六本木心中



夜、万次郎の部下の三途という男に、部屋へ来るよう言われた。万次郎がお風呂に入ったのを見計らったようにかかってきた。ケータイは蘭さんに持たされたものだ。

『4702号室だ』

と、その男はそれだけ言うと電話を切った。威圧的な感じの声で少し怖かったけど、仕方なく部屋を出る。バスルームの前を通った時、一瞬声をかけてから行こうかとも思ったけど機嫌が良さそうな鼻歌が聞こえて来たからやめておいた。

(ほんと…彼があの悪名高い梵天のボスなんて、変な感じ…)

今日一日、万次郎と一緒に過ごして心底そう思った。犯罪組織のボスというよりは、小学校の学年にひとりは必ずいるようなガキ大将といったイメージの方が強い。我がままで駄々っ子のような一面があるからだ。

(あの蘭さんをあんなに困らせるんだから、ある意味ラスボス感はあるけど)

万次郎を相手にしている時の蘭さんを思い出して、思わず吹き出しそうになった。

「えっと…2号室…はここか…」

最上階の万次郎の部屋を出ると、その部屋はすぐ右手にあった。言うなら私の部屋の真向かい。ということは、今から会う三途という男は万次郎の次に偉い人ってことかもしれない。そう思うと少し緊張したものの、まだ会ったことがないので挨拶をするいい機会だと思った。

(蘭さんが幹部はあと三人いるって話してたけど…この人はそのうちの一人ってことか)

軽く深呼吸をして、姿勢を正してからインターフォンを鳴らすと、相手はすぐに応答した。

『開いてるから入って来い』
「…はい」

言われた通り、鍵はかかっていなかった。ゆっくりドアを開けて中を覗くと、長い廊下奥のリビングに仄かな明かりが見える。そっと足を踏み入れて「お邪魔します」と声をかけると、やはりリビングの方から「こっちだ」という声が聞こえた。どんな用事かは知らないけど、何をされてもわたしは抵抗することもできない。覚悟だけはしておこうと、もう一度小さく深呼吸をした。

「失礼します。あの…三途さん…?」

わたしが与えられた部屋より少し広めのリビングを見渡しても誰もいない。それでも一歩、一歩ゆっくりと歩いていくと、不意にキッチンの方でバタンと冷蔵庫の扉が閉まる音。ハッとして振り返ると、そこにはスリーピースのスーツを着た、ピンク色の髪の男が立っていた。鋭い大きな瞳と長いまつ毛、そして口元には派手な傷跡が印象的な男だ。

「…オマエか?ってのは」
「は…はい」
「オレは三途だ。三途春千夜」

彼は冷蔵庫から出した缶ビールで手のひらにあった錠剤を流し込んでいる。軽く酔っているように見えるけど、もしかしたら薬でもやって飛んでるのかもしれないと一瞬だけ警戒した。

「三途…春千夜さん…。です」
「へえ…灰谷のヤツが好みじゃねえっつってたけど、なかなかいい女じゃねえか」
「…きゃ」

こっちへ歩いて来た彼に突然、腕を引っ張られ、腰に腕を回された。知らない男といきなり密着している状況に体が少しだけ強張る。それに気づいたのか、彼は不意に含み笑いをしながら腕を放した。

「灰谷が自分の店の女を連れて来たっつーから、男慣れしてんのかと思えば、そうでもねえみたいだな」
「…どういう、意味ですか?」
「あんま遊んでねえってことだよ。あーでも灰谷の弟とはヤったんだっけ?」
「……どんな用でわたしは呼ばれたんですか?」

煽るように笑いながら顔を覗き込んで来る彼を見据えて尋ねる。竜胆とのことを言われてかすかに手が震えたのを悟られたくなかった。三途という男は何も反応しないわたしを見て、「つまんねえ女だな」と鼻で笑ってから、スーツのポケットからカプセル薬の束を取り出した。

「これ、マイキーが寝る時に毎回必ず飲ませろ」
「…これは?」
「別に変な薬じゃねえ。睡眠薬だ。マイキーはこれがないと熟睡できねーからな。今月分だ」

言われて思い出した。確かに万次郎を見ていて寝不足なんじゃないかとは感じていた。でもこんな薬に頼るのは体に悪い気がする。こんなものを毎日飲ませるのは少し抵抗があった。

「あの…三途さん…」
「あ?」
「万次郎…さんはこれがないと全く眠れないってことですか?」
「ああ。寝てもすぐ目が覚めちまうし、それが続くと気持ちが不安定になる」
「……そう、ですか」

やはり飲ませるしかないのか、と思っていると、三途さんの手が私の手首を掴んだ。ハッとして顔を上げると、彼は怖い顔でわたしを見下ろしていた。

「これはオマエの為でもある。必ず飲ませろよ?」
「わたしの…為ってどういう意味ですか…?」

わたしの問いに、三途さんは僅かに顔をしかめて「灰谷から聞いてんだろ?」とひとこと言った。

「マイキーが精神的に不安定になった時、そばにいるヤツがまず最初に被害に合う」
「…被害?それって何の――」

三途さんはそれには応えず、「忘れんなよ?」とだけ言った。

「もう戻っていいぞ。風呂から上がって誰もいなかったらマイキーがキレっから」
「……はい」

欲しい答えはもらえず、わたしは仕方なく頷いておく。

「失礼します」
「…おう」

三途さんが再びキッチンの方へフラフラ歩いて行く。それを見ながら、わたしは玄関に行き、靴を履こうとした時だった。キッチンの方からガタンっという音とグラスが割れる音が聞こえてドキっとした。

