六本木心中



1.

夜は約束通り、万次郎と映画をいくつか見て、深夜も過ぎた頃に前と同様、万次郎が睡眠薬を飲んだ。この日はお酒も少し飲んだからか、前よりも早く睡魔が来たみたいだ。

「あーここで寝ちゃダメ。ちゃんとベッドで寝て、万次郎」

ソファの上、わたしの膝に頭を置いて映画を観ていた万次郎の手からリモコンが落ちるのを見て、慌てて体を揺さぶった。

「ん、分かった…」

万次郎は欠伸を噛み殺しながら起き上がると、フラフラと自分の足で寝室まで歩いて行く。でもわたしの手はしっかり握ったままだ。案の定、また布団の中まで引きずり込まれて、抱き枕よろしく腕の中に閉じ込められた。

「お休み…
「お休み」

前は雑談をしたりもしたけど、今夜の万次郎はその言葉の後にすぐ寝息を立て始めた。そして10分もしないうちに腕の力が緩んで来るのを感じて、わたしはそっとベッドを抜け出した。テレビも付けっぱなしで飲み食いしたお皿やグラスがそのままだ。それを片付けてからシャワーに入ろうと思った。静かに寝室を出てリビングに戻ると、お皿やグラスをキッチンに運んで洗った。その後に一度、隣の自分の部屋へ戻ってシャワーを浴びる。今日は朝からココの仕事を手伝ったり、久しぶりに外へ買い物に行ったりしたから、わたしも結構眠かった。

「…地味に寝不足かも」

適当に髪を乾かし、パジャマ代わりになりそうなルームウエアに着替える。蘭さんは徹底していて、そういう服すら可愛いデザインの物が多い。

「ふわふわで肌触りいいな、これ」

蘭さんはこういう服をどこで買って来るんだろうと想像したら少しだけおかしくなった。

――この続きは今度な。

ふと夕べ言われたことを思い出して僅かに頬が熱くなる。でも蘭さんはあの場での一時のムードに流されただけかもしれない。なのに次にあんな空気になったらと思うと心臓が素直に反応した。ずっとオーナーとして彼のことを見て来たのに、ここへ来て素の蘭さんを見るたび驚かされてる気がする。

「あれも…蘭さんなりの社交辞令かも」

そう、それに恋人がいるようなことを言ってたし、たとえいなかったとしても、世話係に任命した女に手を出さなくたって蘭さんには他にたくさん素敵な女性ひとが寄って来るはずだ。

「…戻ろ」

よく分からない胸のモヤモヤが深い溜息となって出て来たけど、気を取り直し再び万次郎の部屋へ戻る。今日はマンション内も静かで、さっき万次郎と戻って来た春千夜さんと、部屋で仕事をする予定だと話してたココしか、幹部の人はいないのかもしれない。そんなことを考えながら万次郎の眠る寝室のドアを開けた。

「あれ…?」

薄闇の中、誰もいないベッドが視界に入ってドキっとした。上掛けがめくれている。

「万次郎…?」

トイレに起きたのかと思って踵を翻した時、すぐ目の前に万次郎が立っていた。

「きゃ…っ…」

一瞬、息が止まるかと思うほどに驚いた。

「脅かさないで…トイレに起きたの?」

胸を抑えながら苦笑する。でもそこで万次郎の様子がおかしいことに気づいた。今、目の前に立っている万次郎の顔はさっきの明るい表情でも、眠そうな子供っぽい表情でもなく、どこか虚ろで仄暗い瞳をしていた。

「どこ…行ってた」

不意に万次郎が呟いてドキっとした。

「……え?あ…シャワー浴びに自分の部屋に――」
「嘘つくなよ…オレを置いていなくなる気だろ…」
「…な…なに言って…」

そこで気づいた。いつもの万次郎じゃない。漆黒の瞳は目の前のわたしを見ていなかった。ううん、何も映していない。空っぽの瞳は黒いガラス玉みたいに見える。まるで別人のようだった。

