六本木心中




夕方になって、六本木の街がオレンジに色づく頃、部屋にが訊ねて来た。

「ココ、自転車ほんとにありがとう。蘭さんに手伝ってもらって少しだけど乗れたよ」

そんな報告とお礼を言いに、わざわざ来るとは思わなかった。でもそういうとこが彼女らしいと思う。蘭さんはどうしたのって聞いたら、仕事に向かったと彼女は言った。

「でも夜はまた来るって」

と、少し嬉しそうな顔で微笑むその顏を見てたら、ああ、やっぱりは蘭さんに惹かれてるんだなって感じた。そして蘭さんも自分が彼女に惹かれてることを自覚し始めた。これが普通の男女だったなら、きっとハッピーエンドになるんだろう。だけど、はあくまでマイキーの為に連れて来られた女だ。そして蘭さんこそが、彼女を梵天という組織に引き入れた張本人。蘭さんは嫌というほど理解しているはずだ。彼女の全てを、自分のものになど出来るはずがないってことを。

彼女がマイキーに気に入られていなかったら、或いは恋人という形を許されたかもしれない。でも彼女は今、マイキーにとって必要な存在になりつつある。例え恋人同士になることを許されたとしても、結局がマイキーのそばにいることは変わらない。自分の恋人がマイキーに抱かれる現実を、蘭さんが我慢できるとは思えなかった。

「ココ?どうしたの?怖い顔して…」
「え?あ…いや…何でもない」

怪訝そうに小首をかしげるを見て、ふと我に返った。

「ああ…そうだ。これ持って行けよ」

言いながら、リビングに置いてあった紙袋を彼女へ差し出した。彼女はキョトンとした顔で「これは?」とオレを見上げる。

「ほら、この前引っ張り出そうとしたやつ」
「あ…VR!」
「そう。それと本体のゲーム機」

と言いながら、オレはあの夜のことを思い出していた。これがオレの上に落ちて来たのがキッカケとなり、彼女と抱き合ったあの夜のことを。衝動的とはいえ、オレは確かにあの時、を愛しいと感じてた。女に対してあんな気持ちになったのはガキの頃以来かもしれない。歪んだ恋愛ばかりしてきたオレが、唯一まっさらな気持ちで相手のことだけを大切に想っていた頃のことだ。に触れた時、一瞬その頃と似た感情が溢れて、止まらなくなった。

「え、貸してくれるの?」
「ああ。どうせ今は使ってないし、ゲームソフトも何本か入ってるから暇なら遊んでみろよ」
「え…でも…これどうやって遊ぶの…?」
「…そこから?」

困ったようにオレを見上げて来るに思わず突っ込んだ。料理や掃除、その他にも数字に強かったり、色々な資格なんかもあるようで一見完璧なのに、自転車に乗れなかったり、ゲームの遊び方を知らなかったり、は意外なことが出来なかったりする。アンバランスでつかみどころのない女だ

「だって…ゲームとかしたことないし…」
「あー…まあ確かに店の来るような会社の社長や重役の奴らはテレビゲームの話なんかしないか」

そこに気づいて苦笑が洩れる。話を聞いているとが身につけるのは客に合わせたものばかりだった。自分で興味を持ったこういう物に金を使うことは避けてたのかもしれない。貯金してたって話だし。ということは、これだけ貸したところでには扱えないってわけだ。

「じゃあオレが接続して教えてやるよ」
「え、で、でもいいの…?忙しいんじゃ…」
「いや夜まで暇なんだ。ってことで行こうか」
「…行く?」
の部屋」
「あ、うん」

はホっとしたように頷いて、玄関の方へ歩いて行く。その後ろ姿を見ながら、内心"蘭さんごめん…"と謝りつつ、少しだけ楽しんでいるオレがいた。
彼女は電化製品にちょっと疎いようでゲーム機とテレビを接続する方法も知らなかった。今までこういった接続の類は全て業者にやってもらってたようだ。

「――んで、このHDMIをテレビの入力3に接続。分かる?」
「う、うん…入力3…」

隣で覗き込んでいるへ視線を向けると、彼女は真剣な顔で頷いている。というか顔が近い。少し近づけば唇が触れあう距離に彼女の顔があった。テレビの裏面を見ている瞳はそのままオレの方へ動く。でも少し驚いたように見開いた瞳が、すぐ恥ずかしそうに伏せられた。長いまつ毛がかすかに震えるのを見て、勝手に鼓動が速くなっていくから嫌になる。

「えっと…で…テレビの方もリモコンで入力3にしたらゲーム画面が映るから」
「う、うん、分かった」

にリモコンを渡すと、画面が切り替わる。そこでゲーム機の電源を入れると、無事にゲームメニューの画面が映し出された。VRも接続すればゲームソフトによっては仮想空間を楽しめる仕様だ。ただ慣れてない人間がいきなりVRをつけてアクションやホラーゲームをプレイするとかなり酔う。そういうことも説明しながら、オレはゲームソフトの中から殆ど酔わなかったVRゲームを彼女へ渡した。

