カリスマの弱点⑴
1.
が高校へ通いだしてから一ヶ月が経過した。は一年遅れて入学したので一つ下のクラスメイトばかりだが、精神年齢が低いのが幸いしたのか、今のところ竜胆が心配してたようなイジメに合うこともなく、何とか楽しくやっているようだ。ついでに入学式に保護者として出席した恐ろしいほどイケメンのお兄さん2名が目立ったせいで、クラスメートにアレコレ聞かれる羽目になり、打ち解けるキッカケにもなったようだった。学校側には蘭とが夫婦というのを説明してあるが、倫理上、クラスメートには兄という設定にしてくれと頼まれたのは仕方のないことで、蘭も渋々ながらそれを承諾した。おかげで「お兄さん紹介して」というクラスメートが増えたらしい。
そんながある日の休日、蘭をデートに誘って来た。いや、は単に「蘭ちゃん、渋谷に連れてって」とお願いしただけなのが、蘭の脳内では「蘭ちゃんとデートがしたい♡」に変換されただけだ。
「渋谷ァ?あんなガキの集まる街に何しに行くんだよ」
蘭が応える前に、その話を聞いていた竜胆が先に口を挟む。子供の頃からこの六本木という大人の街をわが物にしていた竜胆にとって、渋谷などガキの遊び場としか見ていない。それに大抵の物はこの六本木で手に入ってしまうのだから、わざわざ混みあう休日に渋谷に出かけたいと言うの気持ちが理解出来なかった。蘭も竜胆と同じことを考えていたものの、愛しい奥さんが何故そんな場所へ行きたがるのかが気になった。はそれこそ義理の両親が生きてた頃はあちこち連れて行ってもらったようだが、亡くなってからは義兄に監禁されていたのでこの六本木から出たことがない。渋谷という街があることさえ知らないはずなのだ。
「、何で渋谷?何か欲しいもんでもあるのかよ」
膝に抱いていたに蘭が優しく問いかけると、は小さく頷いた。
「あのね、ノンちゃんが渋谷のパルコってお店で買ったトートバッグがすごく可愛くて…お揃いのが欲しいの」
ノンちゃんとはのクラスメートで席が後ろの子らしく、最近よく名前が出て来る子だ。
「…トートバッグ?」
「バッグなら学校指定のもんがあんだろ」
つかさず竜胆が口を挟むと、はそうじゃなくて、と首を振った。
「その鞄じゃなくて体操服とか入れるお着換えバッグだよ」
「ああ…え、でもそういうバッグ、兄貴買ってたよな。しかもグッチで」
「あーまあなァ。でもはその…ノンちゃん?って子と同じバッグがいいと…」
「うん」
素直に頷くを見て、竜胆は嫌な予感がした。いや、嫌な予感しかしない。
「じゃあ、そのバッグ買いに行こっか」
「いいの?蘭ちゃん」
「当たり前だろ」
「………(ほら、こうなる)」
喜ぶに抱きつかれ、鼻の下がラクダかってくらいに伸びてる兄を見て、竜胆は深々と溜息を吐いた。そしてそのままソっと立ち上がり、自分の部屋へ避難をしようとつま先でそろり、そろりと歩き出した時、ラクダから――もとい。イケメンのお兄様から「竜胆」というお呼びがかかった。
「……何でしょう」
存在を察知されてるなら竜胆に逃げ延びる手立てはない。仕方なく笑顔を取り繕って振り向いた。
「車、呼んどいて。着替えさせて来るから」
「……りょー」
それくらいなら、と片手を上げかけた時、
「ああ、それと竜胆も出かける用意な?」
何とも神々しい笑顔を向けられた。しかしいくら自分の兄がカッコ良くても、今の言葉は聞き捨てならない。何故なら竜胆はさっきの会話に全く持って無関係なのだから。
「……は?オレも?」
「荷物持ちは必要だろ」
今度は恵比寿様も真っ青なほどの優しい笑みを向けられた。その微笑みと台詞が全くもって合っていない。兄による弟へのパワハラフルスロットル攻撃。これを避ける術を竜胆は未だに習得出来ていない。弱者はただ強者に従うのみ。そんな言葉が脳内でエンドレスループをしている。竜胆はそれをシャットダウンするべく、重たい足取りで自分の部屋へと向かった。
2.