「…痛っ」

不意に腕を掴まれ、物凄い力で引っ張られた。足がもつれて転びそうになる。でも万次郎は引きずるようにわたしを引っ張りながら、その勢いのままベッドへ押し倒した。

「…きゃっ」

放り投げるようにされ、身体がスプリングの上で跳ねる。驚いて体を起こそうとしたけど、すぐに万次郎が覆いかぶさって来た。

「…く…まんじ…ろ…」

万次郎の両手がわたしの首にかかる。体重を乗せるように絞められ、一気に酸素が足りなくなった。心臓がバクバクと激しく鳴っているせいで、余計に息苦しい。

「オマエも…オレを置いてくのか…みんな・・・みたいに…」
「な…んの…こと…?」

空虚な目がわたしを見下ろす。そこにはわたしの知ってる万次郎はいない。

――ヤバそうだと思ったらオレか兄貴の部屋に逃げろ。

意識が飛びそうな中、竜胆に言われた言葉が脳裏を過ぎった。今、この瞬間がその時なんだろうか。でも、わたしは万次郎を怒らせてはいないはず――いや、分からない。さっき少しだけ部屋を空けたことが気に入らなかったのかもしれない。でも前は自分が寝てからなら出かけてもいいと言ってたのに。それにわたしは外に出かけたわけじゃない。ああ、ダメだ。苦しくてもう何も考えられない――。

「……く…っ」
「どうやって…死にてえ?」

(何故、こんなことに――?)

万次郎は無機質な闇を思わせる瞳でわたしを見下ろした。首にかかった手には容赦ない力が込められる。酸素が途切れ、わたしは魚のように口を、ただ動かすことしか出来ない。

(何故、わたしは――)

思考が追いつかないうちに、意識が朦朧としてきたのを感じて目を閉じた。こんな豪華なマンションの一室で、自分の人生が幕を閉じるなんて思いもしなかった。なんて呆気ない最後なんだろう、と苦笑が洩れる。覚悟はしていたはずなのに、突然すぎて感情がついて行かない。
でも――これもわたしの犯した罪の、罰なのかもしれない。

わたしはただ幸せになりたかっただけだ。誰もが羨む人生じゃなくていい。ただ平凡に、他の多くの人がそうであるようなありふれた日々を送りたかっただけ。その為にはお金が必要だった。頼れる親も、身内さえいないわたしが、生きていく為には――!

「……

その時、首を絞めていた手の力がかすかに緩み、万次郎が小さな声でわたしを呼んだ。ゆっくり重たい瞼を押し上げれば、万次郎の瞳を覆っていた闇が晴れていくように見えた。今はただ、泣きそうな瞳が薄闇でゆらゆらと揺れている。

「ごめん…

その言葉を最後に、何故――?というわたしの疑問ごと、思考は遮断された。





2.

人間、覚悟はしててもいざという時は混乱するものなんだと、殺されかかって実感した。
けれども、空気を遮断されながら意識の最後に思った。
ああ、これでやっと生から解放される――。


「…ん…」
…っ?」

最初は眩しい、そう思った。次に激しく体が揺さぶられ、やけに周りがうるさかった。

「おい、あんま揺らすなって、竜胆!」
「いやでも意識戻って――」
「ってか、うるせえぞ、オマエら!」
「いや、そういう三途がうるさくね?」
「あぁ?!」
「ってかケンカすんなって!がびっくりしてんだろ!」
「「ココ、生意気」」」
「……う…す、すんません」

何だろう。これは夢?何で幹部の皆が目の前でモメてるんだろう。寝起きの頭でそんなことを考えながら、ゆっくりと瞬きを繰り返した。そうすることで少しずつぼやけていた視界がハッキリしていく。

「あの…」
「あ、マジで気が付いた?!つーか、どっか痛いとこある?!」
「竜胆~そんなに一気に訊いても応えらんねーって」
「……蘭、さん…竜胆…ココに春千夜さんまで……何…してるんですか」

