六本木心中




1.

蘭さん達から獲物を片付けたと椿姫さんに連絡が入った頃、オレは彼女の自宅へ呼ばれた。報告を受ける為に渋谷本部にいたオレは休む間もなく六本木に向かう。一緒にいた武臣さんまでが蘭さん達にくっついていった結果、オレに回る仕事量が増えたせいですでにクタクタだった。でも報酬を受け取りにいくと思えば少しは気分も軽くなる。自分でもゲンキンだなと苦笑が洩れた。

「――ひとり1億で計3億。確認しました」

全ての金を数え終えてトランクを閉めれば、椿姫さんが笑み浮かべてオレにシャンパングラスを差し出した。中身はアルマン・ド・ブリニャックのロゼ。彼女が愛飲しているそれは、2015年にニューヨーク&サンフランシスコ国際ワイン大会にてゴールドメダルを獲得したらしく、生産者アルマン・ド・ブリニャックを代表する1本、だそうだ。世界1位に輝いたメゾンの象徴的キュヴェ。オレには小難しい講釈など聞かされても良く分からないが、メダルを取るだけあって味はかなり芳醇。控え目に言っても…最高だと思う。

「乾杯」

椿姫さんはそう言いながら美味しそうにそれを喉へ流し込む。邪魔者が消えて相当ご満悦なようだ。見ること、持つこと、味わうこと。全ての喜びを詰め込んだラグジュアリーなシャンパーニュが、3人もの命を奪った祝杯の為に飲まれるなんて、その素晴らしい生産者も想像すらしないだろう。

「はあ、美味しい」
「今日のも格別ですね。ブリュットで美味いです」
「あら、ココもだいぶ分かるようになってきたのね」
「椿姫さんのおかげですよ」

言いながら残りを飲み干し、グラスをテーブルへ置く。それを見た椿姫の側近が再び注ごうとしてるのを手で静止し、オレはゆっくりと立ち上がった。

「そろそろ失礼します」
「あら、もう帰るの?相変わらず、報酬にしか興味ないのね」
「いや疲れてるんですよ。本部での仕事を納めた時に椿姫さんに呼ばれたもので」
「あら、それは悪かったわね」

椿姫さんはその赤い唇に弧を描き、思ってもいない言葉を吐いた。38歳ながら随分と若く見えるのは、金持ち特有の余裕があるからだろう。美人だが隙を見せない目つきは、まるで獲物を狙う蛇のように見える。彼女の今の地位があるのは彼女の祖父が戦後の混乱した中、多くの土地を我が物にしたおかげという話だし、根っから奪う側に生まれた人間であることは間違いない。表向きは成功者だが、やってることはオレ達とさして変わりはないのだから笑ってしまう。

「ああ、これ蘭にも持ってってあげて。好きみたいだから」

部下に金の入ったトランクを運ばせていると、椿姫さんの側近が大きな紙袋をオレに差し出す。中を覗くと今飲んだシャンパンの箱が5つ入っていた。黒い箱にロゼを現わすピンク色のスペードマークが描かれている。

「分かりました。渡しておきます」
「ココの分も入ってるから。恋人と一緒に飲んだら?」
「そんな女、いませんよ。知ってるくせに椿姫さんも人が悪い」
「ココと知り合ってもうすぐ6年?そろそろ出来た頃かと思って」

椿姫さんは笑いながらシャンパンを煽ると、ガウンを羽織って歩いて来た。オレを見る目が女の目に変ったのを感じ、おいおい勘弁してくれよと、と内心ウンザリする。武臣さんを愛人にしてるクセに、彼女の欲は時々オレ達他の幹部にまで向けられるのは、正直苦痛だった。

