六本木心中



万次郎と二度寝をして次に目が覚めた時、「腹減った…」と言われて、わたしは朝食を作ることになった。ただ夕べも思ったことだけど、この部屋のキッチンには食材が殆どない。お米や玉子、ハムやちょっとした野菜(それも高級)があったのは、万次郎がオムライスを食べたいと言ったことで急遽、蘭さんが部下に用意させたものらしい。それ以外は軽食になるようなパンや他は全て万次郎の好きなどら焼きやたい焼きといった甘い物しかなく、普段は殆どがデリバリーか外食だと蘭さんが言っていた。

仕方がない、とわたしは食パンを使って朝食を作ることにした。オムライスで使った材料で出来るもの、そして好き嫌いの多いという万次郎が食べられそうなものを考えて、 ツナとチーズのパンプディングに決める。フライパンがあれば簡単に出来るので、それほど手間はかからない。バターで細く切った玉ねぎを炒めて、しんなりしてきたところで9等分に切った食パンを並べると、先に作っておいた卵液―ツナや牛乳、塩コショウを卵で混ぜる―を上から流し入れる。更に上からとろけるチーズをたっぷり乗せて溶けるまで火にかければ出来上がりだ。これをフライパンごとテーブルに運んで、後は簡単なサラダと、キッチンの棚にあったインスタントのコーンスープを作れば何とか朝食らしい形になる。匂いに誘われたのか、寝室から出て来た万次郎の瞳がひときわ輝きだした。

「うわ、すご!いい匂い…ってか美味そう」
「よく朝ご飯に作ってたの」
「マジ?すごいな、。夕べのオムライスも美味かったし」
「え、凄くないよ。簡単だもん」
「でもこういう手作りの食事って久しぶりだからテンション上がる。しっかり旗乗ってるし」
「あ…それ沢山あったから」

パンの真ん中に立っている旗を見て、万次郎は嬉しそうに瞳を輝かせている。その姿はやっぱり無邪気な少年のように見えた。

「んま!これ何?すげー美味いんだけど」
「ツナとチーズのパンプディング。前にね、どこかのお店で食べて凄く気に入ったからレシピ教えてもらったの」
「へーふごいな」

万次郎はパンをモグモグと頬張りながら感心したように頷いている。子供のように瞳をキラキラさせる姿は、さっきあんなキスを仕掛けてきたような人には見えない。それがどこかアンバランスで、不思議な人だと思った。わたしの過去を聞いても驚くでもなく、自分も意味なく人を殺して来たと、万次郎は言った。目の前の彼を見ていると、そんな風には全然見えないのに。
その時、わたしのケータイがテーブルの上で振動して、すぐに相手を確認した。

「…蘭さんだ」
「ふーん。出ていいよ」
「あ…うん。じゃあ万次郎は食べてて」
「言われなくても一気に食っちまいそう」

そう言って笑う万次郎にホっとしつつ、わたしはケータイを持って玄関に続く廊下に出た。時刻は午前10時。こんな時間に何の用だろうと画面をスライドさせた。

「はい」
『……っ、か?』

電話に出ると、蘭さんは一瞬だけ息を飲んだような気配がした。

「そうですけど…どうかしたんですか?」
『いや……オマエ、無事か?』
「…どういう、意味ですか」
『…ああ…いや。ってかオマエ、夕べ竜胆と約束してたのすっぽかしたろ。だからてっきり――』
「あ、あの…すみません!竜胆…さん怒ってます?」

蘭さんに指摘されてドキっとした。連絡をしようと思っていたけど、万次郎がいる手前、どのタイミングでかけていいのか分からなかったのだ。もしかしてドタキャンしたのを竜胆は怒っているのかと思った。でも蘭さんは『怒っては…ねえな』と苦笑したようだった。

『怒ってはねえけど心配してる。ってことで今からそっち行くわ。マイキーは?まだ寝てんのか?』
「あ…彼なら今、朝ご飯食べてるけど…」
『……は?マジで?』

蘭さんは少し驚いたような声を上げて、どっちにしろマイキーに用があるから今から行くわ、と電話を切った。どこか普段の彼らしくないと思いつつ、万次郎のところへ戻る。テーブルの上の朝食は全ての器が見事に空になっていた。万次郎は綺麗に残さず食べてくれたようだ。

「ごちそーさまー。マジ美味しかったー!」
「あ、うん。良かった」

お腹を押さえてソファに寝転がる万次郎に笑いつつ、食器などを下げていく。梵天トップのお世話なんてもっと緊迫したものかと思っていただけに、この穏やかな空気が未だに信じられない。これだと普通に同棲カップルみたいだと苦笑が洩れた。

「灰谷、なんだって?」
「あ、よく分からないけど…今からこっちに来るって」
「マジ?あー…今日は第一水曜日か」
「…え?」

洗い物をしながら、どういう意味かを聞こうとした時、すぐに部屋のインターフォンが鳴る。すぐに水を止めて手を拭こうとしたら、万次郎はオレが出ると言って玄関に行ってくれた。その間に残りの洗い物をしていると、リビングの方から蘭さんの声が聞こえて来た。