「三途…さん?」

何かあったのかと声をかけたけど返事がない。少し気になり踵を翻してキッチンの方へ戻ると、冷蔵庫の前に三途さんが座り込んでいた。少し呼吸が荒く、具合が悪いように見える。慌てて駆け寄り、「大丈夫ですか…っ?」と声をかける。でも返事がない。

「わたし誰か人を呼んできます――」

と立ち上がろうとした瞬間、腕を掴まれ、引き戻された。その勢いで彼の方へ倒れ込む。三途さんからはかすかに石鹸に似たようなフレグランスの香りがした。

「ちょ、何を――」
「呼ばなくて…いい…」

三途さんが苦しげに息を吐きながら呟いた。

「で、でも具合が悪そうだし…っ」
「大丈夫だって言ってんだろ…いいから水…」
「水…?」

そこでキッチンの奥にウォーターサーバーが置いてあることに気づいた。見ればその前に割れたガラスが飛び散っている。それを踏まないようにしながら、新しいグラスを棚から出して、それに水を注いだ。

「あ、あのこれお水――」

と言って三途さんの手に持たせると、彼はそれを一気に飲み干している。ふと見れば口元から一滴、水が垂れていた。このままじゃシャツが濡れてしまうと、常に持ち歩いているハンカチを出して彼の口元をそっと拭った。それに驚いたのか、三途さんは「触んな…っ!」とわたしの手を振り払い、ハンカチが床に落ちる。彼はハッとしたような顔をしてからプイっとそっぽを向いた。

「オレに…かまうな」
「ご、ごめんなさい…あの…ガラス、片付けるので三途さんは動かないで下さい」
「いいからオマエは戻れ…っ」
「きゃ…」

彼の手に突き飛ばされて尻もちをつく。その時、彼の触れた場所に血がついていることに気づいた。

「え…血?」

見れば三途さんの手のひらに血が滲んでいる。もしかしたら落としたグラスの上から手をついてしまったのかもしれない。

「三途さん、ちょっと待ってて下さいね」
「は?」

彼が何かを言う前に、わたしはすぐに彼の部屋を出ると、向かいの自分の部屋へ入った。そこでさっき運んだばかりの荷物の中から救急セットの入った箱を取り出す。この部屋にはそういった類のものがなかったので念の為にと持って来たものだ。中から救急箱を取り出し、それを持って三途さんの部屋へと戻る。彼はまだキッチンの床に座り込んでいた。さっき飲んでいた薬のせいなのか、少し気だるそうにわたしを見上げる。

「テメェ、何して――」
「ちょっと手を見せて下さい」

キッチンの電気をつけて明るくすると、彼の手を無理やり掴む。三途さんはギョっとしたようにわたしを見た。今度は振り払われなかった。

「な、何する気だ、テメェ…」
「ガラスが刺さってるのでこれでとります」

とピンセットを見せると、明らかに三途さんの顏が引きつった。

「い、いいって言ってんだろ…っ?オレにかまうな…っ」
「でもこのままにしておくと、どんどん中に埋まってずっと痛いままです」
「………」

怒鳴られてもいいからキッパリ言うと、三途さんは思い切り顔をしかめるだけだった。それをOKと受け取って、彼の手をひっくり返す。案の定、ガラスの破片が三つほど手のひらに食い込んでいた。

「うわ…痛そう…」
「…別に痛くねえよ」
「それはさっき飲んだ薬が効いてるからで、それが切れたら痛いと思うから…」
「……チッ…じゃあッサッサとやれよ」

やっぱりガラスが刺さったままなのは三途さんも嫌らしい。彼は不機嫌そうに眉を寄せて顔を背けたものの、今度こそちゃんと承諾を得たことで、少しホっとした。

「じゃあ取りますね」

一応断ってから、わたしは彼の手に刺さっているガラスをそっとピンセットで一つ一つ取り除いていく。そのたび彼の手がピクリと動いた。

「痛いですか…?」
「あ?痛くねえつってんだろ…サッサとしろ」
「あとはこれだけだしジっとしてて」

と最後に一番小さなガラス片をピンセットでどうにか掴み、それを一気に引き抜いた。

「…っつ」
「取れたあ…」

綺麗に取れたことでホっと息を吐き出すと、三途さんは気まずそうにわたしを睨んで来る。それに気づかないフリをして消毒液で傷口を消毒。最後に絆創膏を貼ってあげた。

「はい、これで大丈夫です」
「………おう」

初対面の女に治療されたのが不本意なのか、彼は不機嫌そうな顔を隠そうともしない。でもさっきよりは大人しくなった気がする。その間にハンドクリーナーをリビングの隅に見つけて、それで床のガラス片を吸い取っておく。これで彼が踏む心配はない。