「若いのにもったいないんじゃない?」

オレの頬を指でなぞりながら、椿姫さんは艶のある笑みを浮かべた。見た目は文句なしの美人だが、この人の愛人にされるのはごめんだ。

「…好きな女がいるんで遊んだりできないだけですよ」

と、昔の自分を思い出してそんな嘘を言えば、椿姫さんの瞳に苛立ちが見て取れた。

「へぇ、まだその女のことが好きなの」

前にも似たような言い訳をして彼女の誘いを断ったことがあるのを覚えていたようだ。椿姫さんは意外、といった顔でオレを見た。

「オレ、一途なんですよ。こう見えて」
「ふーん…なーんか癪に障るから殺しちゃおうかな、その女」

言いながらオレの頬にキスをする。彼女が本気とも冗談とも思えぬ台詞を吐くのは、オレを試してるんだろう。軽く苦笑が洩れた。

「そんなことしなくても、もうこの世にはいない女性ひとなので」
「あら、そうなの?」
「ああ、武臣さん、到着したようですよ」

その時、ケータイが鳴り、画面を彼女へ見せる。椿姫さんはふっと笑みを浮かべて「じゃあ、先に私の部屋へ行っててと伝えてくれる?」と言いながら、リビングの奥へと歩いて行った。大方シャワーでも浴びるんだろう。内心ホっとしつつ部屋を出てから電話に出た。

「はい」
『おう、九井か。椿姫から金は受け取ったか?』
「はい、つい今しがた。きっかり3億」
『そりゃ最高だ』

声の感じからして喜色満面といった武臣さんが想像出来た。

「武臣さんは今どこですか」
『あー今、エントランスについたとこだ』
「じゃあ椿姫さんから伝言で、先に部屋に行ってて、だそうです」
『りょーかい』

今度はほくそ笑んでいるような声。よくやるよ、と内心思いながら通話を終わらせた。金や名声、女。あらゆる欲に武臣さんは素直だ。椿姫さんの愛人をしてれば、好きなだけ金は手に入るし、力も貰える。武臣さんが上手く取り入ってくれたおかげで、オレや他の幹部が彼女からの誘いを交わすことが出来るのは助かっていた。

「さて、と…帰るか…」

金を積んだ車に乗り込み、シートに凭れると、途端に睡魔が襲って来る。ただやることは残っていた。まずは受け取った報酬を六本木の事務所に運ぶか、と運転手にそう告げた。こういった裏の金は足がつかないよう現金で支払われる。当然、堂々と銀行にいれらるはずもない。いくつもの裏口座へ何度かに分けて振り込むことにしたのはオレ自身だった。例え裏口座であっても安心はできない。裏切者が後を絶たないので信用できる人間は限られている。よって金にまつわる仕事は全てオレひとりで仕切っていた。細かな雑用は他の幹部にも手伝ってもらうことはあるが、面倒がられる。まあ蘭さんや竜胆さんはともかく、数字に弱い望月さんや武臣さんはぶっちゃけ使えないし――殴られるから本人には言えないけど――三途は組織全体の仕事に加えてマイキーの身の回りの世話もあるから頼めない。と言うより頼んでも速攻で断って来るはずだ。だからオレが他の仕事の合間にやるしかないが、オレひとりではキツいことも増えてきた。

「はあ…真面目に雑用してくれる人間を探すか…」

だが雑用とは言っても組織の金の流れを示すものだ。オレにしか分からない暗号めいたものを使用しているが、そういったものは外部に持ち出されたら解読されてしまう危険性もある。

(出入りの際にチェックさせれば多少安心だけど…下っ端だと見逃す可能性もあるし自分で確認しないと心配だな…)

結果、自分の仕事が増えるだけだという結論に達し、溜息が出る。オレの変に真面目な性格が災いしているのは自分でも分かっているが、こればかりは仕方ない。

(事務所に縛り付けておけばおいたで内部事情を知られるしな…やっぱ新しい人間は無理か――)

と、そこまで考えた時、ふと彼女の顔が浮かんだ。蘭さんが連れて来たマイキーの世話係の子だ。あの子なら賢そうだし、数字を打ち込むだけの作業なら出来るかもしれない。それに出入りも厳しく管理されている上に出かけても見張りがつくから情報を漏らされる心配もないはず。だいたい梵天の情報を売るとしても誰に売ればいいのかすら分からないだろう。もちろん警察にもいけない。彼女自身、スネに傷を持つ身なのは蘭さんから少しだけ聞いて知っている。
オレはすぐにケータイを取り出すと、蘭さんへ電話をかけた。先ほど武臣さんが椿姫さんのところへ来たのなら、蘭さんも帰る途中だろう。案の定、2コールほどで電話に出た。

