば、食べて来ない時もある。でも最近は一緒に夕飯を食べることも多かった。

――の作った味噌汁、すげえ美味い。

そう言いながらおかわりしてくれるのは何気に嬉しい。外見だけ見れば、そんな些細なもので満足するようには見えないのに、いつも嬉しそうにわたしの作った料理を食べてくれる。それが幸せに感じるようになったのは、いつからだったろう。
いつかいなくなってしまう人だと割り切っていたはずなのに、今じゃイザナくんと、ずっと暮らしていけたらいいのに、と思うようになった。
未だに曖昧な関係だけど、イザナくんは今のわたし達の関係をどう思ってるんだろう。
聞いてみたい。でも怖い。最近はずっとこんな調子だ。
マンション前でタクシーを降りて、急いでマンションへ駆け込んだ。
イザナくんがお腹を空かせてるかも、と思うと、自然に足早になる。エレベーターに飛び乗って、早く早くと回数が上がっていくのを眺めながら、その場で足踏みまでしてしまうんだから、わたしもまだまだ若いかも、なんて苦笑が漏れた。もうそんな年齢じゃないのに、これじゃ恋する乙女みたいだ。

(…好き…なのかな…イザナくんのこと)

最初は行きずりみたいなノリで始まった関係だし、好きとか思う前にそんな関係になってしまったから、自分の気持ちもよく分からなかった。でも今は一緒にいてくれるイザナくんの存在が、少しずつ大きくなってきてる気がした。
部屋のある階にエレベーターが到着して、扉が開いた瞬間、廊下へ飛び出すと、部屋まで一気に早歩きで向かう。さっきのアルコールが回り出して頬が火照ってきたけど、今日くらいの量ならお風呂に入れば抜けるからいい。
カツカツカツっとヒールの音を鳴らしながら、自分の部屋のドア前に立ち、バッグの中の鍵を漁る。でも見つける前にドアが開いた。

「お帰り」
「た、ただいま。ビックリした…」

ひょいっと顔を出したイザナくんに驚いて言えば「が帰って来たのヒールの音で気づいたわ」と彼が笑った。何かこういう些細なことも嬉しいと感じる。

「ごめんね、遅くなって。ご飯は?」
「ああ、大丈夫。外で食べてきた」
「そっか。じゃあ良かった」

ホっとしながらスーツの上着を脱いでいると、いきなり腕を掴まれて、またしてもビックリした。

「…ん」

腰を抱き寄せられ、同時に顎を持ち上げられた瞬間、くちびるが重なる。でもそれはちゅっと軽いリップ音を立てて、離れていった。

「イ、イザナくん…?」
「お帰りのキス。ダメだった?」

小首を傾げるイザナくんの綺麗な顔の横で、大きめのピアスがカランと揺れる。つい首を振ると、イザナくんはもう一度屈んでくちびるを塞いできた。角度を変えながら触れあうくちびるが優しくて、甘ったるい。でもドキドキしながらも、イザナくんから例の香水の香りがしてくるのに、わたしは気づいてた。

、お酒飲んできた…?」

深いキスの後で、イザナくんが怪訝そうな顔で訊いてきた。
今夜の接待は急だったから、彼には何も伝えていない。だから簡単に接待だよと説明すると、ふーんと微妙な顔をされてしまった。

「それってオッサンと二人きりってこと?」
「最初は上司もいたの。でも途中シャンパンの飲みすぎで帰っちゃって。だからわたしが残って見送ってきたの」
「……上司って?」
「え?」
「いや、何でもない」

イザナくんは軽く首を振ると、先にシャワー入ってきていい?と言ってバスルームへと消えていった。何だろう。少し機嫌が悪くなったような気がする。そこである一つの可能性が浮かんだ。

「…ヤキモチ…とか…?」

自分で言って、まさかね、とすぐに打ち消した。これまでイザナくんがそんな素振りを見せたことはない。それにやっぱりイザナくんには他に女がいるんだと思う。今日も甘い香りをさせていたし、最近分かったけど、あれはサンローランのリブレだ。イザナくんから香るのはラストノートのバニラとかホワイトムスクの香りだと思う。そう思ったら途端にさっきまでの浮かれた気分が一気に落ちて、また心にブレーキがかかる。イザナくんにとっては、わたしもその他大勢の一人に過ぎないのかもしれないから。
気づけばボーっとしていたらしい。バスルームからシャワーの音が聞こえてきて、ふと我に返った。

「着替えとバスタオル出さなきゃ…」

酔い覚ましに冷蔵庫のミネラルウォーターを飲んでから脱衣所に向かう。いつものように着替えとバスタオルを出して棚へ置くと、イザナくんの脱いだ服を洗濯用のカゴへと入れる。その時、ウイーンという振動音がして、慌てて手にしたズボンのポケットを漁った。

