六本木心中


ギラギラと光るネオン、車の走る音、人の笑い声や怒鳴り声、何語か分からない言葉が飛び交う。
帳の下りた頃、今日もこの街には色んな毛色の人種が集まって来る。
渾然こんぜん一体となった夜の都会の喧騒は、熱気を多量に含んで、その場にいる者を簡単に飲みこんでいく。
そこへ引き寄せられるわたし達は、まるで吹き溜まりに集められたゴミと同じだ。

ここは"成功者"の集まる街、TOKYO.六本木――。

闇に生きる人間にとって、この街はパラダイスだ。




「あれ、気に入らねえ?」

青ざめたわたしの表情に気づいた男は、一度差し出した真っ赤な薔薇の花束を肩に乗せ、魅惑的な笑みを浮かべた。

「大抵の女は赤い薔薇が好きだと思ったけど外したか。じゃあ…ちゃんはどんな花が好み?」

わたしは男の持つ花束から視線を反らし、かすかに震える手を隠すように抑えた。仄かに香る濃厚な薔薇の香りですら気分が悪くなる。それをどうにか耐えながら目の前の男を見つめた。スラリとした高身長、ブランド物のスーツをお洒落に着こなし、瞳の色と同じバイオレットの髪にはダークブルーのメッシュ。彼はこの六本木で知らない人はいないほどの有名人だ。
灰谷蘭――。貰った名刺にはそう書かれている。

過去も現在も、この街を仕切るカリスマ兄弟の兄であり、日本最大の組織"梵天"の幹部をしている男の名前は、わたしも噂くらい聞いたことがある。その有名人が突然、わたしの働くクラブへ客としてやってきた。面識もないのに指名をされ、席へ着いた瞬間、差し出された薔薇の花束――。
わたしにその花がタブーだとは知らないみたいだ。初対面の女に高価な花を贈るのは、いったいどういう意図があるのか。わたしはそこが気になっていた。裏社会の人間に目を付けられるようなことは何もしていないはずなのに。

「ごめんなさい。花は…好きじゃありません…」
「え、マジ?」

ついうっかり本音が零れてハッとした。客がプレゼントで持って来てくれたものを嫌いと言うなど、この業界ではもっての外だ。すぐに笑顔を取り繕い、「冗談です」と微笑んだ。そこへボーイがメニューを持って来た。初見の客には必ず見せるものだけど、この店に来る客の中にメニューを見る者は殆どいない。酒の金額を気にする客など来ないからだ。

「あの、お飲み物は何に致しましょうか――」
「ああ、じゃあ君と出逢った記念にシャンパンでも入れる?好きなの頼めよ」

先ほどの発言に気分を害した様子もなく、蘭さんはにこやかな笑みを浮かべた。内心ホっとしながらも笑みを返すと、蘭さんの言葉を素直に受け入れる。

「…ありがとう御座います。では遠慮なく頂きます」
「どーぞ、どーぞ」

こういう客に遠慮しては逆効果と理解している。素直にお礼を言って、店で一番高価なシャンパンをボーイに頼んだ。案の定、蘭さんは特に何を言うでもなく、楽しげにわたしを見つめている。長い足を組み、ソファに凭れながら優雅に座っている姿は、噂通りいい男だと思った。

「んじゃーちゃんとの出会いを祝して、乾杯」
「頂きます」

シャンパングラスを持ち上げ、軽く乾杯をすると、蘭さんはそれを美味しそうに飲み干した。それを確認しながらシャンパンボトルをアイスペールから取り出すと、再びゆっくりとグラスへ注いでいく。

「蘭さんは何故このお店に?誰かのご紹介ですか?」
「んー?」

当たり障りない会話を振りながら、わたしもシャンパングラスを口へ運ぶ。芳醇な味わいが口内を刺激して、甘味が後から広がってくるのがたまらない。仕事柄よく飲むけど、わたしは実際シャンパンが好きだった。右も左も分からないこの世界に飛び込んでから初めて口にした時、シャンパンのあまりの美味しさに感動してしまったからかもしれない。

「美味しい」
「そ?なら良かった。ああ…何でここに来たか…だっけ?」

蘭さんは少し前かがみになり、わたしの顔を覗き込んで来る。柔らかい眼差しと目が合い、つい仕事用の愛想笑いを浮かべた。こうして間近で目を合わせてみても、蘭さんは本当に端正で綺麗な顔立ちをしている。先ほどから店の女の子達がチラチラと視線を向けているのも頷けた。あわよくば、自分も指名をしてもらいたい。そんな目をしている。
蘭さん自身、自分の魅力は理解しているのか、目が合った女の子達に愛想のいい笑みを浮かべて手を振っている。だいぶ女慣れをしているなと感じた。

