六本木心中
日本最大の組織――"梵天"。
そこのトップである佐野万次郎は、警察でもその姿を直に見たことは殆どないと言われているほど、全てがベールに包まれた人物。そんな噂が実しやかに流れるほど、謎の多い男だという話を聞いたことがある。その実体があるかどうかも分からないような男との顔合わせは、色々な経験をしてきたわたしでも、呆気に取られるほど、穏やかな空気に包まれていた。
「食う?」
そう言われ、目の前に差し出されたのは正真正銘、某有名お菓子メーカーが手掛けるジャイアントカプリコ…のミニバージョン"カプリコ ミニ"だった。それもミルク味。可愛らしいお菓子をわたしに差し出しているのは、白髪を顎の辺りまで伸ばした男の人だった。長い前髪を真ん中で分けて、その間から覗く鋭い大きな目が印象的だ。フカフカのラグマットの上に胡坐をかいて座っている佐野万次郎は、正面に座らされたわたしをジっと見ながら今もお菓子を差し出している。
「えっと…」
つい後ろに立つ蘭さんを仰ぎ見ると、彼は無言のまま頷いた。黙って受けとれ。そう言っているんだと分かって、わたしは素直にカプリコを受けとった。え、どういう状況なの?これは。
「ありがとう…御座います」
お礼を言うと、彼は返事の代わりに咥えていた自分のカプリコをカリッとかじって、モグモグと食べ始めた。でもあまり表情は変わらず、今もわたしをジっと見ている。このおかしな空気の中、どうしたらいいのかも分からず手にしたカプリコを見つめていると、不意に「食わねえの?」という声がして、ハッと顔を上げた。
「あ、い、頂き…ます」
「あーこっちの味の方が良かった?」
「…え?」
今まさに貰ったカプリコを食べるのに袋を開けようとしていた時、またしても目の前に違うカプリコを差し出された。今度はいちご味。
「ぶは…っ」
突然、後ろで様子を見ていた蘭さんが盛大に吹き出した。驚いて振り返れば、蘭さんは手で口元を抑えているけど肩が揺れている。こんな風に笑っている彼を見たのはこの時が初めてで、少しばかり唖然としてしまった。
「どーやら大丈夫みたいだな」
「…え?」
「マイキー。この子はだ。今日から身の回りのことはこの子に頼んで」
「?」
蘭さんの言葉に反応して、佐野万次郎が再びわたしを見た。寝不足なのか、目の下に薄っすら隈があるけど、比較的顔色はいい。不安定なところがあると言ってたけど、今はそんな風には見えなかった。
「はい。です。今日からお世話になります」
やっと挨拶が出来ると、わたしはきちんと正座をして自己紹介してから頭を下げた。でも何も返事がないので顔を上げようとしたその時、ふわりと頭に手が乗せられた。
「オレ、佐野万次郎。よろしくな、」
彼はそう言ってわたしの頭をくしゃりと撫でた。この組織の人は頭を撫でるのが好きなんだろうか。子供の頃でもこんな風に誰かから頭を撫でられたことはない。だから、知らなかった。人から頭を撫でられると、こんなにも心地いいんだということを。
「んじゃーマイキー。ちょっと今からの自宅マンション行って準備させてくるから、また後で連れてくるよ」
蘭さんは約束通り、わたしを家に連れて行ってくれるみたいだ。でも佐野万次郎は何故か不満げに目を細めている。
「…ふーん。じゃあオレも行く」
「え?」
佐野万次郎が不意にわたしの手を掴んで立ち上がり、蘭さんは驚いたように振り向いた。
「マイキーも行くの?」
「だってオレ暇じゃん」
「………」
蘭さんが何とも言えない顔をした。あれは驚いてる時の顔だ。
「普段あんま外出たがんねえのに」
