六本木心中



1.


「いやー今夜は楽しかったよ。また次もちゃんを指名していいかな?」
「もちろんです。ありがとう御座います」
「ほんと、いい子を入れたね、蘭くん」

丸っこい体を揺らしながら、どこかの会社の社長が笑うと、隣に立っていた蘭さんも愛想のいい笑顔を浮かべて「でしょう?」と返した。この客はオーナーである蘭さんが連れて来た客だ。彼もまた裏側に足を踏み入れている人物なのか、彼の席には終始、オーナーである蘭さんが直々についていた。

「ではまた近いうちに」
「連絡します」

客の男は蘭さんに耳打ちすると、機嫌が良さそうに迎えの車へ乗り込んで帰って行った。わたしは車内から手を振ってくる客に深々と頭を下げて、車が見えなくなるまで見送っていた。

「もう慣れた?」

気づけば見送りに出ていた女の子達は店へ戻っていて、後ろにいたのは蘭さんだけだった。

「はい。どうにかお客様の顔と名前を憶えて来たところです」

一か月前、蘭さんにスカウトされて今の店に移って来てから、ちょうど一週間が過ぎていた。前の店の倍の給料を約束してくれたことで、わたしはあっさりと長年働いていた店を辞めた。そろそろマンネリ化してきたことで新しい環境に移りたいと思っていたところへ、ちょうど蘭さんが声をかけてきたのだ。最初に話を聞いた通り、今の店は最高クラスのクラブであり、働くには申し分のない店だった。

「へえ、さすが。まあそれに店長も誉めてたわ。をつけると客がいい酒ばかり頼んでくれるって」
「このお店のお客様は優しい方が多いので」

そう言いながら蘭さんを見上げると、彼は軽く吹き出した。

「そりゃ良かった。まあ、今の調子で頑張ってくれるとオレも助かるわ」
「はい。蘭さんにスカウトして頂いたので、しっかり頑張らせて頂きます」
「そりゃ頼もしいな」

蘭さんは笑いながらわたしの肩をポンと叩いた。

「今日のドレスも似合ってる」
「蘭さんが見立てて下さったんですよね。ありがとう御座います」
「オレはオマエに似合いそうなの見繕っただけだって」

話しながら店内へ戻ると、蘭さんは「店長と話してから帰るわ」と言って、奥のオーナー室へと歩いて行った。店もそろそろ閉店だ。わたしは今の客が最後だったので、もう上がることにしてロッカー室へ向かった。

(もう慣れた、か…。やることは同じだし仕事に関しては慣れたけど…)

ふと蘭さんに言われたことを思い出し、溜息を吐く。この店に入って一週間ほどになるけど、わたしは一つだけ悩みがあった。それは店で一緒に働いてる女の子たちだ。こういう仕事柄、店の女の子同士の関係性が良くないと、色々とやりにくいことが多い。同じ席で接客をするのについている人間同士が険悪だと、客にもその空気は微妙に伝わってしまう。なのにこの店の女の子達は何故かわたしに対して当たりがきつく、平気で嫌がらせ行為をしてくる。客の席でわたしにだけ話を振らなかったり、ライターやハンカチといった小物類を隠したり、わたしの水割りをやたら濃く作って来たり。されてることは子供じみた些細な嫌がらせでも、それが続くとさすがに気分が悪い。ただの新人いびりかと最初は気にしていなかったものの、その理由が今日やっと分かった。

"オーナーのお気に入りなんてありえない。待遇良すぎでしょ?何で蘭さんがあの女のドレスを買って来るのよ"
"ほーんとムカつく!私が引き抜かれた時なんて、そんな扱いされなかったもん"

今日、出勤してきた時、ロッカールームに入ろうとしたら、そんな会話が聞こえて来て少し驚いた。確かに蘭さんには店を移る上で良くしてもらった。でもそれは今後の利益を見込んでのことだと思っている。蘭さんもその辺はきちんと考えての対応で、わたし自身そこまで贔屓をされているとは思っていなかった。でも女の子達の目にはわたしが蘭さんに贔屓をされているように映っているらしい。
わたしがロッカールームに入ると、その話は中断されたけど、着替えている間も、髪をセットしてもらっている間も、嫉妬という感情剥き出しの視線はずっと感じていた。仕事中もそうなのだから困ってしまう。せめて客の前では普通にしてもらいたいと思うけど、それを言ったところでケンカになるだけだというのも分かっている。

(ほんとやりにくい…。入ったばかりだけど…もう辞めたい、なんて蘭さんに言えないし)

この件で分かったのは、彼が自分の店の子達にまで人気があるということだ。

(まあ…その気持ち分からなくはないけど…蘭さん魅力的だし。ただ…そういう感情は仕事に持ちこまないで欲しい)

わたしはただ仕事がしたいだけだ。仕事をして、お金を溜める。目標金額になったら自分のお店を出して一人でも生きていける地盤を作る。わたしの望みはそれだけだった。嫌な過去を忘れて、自由に好きなことをしたい。その為に働いているようなものだ。

