六本木心中



1.

働く場所を六本木に決めた時から、運命は回り始めていたのかもしれない。
あの夜、視界に飛び込んで来た彼の鮮やかなバイオレットの虹彩は、知らないうちにわたしの瞳に焼き付いていたんだと、今更ながらに気づいた。怖い人だと分かっていたはずなのに――。

とんでもないことを言ってしまった。

――わたしが蘭さんに抱かれたいって…言ったら…ダメですか?

何であんなことを言ってしまったのか自分でも分からない。でもこれくらい言わないと蘭さんは素顔を見せてくれないと思った。

最初はからかわれたんだと思った。「癒して」と言われた時、わたしは本気で蘭さんを癒したいと、本気でそう思ったのに彼は「冗談」だと言って笑った。前もそうだ。プールでわたしを抱こうとした時も、また今度な、なんて言っても"今度"なんてなくて。その一時の感情で蘭さんはわたしを翻弄する。しょせん彼らにとって、わたしはただの世話係でしかない。気まぐれで抱くのも抱かないのも気分次第。わたしは彼らに求められたら応じればいいだけの話だ。

なのに――さっき冗談だと蘭さんに背中を向けられた時、本気で心配していた自分の心を拒否された気持ちになって、どうしようもなく寂しくなった。蘭さんの本当の姿を、見せて欲しくなった。一人で平気だと強がるような背中を見せられたから…だからあんな感情的になってしまったのかもしれない。彼の孤独が垣間見えて、そんな彼のそばにいたいと、愚かな感情が芽生えてしまった。この胸の奥を焦がすような何かに名前を付けるのは――怖いのだけれど。



「ああ、今向かってる。え?あー…も一緒だよ。あ?の飯が食いたいだ?テメェ、怪我人のクセに甘えたこと言ってんなァ。は?怪我人だから?知るか。は竜胆の家政婦じゃねえから」

ケータイで竜胆と電話をしながら蘭さんはわたしへ視線を向けた。その瞬間かすかに微笑まれて、繋がれたままの手を軽く握られる。たったそれだけで胸の奥が容易く音を立てるんだから笑ってしまう。たった一晩で、少しだけ彼との距離が近くなった気がした。
でも結局――蘭さんはわたしを抱かなかった。

――オマエ、わざと煽ってオレを慰めようとしてんだろ。

鋭い蘭さんには何でもお見通しらしい。
彼は確かに弱っていて、でもどこかわたしを気遣ってるように思えたから。最初はからかわれたと思っていた態度も、冷静になって考えれば、きっと蘭さんなりのわたしへの気遣いだったんだと気づいてしまった。だから…わたしから抱いてなんて思わず言ってしまったけど、蘭さんにはそういう言葉も通用しなかったみたいだ。

「でも…心配かけて悪かった」

優しい眼差しで、そんな言葉を言いながら、わたしを抱き寄せて蘭さんは眠ってしまった。本当に疲れてたみたいだ。でもさっきと違って、安心したように眠る姿が、ほんの少し蘭さんの素顔を見れた気がして。ホっとしたのと同時にわたしも気づいたら眠ってしまったようだ。結局、昼過ぎにかかって来た病院からの電話で起こされるまで、蘭さんもわたしも熟睡してた。

「竜胆が目を覚ましたらしい。も行くか?」

寝起きが悪いらしい蘭さんも、この時ばかりは目が覚めたようだ。すぐに頷いてわたしも急いで出かける用意をした。

「ったく…めちゃくちゃ元気じゃねぇか」

電話を切った後、蘭さんは苦笑交じりでわたしを見ると、「オマエの飯が食いたいって」とシートに凭れて笑っている。それを聞いてわたしもホっとした。

「入院、どれくらいになるのかな…」
「あー…多分、骨折してっから一週間くらいじゃねえの。しばらく車椅子だろ、あれ」
「そっか…。あ、じゃあその間はわたしがお世話した方がいい?それとも部下の人がやってくれるのかな」

