六本木心中




突然、戻るという蘭さんに連れられて、わたしは六本木のマンションに戻って来た。でもマンションについたら車で待ってろと言われて首を傾げる。蘭さんは一人でマンションへと入って行った。いったい何が始まるんだと不思議だった。あんな風に病院から連れ出されれば何事かと少し不安にもなる。それに蘭さんの態度が少しおかしい気もした。以前よりも距離が近く感じるのは、やっぱりこの前の夜が原因なんだろうか。

(あんなこと言わなきゃ良かったかな…)

自分でもあんなに感情的になったのは初めてだったかもしれない。今まで恋人に、いや男の人にストレートに怒ったりしたことはなかった。何であの時、我慢できなかったんだろう。気づけば枕をぶつけていて、自分で自分の行動が分からない。

(でも…蘭さんは怒ったりせず、ちゃんとわたしの気持ちを理解してくれた…)

予想外にもそれが凄く嬉しかったのだ。そんなことを考えていると、不意に車のドアが開けられ、運転手の太一くんが顔を出した。

「蘭さんが戻ってきましたので一緒に来て下さい」
「…え?どこに――」

と聞き返した時、蘭さんがマンションの方から何かを押してくるのが見えた。それを見た瞬間、「あ」という声が洩れる。

「ら、蘭さん、それ…」
「ったく…上から持ってくんのも恥ずかったわ」

蘭さんは苦笑しながらも手にしていた物を引いて、「早く来いよ」とわたしを呼んだ。慌てて車を降りると、蘭さんはマンション敷地内の庭へと歩いて行く。その後を追いかけながらも、彼が手にしている自転車をマジマジと見てしまった。それはココとネットで探してわたしが選んだ物だったからだ。

「あ、あの…何で蘭さんが自転車を…?」
「ココに押し付けられた」
「…えっ?」
「オマエ、これ乗りたいって言ったんだって?」

その時、ココと交わした約束が頭に浮かんだ。でも何故その話を蘭さんが知ってるんだろう。

「この辺でいっか」

蘭さんは奥の方で止まると、一度自転車をストッパーで止めてから、わたしの方へ振り向いた。

「何だよ、その顏」
「だ、だって…何で蘭さんが…」
「そりゃココに聞いたからな」
「それにしたって…その…じゃあもちろんわたしが乗れないってことも…」
「ああ、聞いた」

ちょっと笑って蘭さんは自転車をポンと叩いた。

「ココが教えるって約束だったんだろうけど、アイツ、オレに丸投げしてきたからオレが教えてやるよ」
「え…」
「ってーのは冗談で…まあ…オレが教えるっつってコレぶんどって来た」
「……な…何で?」

わざわざココからそんな面倒なことを引き受けるなんて蘭さんらしくない気がした。なのに蘭さんはどこか不満げに目を細めると「オレじゃ嫌なのかよ」とスネたように訊いて来る。慌てて首を振ると、彼はすぐに笑顔を見せた。

「で、でも…忙しいのに…いいの?」
「いいから持ってきてんだろ、これ。部下の奴らが笑い堪えてんのマジ、ムカついたわ」

蘭さんは苦笑しながらマンションの方へ視線を向けた。どこから持って来たのかは分からないけどマンション内を蘭さんが自転車を引いて歩いて来たんだろう。確かにその光景を想像するとわたしも笑ってしまった。

「テメ、何笑ってんだよ」
「だ、だって…蘭さん、自転車似合わない」

オデコを小突いてくる蘭さんを見上げながら、思わず吹き出すと「似合ってたまるか、こんなもん」と蘭さんもつられて笑っている。それでも着ていた上着を脱いで、そばにあるベンチに置くと、わたしの手を引いて自転車の前に立たせた。

「乗ってみ」
「えっ」
「足がつくようサドルは調整してあっから大丈夫だよ。オレが支えてやるから」
「う、うん…でもわたしスカート…」
「オレしかいねーし別にパンツくらい見えたって何とも思わねーよ」
「……」

ケラケラ笑う蘭さんに思わずむっと口が尖ってしまった。そりゃ蘭さんは気にしないだろうけど、わたしは恥ずかしいのに。

「ほら、早く。うしろ押さえててやっから」
「…わ、分かった」

ストッパーを解除した蘭さんに急かされ、わたしは自転車のハンドルを持つと、恐る恐るサドルへとまたがる。

「オマエ、聞き足どっち」
「み、右です」
「んじゃー右足をペダルに乗せて。あー違う。乗せる方のペダルは高くして、そう。んでそのまま思い切り右足でペダルをこいでみ」
「え…」
「ちゃんと掴まえてるから平気だって」
「は、はい」