「ってことで、まずはこれから練習してみろよ」
「…これは?」
「海底を探索するだけのゲームソフト。VRつけてプレイすると実際に海へ潜ってる感じになるけど、下がってくだけの動きだから他のゲームと違って酔わない」
「そ、そうなんだ…」
「まあお試し用って感じでVR買った時に付属されてたやつなんだけど、オレ的には結構面白かった。途中でサメが襲ってくんのもマジ怖かったし」
「サ…サメ?」

オレの説明にの顏が青くなる。この様子だと怖いのは苦手なのかもしれない。

「別に実際食われるわけじゃねえから」
「そ…そう、だよね…」

頬を引きつらせて頷くに、思わず笑ってしまう。ゲームをしたことのないには少し刺激的かもしれないなとは思う。

「ってことで早速やってみたら?」

と言いながら立ち上がると、は「え、ココ帰っちゃうの?」と見上げて来る。そう言われると、途端に帰りたくなくなるのはどうかと思うぞ、オレ。

(まあ…勝手に忖度して手は出さない、なんて蘭さんに言ったけど…まだ二人は恋人同士ってわけじゃねーんだよな…)

なんて邪な考えが脳裏をかすめる。

(ただ蘭さんのあの様子じゃマジっぽかったし、怒らせると後々面倒だからな、あの人…(!))

脳内でアレコレ考えを巡らせていると、が「もうお仕事?」と訊いて来た。時計を見れば、まだ先方との約束の時間まで2時間はある。でも…。

「いや…そうじゃねえけど…その…アレだよ」
「…あれ?」
「えっと…ちょ、ちょっと用事が…」
「そっか…」

が寂しそうな顔で俯くのを見てしまうと決心が鈍りそうになる。でも今、少しの時間を過ごしたところでどうにもならない。がそばにいて欲しいのは――。

「そんな顔すんなって。夜は蘭さん帰って来るんだろ?」
「うん…何か連れて行きたいとこがあるって…」
「へえ…何、デート?」

笑顔で聞いたものの、ちょっと口元が引きつってるかもしれない。あげくの頬が赤くなったのを見て、勝手に落ち込んでしまいそうになるオレもたいがいだ。

「えっ?ち、違うよ…ずっと部屋に引きこもってても暇だろって…だから気晴らしに連れ出そうとしてくれてるだけだと思う」
「そっか…蘭さんも優しいとこあんじゃん」
「そう…だね」

少し照れたように頷くは、いつもの倍は可愛く見える。彼女にこんな顔をさせる蘭さんが、少しだけ憎たらしいと思った。だからつい、意地悪な質問をした。

「…好きなの」
「え?」
「蘭さんのこと」
「す、好きって…?」
「男としてって意味」

オレの問いには驚いたように顔を上げてから目を伏せた。でもすぐに「まさか…そんなんじゃないよ」と微笑む。

「蘭さんにはお世話になったのに迷惑かけたから…何か役に立ちたいとは思ってるけど」
「もう十分、たってるだろ、は」
「そ、そんなことは…」
「この人の役に立ちたいって思うのは…好きってことなんじゃねえの…?」

は小さく息を飲んで、それから真っすぐオレを見て首を振った。

「わたしは…誰も好きにならない…そんな資格…わたしにはないの」


いっそのこと――好きだって言ってくれたら、少しは楽になるんだけど。

彼女の嘘に気づかないふりをして、オレは黙って聞いてることしか出来なかった。
誰かを愛しいと思うことに、資格なんていらねえよって、言ってあげればよかったんだ。




――仕事終わらせたら戻ってくっから起きて待ってて。

蘭さんはそう言ってから"連れて行きたいとこあんだよ"って微笑んだ。そして夜、8時を過ぎた頃、本当に部屋のインターフォンが鳴った。てっきり合鍵で入って来るかと思ったけど、今回は違うようだ。ドアを開けると、蘭さんは「疲れた~」といきなり抱き着いて来た。こんなことをされたのも初めてで恥ずかしくなったけど「お帰りなさい」なんてベタなことを言ってみる。たったそれだけなのに、蘭さんは嬉しそうな笑顔でわたしの頬にキスをした。そんなことをしてくるのも初めてでちょっとだけ驚く。随分と機嫌が良さそうだ。
なのに――。

「んで…ココにこれ設置してもらったと」

ゲーム機を見て「どうしたんだよ、これ」と聞かれたから正直に応えたら、何故か彼の機嫌が一気に下降した、気がする。

「う、うん…わたし、こういうの分かんなくて…。えっと…ごめんね。忙しいココに頼んじゃって…」
「いや…別に問題はそこじゃねぇよ」
「…え?」

じゃあ何が問題だったんだろうと顔を上げると、蘭さんは苦笑交じりでわたしを見下ろしていた。彼は時々こういう顔をすることがある。でもそれだけで何も伝えてはくれない。それが灰谷蘭という男だ。分からないと気になる。その積み重ねが、わたしの心に生まれたものの正体なんだろうか。