『ココー?お疲れー。椿姫さんから受け取った?』

声が少し酔っている感じだ。仕事が片付いて酒を飲んでるんだろう。後ろがやけに騒がしく声が近いから帰りの車内で飲んでいるのかもしれない。

「はい。金を受け取って今から六本木の事務所に戻るとこです。お疲れ様でした」
『マジ疲れたっつーの。さみーし、揺れるしで。竜胆なんて船酔いでダウンしてたわ。もう復活してっけど』
「そりゃ大変でしたね」

船酔いということは今回、梵天の倉庫は使わず直接捨てに行ったのかと苦笑が洩れた。

『ったく…細かくしたらモッチーだけで済んだ仕事なのに、めちゃくちゃビビらせてから始末しろって椿姫さんからのめんどくせえリクエストの為に地獄のクルージングだったし』
「あの人、相当キレてたらしいですからね。その3人に。何でも椿姫さんの息がかかった会社をいくつか買収しようと裏で色々画策してたようですよ。もし買収されてたら被害総額30億以上だったらしい」
『マジで?ならもっとふんだくりゃー良かったなァ。つーか東宮にケンカ売るとか勇気あるっつーより、やっぱバカだな、アイツら』

最後は泣きわめいてたけど、と蘭さんが苦笑交じりで教えてくれた。

『ああ、オレと竜胆とモッチーは今からMMに行って飲むんだけど、ココも来る?』

MMとは蘭さんに任せてる会員制のサロンだ。そこは政財界の大物がお忍びで来るからスポンサーも見つけやすいのでオレもよく出入りしている。東宮椿姫と知り合ったのもそこだった。

「あ、いや…オレはやることあるんで。それより蘭さんにちょっと聞きたいことが」
『あ?なに?』

後ろで望月さんが『九井、オマエも来い!』と叫んでいるのを聞いて苦笑しつつ、「のことなんだけど」と話を切り出した。

『……がどーかしたー?』

少しの間の後、蘭さんが笑った。

「実はちょっと雑用を頼みたいと思ったんだけど、いいっすか?」
『…雑用?に?』
「そんな大した仕事じゃありません。ちょっと裏帳簿の記入だけ頼みたくて。彼女、パソコンとか使えます?」
『あー…アイツとはオレの店に引き抜く際、色々と話したけど、一通りそーいうのは出来んじゃねーかな。多種多様な客との会話に役立つことは大抵身につけたって言ってたし』
「マジっすか。じゃあ楽勝かな。数字を打ち込んでファイル作成するくらい」
『あー…アレの仕事か』

何の仕事か気づいた蘭さんが苦笑している。金の出入りを把握するのに必要な作業だが、これがまた時間のかかる仕事で誰もやりたがらない。蘭さんも同様で前に頼んだ時は「めんどくせえ。うぜえ」と数分おきに言われるから、オレはかなりストレスだった。(!)

『まあの性格なら真面目にきちっとまとめてくれるんじゃね?オマエにしか分からない、あの変な暗号まだ使ってんだろ』
「変なって…タダの数字と英字の組み合わせじゃないっすか」
『…オレは長時間、数字を見てはいけない病なんだよ。医者がそう言ってたし』
「またそんな…息を吐くようにさらりと嘘つかないで下さい」

呆れて突っ込むと、蘭さんは大笑いして『に頼むって話ならマイキーか三途にも話はしとけよ』と言ってくれた。その二人に確認するのも大事だが、彼女は蘭さんが連れて来た子だし、蘭さんからOKを貰えて一先ずホっとする。

『あーそれとー』
「はい?」
『…ああ、いや。何でもねーよ。んじゃーお疲れ』

と、そこで唐突に電話が切れた。蘭さんが言葉を濁すのは珍しいが、酔ってたし大したことじゃなかったのかもしれない。とりあえずホっとしたことで、オレはゆっくりと目を閉じた。





2.

「ああ、じゃあ、これ見ながらパソコンでファイル作成してくれる?」

九井さんに言われて、差し出されたノートへ目を通す。そこには綺麗な字で良く分からない英数字が書かれていた。
朝、いきなりケータイが鳴り、出ると相手は前に一度会った九井さんからだった。突然「仕事を頼みたい」と呼び出され、彼の部屋に来てみたら、書類を作成する簡単なものだと説明された。きっと組織に関係してるものだろうけど、わたしにはそれが何の数字なのかまでは分からない。わたしに頼むくらいだから、それが却って都合いいんだろうと思った。