蘭さんが笑いながら自転車の後ろを押さえてくれている。自転車が安定してるのを感じて、わたしは思い切ってペダルをこいでみた。でも怖くて体に力が入っているせいで、すぐに自転車が傾く。「わ」と声を上げて足を地面につけてしまった。

「あ~もっと力抜けって。そんなんじゃコケるし」
「…わ、分かった…」

もう一度言われた通りになるべく力を抜いてこいでみる。でも少し進むと怖くなって力んでしまった。さっきと同じように自転車が傾いて足をつくの繰り返しになる。

「オマエ、下手くそだなー」
「だ、だって初めてだし…」

蘭さんに笑われ、ちょっと落ち込む。普通は皆、子供の頃に教わるから近所の子達は自転車も小さいものに補助輪付きのを乗っていた。大人になってからだとさすがに補助輪付きの大人用自転車はない。初心者には普通のママチャリでも難しいのだ。

「いちいち落ち込むなよ。こんなもんコツ掴んだらすぐ乗れるって」
「…乗れるのかなぁ、こんなんで」

わたしの頭をぐりぐり撫でて来る蘭さんを見上げると、彼は「あ、そーだ」と言って、わたしの手から自転車を奪っていく。

「オレがこいでやるから、後ろに乗れ」
「えっ?!」
「その分だと後ろにも乗ったことねーんだろ?体感で覚えれば怖くなくなるかもしんねーし」

蘭さんは言いながらも自転車にまたがった。ただ足が長すぎるせいで下げたサドルだと乗りにくいみたいだ。

「ひっく。これこぎづれーわ。高くしてい?」
「は、はい。でもどうやって…」
「あーこれ。このレバーを動かして緩めてから、こう」

蘭さんはサドルの位置を自分に合わせると、今度こそまたがって「楽になった」と笑っている。そしてわたしに「後ろ乗れよ」と荷台のような場所を指す。前に高校生くらいのカップルが二人乗りをしてるのを見たことがある。あんな感じでいいのかなと、横向きに座ってみた。

「こ、こう、ですか」
「あーまあスカートだしその方がいいか。んじゃーオレにつかまって」
「え…?」
「だから手をここな?」

わたしの手を掴むと、蘭さんは自分の腰に持っていく。たったそれだけなのに何故か凄く恥ずかしくなった。

「んじゃーこぐぞー」
「え、あ、ちょ、ちょっと待って…ひゃっ」

一気にスピードを上げてこぎだすから、慌てて蘭さんの腰にしがみつく。シートベルトみたいに体を守るものが何もない乗り物に乗るのは初めてで地味に怖い。

「やべえ、久しぶり過ぎて楽しーかも」
「ちょ、蘭さん…スピード出し過ぎじゃ…」
「そーか?普通だろ。ってか、しがみつき過ぎじゃね?バイクじゃねーんだから」

今では蘭さんの腰に腕を回して背中に顔を押し付けてしまっている。周りの景色を見る余裕なんてなかった。でも蘭さんが少しだけスピードを緩めたのを感じてやっと顔を離すと、庭の歩道をのんびりと進んでいるのが分かった。マンションの庭に来たのは初めてで、辺りには綺麗な花が沢山植えられている。

「へえ~こんな奥まで来たのオレも初めてだわ」
「え、そうなの?」
「いちいち庭なんて見ねえからなー。すぐ車で出かけちゃうし」
「そっか…でも…ここ綺麗…」

高い塀に囲まれた庭はちょっとしたサイクリングコースみたいに歩道が続いている。その両脇に花壇があるから景色も綺麗だ。

「…何か久しぶりに自然に触れた感じ」
「自然ってマンションの庭じゃん」
「でも外に出ても買い物くらいだから、わたしも蘭さんと同じかも」
「あー…まあそうか。オマエが出かける時も地下駐車場からすぐ車移動だしな。つーか風が気持ちいい~」

