六本木心中



1.

朝、ここにも入院したって兄貴から聞かされた時は本気で驚いた。ケガをしたのかと思えば「ストレス性の胃炎らしい」って兄貴が教えてくれて、ちょっと驚く。いや、よく考えれば確かにの置かれている状況はストレスが溜まるものかもしれない。反社組織のトップの世話をして、好きでもない男にだって抱かれてんだから。まあオレも手を出しちまった一人だけど、ただ彼女はそれでも普通に接してくれて、何だかんだ楽しそうにマイキーの世話を焼いてるように見えた。だからまさか体を壊すくらいストレスを溜めてたなんて思いもしなかった。兄貴から聞いたのは、最初の頃に酷く緊張した日々を送っていたせいだと本人が言ってたってことだ。

「今は平気だって言い張ってんだけどさぁ…オマエ、もうアイツに手ぇ出すなよ」

と兄貴は渋い顔でオレを睨みながら言った。

「どういう意味…え、やっぱオレものストレスの原因になってるってことかよ。何かショックなんだけど」
「あたりめーだろ。が好きでオマエの相手してたと思ってんの」
「いや好きでとか、そこまで考えたことねーし…つーか今までだって考えて手なんか出してねーじゃん。兄貴もそうだったろ」

オレが突っ込むと兄貴は更に顔をしかめて不機嫌丸出しの顔になった。きっと耳が痛いんだろうなと一瞬吹きそうになったけど、ここで笑えば拳的制裁が加えられるから我慢だ。いくら軽傷つっても刺された腹はジクジク痛むし、折った足も動かせばかなり痛い。これで兄貴の拳を受けたらオレのHPはゼロになる。

「とにかく…は今までの女とは違うって竜胆も分かってんだろ。ゴチャゴチャ言ってねえで、女が欲しけりゃ別のヤツ口説けよ。沢山いんだろ」
「…いや、でもオレ、はめちゃくちゃ気に入ってんだけど…」

と言った瞬間の兄貴の顏がマジで怖かった。何で最近の兄貴はのことになるとムキになるわけ?

「いいからもうアイツには手ぇ出すな。分かったな?」
「……とか言って…自分が出すんじゃねーの」

あまりに一方的に言われて思わず言い返すと、兄貴は病室を出て行こうとした足を止めた。一瞬ぶん殴られるかと思ったけど、軽く息を吐いた兄貴は呆れ顔で振り返った。

「…出さねぇよ」
「……」

それだけ言うと兄貴は静かに病室を出て行った。

「…何だ?兄貴のヤツ…」

いつもの兄貴らしくない気がして、オレはモヤモヤとしながらベッドへ倒れ込んだ。その衝撃で腹に痛みが走る。

「っつぅ…ったく…何でオレっばっか…」

と言いかけて溜息が出た。別にオレだってに愛されてるなんて思っちゃいない。普通に考えれば憎まれたっておかしくないはずだ。幹部って立場を利用してが断れない状況の中で抱いたんだから当然だ。でもそんなことは今までもやってきたことで、兄貴だって他の奴らだって同じだったはずだ。なのに――。

"は今までの女とは違うって竜胆も分かってんだろ"

本当は…分かってるよ、それくらい。彼女を抱いたからこそ分かる。は今までの女とは違うって。だから同じように接しちゃダメだってことも兄貴の言いたいことも分かってる。前のオレならきっと素直に言うことを聞いてたかもしれない。でものことになると何故かすぐに頷くことが出来なかった。疲れた時とか寂しい時に会いたいって思うのはだから。

"女が欲しけりゃ別のヤツ口説けよ。沢山いんだろ"

他の女じゃ代わりが利かない。そう思った瞬間、の具合が気になった。

「…っつ…動くとさすがに痛ぇな…」

ベッドから足を下ろし、ギプスをしている足を引きずりながら病室を出る。実際、骨折していない方の足も数か所ほど打撲痕があって、そっちも結構痛い。今思えばよく五階から飛び降りたなと自分で驚くけど、飛び降りなければ確実にオレはめった刺しにされて殺されてたと思う。それくらいあの時のアイツは頭がぶっ飛んでるように見えた。まあアイツは結構、メンヘラなとこがあったからオレも気をつけなきゃいけなかったんだけど。

「…ったく。の病室ってどこだよ…」

この病院は表向きマッサージ店の上に位置する隠し部屋にある。病室はそこまで多くはないが、この足じゃ探すのが手間だ。そう思っていた時、最初に見に行った奥側にある病室から兄貴の声が聞こえて来た。

「ここか…」

さっきの今じゃ兄貴に文句を言われそうだけど、別にオレだって病室で、しかも具合の悪い彼女を襲おうなんて思ってない。(まあこの前はちょっと危うかったけど)
静かにドアを開けると、パーテンションの向こう側から兄貴が顔を出した。