ボーっとした頭で、自然と頭に浮かんだことを口にしていた。一瞬、全員が呆気に取られたような顔でわたしを見下ろすから、怖い夢を見てるのかもしれないと思った。だいたい梵天の幹部の皆さんが何でわたしのベッドを取り囲んでいるのかが分からない。リアルな夢だと思った。それに全員が端正な顔立ちで派手なスーツ姿だし何かこうして並んでいると――。

「…ホストクラブ?」
「「「「……は?」」」」

ふふ…っと笑いながら呟くと、これまた全員が迫力のある声を出して――。

「オマエ…寝ぼけてんの?」
「…蘭…さん…」

いきなり額をコツンとされ、数回ほど瞬きを繰り返す。

「…痛い」

痛いということは夢じゃない。え、これどういう状況?と思った瞬間、飛び起きた。

「……あれ、わたし…」
「バカ、急に起きんなって」
「…竜胆?」

慌てたようにわたしの肩を押し戻し、再びベッドへ寝かせる竜胆を見て、やっぱりこれは夢じゃないと思った。彼の愛用している香水の香りまでハッキリ分かる。

「え…な、何で皆さん、ここに…」
「はあ…オマエ、覚えてねえのかよ」
「え…何…」
「マイキーに殺されかけたんだろ?」
「…え、こ…殺さ…」

蘭さんが真剣な顔で言うから、何をバカなと思った。でもそこで思い出した。まるで別人のような万次郎に、首を絞められたことを。

「あ…そう…言えば…」
「…ったく呑気か、オマエ」

呆れたように蘭さんが溜息を吐くと、春千夜さんがイラついたように舌打ちをした。

「…とりあえず意識戻ったなら大丈夫だな。オレはマイキーんとこ戻るわ」

そう言って春千夜さんが出て行くと、ココは「オレも一緒にマイキーに報告して来る」と春千夜さんの後を追いかけていく。よく見れば今、寝かされているのはわたしの部屋の寝室だった。

「…はあっぁぁ。マジ、焦ったわ」
「でも無事で良かったよ。なあ、兄貴」

ベッドの脇でしゃがみこんでしまった蘭さんに、竜胆が苦笑交じりで言った。

「つーか、よくオマエ生きてたな。強運すぎ」
「え…あの…わたし、何で助かったの…?」

記憶が少しずつ戻っていく中、わたしもそこが疑問だった。あの時、確かにこのまま死ぬんだって思ったのに。

「…オレに聞くなよ」
「そ、そう…ですよね。すみません…」

皆の様子を見る限り、特に蘭さん達には凄く心配かけたんだろうということは分かった。でもわたしにも意味が分からないのだ。何故、万次郎が急にあんなことをしたのか。

「夕べ、マイキーから連絡あったんだ、三途に」
「え…?」
「オマエの意識がねえってマイキー自ら連絡してきたらしい。そんなことは初めてだった」
「…え、」
「これまでは…朝、起こしに行ったら女が死んでたってことばっかだったし」

竜胆がさらりと怖いことを言った。でも、じゃあわたしが死ななかったのは万次郎が途中で正気に戻ったってことだろうか。あの時の万次郎は確かにどこか様子が違ってたし、それだと蘭さんや竜胆が異様に心配してたことも納得がいく。

――ごめん。

ふと万次郎に言われたことを思い出した。夢かと思ってたけど、あれは正気に戻った万次郎だったんだ。

「で…何があったんだよ」
「え…?」
「マイキーを怒らせたりは…」
「し、してない。わたしは何も…」

そこで思い出しながら、あの夜万次郎とあったことを詳しく蘭さんに説明した。

「ってことは…オマエが部屋に戻ってる間にマイキーが目を覚ましちまって…ひとりだと気づいたマイキーがおかしくなったってことか…?」
「た、多分…。万次郎はなんて…言ってるの?」

