六本木心中




1.

この街は、自ら身を差し出すよう夜に飲まれたがるくせに、闇を恐れるように無数のネオンで辺りを照らしだす。いつだって光のある場所には影が出来るのに、この街に集まる連中はそんな闇を見てみぬふりをする。まるで光にたかる虫のようだ。流れる景色の中に溶け込む連中を車の窓から眺めながら、ふとそんなことを思う。
竜胆はその光から生まれた闇の中で、死んだように倒れていた。すぐに連れて来た部下が意識のない竜胆を車の後部座席に乗せる。

――兄貴…アイツに…刺され…た。

竜胆がそんな電話をしてきたのは30分前のこと。女と別れ話をしに行くと言って出かけてから数時間経っても連絡がなく、少し心配になってきた頃だった。その時、半狂乱で叫ぶ女の声と共に通話は切れた。女の住むマンションは知っている。速攻で部下を呼んで車を走らせた。女の部屋に飛び込んだ時、目にしたのは飛び散った血痕と、滴り落ちた血だまり。それが点々とベランダに続いていた。女はベランダに蹲りながら放心状態で、竜胆はどこだと聞いても答えない。ふと嫌な予感がして下を覗くと、暗い植え込みに人が倒れているのが見えて。オレの顔から血の気が引いた瞬間だった。

「竜胆が悪いのよ…わたしを捨てようとするから…」

オレが竜胆のところへ行こうとした時、女が呟いた。返り血を浴びて笑う女を見てカッとなったのは仕方のないことだ。竜胆はたった一人の弟で、大切なオレの家族だ。その弟を殺そうとした女を生かしておく理由が、この時のオレには思い当たらなかった。それだけのことだ。

「…倉庫に運んどけ。この部屋の始末は任せる」
「分かりました」

後のことは部下に任せて、オレは竜胆のところへ向かった。



「例の医者のところでいいですか」

竜胆を車に運び込んで助手席に乗り込むと、最近運転手として下に付けた太一が訊いて来た。

「ああ…急げ」
「はい!」

言った瞬間アクセルを踏み込んだ太一の運転技術はなかなかのもんだった。スピードを上げてもあまり揺らさないように走ってくれている。

「…クソ」

後ろで竜胆を抱えている部下が小さく呟く。オレもそんな気分だった。まさか竜胆があんな女に刺されたあげく、マンションの五階からダイヴするとは思わない。

(もしかしたら薬を盛られてたかもしんねえな…)

部屋に入った時、視界に入ったのはテーブルの上の酒の瓶と倒れたグラスだった。別れ話を切り出され、泣き喚いた女を宥めるのに竜胆が飲もうと言ったのか、それとも女の方から最後に乾杯しようとでも言いだしたのか知らないが、電話をかけてきた竜胆の呂律がおかしかったのが気になった。もし酒に睡眠薬でも入れられてたなら竜胆が刺されたのも頷ける。

(ったく、油断しやがって…)

思い詰めた素人の方がよっぽど怖い。特にあの女は男にのめり込むタイプだ。GPSを仕掛けるくらい嫉妬深かったことを考えれば、こういう事態も想定しておくべきだったと、竜胆を一人で行かせたことを後悔した。竜胆は何だかんだ女には甘い。優しいんだろうが、ああいう面倒な女が相手の時はその優しさが悪い方へ転がる場合もある。とにかく、ケガの状態が心配だった。

(…九井もこっちに向かってる頃か)

ふと時計を見れば深夜0時過ぎ。さっき竜胆を見つけたあと、すぐ九井に電話をした。オレ自身、少し冷静になる為にも今は誰かと話した方がいいと思ったからだ。でも結局はそう考える時点で相当動揺してたんだろう。九井は『落ち着いて下さい』と言って、例の病院の手配をするから竜胆をそこへ運んでくれと言った。頭では分かってるのに言われて気づいた。

(情けねえったらねーな…)

色んな人間の死を見てきたクセに、竜胆が倒れてる姿を目の当たりにした時、死んでるかもしれないと思ったら予想以上に動揺したらしい。それくらい、竜胆のあんな姿は今日まで見たことがなかった。息をしてることに気づいた時、ホっとしたと同時に初めて手が震えて来た。悪運の強い弟に感謝すらした。

こんな面倒ごとになるかもしれないのに、どうして人は誰かを傍に置きたがるんだろう。若い頃みたいにパっと燃えて散るような恋愛はいつからしなくなるのか。大人になった分だけ、想いが強ければ強いほど相手に執着していく。
女は竜胆がいなければ生きていけないと思い、竜胆はこの女じゃダメだと思った。自分の方を見ていない相手を殺してまで手に入れたいなんて、最高に身勝手な愛だ。でも、しょせん、男女の間の愛なんて身勝手なものなのかもしれない。一方的に女と別れると決めて出て行った時の竜胆を思い出しながら、ふとそう思った。






2.