「今日は体調いいんだ」
「そりゃー良いことだけど…ま、いっか。マイキーがそう言うなら」
蘭さんは苦笑しながら誰かにケータイで電話をし始めた。
「ああ、オレ。今から出かけるし地下に車、まわしとけ。それとマイキーも行くから。ああ、マジで。頼むなー」
そこで電話を切ると、「んじゃー行くか」と言いながら部屋を出て行く。佐野万次郎は相変わらずわたしの手を掴んだまま、その後に続いた。その時、彼の後ろ姿を見て首の後ろに変わったタトゥーをしてることに気づいた。ちょっと驚いたのは、それが蘭さんの首にあるものと同じだったからだ。花札のようなその柄は梵天幹部の九井さんの頭にも入っていたことを思い出す。どういう意味合いがあるのか少し気になったけど、聞く勇気はない。でもそこでふと彼の足元を見て驚いた。
「あ、あの…佐野さん…」
「まんじろー」
「……え?」
「万次郎でいいよ。堅苦しいの嫌いだし」
そう言われても、いきなり梵天のボスを名前呼びとか出来るはずがない。と思ったものの。
"マイキーの言うことに逆らったり、口答えはなしな"
蘭さんに言われたことを思い出した。
「はい、じゃあ…万次郎…」
「うん、何?」
彼はニッコリと笑みまで見せて、振り返った。
「その恰好で寒くないですか?何か羽織るものでも…」
彼は裸足にビーサン、黒い長袖シャツに細身のパンツスタイルといったラフな服装だった。いくら車で移動するとは言え、今は初秋も過ぎて外は肌寒い時期だ。こんな薄着では風邪を引いてしまうと思った。なのに万次郎は一瞬キョトンとした顔でわたしを見ると、「オレ、厚着って嫌い」と僅かに顔をしかめる。その表情は子供のそれで、ちょっとだけ驚いた。この人が本当に梵天のボスなんだろうかという疑問が湧いて来る。
「あと敬語」
「え?」
「敬語で話されんの嫌い」
「あ、す、すみません――」
「ほら、それ」
「あ、ご…ごめんなさ…」
と言いかけて慌てて口を閉じる。水商売をやっていると初対面の相手とは敬語で話すのが当たり前だ。だからなのか、つい初めて会う人や目上の人に敬語で話すのがクセになっている。だいたい梵天のトップに会ったばかりでため口は利けない。でも彼が嫌だと言うなら直さないといけないんだろうなと思った。内心少しばかり焦っていると、彼が急に顔を覗きこんで来た。大きな瞳と至近距離で目が合う。
「おもろ…」
「え…?」
「の焦ってる顔」
「……」
万次郎はケラケラ笑いながら歩いて行く。顔が面白いと言われたのは初めてで一瞬呆気に取られたものの、機嫌を損ねたわけじゃないと思ってホっと胸を撫でおろす。全くボスに見えなくても、彼が日本最大組織の頂点にいるのはまぎれもない事実。いつ豹変するか分からない。気さくな人だからといって油断は出来ないと気を引き締めた。
それから三人で車に乗って、わたしの自宅マンションに到着した時も、万次郎は部屋まで一緒についてきた。
「へえ、綺麗にしてんだな。らしい部屋」
室内を見渡しながら蘭さんが言った。
「必要なものだけ持ってな。ぶっちゃけあの部屋には何でも揃ってるし、捨てたくない服とか靴だけでいーだろ」
「はい」
と言って、それほど物に執着するタイプでもない。結局、わたしがボストンバッグに詰めたのは下着類とノートパソコンだけだった。蘭さんが言った通り、あの部屋には服や靴などは沢山ある。家電も最新式のものばかりだった。ただ下着類などは派手なものばかりで――蘭さんの趣味らしい――落ち着かないから自分の気に入った物が必要だ。そうなると荷物は本当にごくわずかになった。
「え、それだけ?」