「うわぁ、凄い人だね、蘭ちゃん!」
駅近くでタクシーを降りたは初めて見たスクランブル交差点の人の流れに目を丸くし、繋いでいた蘭の手をぎゅっと握り締めた。大勢の人が行きかう光景はどこか怖いと感じたのだ。この人混みに紛れてしまったら、大好きな蘭とはぐれてしまいそうで足がすくむ。そんな気持ちを察したのか、蘭が身を屈め「大丈夫だよ」とその頬にキスを落とす。
「しっかり手を繋いでっから」
「う、うん…」
「しっかし、相変わらずゴチャゴチャしてんなァ…うぜぇ」
「確かにな…休日ってのもあんだろうけど…この人の多さはやっぱ好きになれねーわ。目当てのもん買ってソッコーで帰ろう」
蘭と竜胆は人混みが大の苦手。いや、全力で嫌いだった。六本木も人は多いが、ここまで密集してることはないので、あの落ち着いた雰囲気が気に入っている。しかし渋谷は活気がありすぎて、どうもふたりの空気にそぐわないのだ。
「んでー?の欲しいバッグってどこにあんの?」
「あー何かパルコに入ってる店らしい」
蘭はスマホでチェックをしながら、の手を引き、パルコまで歩いて行く。人混みは嫌いだが、初めて来たの為に渋谷の街中を見せてやろうと、少し離れた場所で車を降りたのだ。竜胆はぶーたれていたが。
「ランチ時でもねえのに、めちゃくちゃ人いんじゃん…」
昼を避けて夕方少し前に来たにも関わらず、やはり井之頭通りもスペイン坂も大勢の人間が闊歩している。それでも蘭と竜胆のただならぬオーラを感じるのか、ふたりが歩いて行くと自然に道が開いて行く。それがには不思議だったようで、「モーゼみたいだね」と楽しそうに笑っている。九井との勉強の甲斐あって、そういう難しいことだけは覚えていくらしい。
「やっぱオレと兄貴のカリスマ性が駄々洩れてんじゃね?渋谷でも天下とれそー」
「そーいや、渋谷ってアレじゃん。東卍の縄張りだったろ」
蘭がふと思い出したように言った。しかしその東京卍會も例の関東事変の後に解散したと九井から聞いている。
――いいチームだったのにもったいない。
その話を聞いた時、蘭はそう思った。敵対はしたが、言ってみればあの抗争、イザナとマイキーの因縁を知った稀咲が絵を描いた不本意なものだった。結果最悪な結末を迎えて、今も蘭の中にモヤモヤしたものが燻っている。その時、手を繋いでいたが蘭を見上げた。
「蘭ちゃん」
「ん?」
「とーまんって何?美味しいの?」
「……え?」
キョトンとした顔で自分を見上げているを蘭も見下ろし、しばし見つめ合う。だがその意味を理解した時、蘭、そして竜胆までが「ぶはっ」と吹きだした。
「…うくく……東卍は…まんじゅうじゃ…ねぇからな?…くくく…」
「えっ違うの!」
肩を震わせながら蘭に説明され、が驚愕した。"まん"と付くもので食べ物じゃないものがあるんだ!という小学生的思考だ。
「ぶははっ肉まんのノリで言ってたんかよ」
驚くを見て竜胆が更に笑う。おかげで胸クソ悪い思い出が綺麗に浄化された。
「ったく…にかかれば何でも食いもんに変換されるなー」
「そ、そんなことない」
「いや、あるだろ。、食いしん坊だから」
「む…」