ふと気になって尋ねると、蘭さんは困ったような顔をわたしに向けた。

「オレとしては竜胆の世話をオマエに任せんの嫌なんだけど」
「え、どうして?」
「…………」

てっきり"弟の世話をしてくれ"くらいは言われるかと思ってた。今週はマイキーも不在でわたしが暇なのは知ってるはずだし。なのに蘭さんが複雑そうな顔をするから、少しだけ驚く。

「オマエ、それわざと…?」
「え…?」
「夕べはわたしを抱いてって大胆にオレを惑わしたくせに、今日は竜胆の方にいくわけだ」
「え…っ」

急に夕べの話をされてドキっとした。つい運転席の方へ意識が向く。太一くんという若い男の子だし、そんな会話を聞かれたくはない。でも蘭さんは笑いながら「そこ仕切り閉めてっから聞こえねえし見えねえよ」と指をさした。確かに前の座席と後部座席の間には仕切りがあって、こちらからも前は見えない。車は詳しくないけど、この車はかなり大きくて幹部専用車らしいから、会話を聞かれないような工夫がされてるんだろう。

「で?さっきの話だけど」
「え、えっと…」

蘭さんは意地悪な笑みを浮かべてわたしの方へ身を乗り出すと、「竜胆の世話、したいのかよ」と顔を覗き込んで来る。そんな質問をされたことがないから言葉に詰まってしまった。どういう意図があるのかも分からない。

「し、したいっていうか…だって車椅子じゃ色々大変だろうし…着替えとか病院に持って行くくらいはしようかと――」
「ふーん…」
「あ、あの…蘭さん?」

蘭さんは目を細めながら、不満そうな顔でわたしを見ている。何かちょっと可愛い。

「ま…いいけど。それくらいは」
「それくらいって…」

そんな会話をしていたら、昨日の病院に到着したらしい。小さなスピーカから『つきました』という太一くんの声がした。

「んじゃー行くか」

外からドアが開けられ、蘭さんが先に降りる。でもすぐに腕が伸びてきて、蘭さんは降りようとしていたわたしの腕を掴んだ。

「蘭さん…?」
「それ持つからよこせ」

そう言いながらわたしの持っていたボストンバッグを奪っていく。中には竜胆の着替えや暇つぶしになるような雑誌などが入っていた。どうやら蘭さんが持ってくれるらしい。でも片方の手はしっかりわたしの手を握っている。病院の周りには部下の人達がたくさんいるから少しだけ恥ずかしい。でもその間を蘭さんは気にすることなく歩いて行った。昨日は夜で気も動転していたから殆ど見てなかったけど、昼間こうして外観を見ると、そこは大きなビルで看板には"リラクゼーション"と書かれていて、後は読めない漢字が並んでいる。一見中国系のお店のように見えた。でも中はしっかり病院で、裏社会の人間を治療する闇医者とのことだった。

「お疲れ様です!」
「おう」

中にも当然のように部下の人がいて、次々に頭を下げれらている蘭さんは幹部の風格を見せている。強面でガタイのいい男の人達が一目置いてる空気が伝わってきて、何故かわたしが緊張してきた。

「緊張してんの」
「え…?」
「手に力が入った」
「あ…」

未だに手は繋がれている。これまで蘭さんがこんな風に扱ってくれたことはない。どこか一線を引いてるような気がしてた。夕べのことで何か心境の変化でもあったのかと考えてみたものの、さっき言われたことくらいしか思いつかない。そんなことを考えていると繋がれていた手が不意に離れた。

「竜胆がうっせーかもしんねーし」

苦笑しながら蘭さんは病室のドアを開けた。

「あ~兄貴…も。おせーよ」

竜胆はベッドから上半身を起こすと、「イテテ…」と顔をしかめている。すぐに背中に枕を入れてあげると、「サンキュー」といつもの笑顔を見せた。本当に元気そうで良かったしちょっと安心した。