案の定、蘭さんが驚いた顔をしている。
「マジでいいの?それだけで」
「はい。どうせ持って行っても、いつ死ぬか分からないんですよね、わたし。なら持って行っても無駄になるし、生活するのに必要な物は揃ってたからこれだけで大丈夫です」
そう言いながら見上げると、蘭さんはポカンとした顔でわたしを見下ろしていた。
「何ですか…?」
「いや…オマエって…度胸あるっつーか。潔いっていうか…」
蘭さんは苦笑交じりで呆れたように笑っている。
「蘭さんが言ったんじゃない。命の危険があるって…」
梵天に飼われるということはそういうことで、いつ殺されてもおかしくはないと覚悟していた方が、わたしは気が楽だった。
「まあ言ったけど…でもそれはオマエが逆らったり、逃げようとしたらの話な?」
「わたしは逃げる気も逆らう気もありませんけど…彼の機嫌を損ねてしまったら…分からないんですよね」
そこは小声で尋ねると、蘭さんは「まーな」とひとこと言った。でもすぐに辺りを見渡すと「あれ…」と首を傾げている。
「ってかマイキーは?」
「…え?」
そう聞かれてわたしも室内を見渡したが、確かに一緒に入って来たはずの万次郎がいない。それほど広くはないリビングには蘭さんとわたしだけだった。他に彼が行きそうなところと言えば寝室しかない。わたしはすぐに廊下へ出て寝室の中を覗いた。
「あ…」
予想通り、そこに万次郎はいた。何故かわたしのベッドの上で両腕に頭を乗せて横になっている。
「げ、マイキー寝てんじゃん」
そこへ蘭さんもやって来て苦笑いを浮かべている。
「ったく目を放すとすぐこれだ。おい、マイキー帰るぞ」
蘭さんが困った様子でベッドの方へ歩いて行くと、小柄な万次郎を無理やり起き上がらせている。なのに彼は「う~ん…」と言うだけで、なかなか起きようとはしない。あげく「おんぶ」と言い出した。
「は?おんぶ?」
「腹減って動けねえ…」
「マジで?」
万次郎は駄々っ子のように蘭さんに絡んでいる。あの蘭さんが顔を引きつらせて困ってる姿はなかなかにレアだ。
「じゃあ何で一緒に来るって言ったんだよ…待ってりゃ良かったのに」
「ひとりで待ってんの寂しーだろ…?いーからおんぶ」
「はあ…はいはい」
蘭さんは諦めたのか、万次郎を背中におぶって「何でオレが…」とブツブツ言っている。その姿を見て思わず吹き出してしまった。
「何笑ってんだよ、…」
「あ…ご、ごめんなさい…」
ジトっとした目で睨まれ、すぐに緩んだ顔を戻した。でもこうして見ると、犯罪組織の幹部とボスには全く見えない。
「…はあ。帰ったら、何か飯でも作ってやって」
「あ、そうですね」
「オムライス」
「え?」
「オレ、オムライス食べたい。旗が乗ってるやつ」
「…旗?」
万次郎が蘭さんの背中でヌクヌクしながらご飯のリクエストをしてきたものの、旗の意味が分からない。
「あー…マイキーお子様ランチについて来る旗にテンション上がる人だから」
「…あ、お子様ランチ…」
蘭さんの説明にピンと来た。でもまさかそんな物を欲しがるとは思わなくて、かなり驚いた。そこで本日何度目かの疑問が湧く。
(佐野万次郎って…噂とイメージがイコールじゃない…)
話で聞く分には恐ろしいイメージしかなかったのに、実際に会ってみると、どこか可愛らしい人だと思った。こんな人が本当に梵天のトップなんだろうか。今では蘭さんの背中でウトウトし始めていて、蘭さんは「重てぇ…ウゼぇ…」とボヤきながら歩いている。いつもは大人の蘭さんも、今はどこか高校生みたいなノリで、そんな彼もまた可愛い、なんて思ってしまった。