「蘭さん…!」

オレが声をかけると、廊下のベンチに座っていた蘭さんがハッとしたように顔を上げた。
ここは梵天が飼ってる闇医者の病院だ。警察に介入されることなく治療をしてもらえるから、仲間がケガをした時はここへ運ぶのが梵天内での暗黙のルールでもある。

「九井…も遅くにわりぃな…」
「い、いえ…それで竜胆は…っ?」

は青ざめた顔で尋ねた。蘭さんから彼女も連れて来てくれと頼まれて一緒に来たが、さっきまで二人でいたことは言わないでおいた。蘭さんは今にも泣きそうなを見て、ふと笑みを浮かべると、何故か申し訳なさそうに「それがさあ…」と言いながら苦笑した。

「…わざわざ来てもらったけど…大したケガじゃなかったわ」
「…え?」
「ホントですか。でも刺された上に五階から落ちたって…」
「いや、まあ…そうなんだけど…」

オレも驚いて尋ねると、蘭さんが気まずそうに頭を掻いている。

「医者が言うには刺された傷も包丁の先がちょっと刺さった程度の深さで、転落したケガも右足首は骨折してっけど、後は擦り傷だけらしい。脳も異常なし」

何でもマンションから落ちた際に植え込みに落ちたらしく、それがクッション代わりになったんじゃないかと言う話だった。とにかくそれを聞いてオレは心底ホっとした。も同じだったようで「良かった…」と言った瞬間、膝から崩れ落ちそうになってる。慌てて受け止めようとしたら、先に蘭さんが彼女の体を支えた。

「大丈夫か?心配させて悪かったよ…」
「ううん……軽傷で済んでホント良かった…」

は堪えていた涙が溢れて来たのか、ポロポロ泣き出してしまった。あの蘭さんが「泣くなって…」と困ったように彼女の涙を拭く姿がやけに優しく見えた。

「あ…それで竜胆くんは?」
「ああ、今は麻酔で眠ってる。そこの病室」

後ろのドアを指さした蘭さんには「顔を見てきていい?」と訊いている。竜胆さんと彼女が何度か外でデートをしてたのは知ってる。無事とは分かっても顔を見ないと心配なんだろう。

「ああ、オレは九井と話あっからは竜胆についててやって」
「はい…じゃあ…」

はオレにも声をかけると病室の中へと入って行く。心配そうな彼女の顏を見て何となくモヤっとしたが、そんな気持ちを誤魔化すように蘭さんの方へ歩いて行った。

「それで…その女は」
「倉庫に運ばせた」
「じゃあ、すぐに処理をする準備をします。ちょうどこの前出たスクラップも捨てようと思ってたんで」
「わりぃな…仕事増やして」
「いや…そもそもそんな女を生かしておけば後々面倒なことになるかもしれないし」
「……そうだな」

蘭さんはどこか疲れた顔で溜息を吐いた。常に冷静な蘭さんは今回みたいに感情で誰かを手にかけることは基本しない。別に後悔してるわけじゃないだろうが、弟の恋人だった女だ。後味は良くないだろう。それに最愛の家族を殺されかかった恐怖は理屈じゃない。幸い軽傷で済んだから良かったが、精神的なダメージは受けてるはずだ。

「蘭さん、帰って休んで下さい」
「あー…そうだな…竜胆も明日まで目は覚ませねーみたいだし…帰るか」

蘭さんは軽く息を吐いて立ち上がった。

「ああ、オレはこれから渋谷の本部に行くんでのことお願いします」
「…分かった。連れて帰る」

蘭さんは病室の方へ視線を向けて頷いた。こういう時はみたいな子がそばにいるのがいい。何となくそう思った。

「お願いします」
「ああ」

蘭さんに頭を下げて廊下を歩いて行く。一瞬、にも声をかけようかと思ったがやめておいた。

(この様子じゃ明日、自転車を買いに行くのは無理か…)

彼女との約束を思い出して小さく息を吐くと、オレは車に乗り込んだ。







3.


