六本木心中



春千夜さんから預かった薬をお風呂上りの万次郎に渡すと、彼は素直にそれを受けとり、そのまま口へ放り込んだ。そしてふとわたしを見ると、「オレが寝たら出かけんだろ」と笑う。何もかも見透かすような黒い瞳が、まるで別人のように見えて少しだけ、怖かった。

「別にいいけど。前のヤツもそうだったみたいだし」
「え…?」

戸惑うわたしの様子に気づいたのか、彼は不意にニッコリと微笑む。さっき竜胆も同じようなことを言っていたのを思い出した。"前のヤツ"とは、わたしと同じように飼われていた人かもしれない。

「でもオレが寝るまではそばにいてもらう」

万次郎はわたしの手を掴んで寝室へと歩いて行く。今日は珍しく外に出たから疲れたと言っていた。夕飯のオムライスを食べてお風呂に入ったら眠くなったみたいだ。

「え…わ…っ」

寝室に入って、万次郎が大きなキングサイズのベッドに潜り込んだのと同時に、掴まれていた手を引っ張られてわたしまでベッドへ倒れ込む。何事かと思う間もなく、わたしはフカフカの布団の中で万次郎と向かい合っていた。

「あ、あの――」
「オレが寝るまではこうしてて」
「え?」

わたしの手をぎゅっと握りながら万次郎は目を瞑った。彼が寝るまでそばにいろって言うのはこういうことなのかと少し驚いたけど、蘭さんは万次郎が常に不安定で目が離せないって言ってた。こうして眠るのはきっと人の体温で安心するんだと思う。わたしもそうだったから、その気持ちは凄く分かる。

はさ」
「……?」

寝たのかと思っていたら急に話しかけられて驚いた。目を開けると、万次郎の大きな瞳がわたしを見つめている。夜よりも深い黒色の瞳は、昼間に見せた無邪気な顔とは違って、どこか孤独に包まれているように見えた。

「どこの出身?」
「わたし、ですか?」
「敬語…」

彼の瞳がスッと細められる。

「あ…ご、ごめん…」

なさい、と続けそうになってすぐに頭を切り替える。水商売なんてしていたクセに、仕事以外では知らない人に慣れるのに随分と時間がかかる性格で、やっぱり脳内ですぐに敬語が浮かんでしまう。それが他人行儀だと嫌がられて、あまり親しい友達も出来なかったのを思い出した。前とは違う人生を生きると決めた以上、前の自分は捨ててしまおう。万次郎の目を見ていたら、ふとそう思った。

「えっと…わたしの…出身地?」
「うん。どこ?」
「北国だよ。すーごく寒いとこ」
「へえ…だから色白なんだ」
「万次郎は?」
「オレは…生まれも育ちも渋谷」
「渋谷?いいなぁ。何かお洒落」

わたしはずっと東京に憧れてた。ただあの狭い町から逃げ出したくて、遠い海の向こうの都会に行けば、何かが変わると信じてた。あの頃の予想よりも大きく変わりすぎた運命のせいで、今はこんな豪華なマンションの一室で、会ったばかりの男とベッドを共にしてる。

「両親は?」

その問いには心臓が嫌な音を立てた。あの人達のことは思い出したくもない。

「死んだ」
「…死んだ?」
「わたしが…殺した」

万次郎の目を見ていると、何故か正直に言えた。嘘をつくことも出来たけど、彼は裏社会に生きる人だ。人殺しの女が隣に寝ていようと、何も気にしない気がした。
そしてわたしの予想通り、万次郎は表情すら変えなかった。いや、表情のなかった顔に、笑みすら浮かべて「何で」と訊いて来た。蘭さんにバレた時も思ったことだけど、梵天の人達は人を殺したと言ったところで、わたしを責めたりはしない。今のままのわたしを、そのまま受け入れてる。昨日まで自分の過去をひた隠しにして生きて来たわたしにとって、それは不思議な感覚だった。

