六本木心中




夜になってから、来た時と同様、竜胆は車でマンションまで送ってくれた。彼はこれから人と会う約束があるらしい。わたしを下ろすとそのまま車に乗って出かけて行った。

"またデート誘ってもいい?"

別れ際、竜胆はそう訊いて来た。質問形式だけど、それは決定事項のようにもとれた。何でわたしなんか誘って来るんだろうと思いつつ、断れないの知ってるくせにと返したら、竜胆は「また連絡する」と笑うだけだった。
セックスをする相手なんか困ってなさそうなのに、世話係の女なんて相手にしていて楽しいんだろうか。ただ今までの人と違うと言っていたし、毛色の違う女がただ珍しいだけかもしれない。自分になびかない女をモノにしたがる男は、それこそ夜の世界には大勢いた。竜胆がわたしに構うのも根底にそういった男の本能みたいなものがあるのかもしれない。
マンションロビーに入ると、すぐさま黒スーツの男がわたしをエレベーター前まで誘導する。マニュアル通りなのか、乗ったことを確認すると彼が開閉ボタンを押して扉を閉じた。

「はあ…」

ひとりになると何となく疲れが一気に出た気がして深い息を吐く。今日は万次郎がいないから、与えられた自分の部屋でひとり眠ることになりそうだ。そういった時間は凄く久しぶりの気がした。最上階に着くと、再び黒スーツの男ふたりがわたしを出迎えた。そのまま部屋の前まで送られる。ここまで上がって来たんだから逃げるはずもないのに、その辺は徹底してるようだ。結局、わたしが部屋の鍵を開けるとこまで確認すると、黒スーツの男はエレベーターホールまで戻って行った。

「ふー…やっとひとり…」

部屋に入り、二つあるドアロックをどちらもかける。幹部の人達はこの部屋の合鍵を持っているみたいだから意味はないのかもしれないけど、気分の問題だ。それに今夜は万次郎につきそう春千夜さんと、定期報告で九井さんもが不在ということだった。蘭さんや竜胆はその辺には関わっていないと話していた。だからわたしと夜まで一緒にいたんだろう。ランチだったはずの食事は、ディナーへ変更された。食欲はないと思っていたけど、ステーキのいい匂いを嗅いだ瞬間お腹が鳴って竜胆に笑われてしまった。

「…ちょっと食べすぎたかな…」

お腹を押さえてボヤきつつ、高いヒールを脱ぎ捨てたら思った以上にホっとした。緊張で体も疲れている気がして、すぐにバスルームへ行ってバスタブにお湯を溜めていく。その間にお酒の用意をしようと思った。竜胆と夕方少し寝てしまったから眠くはない。久しぶりにひとりでお酒を飲みたい気分だった。

「わ…ほんとに何でもある…お店みたい」

キッチンの棚を開けていくとずらりとお酒の瓶が並んでいる。ウイスキーにバーボン、ブランデー。焼酎に日本酒。どれもお店に置いてあったような最高級のものばかりだ。キッチンスペースにはワインセラーもあり、中にも高級ワインが置かれている。どれを飲むか迷ったものの、今夜はブランデーにしようとボトルを手にした。ブランデーはクラッシュアイスで飲むのが好きだ。アイスペールなんかと一緒にきちんとアイスクラッシャーまであるのを見た時は、思わず笑みが零れた。

とりあえず氷以外のものをテーブルに用意して寝室に戻った。ちょうどお風呂が沸けたというメッセージが流れるのを聞きながら、ドレスと下着を脱ぎ捨てて、クローゼットの隅にあるクリーニング用の袋へドレスを入れる。その後に何も身につけないままバスルームへ行った。

「うわ…バスソルトもこんなに…」

無駄に広い洗面所の棚を片っ端から開けていくと、中にはバスタオルやバスローブの他に、女性が好きそうな色とりどりの入浴剤がびっしり並んでいる。これだけあると何を使おうか迷ってしまう。

「やっぱり疲れてる時はラベンダー系がいのかな…」

特に好きな匂いではないけど、気分を沈める効果があると言われている。今日は沢山アドレナリンが出た気がするから、ラベンダーを使うことにした。

「はあ~生き返る…」

熱い湯舟に浸かった瞬間、全身の筋肉が解れる気がした。ホテルでもシャワーを浴びて来たけど、汗を流すだけだったし、こうしてひとりでノンビリお風呂に浸かれるのは至福の時間かもしれない。ゆっくり浸かってお風呂から出たら美味しいお酒が待っている。そう思うだけで幸せを感じるわたしは、かなり単純な性格だったようだ。何一つ好転したわけじゃないけど、どうにも出来ないなら、こうしてささやかな楽しみを自分で見つければいい。必要とされているつかの間の時間でも十分すぎるほどの贅沢だ。