「そりゃーもちろん、ちゃんに会いに来たんだよ」

と、視線をわたしに戻して、その魅力的な笑みを見せる蘭さんの目は意外と真剣だった。

「わたし…ですか?このお店のお客様から聞いた、とかでしょうか?」

夜の商売をしていると、少なからず同業者には各店の女の子の噂は広がる。そうした人たちが興味本位で来店することも稀にあった。案の定、蘭さんは「まあね。"Jewelry"のナンバーワンに興味があって」と言いながらシャンパングラスを口へ運ぶ。その所作も大人の男のそれで、わたしの目には上品に映った。裏社会の人間なのに、優雅ですらある。

「ガッカリしたんじゃないですか?」

笑いながらも、蘭さんのグラスにシャンパンをゆっくりと注いでいく。

「いーや…」

蘭さんはグラスを持つと、意味深な笑みをわたしへ向けた。

「想像以上だったよ。噂通り美人だし、スタイルもいい。その嘘くさい笑顔ですら上品だし、立ち居振る舞いも気品があって合格」
「…え…?そんなに嘘くさかったですか?自然に見えるようにいつも練習してるんですけど」

途中サラリと嫌味を言われても動揺はしない。むしろ、わざとらしいくらいの愛想笑いを浮かべておいた。六本木のクラブに飲みに来る客は誰もが海千山千の男達ばかりだ。無茶ぶりをしてくる客もいれば、嫌味を言って感情を揺さぶろうとする連中も多い。そのどれもが彼らにとってはただの遊び。まともに受け取っていたらホステスは務まらないし神経がもたない。こうした対応も慣れている。何を言われても言葉遊びだと思いながら聞き流せばいい。この世界では25歳のわたしなど小娘同然だけど、大人の女としての立ち居振る舞いは心得ているし、またそれで客からの株が上がることを知っている。二十歳でこの世界に入ってから必死で学んだことは、無駄にせず全て身につけて来た。初対面の男に何を言われようと動揺などしない。
蘭さんは黙ってわたしを見つめている。でも不意に笑みを浮かべて「いいね」と呟いた。

ちゃんさあー。ここ辞めて、オレの店で働かない?」

蘭さんは魅力たっぷりの整った顔を近づけて、わたしを見つめた。灰谷兄弟がこの六本木で色々な店を手掛けてるのはわたしも知っている。殆どがバーや若者たちが集うクラブみたいだけど、中にはこういったクラブもあったはずだ。ということは、今夜ここへ来た目的はスカウトなのかもしれない。誰かにわたしの噂を聞いて様子を見がてら引き抜きにきた。そんなところだろうと思った。

「随分とストレートですね」
「オレ、まどろっこしいの嫌いなんだよ。気に入った子は必ず手に入れたいタチでさ」

蘭さんはグラスのシャンパンを一気に飲み干すと、

ちゃんが来てくれたらウチの店も盛り上がるだろうし…どう?金でも待遇でもちゃんの言う条件は全て飲むけど」

と膝に置いていたわたしの手にそっと自分の手を重ねてきた。その骨ばった男らしい手は、素直に綺麗だなと思った。

「蘭さん、手が綺麗で羨ましい。指も長くて、何でもつかみ取れそう」
「今夜はちゃんをつかみ取りたいけど」

言いながら重ねた手を動かし、わたしの指と指の間を撫でるようにして自分の指を滑らせ埋めていく。その僅かな刺激でゾクリとしたものが体に走った。女の身体がどこで感じるのか、蘭さんは熟知している。そんな触れ方だった。

「さすが。蘭さん慣れてらっしゃるんですね、女の扱いに」
「心配しなくても…オレは商品に手を出す趣味はねえから、もしウチで働く気があるならそこは安心していいよ」

蘭さんは笑いながら絡めていた指を外した。その答えに思わず笑みが零れた。確かにこの世界では自分の店のホステスにオーナーや従業員が手を出すことは暗黙の了解ではあるけど、タブーとされている。でも裏社会の人でも、そこはわきまえてるんだと思うと少しだけ驚いた。

「なら…お断りしても?」
「それって…オレに口説かれたいってこと?」

わたしの耳元に口を寄せ、蘭さんが小声で訊いて来る。わたしは「さあ?」と曖昧に返して、シャンパンを一口飲んだ。近づいたら危険だと本能が訴えて来るような人だと思った。

「口説いていいなら今すぐ口説くけど」
「わたしは会ったばかりの男の人の言葉は信用しないことにしてます」

肩に回された蘭さんの腕をやんわりと外して微笑むと、彼は苦笑いを浮かべて「やっぱウチの店に欲しいな」と呟いた。

「真面目な話、どう?」

近づいたら危険。そうは思うのに、心のどこかで蘭さんにそう言われることを望んでいたのかもしれない。吸い込まれそうなほどの綺麗な虹彩を見つめていたら、ふとそう思った。

「お話…聞かせて下さい」

笑みを浮かべて、今度はわたしの方から蘭さんの手にそっと自分の手を重ねた。