六本木心中



ポツポツと雨粒が窓に当たるのを見て、遂に降り出したかと思いながら時計を見た。夜の10時。本当ならこの時間、と一緒にドライヴに出かけてるはずだった。予報では夜に雨が降り出すということで心配してたが、これなら行かなくて正解だったかと内心苦笑した。

どうにか仕事を早く終わらせ、早々にを迎えに行ったものの、急に胃が痛いと蹲るに驚いた。顔から血の気が失せていくのを見て、らしくないほど慌てた気がする。マンションを出て太一に車を飛ばすように言うと、竜胆が入院してる例の病院へと連れて来た。腕の中で体を震わせながら痛がっているが心配だった。とにかく冷や汗が凄くて、何か悪い病気かと不安になった。

"特に大きな病気をしたことはありません"

店に引き抜いた時に受けさせた健康診断の後、そう話していたのを思い出していると、の検査を終えた医者の青山が待合室にいたオレのところへやってきた。元々普通の病院で働いてた腕のいい医者だったが、自分の指導医の医療ミスを告発しようとして逆にその罪を押し付けられたという経歴を持った男だ。飲み屋で腐ってたこの男と知り合った時、梵天で医者をやってくれないかと誘ったのはオレとココだった。

「青山…はっ?」
「今はだいぶ落ち着いてます。薬も打ったので痛みはすぐ消えますよ」

ソファから立ち上がったオレを見て苦笑すると、青山は隣へ腰を下ろして煙草に火をつけた。オレより二つほど年上の青山は年齢よりも少し老けて見える。端正な顔立ちながら、無精ひげを伸ばし、美容室にすら行かない。伸びた髪はいつも後ろで一つに縛っていた。一見医者には見えない絵に描いたようなやさぐれ男だ。

「そんな慌ててる蘭さんは初めて見たかな。竜胆くんが刺された時は落ち着いてたのに」
「あ?茶化してんじゃねぇよ。で…原因は分かったのか?」

青山は煙草の煙を吐き出すと、「ああ…あれは胃痙攣ですよ」と肩を竦めた。

「胃痙攣…?」
「原因は様々ですが、聞けば彼女は熱も嘔吐もなかったと言うし血を吐いたわけでもない。一応腹部エコーで確認しましたが胆石でもなかった。だから胃カメラで検査したら胃が少し荒れてました。あれは――ストレス性の胃炎ですね」
「…胃炎。で…治るのかよ」
「胃炎なら大丈夫です。飲み薬を処方するんで、それを飲ませてあげて下さい。でも念の為、三日ほど入院してもらおうかな」

青山の話を聞いてホッと息を吐き出した。かなり痛がってたから重大な病気かもしれないと思っていただけに、安心したら体の強張りも解れていく。

「彼女…マイキーくんの世話係って言ってたけど…前の子といつ変わったんです?」
「ああ…。半年ほど前にな」
「前の子は――いえ、聞かないでおきます」

青山は苦笑いを浮かべながら煙草の煙を燻らした。これまでも何人か青山に診せたことがあるが、彼女達の末路は青山も知らない。知らないが薄々気づいてはいるだろう。でもコイツは余計な詮索はしない男だ。そうすれば自分は好きなだけ金はもらえるし、医者を続けていられるのを知っている。

「彼女に会いに行ってもいいか?」
「ああ、はい。大丈夫ですよ。今は点滴を打ってるんで眠ってるかもしれないですけど」

言われてすぐ立ち上がったオレを見て、青山は「ああ、でも」と声をかけてきた。

「ストレス性だと思うんで、あまり彼女に変な負担はかけないようにして下さい」
「分かってるよ…。つーか…ストレス性ってことは…」
「十中八九、環境が変わったせいでしょうね。病歴もないみたいだし。少し話をしてみたが、あの子は…かなり真面目な印象を受けた。そういう性格だと自分を追い込みがちだし気を付けてあげて下さい」
「…分かった」

医者ってやつはそんなことまで分かるのか、と苦笑しつつ、オレはの病室へ向かった。まあ人間の体には色んな情報が詰まってると話してたし、性格も合わせて考えたらは分かりやすい方なのかもしれない。

(…何でもかんでも頑張りすぎんだよな、アイツは…)

これまでのを思い出しながら溜息が出る。オレが彼女を梵天に引き入れてから半年。そりゃストレスもたまるか、と苦笑いしか出ない。環境が変わっただけじゃなく、幹部の男どもを相手にしながらマイキーの我がままにも付き合っていたし、それこそ自分のことなんか後回し。最初から彼女の意志なんかいらないと思わせてしまったのは――オレだ。