「確かに…こんな生活を用意されたら勘違いしちゃう子も出てくるよね…」

竜胆から少しだけ聞いた、前の世話係の子の話を思い出して苦笑する。あまり贅沢や物に執着しないわたしですら経験したことのない世界を見せられ心がざわめいた。ただわたしの場合は過去の経験から嫌というほど恐ろしい現実があるのを知っている。だからこんな夢のような豪華な部屋でも、どうにか自分を見失わず、置かれた現実を見ていられるだけだ。
竜胆の口ぶりを考えれば、わたしはいつ殺されてもおかしくはないんだろう。蘭さんの態度もそれで納得がいった。彼にとったらわたしみたいな身寄りのない天涯孤独な女は都合がよかっただろうなと思った。

「…25歳か…儚い命よね」

あんな親の元に生まれなければ、もう少し違った未来があったのかな。他の子と同じように学校生活を送って、受験なんかも経験して、大学なんかも行ってみたかった。そこで恋をして、もっと年相応の青春ってやつを送ってみたかった。そんな叶えられもしないことを空想していると、逆上せそうになり、慌てて湯船から出る。軽く髪を洗ってからバスルームを出ると、置いてあったドライヤーで簡単に乾かしてバスローブを羽織った。

「はあ…気持ちいい。ふかふか」

今回、この部屋の物を全て入れ替えて服やら何やら揃えたのは蘭さんだったらしい。きっとこのフカフカなバスローブも彼の好みなんだろうなと思った。

「ブランデーの前にビール飲んじゃおうかな…」

キッチンに向かいながら、ふとそう思った。お風呂上りはキンキンに冷えたビールが飲みたくなる。夜の商売をしていると思考がオッサン化してくるなんて誰かが言ってたけど、その意味が分かる気がした。
冷蔵庫を開けると、案の定ビールが沢山入っている。その一つをとってステイオンタブを開けると、プシュっといういい音が鳴った。行儀が悪いけどグラスに入れず、そのまま口へつけてビールを飲む。火照った体に冷たいビールは思った通り最高だった。

「はー美味しい…」
「……ぷっ」
「……ッ?」

いきなり背後で誰かが吹き出す声が聞こえてビクリと体が跳ねた。ついでに手にしていたビール缶を落としそうになり、慌ててシンクへ置く。明るいキッチンから奥のリビングを覗くと、ウォールライトに照らされた人物が見えた。

「ら…蘭さん…?」
「おー。ケータイもインターフォン鳴らしたけど出ねえから勝手に入った」

蘭さんはソファの背もたれに頭を乗せて、逆さまの顔をこっちへ向けた。見ればテーブルの上に用意してあったブランデーを飲んでいる。

「あーこれも勝手にもらってる」
「あ、はい。っていうか蘭さんが用意させたものですよね、それ」
「まあ…それより突っ立ってねえでオマエも飲めば。風呂上りのビール」
「あ…」

笑いを噛み殺している蘭さんを見て、さっきの自分の独り言を思い出した。ああいう一番気の抜けた瞬間を見られるのはかなり恥ずかしい。

「あ、あの…先に着替えてきます」
「あー、いいって。そのままこっち来いよ」
「え、でも…」
の体は前に見て知ってる」
「……っ」

蘭さんの言葉に頬が一瞬で熱くなった。確かにそうだけど、わざわざ言わなくても、と思いながら、ビールを手に歩いて行く。

「はい、ここ座って」

自分の隣をポンポンと叩く蘭さんはわたしの知ってる蘭さんでいて、何となく知らない男のようにも見える。店のオーナーという顔は、きっと蘭さんのほんの一部でしかなかった。今は梵天の幹部という、裏の世界に生きる男の顔をしている。

「今日はどーだった?」

グラスをわたしの持っていた缶ビールにカツンと当てて、蘭さんはブランデーをストレートで口へ運ぶ。そんな姿もさまになっていて、やけに男の色気を感じさせた。

「どうって…」
「竜胆とランチデートだったんだろ?竜胆についてた運転手がアイツを目的地に送り届けてからオレを迎えに来たから、はもう帰ってる頃だと思って寄ってみたんだ」
「蘭さんは渋谷から?」
「そう。マイキー送り届けて三途が仕事片付けて来るまで付き添ってたらこんな時間」
「…万次郎は…大丈夫なんですか?」
「今は三途が付きっきりだから大丈夫だろ。珍しく機嫌良かったし…まあ、あの病院には可愛い看護師もいるしなー」
「そう…」