「悪い、兄貴…面倒かけた」
「ほんとそれな。油断しすぎだろ。いくら相手が女だからって」
「ちょ、その話は…」

と言いながら竜胆がわたしを見た。でも夕べ蘭さんから事情は聞いている。

に聞かれたくねえってんならおせーわ。知ってるし」
「は…?マジで」
「う、うん…昨日、わたしもここに来たの。その時少し…」
「……マジか」

竜胆は片手で顔を覆うようにしながら溜息交じりで蘭さんを見上げた。よほど話されたくなかったようだ。でも別れ話をして刺されるなんて、相手の人はよっぽど竜胆のことが好きだったんだろうなと思った。

「で?オマエは何で腹刺されたんだよ。やっぱ薬か?」
「あー…うんまあ…。最後に乾杯してって言うから飲んだら急にクラクラしてきてさ。動けなくなったとこをブスっと…」

思い出したように竜胆は思い切り顔をしかめている。動けない状態で刺されたなら、いくら竜胆でも怖かったに違いない。今も少し青い顔をしている。

「まあ、でもアイツも刺したら気が済んだのか、手を放したんだよ。だから追い打ち喰らわないようにどうにかアイツがいるとことは逆のベランダに逃げて兄貴に電話した。でも放心してたアイツがその電話で気づいて追いかけてきてさ。こりゃやべーって思ったから、どうにか体動かして自分で下に落ちたんだ。植え込みが見えたからワンチャンと思ってさ」

竜胆の説明に蘭さんは「なるほどな…」と深く息を吐いた。確かにもう一度刺されでもしていたら本当に危なかったかもしれない。一か八かだけど、咄嗟に竜胆がとった行動が功を奏したようでホっとした。

「まあ…腹の傷が全治一ヶ月。足の骨折は早くて二カ月ってとこか」

蘭さんが医者から聞いた話によると、竜胆が骨折した場所は踵の部分の小さな骨らしく、そこまで長引かないということだった。

「ま、命は助かったんだ。今回のことを教訓にして今後はオマエも女を見る目を養え」
「…耳が痛いです」

竜胆も懲りたのか、素直に頷きながら苦笑している。でもいきなりベッド脇に立っていたわたしの手を引っぱって来た。

「まあオレにはがいるから他の女はいらねーけど」
「は?」
「えっ?」

わたしと蘭さんが同時に驚いて声がピッタリ重なった。思わず顔を上げると、蘭さんと目が合う。何か言いたそうな顔だ。

「今日からに世話してもらおーかな。マイキーもいねえし。ダメ?」
「そ、それはいいけど…」

とわたしが言った瞬間だった。蘭さんがわたしの体を抱き寄せて竜胆から引き離した。あまりに突然で竜胆も怪訝そうな顔で蘭さんを見ている。何となく気まずい空気が流れた。

はオマエの世話係じゃねーだろ」
「分かってっけど今はマイキーも不在だしちょっとくらいいいじゃん。オレ、男に世話してもらうのイヤだし」
「はあ?我がまま言うな。今回オマエのヘマで色々迷惑かかってんだよ」
「そりゃ悪かったけど。つーか何で兄貴が決めんだよ。はいいって言ってくれてんのに」
「………チッ」
「何で舌打ち?!」

竜胆さんのツッコミに蘭さんがそっぽを向く。兄弟ゲンカは初めて見たけど、二人とも子供みたいでちょっとだけおかしくなった。

も何笑ってんだよ…」
「だ、だって…普段の二人と違うし」
「いや、二人でいるとこんなもんだわ」

と蘭さんが苦笑する。

「そーそー。兄貴の理不尽さでいつもモメる」
「あ?竜胆の我がままだろ?」
「いや、兄貴も相当な我がままじゃん。自覚ねえの」
「…もう片方の足も折ってやろーか?」

とまたモメだして、やっぱり笑ってしまった。前から思ってたことだけど、兄弟仲は凄くいいみたいだ。心配した分、きっと蘭さんには色々な思いが過ぎって、文句の一つも言いたくなったんだろう。わたしには兄弟がいないから少し羨ましい気もする。でも本当に、二人とも元気になって良かった。

(結局わたしは何もしてあげられなかったな…)

わたしが蘭さんにしてあげられることなんて何一つないのかもしれない。そう思ったら、また少し寂しさを感じた。





2.