「それくらいなら出来ます。あ、このパソコンですか?」
「うん、そう。いや、助かったわ、マジで」

九井さんは笑いながらソファに座ると、目頭を指で揉んでいる。今日はどことなく疲れているように見えた。

「あの…大丈夫ですか?」
「え?ああ…ちょっと寝不足。でも慣れてるから」
「でも疲れてるみたいだし少し横になってて下さい。その間にこれ作っておくので」
「ああ、でもマイキーが戻って来る夜までの間にやってくれればいいし――」

と言いかけた九井さんのお腹が、ぐうっと鳴って一瞬だけ互いに見つめ合う。そしてどちらからともなく笑いが零れ落ちた。

「お腹空いてるんですか?」
「あーうん。そういや夕べはコンビニで買ったカップ麺しか食ってないかも」
「え、梵天の幹部でもカップ麺なんて食べるんですか」

ちょっとだけ驚いて変なことを口走ってしまった。でも九井さんは軽く吹き出して「幹部とカップ麺関係なくね?」と笑っている。確かにそう言われればそうだ。でも――。

「蘭さんとか竜胆さんはいつもレストランで食事をしてるみたいだったから…」
「ああ、あのふたりはオレみたいにこういう事務的な仕事はしてねーし、ある意味、外で仕事すること多いから。オレは忙しい時は時短できりゃいーやって感じで手っ取り早く食べられるもん選びがちかも」
「そうなんですね…。あ、じゃあ、わたし何か作りましょうか」
「え…?」

九井さんは驚いた様子で顔を上げた。ふと時計を見れば午前10時になるところで、まだ時間はある。

「あ、いや…そこまでしてもらわなくても――」
「でもそんなものばかりじゃ栄養偏っちゃうし。何か材料あります?冷蔵庫見てもいいですか」
「あ、ああ…うん。つーか何かあったっけ…」

わたしがキッチンに行くと、九井さんも首を傾げつつ、歩いて来た。でも冷蔵庫の中を確認すると、缶ビールやエナジードリンクといった類の物しか入っていない。一緒に冷蔵庫を覗いてた九井さんと、またしても顔を見合わせ笑ってしまった。

「普段、ここで料理なんてしねえからな…」
「そう言えば万次郎の部屋の冷蔵庫も殆ど飲み物やスイーツ類しかなかったかも」
「ああ、マイキーは放っておくとお菓子ばっか食ってるからなあ」
「だから、あんな細いんですね。九井さんも同じくらい細いけど」

と言うより、わたしが会った幹部の人は全員スマートでスタイルがいい。事務所にしてるこのマンション内にあんな凄い設備の整ったジムがあるのも頷ける。

「オレは昔から食っても太らない体質だから」
「…羨ましい体質」
「え、でもだって細いじゃん」
「わたしは…努力してきただけです。ちゃんと週に二回はジムに行ってたし」
「へえ、クラブのナンバーワンも大変なんだなぁ」

何故かシミジミ言われて笑ってしまった。

「ドレスを着なくちゃいけなかったし、やっぱり多少見栄えは気にしてました」
「あ、じゃあここにもジムあるし、暇な時にでも使って。どうせ幹部の連中もそんな使ってないと思うし」
「あ…はい。ありがとうございます」

実は夕べすでにプールは使わせてもらいましたとも言えず、そこは素直に頷いておく。とりあえず冷蔵庫を閉めて、ふと思いついたことを提案した。

「ということで…九井さん、今から買い物に行ってもいいですか?」
「え?」
「九井さんのとこもそうだけど、万次郎の部屋にも食材を多少揃えたいし…あ、ちゃんと部下の方について来て貰いますから」

わたしの提案に九井さんは呆気に取られた顔をしていたものの、ふと笑みを浮かべて「じゃあ…オレも行くわ」と言い出した。

「え、でも疲れてるんじゃ…」
「まあ、そうなんだけど、普段やらないことやるのも気晴らしになりそうだし、今のオレにはそっちの方が大事かなと。つーことで、早速行こう」

どこか楽しげに言って歩いて行く九井さんに、慌ててついていく。最初に会った時も思ったけど、随分と気さくな人だと思った。

(でも買い物なんてわたしも久しぶりかも…)

そう思うと少しだけ楽しくなって来た。こんな些細なことでも、今のわたしには十分すぎる時間かもしれない。ふと、そう思った。