六本木心中




手が届きそうなほどに近い今宵の月は下弦の月と呼ばれるものだった。新月に生まれ変わる前の幻想的な明かりは、何となく気分を沈めてくれる。

「ココ、これでいい?」

その声にふと振り返ると、がこっちを見ていた。もう終わったのかと驚きながら、チェックするのに彼女のところへ向かう。

「悪かったな。急に頼んで」
「ううん。わたしも一人ですることなかったからちょうど良かった」

はそう言って笑ってるけど、どのタイミングで頼んでも毎回そんな感じのことを言ってくれる。今回も色々と忙しくて後回しにしていた分を思い出し、急遽に頼んでしまった。今日からマイキーが恒例行事となっているフィリンピンへ行ってるから時間も気にせず呼んでしまったが、は嫌な顔一つせず来てくれた。ついさっきまで灰谷兄弟が来てたらしいけど、仕事で帰ってしまって暇になったから一人で飲んでたようだ。

「うん、これで大丈夫。いや、助かったわ」
「でもここまでで半分しか終わってないけど、いいの?」
「あーうん。今回溜めすぎちゃって、かなりあるから。ここまでやってくれたら後はオレが自分でやるよ」

パソコン画面を見ながら苦笑すると、は「え、何で?わたしも手伝うよ」と言いだした。

「いや、でも…せっかくひとりの時間が出来たんだし、こんなことしなくていいって」
「言ったでしょ。急に暇になって何していいのか困ってたって」

確かにマイキーがいる時は細かな雑用だったり、料理だったり、前なら全てクリーニングに出してた普段着てるような衣類も彼女が洗濯したりと、とにかくは良く働いていた。マイキーもずっと事務所にいるわけじゃなく、仕事で三途と出かけることもあるが、その間もは買い物へ行っては食材だったり生活用品だったりを揃えたり、空いた時間に体調面を考えた料理のメニューまで考えてるらしい。ちゃんと休んでんのかと思うくらい、彼女はいつも誰かの為に何かをしてて、自分のことは全て後回し。だからこんな風に何もやることがなくなると逆に困ってるみたいだった。

「ひとりで部屋にいても退屈だし…ココの仕事を手伝ってちゃダメかな…?」
「………」

困ったようにオレを見上げてくる彼女にドキっとさせられた。ヤバい、可愛すぎだろ、と心の中で突っ込んでしまった。いや、前から可愛くて凄くいい子だなとは思ってるから下地は出来てたんだけど、改めてこんな風に言われるとやけに胸がざわついてしまう。はただ暇だから言ってくれてるだけなのに何をときめいてんだ、ガキじゃあるまいし。

「ココもずっと仕事してるし、わたしがこれやっておくから、こういう時くらい出かけたらいいのに。デートとかないの?」
「いや、そんな相手いねえし…」
「え、そうなの…?なんか意外」

は少し驚いた顔でオレを見上げた。でもそう思われても仕方ないかと苦笑する。梵天の幹部はだいたいが女に対して奔放な男ばかりだから。オレだって別に聖人君子じゃないし、他のメンバーと似たようなもんだ。会ったばかりの女を抱いたこともあるし、何人かとは少しだけど付き合ったこともある。赤音さんへの想いを浄化出来たことで、オレも他の人を好きになろうとしたことも。ただ暗い青春時代を送って来たせいで、なかなか本音を見せることも出来ず、相手のことをどう大切にしていいのかも分からなくなってた。結局、仕事ばかりに目が向いて女の方が耐えられなくなる。なら一人の女と付き合うより、自分が余裕のある時にただ抱き合える女がいればいいかと思うようになってた。
人を好きになるって、どういう感覚だったっけ?そんなことすら忘れかけてる。

「ココは好きな相手を大事にしそうなのに」

ふとに言われてハッとした。

「…はっ…そんな風に見える…?」

思わず渇いた笑いが出る。これまで付き合った女達からは、いつも"何考えてるか分かんない"とか"私より組織やお金が大事なんでしょ"と言われてばかりだった。実際、オレは自分の恋人よりも組織や金儲けのことを優先してきたから、彼女たちにしてみればオレは"優しい恋人"ではなかったと思う。