(これ以上、酷くなるようなら蘭さんに相談してみようかな…)

あまり告げ口のような真似はしたくないが、仕事に影響が出るならそれも仕方ない。そう思いながらロッカールームへ入り、自分のロッカーを開けた。
その瞬間――視界に鮮やかな赤が飛び込んで来た。それは真っ赤な花びら。薔薇の花だと認識した瞬間、顏から血の気が引いた。扉を開けたことでハラハラと舞うように落ちて来たのは、大量の薔薇の花びらだった。

「…い、いや…っ」

全身の力が抜けて、わたしはその場に尻もちをついた。自分のロッカーの中に薔薇の花びらがびっしりと詰め込まれている。ロッカールームに薔薇の香りが充満して一瞬、気が遠くなりかけた時、古い記憶が脳裏を過ぎった。一面真っ白な風景に飛び散る赤。倒れる影。何度も振り上げられた、拳――。

「あはは!見て、尻もちついちゃってる。ちゃんって薔薇が苦手ってほんとだったんだー」

後から入って来たのはわたしに嫌がらせ行為をしていた女の子達だった。その中でも一番分かりやすく顔に出していた唯という女の子が、床に座り込んでいるわたしを見て爆笑している。

ちゃんがお客さんに話してるの聞いちゃったのよね~。薔薇の匂いだけじゃなく、見るだけで吐き気がするくらい嫌いだって言ってるの。だから試してみたんだけど、まさか腰抜かすほどとは思わなかったわ」

目の前にしゃがんだ女は鼻で笑いながら「あーあーオーナーからもらったドレス、汚れちゃったわね」と、わたしの着ているドレスの裾をつまんだ。

「な…何で…こんなこと…」
「何で?アンタが気に入らないからに決まってるじゃない。蘭さんに気に入られてるからって調子に乗らないでね…って、やだーこの子、震えてる」
「そんなに薔薇が怖いのー?たかが花じゃない」

他の女の子達も一斉に笑い出した。落ちた花びらを手で掬うと、わたしの頭へとそれを落としていく。頭上から赤い花びらが降り注いだ瞬間、強烈な吐き気に襲われた。

「……ぐっ…」
「きゃ、やだ!吐かないでね?!ドレスが汚れちゃうじゃない」

目の前にしゃがんでいた唯が慌てて避けながら笑っている。その光景が、人を踏みつけにする人間の醜い顏が、遠い日の記憶と重なる。わたしの中で――何かがプツリと切れた。

「……ればいいのに…」
「えー?何言ってるか聞こえないんだけど――」
「…アンタみたな人間は…消えちゃえばいいのよ…っ」

震える足をどうにか動かし、メイク台の上にあった大きなハサミを掴んで、それを唯に振りかざした。人を意味もなく傷つける人間が嫌いだ。他人を踏みつけて楽しんでいる薄汚い人間なんか、みんな消えればいいのに。

「きゃあ…っ」

腕を斬りつけると、真っ赤な血がドレスに飛び散る。後ろにいた女の子達からも悲鳴が上がった。

「きゃあぁ!何してんのよ…アンタっ」
「ちょっと!!誰か来て――!」

ロッカールームは騒然となり、女の子達はそれぞれ叫んでいる。でもわたしには何も聞こえない。無音のまま、目の前の景色が歪んで行った。

「この人殺し――!」

一瞬、誰かの罵声が聞こえて我に返った。濡れた感触がして自分の手を見下ろすと、手のひらや手首に赤い血が付着している。それを見た瞬間、唇が、手が、ぶるぶると震えて、意識が朦朧としてきたわたしは、その場にゆっくりと崩れ落ちた。






2.

「落ち着いた…?」
「………」

その問いにわたしは目を伏せながら、小さく頷いた。
ここはオーナー室。目の前には蘭さんが座り、黙ってわたしを見つめている。わたしは俯きながら、ただボーっと血に汚れた自分の手を見下ろしていた。