「マイキー顔色いいじゃん。ゆっくり寝れたんだ」
「おかげでグッスリ。二度寝までしちゃったし」
「へえ…そりゃ良かった」

そんな会話が聞こえて来たあと、蘭さんがキッチンに顔を出した。

「おはよう、
「あ、おはよう御座います、蘭さん」
「なに、このいい匂い…。何か作ったの」
「あ…まあ」
「へえ…すげーな。マイキーがこんな時間から飯食うとか。っていうか……」

と蘭さんはわたしをマジマジと見下ろしながら、不意に身を屈めて顔を覗き込んで来た。

「よっぽど気に入ったんだな、のこと」
「え?」

ドキッとして一歩下がると、蘭さんは「マイキーだよ」と笑って壁に凭れた。その言葉の意味が分からず、首を傾げたわたしに、蘭さんは言った。

「オマエがこうして無事なのがいい証拠。竜胆のことすっぽかしたって聞いた時はでもダメだったかと思ったけど――」
「それ…どういう意味ですか…?」

蘭さんはわたしの問いに応えなかった。ただ笑って「それは竜胆から聞いて」とひとことだけ言うと、

「今日はマイキー渋谷の本部に行くからオマエは自由だ」
「…え…渋谷?」
「毎月、第一水曜は組織のことで幹部の相談役からマイキーに報告がある。んで、午後からマイキーは検査入院って決まってんだ」
「え、検査って…」
「言ったろ?マイキーは不安定で、心身ともに弱ってることが多い。だから念のため毎月検査受けさせてんの。マイキーは極度の面倒臭がりで、そーいうの一日でまとめろって言うから報告もその日って決まってる」

苦笑交じりで肩を竦めた蘭さんは「ってことでは明日の夜まで自由」と言った。少し驚いたけど、いきなり自由と言われても困ってしまう。どうせこのマンションからは出られないのだ。そう思っていると、蘭さんが察したように言葉を続けた。

「もし外に出るなら誰かつけさせるけど…今日は竜胆に付き合ってやって。夕べ連絡こなくて心配してたみたいだし」
「あ…それは…分かりました。夕べ約束守れなかったし…」

これも仕事のうちなんだろうと思って頷くと、蘭さんは少し怪訝そうに眉を寄せてわたしを見ている。さっきから彼のその様子が気になった。

「…でも何で連絡しなかった?」
「え?」
「夕べ。マイキーは薬飲んで寝たんだろ」
「あ…そうだけど…わたしも一緒に寝ちゃって…」
「………え?」
「え?」

蘭さんが呆気に取られたような顔をするから少し驚いた。何がまずかったんだろう。

「一緒にって…」
「ああ、だから…寝る前に少し話し込んでたらいつの間にか寝てたみたいで…起きたら朝だったんです」
「あ…そう」

蘭さんはキョトンとした顔をしてたけど、不意に軽く吹き出すと、「マジか…」と言いながら肩を揺らしている。わたしはサッパリ分からなくて「何がおかしいんですか」と訊いた。そもそも蘭さんって、こんなに笑う人だったっけと考えてみても、わたしの知ってる彼は店のオーナーとしての顏しか思い出せない。

「いや…まあ…いいんじゃねーの」

そう言って、蘭さんはわたしの頭へポンと手を置くと、「オマエにして良かったわ」と微笑んだ。その不意打ちのような優しい顔にドキっとさせられる。何が良かったのかは分からないけど、蘭さんの役に立ててるなら、それはそれで嬉しい。迷惑をかけたことを思えば、まだ全然足りないけど。

「おい、灰谷。用意できたし行くぞ」

そこへ万次郎が顔を出した。さっきまでの部屋着ではなく、今はカジュアルなスーツを着ている。でも足元は素足のままで、そのちぐはぐなところが彼らしいのかもしれないと思った。

「おー。んじゃ…頼むな、
「はい」
~」

と、そこへ万次郎がわたしの方へ歩いて来た。

「明日帰って来たら、またさっきの作って」
「あ…うん。わかった――」

と言いかけた時、いきなりくちびるを塞がれて一瞬で脳がフリーズした。万次郎の肩越しに見える蘭さんがギョっとしたような顔をしたのだけは分かった。

「じゃあ、行ってきます」
「い……ってらっしゃい…」

ニヤっと笑う万次郎の意地悪な笑みに呆気に取られつつ応えると、彼はサッサとキッチンを出て行ってしまった。残された蘭さんはしばし唖然とした顏で、きっとわたしも同じような顔をしてると思った。

「…マジか」

蘭さんは苦笑しながら髪をかき上げると、困ったような表情を浮かべてわたしを見下ろした。

「…なーんか妬けんなぁ」

小さく呟かれた言葉は、やけにハッキリと聞こえた。だけど聞こえないふりをして、出て行く背中を見送った。本気にしてはいけないと、自分に何度も言い聞かせながら。