「え、見えるよ。こんなわたしにも最初から優しくしてくれたし…。あ、最初はちょっと怖かったんだけど」

はそんなことを言いながら笑ってる。オレが優しく見えたんだとしたら、それは怖がられたらスムーズに仕事をしてもらえなくなると前の世話係で学んだからだ。決して本当の優しさなんかじゃない。

「…はナンバーワンホステスだったわりに素直すぎ」
「…え?」
「そんなんじゃ悪い男に騙されんぞ」

言いながらキッチンに向かい、冷蔵庫から冷えたビールを出した。それを二つのグラスに注ぐと、一つをへ渡す。彼女はありがとう、と言ってそれを受けとった。

「あいにく男の人の口説き文句とかは素直に信じないようにしてるの」

は笑いながらビールを飲むと「冷たくて美味しい」と言って、窓の方へ歩いて行く。オレも同じように窓際へ行くと、さっきと同じように夜空を見上げた。下弦の月は街のネオンの片隅で申し訳程度に光を放ってる。

「今夜は下弦の月なんだね。綺麗」
「でもこんな都会の街中じゃ、あんま風情はねえな。ネオンの方が明るいし」
「そうだね。六本木の空には似合わないか」

笑いながらも、の横顔は真っすぐ月を見上げている。その瞳に欠けた月が映りこんでいて、そっちの方が綺麗だと思った。

「口説いて来た男の言うことは信じないって、やっぱ客とか?」
「え?あー…うん、まあ」
「すげー数の男に口説かれてそうだな、は」
「そんなことないよ。わたしを指名してくれるお客さん全員が口説いて来たわけじゃないし…」
「え、そーなの。バカ高い金を払って飲みに来て指名すんだから、やっぱエッチ目的とかじゃねーの」

なんて男の浅はかさをもろに表すようなことを口にしたオレに、は一瞬キョトンとしてから軽く吹き出した。彼女は笑う仕草一つとっても上品で綺麗だ。本当に過去、人を殺したんだろうかと思ってしまう。

「何も指名をくれたからってそればかりが目的って人はいないの。ただ会話を楽しみたくて来るお客さんも多いんだよ。一緒にお酒を飲んで他愛もない話を聞く。聞いてもらえるだけで気が楽になるって人も。皆さんどこかの会社の社長だったり、会長だったりするから、気が抜けないって方も沢山いたし」
「へえ…そんなもんか」
「だいたい話を聞いてもらいたいっていうお客さんが殆どで、実際に体目的のお客さんは10人に1人くらいだし」
「え、マジで」
「皆、孤独なんだと思う。地位のある人はなおさら、他人に心を許せないだろうし」

その気持ちは何となく分かる気がした。オレ達だって似たようなものかもしれない。会社の社長とかと違い、そういう店で全てをさらけ出せない分、反社の、それもオレ達みたいな幹部は常に気を張っているから。

「まあ…を指名してた客の気持ちが何となく分かる気がするわ」
「…え?」
と話してると何か…落ち着く」
「そう?なら良かった。ココはいっつも気を張って仕事ばかりしてるから、たまには息抜きして」

は優しい笑みをオレに向けた。でもそれを言うならだってそうだ。

「いや、それもな」
「え、わたし?」
「いっつも何かしら人の為に動いてんだろ。たまには自分の為に何か好きなことでもすればいい。まあ監視付きじゃ限られるかもしんねえけど…」

世話係に対してこんな風に思ったのも言ったのも初めてだった。この半年、は本当によくやってくれている。一度はマイキーに殺されかかったというのに、しかもその後は自由になるチャンスさえあったのに、はここへ残った。

「何か…したいこととかねーの…?」

街のネオンを眺めながらビールを飲んでいるに尋ねれば、彼女は一瞬首を傾げたが、眉間を寄せながら何やら考え込んでいる。そんなに考え込むほどしたいことが思い浮かばないんだろうか。くらいの歳の子なら、パっとしたいことの一つや二つ、すぐ浮かびそうなもんなのに。これまでの子達は全員が貪欲だった。オレがこうして聞かなくても、やることやってるから、と何かしら要求してきたし、またそれがエスカレートしていった。そのせいで結局は身を滅ぼしたわけだけど、は珍しいくらい、自分の要求をしてこない。