竜胆にからかわれ、は思い切り口を突き出した。その顏が面白くて、ついからかってしまう竜胆だったが、蘭に「あんまオレの奥さんイジメんなよ」と後頭部をはたかれた。
「いってーよ、兄ちゃん…」
「それよりついたぞー」
「え?」
後頭部をさすりつつ見上げると、目の前にお洒落なビルがどんと建っていた。ここの2階にの目当ての店があるらしい。
「えーと…Oil by 美術手帳って店だな。アートギャラリーで雑貨とかも置いてるって」
「へえ。ただの雑貨店じゃねーんだ」
3人はエスカレーターで上に上がると辺りを見渡した。
「お、マークジェイコブスとかトーガやケンゾーも入ってるじゃん。せっかくだしオレも何か買ってこうかなー」
竜胆がフラフラとブランドショップに歩いて行く。それを見た蘭は先にの用事を済ませようと「オレ、先にバッグ買ってくっからー」と言いつつ、と仲良く歩いて行った。
「ったく…あの面倒くさがりの兄貴がの為に渋谷くんだりまで買い物に来るとか。こりゃマジで今年中に地球は爆発するかもなぁ」
楽しそうに何か話しながら歩いて行く兄を見送りつつ、竜胆は店内の服やアクセサリーなどを眺めていく。さすがにこの階は混雑することもなく、落ち着いて商品を物色出来る。その中から何点か気に入ったブレスレットやネックレスを買っていると、蘭がひとりで竜胆のもとへ戻って来た。
「おー買った?」
「ああ。残り一点だったわ」
「げ、そんな人気あるやつ?」
「さあ?」
蘭が複雑そうな顔で首を傾げたのを見て、一体どんなバッグなんだと竜胆は気になった。その前に、肝心のがいない。
「ってか…は?」
「ああ、トイレ」
「え、ひとりで行かせて大丈夫かよ。迷子になんじゃねーの」
「いや、オレもそう思ったんだけど、ひとりで行けるから蘭ちゃんは先に竜ちゃんとこ戻っててって言うからさぁ」
蘭は少し不満そうに、しかし心配そうに後ろを振り返っている。高校に入ってからというもの、もだいぶ自覚が出て来たのか、蘭が甘やかそうとすると「ひとりで出来る」と言うようになってきた。普通なら成長を喜びそうなものだが、蘭に限ってはそうでもないらしく。自分の手を離れるのが寂しい、という今まで感じたことのない気持ちが芽生えたようだ。
「蘭ちゃん、竜ちゃん、お待たせ」
そこへ無事がやって来て、蘭は心底ホっとしたような笑みを浮かべた。
「大丈夫だった?」
「え、何が?」
心配そうにすぐ手を繋ぐ蘭を見て、が首を傾げる。
「いや、変なヤツに声かけられたりとか…」
「…??大丈夫だよ。何で?」
「いや…今日のもめちゃくちゃ可愛いから誘拐犯に狙われてねえか心配でさ」
「誰がこんな真昼間にパルコで女子高生、誘拐すんだよ」
渋谷に来るということで蘭がを可愛く着飾ったのだが、誘拐でもされたらどうしようという惚れた欲目を存分に発揮している兄を見て、ここまで来たら病気だなと思いつつ、竜胆が突っ込んだ。だいたい、そんなに心配ならもっと地味にさせりゃいいのに、とさえ思う。今日もは蘭の選んだデニムの春用ワンピースを着て、足元は真っ赤なフラットシューズ、髪型は右に髪全体をふわりとルーズに寄せてリボンを編みこんでいる。
(兄貴、そろそろ美容師になれんじゃね?)