いつものことなんだろうから、わたしがそこまで心配することもないか、とビールを一口飲んでいると、不意に蘭さんが顔を覗き込んできた。

「な、なに――」
「なーんか話、そらそうとしてね?」
「べ、別にそんなこと…」

ドキっとしつつ背もたれまで後退すると、蘭さんは「ほんとにー?」と意味深な笑みを浮かべた。竜胆が何か話したのかと思ったけど、そんな感じでもない。別にわたしが竜胆に抱かれたと言ったところで、蘭さんは何とも思わないだろう。そもそもここへ来た日に起きたことは蘭さん自身が仕掛けたことだ。

「そ、それより…どうして蘭さんはここに?」
「んー?」
「時間空いたんですよね。デートする恋人とかいないんですか?」

蘭さんに恋人がいるかどうか聞いたこともない。店の子達は知りたがってたけど、蘭さんは自分のプライベートのことを何も話さないし見せるタイプでもなかった。でも今はプライベートみたいなものだろうから、質問くらいしてもいいかと思った。

「オレ、恋人いないように見える?」
「…見えません。っていうか質問に質問で返さないで下さい」

わたしが突っ込むと、蘭さんは楽しげに笑った。こういう自然な笑顔は可愛い、なんて言ったらきっと蘭さんは顔をしかめるんだろうな。

「オレの恋人の話より…こそ、竜胆とのデートどうだったんだよ。楽しかった?」
「…た…楽しかったです」
「ふーん。何かランチ食いに行ったんだろ?アイツにしちゃー珍しく健全なデート組んでるから笑ったけど」
「………」

やっぱり蘭さんは知らないんだと思ったら急に緊張してきた。別にバレようとバレまいと、竜胆は何とも思わないかもしれないけど、わたしとしては何となく気まずい。

「どした?急に黙り込んで」
「べ、別に…それよりわたしの質問に答えてないです」
「あ?」
「蘭さんは何でここに来たんですか?心配しなくても逃げたりしてませんけど…」
「あー…いや、別にそーいう確認じゃねえよ」

苦笑交じりで言いながら、蘭さんは髪をくしゃりとかき上げた。細い指でグラスをゆらゆら揺らしながら、黙って琥珀色の液体を見つめている。

「何でかな…と…久しぶりにこうして飲みたくなったのかも」
「…そう言えば…久しぶりかも。蘭さんとこうして飲むの」

蘭さんの店に入る前は、色々と打ち合わせをするのに何度か飲みに行ったりもしていた。店に入ってからは一切そういうことはなくなったから、ふたりでお酒を飲むのはそれ以来だ。
そう思うとまた緊張してきて、残りのビールを一気に飲み干した。

「ああ、も次はこっち飲む?」
「あ、頂きます」

蘭さんが新しいグラスにブランデーを注いでくれた。本当はクラッシャーアイスを作りたかったけど、蘭さんはストレートで飲んでいる。わたしもそのまま貰おうと、グラスへ手を伸ばす。その手を、不意に掴まれた。

「蘭…さん…?」

驚いて顔を上げると、蘭さんの目がわたしの胸元へ向けられていた。ドキっとした瞬間、掴まれた手を引かれて蘭さんの方へ体が傾く。その勢いのまま首筋へ口付けられた。

「ん…っちょ…蘭さ…」

急なことに頭が追いつかず、慌てて彼の体を押し戻した。口付けられた首元からジワリと独特の疼きが広がっていく。竜胆に散々抱かれたあとで、体が敏感になっているのかもしれない。その事実が余計に体の熱を押し上げていく。

「へえ…やっぱそーか」
「…え?」

蘭さんはふと唇に弧を描き、意味ありげに呟いたと思った瞬間、わたしをソファに押し倒した。

「な…何…」
「ここ…赤くなってる」
「え?ん…っ」

言った瞬間、蘭さんはわたしの首へ吸い付いた。チクリとした痛みが走り、肩が僅かに跳ねる。蘭さんはそのまま唇を滑らし、バスローブを肩からゆっくり下ろしていく。

「ら…蘭さん…?あ…っ」

肌をなぞるように下がっていく蘭さんの唇が胸の膨らみまで辿り着いた時、そこをペロリと舐められた。ゾクリとしたものが走り、かすかに体が震える。急に男の顔を見せる蘭さんに体が強張った。

「ここ、竜胆の印がついてんぞ」
「……っ?」

その言葉にドキっとして顔を上げると、蘭さんは苦笑しながら体を起こした。

「何がランチデートなんだか…やっぱ手ぇ出したか」
「あ…あの…」

胸元を隠しながら起き上がると、蘭さんが苦笑交じりでブランデーを煽った。そして空になったグラスをテーブルに置くと、カシャンっという高い音が鳴る。それが怒ってるように見えてドキっとした。蘭さんに触れられた場所が、やけに熱い。


「…な、何ですか」

ふと蘭さんがわたしを見て、ひとこと言った。

「オレの相手する元気、まだある?」
「…え?」

バイオレットの瞳に射抜かれただけなのに、全身に熱が回った気がした。