ふと気になって尋ねると、蘭さんと竜胆は互いに顔を見合わせて、首を振った。

「何も。ってか覚えてないみたいなんだ、オマエにしたこと」
「え…覚えて、ない?」
「言ったろ。マイキーそうなった時の記憶がなくなるって。気づいたらオマエがグッタリしてたから慌てて三途に連絡したみたいだし」
「まあ…自分が何かやっちまったってことは薄々気づいてんだろうけど…」
「…そう、なら…良かった」
「「…は?」」

ふと言ったわたしの言葉にふたりは驚いたような声を上げた。

「何が良かったんだよ。オマエ、死にかけたってのに」
「…でも…あの時の万次郎、確かに普通じゃなかったし…まるで別人だったから。万次郎の意志でしたんじゃないなら覚えてない方がいいかなと思って」
「…オマエ…」
「あ…蘭さん、呆れてます…?」

口を開けて呆れたように目を細めている蘭さんは、深い溜息を吐いて苦笑いを浮かべた。竜胆も似たような顔をして笑っている。でも今言ったことは本音だ。万次郎が本気で殺そうと思ったなら、今頃わたしはこの世にいない。生きてるということは――そういうことだ。
その時、玄関の方でけたたましい音と共に足音が近づいて来て、誰かが寝室に飛び込んで来た。

「…
「ま、万次郎…?」

慌てたように飛び込んで来た万次郎は、わたしを見るなり真っすぐベッドの方へ歩いて来た。

「あ、あのわたしなら平気――」

と言いかけた瞬間、万次郎がわたしの背中に腕を回して凄い力で抱き寄せられた。一瞬、呆気に取られる。

「…ごめん。オレ…酷いことしたよな?」
「え、あの…」
「ごめん……」
「万次郎…」

わたしの首元に顔を埋め、小さな声で呟く万次郎の声はかすかに震えている。わたしも驚いたけど、目の前の蘭さんと竜胆は更に驚いたのか、言葉を失ったように唖然とした顔をしていた。今の万次郎はまるで悪いことをして叱られた子供のように見える。

「…大丈夫だよ」

万次郎の背中に腕を回してポンポンと叩けば、やっと顔を見せてくれた。その表情は少しだけ疲れていて、きっとまた眠れてなかったんだろうなと思った。

「大丈夫だから…」

もう一度伝えると、万次郎はかすかに微笑んだ。その笑みはどこか悲しげで、今にも泣いてしまいそうだと思った。

「…万次郎」

そんな彼の顔を見ていたらわたしまで悲しくなって、だから――自然とくちびるを重ねていた。

「…?」

ゆっくりと離れたわたしを、万次郎が酷く驚いた顔で見つめている。

「万次郎…重たいよ」
「え?あっわりぃ――」

万次郎はわたしにまたがるようにして乗っかっていた。そこに気づいたのか、慌てて離れている。それはいつもの万次郎だった。

「ったく…マイキー大げさに心配しすぎなんだよ」

そこで蘭さんが空気を読んだのか、笑いながらそんなことを言いだした。そういうところは大人だなって思う。

「オレが来たらのヤツ、ガーガーイビキかいて寝てただけだし」
「え…イビキって…」
「そうそう。さっきも寝ぼけてたしなー」

竜胆まで乗っかってそんなことを言いだした。万次郎はいい仲間に囲まれてる。

「よく言うな…灰谷だって顔面蒼白でオレのとこ乗り込んできたろ」
「そーだっけ?」
「忘れんのはやっ」

万次郎は苦笑しながらベッドに腰を掛けて、ふとわたしを見た。その瞳に闇はない。だけど、どこか寂しげな表情は今にも消えてしまいそうなほど儚げに見えた。
結局、人間なんていくつになっても寂しさの本質は変わらない。
その埋められない何かが、誰かへの募る想いに繋がっていくものなのかもしれない。