05―ぬるま湯に浸からせて―

 

かすかな物音で目を覚ました。
ゆっくり瞼を押し上げると室内は薄暗いから、まだ夜は明けてないんだと、微睡みながら考える。
衣擦れのようなシュっという音は、イザナくんがネクタイを締める音だったらしい。わたしの眠るベッドへ背中を向けて着替えているのがぼんやりと見えた。

――ああ、またどこかへ帰っていくんだな。

頭の隅で考えながら、再び夢の中へと落ちる瞬間、少しの寂しさを覚えたんだと思う。朝になり、セットした目覚ましに起こされた時、イザナくんのいない隣を見て無償に物悲しくなった。

「夢じゃなかったみたい…」

シーツを手のひらで撫でると、そこはすっかり冷え切っていた。

「ふわぁ…起きよ…」

どんなに寂しくても欠伸は出るし、会社にも行かなくちゃいけない。
わたしはベッドを抜け出すと、そのままバスルームへ直行した。
わたしは朝と夜、シャワーを浴びるのが好きだ。仕事から帰って、一日の汗を流すのは当たり前だけど――冬場は湯船にも浸かる――寝起きに入るのは、単に寝汗を流したいからだ。人は寝てる時も地味に汗をかくし、冬場でもそれは同じだと言うから、一年を通してクセになっている。
軽くシャワーを浴びて、髪も簡単に洗う。それでやっと目が覚めるのだ。髪を乾かしてブローだけ済ませておくと、次は朝食の準備にとりかかる。夕べ作ったグラタンパイの中身だけ少し残ってたから、それをチンして、コーンスープと一緒に食べた。
グラタンパイはイザナくんに好評だったから、また作ってあげよう。
そんなことを思いながら手早く朝食を済ませ食器を洗い、着替える為に寝室へと向かう。
クローゼットを開けると、案の定、イザナくんのスーツが一着なくなっていた。えんじ色のゴルチェのスーツだ。細いストライプのダブルのセットアップ。イザナくんがそういったスーツを着ていく時は数日間戻ってこない。

(次はいつ来るのやら…)

取り残された他のスーツを指先で撫でながら、自然と溜息が零れる。
そもそも前はスーツなんて着てなかったのに、ここ一カ月の間に少しずつ増えていった。どれもハイブランドのものばかりだけど、これを着た彼がどこへ行っているのか、だんだんと気になってくる。でも詮索するのが怖くて、何も聞けないでいた。

「いけない…遅刻しちゃう」

一瞬、感傷に浸ってしまったけれど、ふと我に返ってすぐに自分も仕事用のスーツへ袖を通す。簡単にメイクを済ませて、ブローした髪を整えると、社会人のわたしが完成した。
今日のスーツは白にしたから、ヒールも白いのを選んだ。ボーナスで奮発したルブタンも、最初は履くのがもったいなくて。赤い靴底を傷つけないような歩き方をしてた。でも慣れとは怖いもので、今では普通のヒールと同じく雑に扱ってる気がする。まあ歩き回るのが営業だから仕方ない、と今は開き直っていた。
自宅マンションの最寄りの駅から、会社までは一駅と近い。会社は駅前にあるから、通勤するには凄く便利だし、出来ればリストラされたくなかった。ただ未だに解雇通知は届かない。

(これじゃ生殺しの気分よね…)

いつそれが届くのかと、出勤するたびビクついてるのも、そろそろ疲れてきた。

「あ、さん、おはよー」
「おはよう、土井さん」

自分のデスクに行くと、隣の席で同僚の土井さんがコーヒーを飲んでいた。同じ営業職でわりと仲のいい女性だ。彼女は営業先へ向かう前、必ずコーヒーを飲んでから出かけるから、きっと今日もこれから出かけるんだろう。わたしも新薬のサンプルなどをバッグに補充して、パンフレットを手に取った。その時、土井さんが「ねえ、聞いた?」と急に声を潜めて話しかけてきた。

「ウチの部長、リストラされたんだって」
「…えっ?」

思わず大きな声を出してしまって、すぐに自分の椅子へと腰をかけた。

「部長がって…嘘でしょ?」

今度こそ小声で尋ねると、土井さんが更に声を潜めて言った。

「ほんとらしいよ。ここ二日くらい見てないし、体調でも崩したのかと思ってたけど、今朝、人事部の人が話してるの耳にしちゃって。何か上から急に通告がきたとかで」
「え…でも部長って最初の候補者の中に入ってなかったよね。だから本人は呑気に構えてたんだし」
「だよねえ…。なーんかミスでもしたんじゃない?接待先を怒らせたとか。部長って昔のやり方で接待漬け、得意だったじゃない」
「まあ、そのおかげでわたしまで接待に連れまわされてたし…」

これで解放されるじゃない、なんて言って、土井さんは笑いながら出かけていった。

(確かにそうなんだけど…何か急すぎじゃない?)