病院特有の消毒液の匂いが嫌いだった。昔を思い出す。真っ白い壁に囲まれた病室は居心地が悪い。でも、竜胆の青白い顔を見ていると、どうしてもその手を放せなかった。窓の外からは雨が降りだす音がしてきた。

(軽傷でほんとに良かった…)

刺された上に五階から転落なんて聞いた時は悪いことしか浮かばなくて、意識が遠くなりかけた。ココがいてくれなかったらきっと動揺してパニックになってたかもしれない。自分のそばにいた人が急にいなくなるなんて、よく考えたら怖いことだ。こんな思いをわたしの母もしたんだろうか。ふと思った。あんな男でも愛してたんだろうかと。その男を娘に奪われたから心を病んでしまったのかもしれない。



その声にハッとして振り向くと、蘭さんが疲れた顔で立っていた。

「帰ろう。竜胆は明日まで起きねえってさ」
「…でも」

と言いかけて蘭さんを見上げると、彼はふっと笑みを浮かべた。

「そんな顔すんなよ。竜胆は大丈夫だから」
「…うん」
「オマエも疲れたろ。明日また来よう」

蘭さんに促されて、わたしは竜胆の手を放した。この手は暖かい。大丈夫。

「…悪かったな、何か」
「え?」

廊下に出た時、蘭さんが溜息交じりで言った。やっぱり疲れてるようだ。いつもの蘭さんとは少し雰囲気が違う。

「大げさに騒いでオマエも呼んじまったし…焦ったろ」
「…い、いえ。無事で良かった。あのままマンションに残っててもきっと眠れなかったし…」

そう言うと蘭さんは優しい笑みでわたしの頭へ手を置いた。

「わたしのことより蘭さん疲れてるし、帰ったら休んで下さいね」
「あー…まあ…そのつもり」

蘭さんは軽く苦笑してるけど、精神的なものも関係してる気がした。弟が殺されかかったんだから当然だ。それからはマンションに着くまで、蘭さんは一言も話さなかった。ただわたしの手をずっと握っていて、そうすることで安心するのか、移動中の車内では少しだけ眠ってたように思う。

「着きました」

という部下の男の子の声で、蘭さんはゆっくりと目を開けた。

「ああ…もう着いた…?」
「大丈夫ですか?」
「ああ、太一も帰って寝とけ」
「はい!お疲れ様ですっ」

何とも元気な子だなと思っていると、蘭さんはわたしの手を引いたまま車を降りた。地下駐車場のエレベーター前に立ってた黒服の人が蘭さんの姿を見ると、すぐにエレベーターを呼んでいる。

「お疲れ様です!」
「おう…」

蘭さんは軽く手を上げると、わたしを連れて降りて来たエレベーターに乗り込む。黒服の人がドアを閉めると、蘭さんは自分の部屋がある階のボタンを押した。

「大丈夫…?」

小さく息を吐いてる蘭さんを見て少し心配になった。蘭さんは普段自分の弱い姿は見せない人だ。そういう人は知らないうちに気を張り詰めてるものだ。わたしも前はそうだったから分かる。だからこそ、何かの拍子でその糸が切れそうになることもある。

「…んー…大丈夫じゃねえかも」
「え…」

蘭さんは言いながら繋いでた手を引き寄せてわたしを抱きしめると、首元に顔を埋めた。急なことで心臓が大きく音を立てる。蘭さんの香水が、少しだけ懐かしく感じた。

「ら…蘭さん…?」

ぎゅっとされて自然と顔が熱くなる。その時、不意にドアが開いた。そこには黒服の男達が立っている。蘭さんはすぐに腕を放すと、わたしを連れてエレベーターを降りた。

「え、あ、あの…」

わたしの部屋はもう一つ上だ。慌てて蘭さんを見上げると、彼は何も言わずに自分の部屋のドアを開けて中にわたしを引き入れた。

「蘭さん――」

もう一度その名を呼んだ瞬間、また腕を引き寄せられて、気づけばくちびるを塞がれていた。さっき以上に心臓が跳ねる。くちびるの隙間から舌が侵入してわたしのと交わるように絡みつく。息をすることも許さないと言うような深いキスをしながら、蘭さんはわたしを寝室へさらった。

「…きゃ」

背中が沈み込むほどの勢いでベッドへ押し倒されて、戸惑うように見上げると、闇の中で綺麗なバイオレットがわたしを射抜いて来る。

「ら…蘭さん――」
「今夜は…オレのそばにいろよ」
「…え…」
「…オレを癒して」

わたしの頬に手を添えながら、蘭さんは泣きそうなくらいの優しいキスをくれた。