「とにかく無事で良かった」

後から来た九井は安堵したように息を吐き出した。病室の中からは竜胆との明るい笑い声が聞こえて来る。その声を聞いていると夕べのことが嘘みたいだ。

「無事も何も…すっかり元気のくせに、に甘えてんだよ。ったく…女で痛い目みたくせに懲りねえヤツ」
「でもまあ…がそばにいれば安心ですね」

病室の方に視線を向けながら笑みを浮かべる九井の表情はどこか優しい。その顏を見ていたら、ふと夕べと九井が一緒に来た時のことを思い出した。

「そーいや…夕べってオマエ、と一緒だったのか」
「…え?」
「マイキーいねえ時って仕事手伝ってもらってんだろ?例のアレ」
「あ、ああ…まあ…そう、ですね」

九井は何故かオレから視線を反らして気まずそうな顔をしたように見えた。こういう時、オレの勘はやたらと働く。

「ココ…オマエ…」
「な、なんすか…」

ジっと顔を見れば明らかに動揺している。その様子を見てピンときた。

と寝たのかよ」
「……ッ」
「分かりやすいヤツ」

オレの質問にギョっとしたように視線を反らす九井に、思わず苦笑した。別にこれまでの女だって抱きたくなれば抱いてたわけで、それを誰かが文句を言うこともない。もちろんマイキーだってオレ達の動向は百も承知だったはずだ。なのにが来てからは皆、どこか前とは違う空気になっている気がする。それはオレも含めての話だ。

「…もしかして…惚れた?」
「……は?」
「世話係の女に手を出したのなんて一度や二度じゃねーだろ。なのに、何で相手だとそんな気まずそうな顔すんの」
「い、や…え、オレ、そんな顔してました?」
「してたなぁ。オレにはバレたくなかったーみたいな顔」

笑いながら言うと、九井はやっぱり気まずそうに頭を掻いている。その姿を見てたらまたオレの中でモヤっとしたものがこみ上げた。九井だけじゃない。相手だとオレだっておかしい。夕べのことだってそうだ。前のオレなら女にあんなことを言われた時点で100パー抱いてた。なのに、夕べはあんな気持ちのまま、彼女を抱きたくないと思った。それは――を何かのはけ口にしたくなかったからだ。

「……は…オレはバカか」
「…蘭さん?」

を抱けなかった時点で答えは出ていたはずなのに、気づかないフリをしていた。いや最初に会った時から、すでに予感はあったのかもしれない。誰にも言えない秘密を抱えた彼女のあの目を見て、胸の奥がざわついたあの瞬間から。

「惚れたって…それ、もしかして自分のことっすか」
「……あ?」

ふと隣に視線を向ければ九井が苦笑しながらオレを見ている。

「いや…今そんな顔してたから」
「オマエにオレの気持ちが分かんのかよ…」
「まあ…オレ、これでも昔本気で惚れた女がいたんで」

九井はそう言いながらオレの肩をポンっと叩いた。何かとてつもなく弱みを握られた気分だ。

「こういう時は素直になった方がいいっすよ。絶対……後悔するんで」
「うっせえよ…後悔なら今してる」

を梵天に引き込んだこと。いや――出会ってから今日までのこと何もかも。後悔ばかりが頭に浮かぶ。自分で自分をぶん殴りたい気分だ。

「蘭さん相手なら…オレは身を引くんで」
「あ?」
「もう彼女には手を出しません」
「チッ…今更なんだよ…」

思わず舌打ちすると、九井も「ですね…」と言いながらも、どことなく横顔は寂しそうに見えた。