部長の席へ視線を向けつつ、首を傾げた。リストラ候補に入っていたわたしには未だ通告はなく、候補に名前すら挙がっていなかった部長が先にリストラなんて、おかしな話があるものだ。今の社長はうちの会社を買収したIT企業の社長が兼任してるようだけど、ああいう業種の人達は何を考えてるのかさえ分からない。

(ま…分からないなら考えても無駄。わたしは自分の仕事をするだけだ)

営業先に出かける用意をしながら、そう自分を納得させる。とりあえず次の上司は最低でも古い社員の中から選んで欲しい。IT業界では優秀だとしても、この仕事がど素人の人間が上司になられても困ってしまうからだ。
そう切に願いながら、わたしはデスクを後にした。


△▼△



キラキラと眩しいくらいの光を放つ石が反射して、オレはかすかに目を細めた。ハート型にカットされた淡いピンク色のそれは、押収物の中で一際目立っていて、何となく見ていたら彼女の顔を思い出した。

「イザナくん、そのピンクダイヤのネックレス欲しいんスか?」
「…いや。そういうわけじゃねえんだけど」

それまで熱心にダイヤモンドスコープを覗いていた九井は、オレが手にしたアクセサリーを見て、不思議そうな顔をした。
このアクセサリー達は、つい先ほど潰した半グレ集団のヤツらのアジトにあったものだ。東卍の息のかかった宝石店からごっそりアクセサリーが盗まれ、防犯カメラでその半グレグループの人間が犯人だと分かった。そんな大胆な犯行をガキどもだけで思いつくはずはなく、盗んだ宝石を金に換える方法だってツテがなきゃ無理だ。案の定、ガキどものバックには東卍の敵対組織が関わっていた。
大方、金脈だった製薬会社を失ったことへの報復だろう。ガキに直接、指示していたのは例のヤクを横流しさせてた男だったようだ。
女を見つけ出すまで男の方は泳がせていたことが仇になったが、まあ、こうして売りさばかれる前に早くカタが付いたのはラッキーだった。例え売られていたとしても、これくらいの損害じゃ今の東卍にとっちゃ痛くも痒くもないが。

「欲しいなら持ってっていいっすよ。その大きさだと六百万くらいだし――」
「いや、別にいいんだ」

手にしていたネックレスを元の箱へ戻すと、九井はまたしても不思議そうに首を傾げながら、でも何かに気づいたようにその箱を手にした。

「例の同居人っすか?」
「………」

九井は本当に勘が鋭いから、時々マジで可愛くねえと思う。
今回の計画を実行して、数人の女を調べた中、とだけは長々と関係を切らないオレにいち早く気づいたのが九井だった。だから「気が合うんだ」とだけ説明したが、この様子じゃ何となく特別なんだと気づいてるかもしれない。
そもそも、オレは今まで一人の女に固執したことはなく。その時点で察しはつくんだろうが、買収した会社の古株たちを少しずつ追い出す予定だったのを、オレが彼女だけリストラ対象から外したことも要因だろう。

「惚れたんスか?その女に」
「…いちいち聞くんじゃねえよ、そんなこと」

ニヤつく九井が癪に触って顔をしかめると、コイツは更に笑いを噛み殺している。殴りてえけど、九井は東卍の大事な資金源だからそうもいかない。仕方ねえから、このイライラは後で鶴蝶にでもぶつけることにする。

「この一週間、帰ってないんでしょ。これ持って今夜帰ってやればいいのに」
「…いいんだよ。だいたい、こんな高価なもん持って帰ったら怪しまれんだろ」
「そりゃそうか」

九井は苦笑気味に言いながら、再びスコープを覗いて石がちゃんと本物かどうかのチェックを再開した。
オレは手持無沙汰でチェック済みのアクセサリーを眺めていたが、何となくあの淡い光を放つ石がに似合う気がして、つい手にしてしまっただけだ。

(まあ…もっとも…にプレゼントすんなら、きちんとオレが買ってやりてえしな…)

九井の手前言わなかったが、そんな思いもあった。

(一週間も空けちまったし…マジで帰るかな、今夜は…)

強盗の件があり、何だかんだ組織のことで動いていたら、一週間なんてあっという間だった。その間、連絡すら入れなかったのは、オレと彼女の間に明確な関係が築かれていないからだ。
女と深く関係を築いたことなど皆無のオレが、とどう関係を築けばいいのかも分からず、ただ言われるがまま彼女のそばにいるというのが現状だ。

(嫌われては…ないよな…。オレが帰ると、アイツ嬉しそうな顔するし…)

これでも女にはモテるし、相手の好意は察知できる方だと思う。でもの場合、オレにあまり何かを求めることもしなければ、束縛してくることもない。これまで接してきたどの女とも違うタイプで、本心が分からない女だった。
まだオレにいて欲しいのか、それとも出て行って欲しいのか。
分からないからさり気なく自分の荷物を増やしたりもしてみたが、それについて何を言ってくるでもない。
だから余計に悶々としたりする自分が嫌だ。

(いっそ正体明かして、の反応でも見るか…?)

ふとそんなことを考えた。だいたいはオレが何をしてるかも聞いては来ないし、苗字だって聞いて来ない。普通なら少しは気になるはずだと思うのに、彼女はそんな素振りも見せなかった。オレに関心がないだけにも見えるが、今じゃオレの行動を読んで色々してくれてるようだし、きちんとオレを見てくれてるんだと感じるから、余計に分からなくなるんだけど。はなかなかに矛盾してる女だと思う。

――手に入れたいなら監禁でもすればいい。

先日、稀咲に何気なくの話をしたら、アイツらしい答えが返ってきて笑ってしまった。まあ、それも一つの方法だろうが、今はまだそこまでする気はなかった。
と過ごす何気ない生活が、オレの手に出来なかった"普通の幸せ"を与えてくれるから、まだあのぬるま湯のような甘ったるい時間を大事にしたい。とことんガラじゃねえんだけど。