「え、マジでないの?」

未だ悩んでるを見て、遂にオレの方が痺れを切らした。

「うん…よく分かんない。今までずっとお金貯めることばかり考えてたから極力、お金を使って何かするってことは考えてなかったせいかも…」
「…ある意味、その辺はオレと似てんだけどな」

思わず苦笑してしまった。何か目的の為に必死になるって気持ちは凄く理解できる。特に彼女は15歳で天涯孤独になったも同じ。頼れる親も親戚もなく、女ひとりで生きてくのは大変だったと思うし、きっと心細かっただろう。同じ年頃の子達みたいに遊んでいられない状況だったはずだ。

「あ、じゃあ…ちょっとこっち来て」

オレはをソファに座らせると、テーブルの上のノートパソコンを開いた。その中のメモ帳機能を表示させ、の方へ向ける。

「ここにお金を使わなくても出来ることでが一回でもやりたいと思ったこと打ってみて」
「え…」
「後は…お金使う使わない関係なく、一度でも興味を持ったこととかでもいい。頭で延々考えてるより、こうして打ち出した方がしたいこと見つかるかも」
「う、うん…分かった」

は素直に頷くと、すぐにキーボードを打ち出した。でも一発目の文字に思わず突っ込む。

「え、自転車ってなんだよ」
「あ、これは自転車に乗りたいってこと」

が笑いながら応えた。

「子供の頃ね、近所の子達が親に自転車が乗れるよう教えてもらってたの見て、いいなあって憧れてたんだ。ウチは自転車なかったし、買ってくれるような親でもなかったから」
「…え、じゃあ、もしかして…」
「お恥ずかしながら…乗れません」
「……マジ?」
「うん」

呆気に取られたオレの顔を見て、は笑いだした。そんな悲惨な子供時代を明るく話す彼女は、やっぱり強い子だと思う。そこでふと思いついた。

「あ、じゃあ明日は自転車買いに行こうか」
「えっ?」
「オレが教えてやるよ、自転車」
「いいの…?」
「もちろん。そんなことでいいなら付き合うよ」

オレが言った一言では嬉しそうな笑顔を見せた。こんな小さなことでこれほど喜べる子なんだと、少し驚いたけど、素直に可愛いと思った。やっぱり蘭さんの言う通り、オレはちょろい男だったようだ。ただこの歳になって自転車を教えるとは思わななかった。そう考えると色々とジワってしまった。

「何笑ってるの?ココ」
「いや…まさか大人になって自転車を買いに行くとか思うとさ。ここには車もバイクもあんのに」
「あ、そっか。そう言われるとそうだね」

も気づいたのか、一緒になって笑ってる。でもこういう意外な発想は、今の環境では凄く新鮮だ。

「そう言えば、地下駐車場に並んでる数台のバイクは誰が乗るの?」
「ああ、あれはマイキーの愛機と、他は鶴蝶さんと武臣さんって幹部のバイク。たまに気晴らしする時、乗るんだ」
「武臣さんは名前聞いたことあるけど、かくちょう…って?」
「ああ、もう一人の幹部で今は中国に長期出張中。向こうの組織と梵天は深い付き合いがあってさ。その架け橋になってんのが鶴蝶。多分来月には帰国するからも会えると思う」
「そうなんだ。その…怖い人…とか?」

が不安そうな顔をするから、つい吹き出してしまった。

「まあ顔は強面だけど根は優しい人だよ。ケンカがクソ強くて体鍛えんのが趣味。このマンションのジムも殆ど鶴蝶さんが使ってるかもな」
「色んな人がいるんだね、梵天の幹部って」
「まあ…ある意味個性強過ぎて性格も趣味もみんなバラバラだからな。まとめんの大変だよ。マイキーは我関せずでその辺放置だし」
「万次郎って、あまりトップって感じしないもんね。緩い時は思いきり緩いし、蘭さんがいっつもボヤいてるもん」