蘭さんは無邪気な子供みたいに楽しそうに自転車をこいでいる。その姿を見ながら不思議な感覚になった。いつも大勢の部下を引き連れてる幹部の蘭さんが、こうして自転車で二人乗りしてるなんて、実際に自分が乗せてもらわなければ想像すらつかない光景だ。わたしがココに自転車の話をしなければ、きっとこんな穏やかな時間は訪れなかった。

「どう?乗ってみて少しは感覚分かったー?」
「あ、うん…何となく」
「じゃあ乗ってみる?」

マンションの裏手に来た辺りで、蘭さんは自転車を止めた。そこで掴まってた腕を離して降りると、蘭さんはまたサドルをわたしに合わせて下げてくれる。あまりこういうことをしなさそうなのに意外にテキパキと動いてくれる姿が新鮮だ。

「ほら、乗ってみ」
「うん」

自転車を受けとり、さっきと同じようにまたがる。蘭さんがこぎだした時のリズムを思い出しながら、ペダルを踏み込むと真っすぐ自転車が走り出す。

「わ、乗れた」
「まーだ。もう少し」
「ら、蘭さん、まだ押さえててね」
「分かってるよ」

と後ろで笑う声がする。フラフラしつつ、でもどうにか前に進んでいることに感動した。25にもなって、こんな些細なことでも感動できるんだと思ったらおかしくなった。

「だいぶバランス取れてきたんじゃね?」
「…そうですか?」
「もっとスピード上げてみろよ。その方が安定する」
「はい」

言われるがままスピードを上げていくと、蘭さんの言った通り、フラフラしなくなった。

「わ、乗れてる?」

真っすぐ走りながら蘭さんに声をかけると、「おーすげーじゃん」と少し離れた場所から返事が聞こえて来た。え、と思って振り向いたのがいけなかった。

「きゃ…」

バランスを崩し、自転車が横へゆっくりと傾いて行く。転ぶ――!と思った瞬間、体が何かに包まれていた。ガシャンという派手な音がして顔を上げると、蘭さんが苦笑交じりでわたしを見下ろしていた。

「急に振り向くなって…あぶねーな」
「あ…ありがとう…」

転びかけた時、後ろからわたしを抱えてくれたらしい。自転車は倒れてたけど、わたしは蘭さんに助けられたようだ。

「でも、一人でだいぶ乗れてたんじゃねーの」
「え、一人って…」
「途中でオレ、手ぇ放してたし」
「や、やっぱり…!」

さっき声が遠かったのはそういうことかと納得して「何で教えてくれないんですか」と言ってしまった。ドラマとかで親がこっそり手を放して子供が気づかず自転車をこいでいく、なんてシーンを見たことはあったけど、まさか自分がされるとは思わない。でも蘭さんは「乗れたんだしいーじゃん」と笑っている。

「まあ、もう少し練習は必要だけど、始めてすぐ乗れたんだし上出来だろ」
「うん…蘭さんのおかげ――」
「ん?何?聞こえなかったし、もう一回言って?」

蘭さんは身を屈めて耳をわたしに向けた。ん?と思いつつ「だ、だから蘭さんのおかげで…」と同じ言葉を繰り返すと、彼は「だろ?」と満足そうに笑う。今、絶対聞こえないふりをしたと思いながら、わたしも笑ってしまった。

「じゃあ次も練習、付き合ってやるよ」
「え、いいんですか?」
、危なっかしいからなー。コケてケガされても困るし」
「も、もうコケません」
「ほんとかよ」

と蘭さんは笑いながらわたしの鼻を軽くつまむ。ちょっと痛くて抗議をしようと顔を上げると優しい眼差しと目が合った。ドキっとした時、不意に日が陰って、気づいた時にはくちびるを塞がれていた。でもそれはすぐに離れていく。

「ら、蘭さ――」

少し遅れて心臓がドキドキと鳴り出した時、またくちびるを塞がれて腰を抱き寄せられた。触れては離れ、また角度を変えて触れる蘭さんのくちびるは少し冷んやりとしていて。でも触れ合うたびに少しずつ温度を上げていく。柔らかい風が吹いて、彼の香水がわたしに移る頃、胸の奥を焦がす痛みの正体に気づいた。何度も芽生えては打ち消して来たはずなのに、こんな時に自覚してしまうなんて。
蘭さんがあまりに優しく触れるから、愚かにも抱いてはいけない想いを抱いてしまった。この関係に未来はないと、わかっていたはずなのに。