「オマエ…何しに来たんだよ…ケガしてんのに」
「オレだって心配なんだよ。いいだろ?別に顔を見に来るくらい」

案の定、文句を言ってきた兄貴に言い返すと、「竜胆…?」との声が聞こえて来た。兄貴が仕方ねえなあと言いながらオレに肩を貸してくれて、ベッドの方へ連れて行ってくれる。こういうとこは何だかんだ言って優しい兄貴だ。

「竜胆…動いて平気なの…?」

は少し驚いたように上半身を起こした。すると兄貴がつかさず彼女の背中にクッションを入れてあげている。その光景にちょっとだけビビった。

「それコッチの台詞だよ…こそ大丈夫かよ…」
「わたしは平気。お薬飲んでるし、もう痛みもないよ」
「でも明日までは安静な?」

兄貴は苦笑しながら彼女の頭を軽く撫でた。その表情がやけに優しい気がする。何だ、その柔らかい笑みは。兄貴って女にこんな穏やかな表情を見せるような男だったか?

「蘭さん、大げさ」
「そりゃ、あんな青い顔で痛がってんの見せられたら心配だろ」
「…ご、ごめん」

兄貴の一言にはシュンとなって俯いてる。兄貴は兄貴で「だから安静になー?」なんて優しい笑顔でまた頭撫でてるし、何かこう、二人の世界って感じの空気だ。何だこれ?オレが入院してる間に何があった?兄貴が兄貴じゃない。ってか、オレに手を出すなって言ったのはひょっとして――。

「あーこんなとこにいた!」
「もー探したんだよ~竜胆くん」
「げっ」

突然ドアが開いて入って来たのは、この前武臣さんが連れて来た風俗嬢たちだった。世話なんかいいって言ったのに、この前の件以来、毎日のように顔を見せては色々世話を焼いて来る。まあ普通のことからエロいことまで至れり尽くせりだ。(!)

「ほらー車椅子持って来たから乗って乗って」
「い、いや、自分で歩けるし…」
「いいから乗ってけよ、竜胆」
「兄貴…」

オレの惨状を見て兄貴は軽く吹き出している。いや笑うとこじゃねえだろって思ったけど女二人がかりで車椅子へと乗せられた。

「んじゃーウチの弟、頼むわ」
「「は~い♡」」
「いや、ちょ、兄貴…!頼まなくていいからっ」
「病室戻ったらいいことしてあげるね♡」
「…うん――って、いや違う!」

一瞬、彼女達のサービスを思い出して頷いてしまったものの、慌てて首を振った。なのに強引に車椅子で連行される。結局とは殆ど話せなかったと溜息が出た。

(それにしても…何かあの二人、イイ感じじゃね?)

ふとの病室を振り返りながら、二人きりになって何やってんだ…?と少しだけ邪推してしまう。ただ兄貴は手は出さないと言ってたし、それはないか。きっとの病状を聞いて、なるべく彼女の負担を減らしたいと思ったんだろう。だからオレにもあんなことを言ってきたに違いない。そこまで心配してるってことは――。

「……やっぱマジで…惚れたってことかよ」
「え?なに?」
「…いや、何でもねえ」

身を乗り出して顔を覗き込んで来る――巨乳が後頭部に当たってるんだが?――風俗嬢に応えつつ、二人のことを考えると少しだけ憂鬱になってしまった。






2.

「ほら、薬と水」
「うん…ありがとう」

蘭さんがグラスに水を入れて手に持たせてくれる。まだ食欲はないものの、お粥といった消化のいい食事を出されたのでそれを食べた後に薬を飲んだ。まさか胃炎になるとは思わなかったし、あんなに痛いものだとも思わなかった。クラブで働いていた時は毎日お酒を飲んでいたから時々胃痛はあったものの、大抵は薬を飲んだり、一日お酒を抜けばすぐに治る程度のものだった。でも今回はそういったものじゃなく精神的なものから来るものじゃないかと言われてしまった。自分でも気づかないうちに急激な環境の変化にストレスを感じていたのかもしれない。確かに最初、連れて来られた時は不安だったり、どんなことをさせられるのか分からなくて毎日緊張していた。でもまさか半年後に症状が出るとは思わなかった。先生曰くストレスを感じた瞬間に胃が痛くなる人もいれば、日々の蓄積で後から出て来る人もいるということだった。どうやらわたしは後者らしい。

「飲んだ?」
「うん」
「ん」

蘭さんはわたしの手からグラスを受けとると、病院のトレーの上に置いて、ベッドの端へ腰を下ろした。額に手を当てて「熱は下がったみたいだな」とホっとしたように呟く。意外だったのは蘭さんがここまで心配して世話をしてくれることだ。彼なりに何か責任を感じているのかもしれない。わたしは蘭さんのせいだと思ってないのに、こんな風に心配されると申し訳ない気持ちになってくる。