もその辺は分かるのか、軽く吹き出している。ある意味もマイキーに振り回されることが多々あるから、オレ達幹部の気持ちが分かるようだ。

「あ、じゃあ、自転車はOKとして、あとは?」
「あ、うーん…」

話を元に戻すと、はまた考えながらキーボードを叩いて行く。次に打った文字は…

「…VR?」
「うん。ほら、最近色んなゲームで話題になってたバーチャルリアリティ。あれテレビで見た時、一度体験したいなあと思ったの。だってゲームの世界に入れるんでしょ?凄くない?」
「え、そんなんでいいならオレ持ってるけど」
「えっ!」

はすんごく驚いたようにオレを見た。目なんかまん丸にしてその顏が子供みたいで笑ってしまう。

「やっぱアレ出た時、みんな欲しがって買ったんだよ。まあ一時遊んで今は放置されてっけど。竜胆さんも買ってたよ、確か」
「え、そーなの?わたしも欲しかったけど、一つ五万以上するから迷って迷って結局、買わなくて…」
「いやナンバーワンなら稼いでたんだろうし普通に買えんだろ」
「だから貯金してたんだってば。何かお店をやりたくて」
「あ、そーいうことか。あ、じゃあ…今からやってみる?」
「え、いいの?」
「もちろん」

子供みたいに瞳を輝かせるに笑いを噛み殺しつつ、ちょっと待っててとリビングの隣にあるウォークインクローゼットへ向かう。ここにVRもゲーム機もしまってあるはずだ。オレも昔からゲームといった類は嫌いじゃなくて、暇つぶし用に買ってはいるが、最近はこういう遊びをすることさえ忘れていた。

「えっと…あ、これだ」

棚の上の方にしまってあるVRの入った箱を見つけて、オレは手を伸ばした。けど指先で引き出した瞬間、隣にあった靴の入った箱も一緒に引き出されてしまった。あっと思った時には靴箱が落ちて来るのが見えて咄嗟に手を放したのがいけない。結果、VRの入った箱も同時にオレの頭上へ落っこちて来た。両手で頭を庇ったものの、ボコボコっという鈍い音と共に、オデコと手に痛みが襲って来る。

「…痛ぁ…っ」

その場にしゃがみこみ、頭をさすっていると、物音に驚いたのかが走って来た。

「ココ、大丈夫…っ?」
「あーうん。隣の箱を抑えないで引き出したオレがアホだった」
「ぶつけたの?どこ?」

は慌てたようにオレの前にしゃがんで、ぶつけた場所を確認している。抑えているオレの手を外して「見せて」と言いながら、オレのオデコの辺りを見て「あ」と声を上げた。

「額が切れてる」
「げ…マジ?」
「手当しよう」

そう言ってがオレの手を引きながら立ち上がろうとした。その時、棚の上に重ねてあった少し大きめの靴箱も不安定な状態になっていたのか、二つほど落っこちて来るのが見えた。

「危ない…っ」

掴まれていた手を思い切り引っぱり、を庇うように体を抱えた。瞬間、バサバサっという音を立てながら今度はオレの背中に箱が落ちて来る。でもオデコをぶつけた時よりは痛くない。

「あっぶねー…大丈夫か?」

床に尻落ちを突いた状態の彼女の顔を覗き込む。するとは「うん、でもびっくりした」と笑いながらも顔を上げた。不意に互いの顔が近づき至近距離で目が合う。何ともベタな状況にも関わらず、オレの心臓が素直に反応して大きな音を立てた。リビングの明かりだけに照らされた薄暗いクローゼットの中で密着している状態は、さすがに男の部分を刺激されたかもしれない。薄闇に見える彼女の瞳が恥ずかしそうに伏せられるのを見た時、自然と唇を寄せてしまった。

「…ん、」

そっと柔らかな唇を塞いでの背中を抱き寄せると、ほんの一瞬、彼女の体に力が入ったのが腕から伝わって来た。

「…ごめん」

ハッとして唇を離すと、ついそんな言葉が口をついて出る。これまで世話係だった子何人かと関係を持ったことはあるけど、こんな言葉を言ったのは初めてだった。そういう時は大抵、相手の女もその気だからというのある。でも彼女相手だと、いつもみたいに出来ない。なのには恥ずかしそうな顔で小さく首を振って体の力を抜いた。それが抵抗しないという意思表示のような気がして、本能のままに唇を寄せると、その場にを押し倒した。