「ま…いっか。で…もう出れる?」

蘭さんは上着を脱ぐことなく訪ねてきた。

「え、あ…どっか行くんだっけ」
「そ、夜のドライヴ。たまにはいーかなと思って。普段は買い物くらいしか出ないんだろ?」
「そう…かな。特に行きたいって場所もないし…万次郎は蘭さんやココにどこか連れてってもらえって言ってくれたんだけど…」
「…へえ。マイキーがそんなこと言ってたんだ」

蘭さんは珍しいこともあるもんだって笑ってる。でもきっと万次郎も蘭さんと同じで、わたしに息抜きさせようとしてくれたんだと思う。

「あ、じゃあ…着替えて来てもいい?ドライヴなら薄着じゃなくても平気かな」
「ああ。そろそろ夜風が冷たくなってきてるし、何か軽く羽織るもん持って来いよ。――ああ、、飯は?何か食べた?」

クローゼットに入ると、蘭さんの声が追いかけて来た。

「ううん、何も。ちょっと食欲なくて」
「…は?何でだよ」
「ちょ、蘭さん…」

クローゼットの中で着替えようとした時、彼が顔を出して驚いた。背中のファスナーを下ろす手を止めて彼を見上げるといたずらっ子のような笑みを浮かべている。

「まだ気になんの?」
「…だって…」

確かに蘭さんには前に二度も裸に近い姿を見られている。でもだから着替えてるとこを見られても平気かと言うと、それはやっぱり恥ずかしい。そう思っていると、突然腰を抱き寄せられた。

「え、」
のそーいうとこ、好きなんだよな、オレ」
「え?ん…っ」

意味深な言葉を言った瞬間、くちびるを塞がれた。思わず足が後退してよろけそうになると、蘭さんの腕が更に抱き寄せてくる。その間も角度を変えながら絶え間なくキスが降って来る。昼間されたキスよりも情熱的な口付けに、少しだけ戸惑ってしまう。いったい蘭さんはどうしたんだろうって、そのことばかりが頭に浮かんだ。

「ちょ…蘭さん…っ?」

背中に回っていた蘭さんの手が、背中のファスナーを下ろしていく。鼓動が大きく跳ねて思わず顔を上げると、蘭さんは抱きしめていた腕を緩めて「着替えるんだろ?」と微笑んだ。

「あ…」
「何だよ。オレに襲われると思った?」
「そ…そういうわけじゃ…」

ニヤリと笑われ、頬が熱くなる。蘭さんはファスナーを下ろすのを手伝ってくれただけなのに、心臓がドキドキとうるさいくらいに鳴っていた。

「つーか、さっき食欲ねえって言ってたけど…もしかして体調悪い?」

蘭さんはクローゼットから出て、外の壁に寄り掛かるとそんなことを訊いて来た。その間に服を脱いで別のシャツを羽織る。少し寒さを感じるから長袖に着替えたかった。

「悪いって言うか、さっきから胃がキリキリして…」
「は?痛いのかよ?」
「んー…少し…」

と言ってるそばから、また胃の辺りに痛みを感じた。昼間は平気だったのに、ココが帰った後くらいから何となく胃が重く感じて、数分ごとに軽く痛みが出るようになったのだ。だから食事もする気になれなくて何も食べてない。それが却って悪かったのかもしれない。

「大丈夫か…?体調わりーなら、やっぱ出かけんのやめとくか」
「え、いいよ、平気――」

と言った時だった。今までとは比べものにならない痛みを感じて「痛…」と声に出てしまった。胃の辺りがキューっとして焼けつくような痛みだ。立っているのがツラくて、その場にしゃがみこむと、蘭さんが慌てたように入って来る。

「全然平気じゃねーだろ、それ!どうした?」
「…胃が…痛い…何か急に…」
「って冷や汗、出てんじゃねーか…!」

蘭さんは慌てたように羽織っていただけのシャツを脱がせると、別の服をとって、それをわたしの頭から被せる。裾の長いロングワンピースだ。

「とりあえずそれ着ろ。病院に運ぶから」
「ん…ごめん…なさい…」
「謝ることじゃねーって。着たか?」
「…ん…ぅん…」

どうにかそれを着込んだものの、返事をするのもツラくて何度か頷く。それを見た蘭さんはわたしの体を難なく抱き上げて、すぐに部屋を飛び出した。エレベーター前にいる黒服たちが「どうしたんですか」と慌てたように駆け寄って来たのが分かる。

「具合悪いらしい。オマエから太一に連絡して車のエンジンかけとけって伝えろ」
「わ、分かりました!」

オロオロしてた部下の人も明確な指示を出されてホっとしたのか、すぐにケータイで電話をかけ始めた。それを聞きながら、わたしは声が洩れるほどの痛みにただ耐えることしか出来ない。

「顔青いぞ、オマエ…大丈夫か?」
「……う…い、痛い…」

エレベーターに乗り込んだ蘭さんも少しだけ顔が青ざめている。こんなに慌ててる姿を初めて見た気がした。

「…クソ!まだつかねーのかよ…!」

わたしを抱え直しながら、イライラしたように呟く蘭さんは階数の表示を見上げながら舌打ちをしている。こんな時なのに、心配してくれてることが嬉しくて、少しだけ泣きそうになった。