「蘭さん…」
「ん?」
「わたしなら一人で大丈夫だから何回も顔出さなくても…」
「いいじゃん。オレが来たいんだよ」
「でも…蘭さんが責任感じることじゃないから」

蘭さんは一瞬、視線を反らして、かすかに笑みを浮かべた。

「それだけで来てるわけじゃねえし…」
「え…?」
「ああ、それともアレか。オレが来るとやっぱストレス?」
「ま、まさか…!それで言ってるわけじゃ――」

変に誤解して欲しくなくてつい声を荒げてしまった。蘭さんは少し驚いたような顔をして、すぐに小さく吹き出している。

「…なら良かったけど」

言いながらポンとわたしの頭へ手を置くと、蘭さんはふと腕時計を見た。きっと仕事に行く時間なんだろう。忙しいはずなのに蘭さんは時間を見つけては一日に何度かここへ立ち寄ってくれる。本当はそれが凄く嬉しかった。

「お仕事?」
「ああ…もしかしたら今日中にはもう来れねえかもしんねーけど――」
「う、うん…言ったでしょ。わたしなら平気だから」
「ふーん…」

急に目を細めた蘭さんは「少しくらい寂しいとか思わねえの」とスネたような口調で言ってきた。どう応えていいか分からなくて一瞬だけ言葉に詰まる。

「何だよ、その顔」
「え…あの…」
「まあ…寂しいわけねえか」
「あ…」

自嘲気味に言って蘭さんは立ち上がろうとした。何故そうしてしまったのかは分からない。自然に手が伸びて、蘭さんのジャケットの裾を思わず掴んでしまった。

「…?」
「あ、ご、ごめんなさい…」

慌てて手を放して笑顔を取り繕う。世話係の女が蘭さんに甘えてはいけない。そう思うのに、あまりに優しくしてくれるから変に勘違いしてしまいそうになる。

「き、気を付けてね――」

なのに、顔を上げて言った瞬間、突然腕が伸びてきて強く抱きしめられた。蘭さんのスーツに顔を押し付けられると、上品な香水の香りがした。たったそれだけで容易く心臓が鳴ってしまう。

「ら…蘭、さん…?」
「可愛いことすんなよ」
「え…」
「帰りたくなくなるじゃん」

ぎゅっと抱きしめながら耳元で蘭さんが呟く。じわりと頬が熱を持って、心臓がぎゅっとされたみたいに苦しくなった。でも、これも彼の戯れかもしれないと思うと、途端にそれが痛みに変わる。

「そういうこと言わないで」
「…え?」
「……ほ…本気にしちゃうから」
…」

蘭さんが驚いたように少しだけ体を離して顔を覗き込んで来る。視線を合わせるのが怖くて咄嗟に反らしてしまった。これ以上、優しくされるのはツラいから。最初の頃のように少し距離を感じるくらいの方が今のわたしにはいいかもしれないと思った。なのに、蘭さんは容易くわたしに触れて来る。

「それって…どういう意味」

頬に手を添えられてドキッとした。

「い…意味って…」
「こっち見ろよ」

頬に触れていた手がするりと顎へ落ちて、顔を上げさせられた瞬間、蘭さんと目が合う。初めて会った時と何も変わらない魅惑的なバイオレットの虹彩が、今は戸惑うように揺れている。わたしの中に芽生えたこの苦しい想いを知られたくはないのに、彼の瞳に見つめられると素直に胸が鳴るのだから嫌になる。

「こ…こんな風に触れないで…わたしは――」

そこで言葉は蘭さんのくちびるに飲み込まれた。押し付けるようにキスをされて一瞬で心が震える。髪を梳くように手が動いて頭の後ろを固定されると、いっそうくちびるが深く交わった。

「ら…蘭…さん…?」

僅かにくちびるが離れて、目の前の双眸を見つめると、蘭さんはふと笑みを浮かべてわたしの頬にも口付けた。

「本気にして欲しいって言ったら…?」
「…え?」
「つーか…オレは本気で言ってんだよ」
「ほ…本気って――」
「オマエのそばにいたい。出来れば一晩中でも」
「蘭さん…」

耳を疑った。これは何の冗談なんだろうって思った。でもその言葉が本気なんだと、彼の真剣な表情が伝えて来る。一気に心臓が動き出して、顏に熱が集中してしまう。まさか、そんなはずはないって思うのに、心は素直に反応して自然と涙が溢れて来た。

「な…何で――」
「ここまで言っても分かんねえ?」

蘭さんはもう一度、わたしを抱きしめた。そして――。

「オレ…オマエに惚れたみたいだわ」
「―――ッ」

耳に直接届いたその言葉は、わたしの心の深いところへ沁みいるような音を伝えて来て、堪えていた涙が頬を伝っていく。
知らなかった。たった一言で、こんなにも胸が震えるなんて。感じたこともなかった。抱きしめられるだけで、こんなにも幸せな気持ちになるってこと。