「…
「あ…蘭さん…」
「起きてたんか」

病室に入ってそばまで歩いて行くとベッドに横になったを見下ろした。

「薬で楽になったら凄く眠くなっちゃって…少しウトウトしたけど…雨の音で目が覚めました」

は言いながら窓の方へ視線を向ける。ここからも六本木の街並みは見えるが、今は雨に煙ってぼんやりとネオンが滲んでいる。

「もう少し眠ってろよ」

今は薬で痛みも治まり、かなり楽になったようで顔色も戻っている。でも細い腕に打たれている点滴の針が痛々しい。

「蘭さんは…?」
「オレ?」
「まだ…いてくれる?」
「あー…いや…」

言いながらベッドの端へ腰を下ろすとを見下ろした。彼女も視線を上に向けてオレを見上げている。視線が絡み合ったその瞳は少し寂しげに揺れていた。

「オレがいたらオマエ、休めねーじゃん…。ストレス性の胃炎なんだろ…?」
「…大丈夫です。最初の頃、ずっと緊張してたせいだと思うから…でも最近はホントに平気」
「でも半年分の疲れが今出てんじゃねーの。まあ…全部オレのせいだけど」
「え…どうして?」
「どうしてって…」

は真っすぐオレを見つめて来る。その瞳には何の計算もなく、ただ純粋な疑問をぶつけているように見えた。は今の自分の状況を誰のせいだとも思っていない。それが却ってオレの中に罪悪感を生んだ。

「…オマエがこんなことになってんのは…オレがオマエを組織に縛り付けたせいだろ」
「え…違うよ…」
「…違う?どこが」

全然違わない。オレの店で彼女が騒ぎを起こした時、普通に辞めさせるだけで良かったんだ。なのにちょうど連続で世話係がやらかしてマイキーに消されたばかりだったのと、人に言えない過去を持つなら、案外上手くやってくれるんじゃないかと思ってしまった。今思えば後悔しかない。

「蘭さん、忘れてる」
「…え?」

ふと呟いて、はかすかに微笑んだ。

「一度、自由になるチャンスをもらったけど、残るって決めたのはわたし自身だよ。だから…蘭さんのせいじゃないし、残ったことをわたしは後悔もしてない。だからそんな風に言わないで」

言葉の通り、の真っすぐな瞳に後悔の色は見えなかった。ちょっと呆れるくらい、度胸が据わってる女だ。

「オマエはホント…バカだな」
「え、バカは酷い…」

オレの言った一言で、は軽く吹き出している。その笑顔を見ていると、何故かホっとした。そっと頭を撫でて、彼女の額の髪を避けるとそこへ口付ける。のまつ毛がかすかに伏せられ、オレはそのまま瞼にもキスを落とした。くすぐったそうにしながら、またオレを見上げて来るの頬はかすかに赤い。つい唇にもキスをしたくなったのをどうにか堪えた。にとって何がストレスなのか分からないからというのもあるが、こんな場所で発情したら竜胆と同じレベルになる気がする。(!)

「…蘭さん…?」
「オマエが寝るまでいるから…ちゃんと休め」

彼女の手を握って、オレはベッド横の椅子に腰を掛けた。たったそれだけなのに、は安心したように微笑む。強く見えて、やっぱりこういう時は心細いのかもしれない。

「蘭さん…」
「ん?」
「今日……ごめんね。せっかくドライヴ連れてってくれるって言ってたのに…」
「バーカ、そんなのいつでも行けるし気にすんな。今はゆっくり休んで体を治すことだけ考えろ」
「…うん…ありがとう…」

雨音にかき消されそうなほどの小さな声で呟くと、はゆっくりと目を閉じた。痛みで体に負担がかかったせいで疲れたのかもしれない。数分後には小さな寝息を立て始めた。

「…"ごめんね"って…そんなことまで気にしてんじゃねぇよ…」

そっと彼女の頭を撫でて独り言ちる。こんなに優しい気持ちになったのは初めてだった。早く、彼女の元気な姿が見たいとガラにもないことを思うのも。

「…は…。マジになるとか…オレもバカな男の一人ってことかよ」

最初は"いつもと違う"と思った。その次は"想像してたよりも強い"と感じた。気づけば、目で追うようになって、が他の男と話してるだけで胸の奥がチリチリと痛む気がした。気のせいだと思っていたのに、触れようとすればするほど"違う"と思ってしまった。逆らえない状態で抱いたところで意味はないと思った瞬間、オレにとってその"意味"とは何なのかと、そんなことを考えた。
でも――意外と答えはシンプルだったというわけか。

他の男に触れさせたくないと思った時点で、オレの負けだ。

「…おやすみ、

無邪気な寝顔を見せる彼女の頬にキスを落として、オレは静かに病室を後にした。