「これでよし、と…三途さん、中身はここに捨てても?」

キッチンにはゴミ箱がいくつもあって、きっちりと分別されている。男の人なのにここまで完璧に分けている人は初めて見た。

「ああ…そこの袋に包んで捨てとけ」
「はい」

言われた通りに捨ててハンドクリーナーを戻すと、とりあえず気持ち的には落ち着いた。時計を確認すると、この部屋に来てから15分は経っている。早く戻らないと、そろそろ万次郎がお風呂から上がってきてしまう。

「じゃあ、わたしはこれで」
「…ああ」

三途さんは少し落ち着いたのか、ゆっくりと立ち上がって軽く息を吐いている。最初の印象は怖い人だったけど、今は少しだけ彼の空気が和らいだように見えた。

「あ、そうだ。三途さん、これ」
「あ?」

思い出して新しい絆創膏と消毒液を彼に渡すと、三途さんは怪訝そうな顔でそれを受けとった。

「明日またシッカリ消毒して下さい」
「…こんな傷、たいしたことねーよ」
「でもそういう小さな傷からばい菌が入って炎症することもあるからお風呂上りだけでもきちんと消毒して下さい」
「………」

炎症と聞いて彼の顏が引きつった。一見、ケガには強そうだけど、やっぱり炎症するのは嫌みたいだった。ああいうガラス片で出来た傷は切り傷よりも厄介だ。わたしも子供の頃に経験してるから念の為、大げさに言っておく。

「じゃあ、お休みなさい」
「…チッ。まだ寝ねーよ」

彼はいちいち反論しないと気が済まないタチらしい。わたしは気にしないで靴を履いて部屋を出ようとした。その時、「おい…」と呼び止められて振り返ると、三途さんがわたしの方へ歩いて来た。その手にはさっきのハンカチが握られている。落としたまま忘れて来たらしい。

「あ…すみません」

と、それを受けとろうとして手を出した。なのに三途さんはその手を引っ込めてしまった。驚いて顔を上げると、彼は照れ臭そうな顔で視線を反らして、

「これは…汚しちまったから…新しいの買って返す」
「え…?でも…」
「あ?嫌なのかよ」

三途さんが僅かに目を細めて睨んで来る。彼もかなり端正な顔立ちだから、なかなかに迫力があった。

"幹部には逆らうな――"

ふとその言葉が過ぎって慌てて首を振った。

「い、いえ…あの…ありがとう…三途さん」
「春千夜」
「え?」
「春千夜でいい。女に三途さんなんて呼ばれたことねーし気持ちわりーんだよ」

そう言いながらも全然わたしを見ようとしない。その横顔はやっぱり少し照れてるように見えた。だいたい口調と表情があってない。さっきから話してて感じてたけど、彼はかなりのツンデレタイプらしい。

「…じゃあ…春千夜さん」
「やっぱさん付けかよ…」

と、軽く舌打ちをされたけど、怒ったわけじゃないようで、彼の口元はかすかに弧を描いていた。

「…マイキーを頼む」
「はい」

素直に頷けば、春千夜さんは「またな…」とひとこと残してリビングへと戻って行った。部屋を出てホっと息を吐くと、すぐに万次郎の部屋へと戻る。少し緊張してたせいで今頃になって手に震えが来た。
それにしても――。

「色んな人がいるんだ、梵天って…」

万次郎を筆頭に、それぞれの個性が強くて戸惑うことも多いけど、今のところはどうにかやれる気がして来た。その時、持っていたケータイが震動していることに気づいて、慌てて相手を確認すると、そこには"竜胆"の表示。ドキっとして一瞬だけ出るのを躊躇った。でも無視するわけにはいかない。

「…はい」
『あー?今、何してんの』
「あ…今は万次郎に飲ませる薬を春千夜さんから受け取って来たところ」
『ああ…いつものやつか。じゃあこれから部屋に戻る感じ?』
「はい」

何の用だろうと思っていると、彼は『じゃあマイキー寝ちゃったらちょっとデートしねえ?』と言って来た。

「え…デートって…」
『言ったじゃん。この前のお詫び』
「でも…」
『マイキーが寝た後は出かけても大丈夫だって。今までの子も皆そうしてたし』
「…みんな…?」
『あ、じゃあマイキー寝たら電話しろよ。エントランスまで迎えに行くから』
「え、あの――」

と声をかけた時にはすでに電話は切れていた。

「…さすが蘭さんの弟…強引なとこはそっくり」

サッサと切られたケータイを見下ろしながら、思わず苦笑が洩れた。これまでの仕事なら断ることも出来るけど、今のわたしにそんな権利はない。悩んだところで結局は行くことになるのだ。それに外に出られるなら、少しは気分転換になるかもしれない。
昨日までの自分にさよならをして、今日からは違う自分を生きると決めた。過去に犯した罪を思えば、どんなことでも受け入れられる。そう、自分に言いきかせた。