と竜胆は密かに思っていた。と言っても蘭がそこまでマメにやる気を出す対象はだけなので、仕事にはならないだろう。
「んで、の欲しがってたバッグってどんなの?」
「あ、見る?竜ちゃん」
「おー見せて見せて」
もう用は済んだのでエスカレーターで降りながら一階へ戻る。その道すがらが袋からお目当てのトートバッグを取り出した。
「これなの!可愛いでしょ?」
「………え…これ?」
「うん」
「………」
が取り出した白のトートバッグを見て、竜胆は口元を引きつらせた。蘭に至っては買った時に竜胆のようなリアクションは済ませたのか、今は苦笑いを浮かべながらふたりを眺めている。
「えーと…」
竜胆はその後のリアクションに困っていた。どう見ても、が嬉しそうに見せているバッグは、頬を上気させながら「可愛いでしょ」と言うほど、可愛いとは思えなかったからだ。
それはとてもシンプルなバッグだった。全体的に白い生地のそれは、袋部分に紺碧色の細い線で絵が描かれている。でもその絵は子供の落書きかと突っ込みたくなるような絵で、太陽らしきもの、雲らしきもの、海らしき線、その下に魚らしきもの、その魚の隣に何故か長方形の四角が描かれ、中に"Book"と手書きしたような本らしきもの。全て"らしきもの"で埋め尽くされていた。
「え…これ…いくら?」
「3480円」
「やすっ!え、グッチのバッグがコレに負けたのかよ」
「にとっちゃ、こっちが可愛いんだから仕方ねえじゃん」
竜胆のツッコミに蘭も諦めたように笑う。どんな高価な物でもが喜んでくれなければ蘭にとっては意味がないのだ。はひとりご満悦で「ありがとう、蘭ちゃん」と嬉しそうだ。
「いや、こんなんでいいならいくらでも」
言いながらの頬にちゅっとキスをすると、すぐに「…恥ずかしいよ」と可愛い苦情が飛んで来る。以前よりもだいぶ世間の常識が身について来たのか、周りの視線を気にするようになってしまった。でもまだまだ目が離せないのは事実。外に出て混雑した人混みの中、はぐれないよう蘭は手を繋ぎ直そうと、一瞬だけ手を放した。その際、流れに逆らって歩いて来た高校生くらいの集団にぶつかりそうになり、蘭との間が分断されてしまった。
「チッ。うぜーガキどもだな」
「あー兄貴、いたいた」
竜胆も人並みにさらわれそうになったのか、周りの人をかき分け歩いて来る。夕方近くになり、駅前方面へ歩く者、駅から歩いて来る者でごちゃ混ぜになっていた。
「げー!マジ人混みウゼえからタクシー拾っちまおうぜ、兄貴」
「いや、駅前まで行かねーと無理だろ」
「まあ、これだけゴチャゴチャしてたらそうか…」
と竜胆も辺りを見渡しながらボヤく。そこで気づいた。
「あれ…?兄貴、は?」
「え?あ!そうだ…手ぇ繋ごうと思ってたらガキに邪魔されて――」
と言いながら、蘭は自分の周りを確認した。しかし人が多すぎて小柄ながどこにいるのかよく分からない。
「!どこだよっ」
とりあえず名前を呼んでみたものの、車の走る音や人の話し声などで、あまり遠くまでは届かない。竜胆も自分の後ろや前を探したが、らしき姿は見当たらない。その時、蘭がぼそりと呟いた。
「やべぇ…見失った」
蘭の顏が徐々に蒼白していくのを、竜胆も緊張した面持ちで見つめていた。
一方、は、ふたりの予想を超えて駅とは逆の方向へ歩いていた。一瞬、離れたものの、はすぐに繋ぎ直して今でははぐれないようシッカリと蘭の手を握っている。交差点のような場所を渡って少し進むとだいぶ人も少なくなり、はホっと息をついた。ついでにお腹が空腹を訴えるようにぐぅうっと鳴る。お昼を軽く食べてすぐ出かけて来たので、そろそろ限界のようだ。はいつものように「蘭ちゃん、お腹空いちゃった」と甘えるように蘭を仰ぎ見ると――。
「…え?」
「…っ?!!」
いつも優しい眼差しで自分を見下ろす蘭ではなく、全く知らない男がを見下ろしていた。