が色々と嫌がらせを受けてたのは店長から聞いた。把握してたクセにオレへの報告を怠ったからアイツはクビにしたよ」
「……え?」

そこで初めて顔を上げると、蘭さんはふと笑みを浮かべた。

「悪かったな。嫌な思いをさせて」

無言のまま首を振ると、蘭さんは小さく息を吐いて、立ち上がり、わたしの隣に座った。

「大丈夫か…?」

膝の上に力なく置かれたわたしの手は、今もかすかに震えていた。蘭さんはその手にそっと触れてきた。冷んやりとしたその手が、何故かホっとさせてくれた。

「…意外だったな。があんな行動に出るなんて」
「すみません…」
「別に責めてねえよ。オレだって人に褒められるような生き方はしてねえし」

蘭さんは笑いながら、わたしの顔を覗き込んできた。意外にも、その眼差しは優しい。

「オマエに嫌がらせをしていた女どもも全員クビにした」
「…クビ…?」

そのひとことに驚いて蘭さんを見上げた。

「当然だろ。あの場所は仕事をする場だ。それを個人的な感情で和を乱すような人間はいらねえ」

蘭さんの言うことは最もだと思った。でも、それを言うならわたしがしたこともまた、和を乱す行為だ。

「だから…。オマエも辞めさせなきゃなんねえよな」
「はい…分かってます。蘭さんには色々と良くしてもらったのに…すみませんでした」

少し気分も落ち着いて、わたしは蘭さんに頭を下げた。どんな理由があるにせよ、迷惑をかけてしまったのは事実だ。蘭さんは少し驚いたようにわたしを見て、ふと笑み浮かべた。

「つーことでオマエは今からウチの店の商品じゃない」
「…はい」
「じゃあ…ちょっとオレにつき合えよ」
「…え、どこに――」
「いいから。まずは着替えて来い。オレは裏口で待ってる。ああ、その手の血もちゃんと洗えよ?」

蘭さんははそれだけ言うと、わたしの頭にポンと手を乗せ、先にオーナー室を出て行った。ひとり残されたわたしは唖然としながら閉じられたドアを見つめていたけど、ふと我に返り、急いで着替えに走った。蘭さんが何を考えているのかは分からないけど、自分がしでかしたことへのケジメはつけなくちゃならない。すでに片付けられたロッカールームでドレスから私服に着替えると、わたしはすぐに裏口へと向かった。閉店の時間はとっくに過ぎていて、従業員も全員帰ったのか、店内はシンと静まり返っていて誰もいない。ここで心機一転と思っていたのに、まさか一週間で辞めることになるとは思わなかった。小さく溜息を吐きながら裏口から外へ出る。目の前には黒塗りの車が止まっていた。静かに後部座席のドアが開き、中には蘭さんが乗っている。

「乗れよ」
「あ、あの…どこに…」
「心配しないでも警察に行ったりしねえよ」

蘭さんは笑いながら「乗って」と手招きをしている。わたしは諦めて促されるまま後部座席へと乗った。蘭さんと知り合ってから、二人きりで出かけるのは初めてのことで、多少の緊張感を覚える。今までは店のオーナーとホステスという関係だったけど、今からは全くの他人だ。蘭さんが裏社会の人間だということも忘れていない。その蘭さんの店で傷害事件を起こしたのだから、それなりの罰を受ける覚悟ではいたけれど、いざこうして二人きりになると、さすがに少し怖いと思った。

「あ、あの…唯さんのケガは大丈夫だったんでしょうか」
「あーあんなのかすり傷だったよ。痕も残らねえし心配すんな」
「でも…」
「アイツには被害届は出さないよう言っておいた。クビにはしたが条件のいい店を紹介してやったし、金もある程度渡したからオマエは捕まらない」
「えっ?な、何で…蘭さんがそこまでしてくれるんですか」

蘭さんの言葉に驚いた。さすがにそこまでしてもらう義理はない。蘭さんはふとわたしの方へ視線を向けた。その瞳はこれまで見てきたどの蘭さんとも違うものに見える。

「知りたい…?」
「はい…。結局、わたしは何の役にも立てなかったので」

蘭さんから引き抜きの話をされた時、店の為に頑張ってくれと言われていた。なのに一週間でクビになるような事件を起こしてしまったのだから罪悪感が残る。なのに蘭さんがわたしの為に色々と動いてくれたことが不思議だった。
蘭さんは苦笑いを浮かべると、「これから役に立ってもらうから心配すんな」とだけ言った。その言葉の意味を聞こうとした時、車が静かに停車した。

「来いよ」

蘭さんに促され、車を降りると、そこは六本木にある一番大きなタワーマンションの前だった。噂で聞いたことがある。ここは"梵天所有"のマンションだと。

「ここは…?」
「オレんち」
「…え?」

蘭さんはオートロックを手元のリモコンキーで外して振り返った。彼の表情からは何を考えているのかまでは読み取れない。そこでふと前に言われた言葉を思い出した。

"商品に手を出す趣味はねえから"
"オマエは今からウチの店の商品じゃない"

それらを踏まえて考えた時、蘭さんが何故わたしを自分の家に連れて来たのかという疑問の答えになりそうで、思わず入るのを躊躇した。

「どうした?来いよ」
「あ、あの…どうして――」
「理由は中で話すから」

蘭さんはそれだけ言うと、わたしの腕を掴み、中へと入って行く。こうなっては逃げることも無理だと悟った。やはり唯を説得し、わたしを警察に突き出さなかったことには理由があるのだと理解する。それならそれで割り切るしかない。

(大丈夫…いい大人なんだし…もし何かされたとしても大したことじゃない…。警察に捕まるよりマシと思えば…)

わたしは覚悟を決めて、蘭さんの手に引かれるままマンションへと足を踏み入れた。