「わたしが小学校低学年の時ね、お母さんが結婚したの。本当の父は既婚者で妻子持ちの男だったから、その人とは結婚出来なかったみたい。本当の父親も最低だけど、義父になった男も最低だった」
「…なに…されたんだよ」
「よくある話。言うことをきかなければ血を吐くまで殴られて、泣くと口にタオルまで詰められた。真冬の外に締め出されたこともある。それが中学校に上がっても続いて…でもある日、あの男がわたしのベッドに潜り込んで来たの。また殴られるんだって思って怖くて固まってたら、アイツはわたしの服を脱がし始めた。その時は驚いて、殴られるよりも恐怖を感じた。だから大きな声をあげて抵抗したら、アイツは焦ったようにわたしを殴って部屋から出て行った。お母さんにバレると思ったみたい」

そこまで一気に話して、わたしは小さく息を吐いた。万次郎は黙って聞いてくれていた。でも繋いでいた手がぎゅっと握られたのを感じて、何故か泣きそうになる。

「…よくある話すぎて嫌になるけど…その時のわたしは本気で恐怖を感じた。このままこの家にいたら、いつか自分が自分じゃなくなる。怯えて暮らすのは、もう嫌だと思った」

だから実行した。何かの小説で読んだことがある、人を事故に見せかけて殺す方法。雪国ならではのやり方だった。わたしは直接手を下してない。ただそこに誘導しただけ。あの男の体を貫いた氷の刃は触れてしまったから近所の用水路へ捨てた。大量の雪に埋もれて死んだあの男が故意に殺されたなんて誰も気づかなかった。――母を除いては。

「お母さんは娘がやったって言い張ってた。でも何の証拠もない。凶器もない。警察はわたしを捕まえられなかった」

そこまで話すと想像以上にスッキリした。これまで誰にも話したことがない。ずっと自分の心に刻まれていた罪。

「…母親は…どうしたんだよ」
「死んだ。わたしのこと人殺しだって騒いで精神的に病んで、勝手に死んでくれた。でも…あの男と一緒になってわたしを殴ってたような女だからせいせいした」

"アンタの顔を見てるとあの人を思い出す――!"。
自分を捨てた男の面影をわたしに重ねて、そんな理由で実の子を殴れる母親なんていらなかった。

「最低でしょ、わたし」

あの男を殺したことは後悔してない。ただアイツの血が飛び散った時の光景は、今も鮮明にこの目に焼き付いている。真っ白な雪の上に咲いた、真っ赤な薔薇のように見えた、あの光景が。

「オマエが最低なら…オレはもっと最低な人間だよ」
「え?」

不意に笑った万次郎に、少しだけ驚いた。さっきと何も変わりない目を、わたしに向けている。

「オレはと違って大した理由もなく、人を殺してきた。今もそう。でも何も感じない……最低だろ?一分後にはオマエのことも殺すかもしれない」
「…万次郎」
「オレが…怖い?」

そう呟いた顔は、少しだけ寂しそうに見える。思わず首を振ると、万次郎は柔らかな眼差しで微笑んでくれた。
あの男を殺したことは後悔してない。だけど、自分の罪はどうやっても消えない。後悔があるとすれば、その罪を償わずに生きて来たことかもしれない。結果、蘭さんの目に留まり、その代償を今、梵天に飼われることで払っている気がした。自由に生きられない分、警察に捕まるのも、梵天に飼われるのも同じことだ。

は……オレと同じ目をしてる」
「…同じ…目?」

握られていた手が離れたと思った瞬間、万次郎の指先がわたしの瞼にそっと触れた。少しだけ冷んやりしてるその指は、わたしの瞼や頬を優しくなぞっていく。

「孤独を…纏った目…助けて…って…叫んでるみたいだ…」

そう呟く彼の腕がわたしの背中にまわって抱き寄せられる。細身なのに、やけに筋肉質なその腕は、意外なほどに優しかった。