「あ、あった…もう危ないなあ…」

どうやら脱いだ時に出し忘れたみたいだ。間違って洗ってたら大変だ。未だに振動しているケータイを着替えの上に置いておこうと、ひっくり返す。でも画面を見た瞬間、ドキリとして手が止まった。そこには"蘭"の文字。この人がイザナくんの特別な人なのかは分からない。だけど他に女がいるという、自分の想像を実際に目にしてしまうと、自分でも驚くほどに心が騒ぐの感じた。

「…?何してんだよ」
「……っ」

ボーっとしていたらイザナくんがいつの間にかシャワーを浴びてバスルームから出て来てしまった。

「あ…ご、ごめん。ズボンにケータイ入ったままだったから…はい」
「ああ、ごめん。出し忘れてた?」

わたしがケータイを差し出すと、イザナくんは慌てるふうでもなく、普通にそれを受けとった。でも見られたかも、と彼が焦る筋合いでもないか。わたしはイザナくんの彼女でも何でもないんだから。

「どうしたんだよ。顔色わりい」
「だ、大丈夫…ちょっと飲み過ぎたかも。わたしもシャワー入ったらすぐ寝ようかな」
「そうしとけよ。明日は休みだろ?ノンビリしたらいい」
「…うん」

イザナくんは明日もまた出かけるみたいだ。前なら、そのうち来なくなるだろうという気持ちが強かったから、あまり気にしなかったけど、今は何となく気分が沈む。

(イザナくんは毎日、どこに行ってるんだろう…。仕事は?何してる人なの?)

今更ながらに彼の正体が気になってきてしまった。



2.

シャワーを浴びてバスルームから出るとイザナくんはベランダで誰かと電話をしてるようだった。もしかしたら、さっきかけてきた人かもしれないな。そう思いながら濡れた髪を乾かして、寝室でパジャマに着替える。特に眠くはなかったけど、そのまま歯を磨いて一人、ベッドに潜り込んだ。だけど中途半端に残っているアルコールのせいか、やけに目が冴えてしまって、何度も寝返りを打つ。窓の外からはかすかにイザナくんの笑う声が聞こえてきた。

(イザナくんがあんな風に笑うなんて知らなかった…)

一つ年下のわりに、彼は随分と落ち着いているから、普段も声を立てて笑うことは殆どない。でもわたし以外の人には違う顔を見せてるんだと思うと、胸の奥がズーンと重たくなってしまった。
わたしはそんなにイザナくんのことを好きだったんだろうか。彼のことを何も知らないのに?
そうだ。わたしは彼の苗字すら知らない。でも聞く気にはなれなかった。いつかいなくなるかもしれないなら、知らない方がいい。そんな気がしてた。

「…?寝てんの?」

少しするとイザナくんが電話を終えたのか、寝室に顔を出した。彼はわたしが答える前にベッドへ潜り込んでくると、後ろからわたしを抱きしめるようにしてくっついてくる。外にいたせいか、イザナくんの手は物凄く冷たかった。

「…湯冷めしちゃうよ。中で話せばいいのに」
「起きてんじゃん」

思い切って話しかけるとイザナくんが笑った。

「あー…昔の仲間からでさ。長くなりそうだったから」
「仲間…って?」

昔の、という響きが気になり、体をイザナくんの方へ向けると、彼はちょっと困り顔で「チームってやつ」と呟いた。チームって何の?と聞く前にイザナくんは「まあ、いわゆる暴走族?」と苦笑した。

「…暴走族?イザナくんが?」
「何、意外だって?」

ビックリして目を丸くしたわたしを見て、イザナくんがまた苦笑いを浮かべる。だって暴走族なんて、今の彼からは全然想像できない。

「ま…オレも複雑な環境で育ってっからさ。と一緒で」
「…そう…なんだ」

わたしの過去は前にチラっと話したことがある。親に色々あって、わたしは小学校に入る前に施設へと入れられた。両親のことは殆ど覚えてない。だからそれが幸いしたのか、比較的わたしは普通に育ったと思う。もちろん学校の行事で親がいないことを寂しく思ったことはあったけど、仲のいい友達や、親身になってくれる担任の先生に救われてグレることもなかった。幼い頃から身よりはなく。親戚の人がどこで何をしてるのかも知らない。孤独と言えば孤独なんだろうけど、変なしがらみがない分、結構楽な生き方をしてる。
そんな話をイザナくんにしたら、彼は酷く驚いた顔をして「オマエの考え方いいな」と言われたことを思い出した。

「イザナくんも…親がいないとか…?」
「まあ…そんな感じ。家族みたいな人は一人いたけど死んじまったし」
「そっか…」

イザナくんには家族の記憶が残ってるから、わたしよりもツラいのかもしれないなと思った。

「そんな顔すんなよ。しがらみない方が楽でいいんだろ?」
「…うん。楽だよ」
「オレもそう思うことにしたから、今は寂しくねーよ。まあ、もいるしな」
「……え?」

その言葉を言ったのと同時に、イザナくんがぎゅっと抱きしめてきた。わたしは少し混乱して、でも嬉しくて、ドキドキして。何故か泣きそうになった。

(イザナくんの中に、わたしはいるの…?)

イザナくんからは、もう香水の香りはしなかった。