六本木心中



1.

自覚した時点で絶対に叶わない想いだと思っていた。何より、わたしを他の男に差し出した人だ。なのにわたしは蘭さんに惹かれてしまった。自分でもどうかしてると思う。でも誰かを好きになる心は理屈じゃない。彼に触れられるだけで、自然と胸の奥が火を灯したみたいに暖かくなる。

――オマエに惚れたみたいだわ。

彼の口からそんな告白が飛び出すなんて思いもしなかった。一瞬、「ウソ…」とつい頭に浮かんだ言葉が零れ落ちる。だって、あの蘭さんが、わたしなんかを好きになるはずがない。そう思うのに、心のどこかでそれが彼の本心なんだと分かっていたのかもしれない。

「ウソじゃねえよ…」

蘭さんが苦笑交じりで呟く。そう、もし嘘をつくなら蘭さんはあんなハッキリとした言葉は使わない。もっと遠回しに匂わすニュアンスで曖昧にしながら、きっと相手を騙す。それが出来る人だと思う。だいたい、わたしを騙したところで蘭さんには何のメリットもない。万次郎の件でわたしが逃げないことを嫌というほど分かってるはずだから、今更あんな言葉を言って惑わす必要もない。

「まあ…信じられねえよな、オレの言葉なんて」
「…え」
「オマエをこっち側の世界へ引きずり込んで、マイキーや幹部連中の相手をしろって言ったのもオレだしな…」
「蘭さん…」
「オレ自身…勝手だなって自分で思うわ」

体を離した蘭さんが自嘲気味に笑う。思わず「そんなことない」と首を振って縋ってしまったのは、最初の始まりなんてどうでも良くて。今の自分の心に素直になりたいと思ったからだ。

「…あの時はあの時なりに蘭さんにも事情があった。わたしも蘭さんがくれたチャンスをぶち壊して、だから少しでも何か役に立ちたいと思った。それだけだよ」
…」
「結局は自分で選んだことだから、蘭さんは関係ない。だから…そんなこと言わないで…」

蘭さんの腕に縋りながら必死に伝えると、彼は驚いたような顔でわたしを見つめていた。けれども、ふっと笑みを浮かべ、わたしの頬にそっと指先で触れた。

「何だよ…オマエもオレに惚れてんの」
「……っ」

ドキっとして顔を上げると、頬に触れてた指先が、目尻に浮かんだ涙を拭っていく。

「…バカだよなあ。お互いに」

蘭さんはきっと分かっていたんだと思う。わたし達の未来に普通の幸せなんてないと。蘭さんは梵天の幹部で、わたしは組織のトップである万次郎の世話係。一見問題ないように思える関係だけど、万次郎の気持ち一つでどうとでも変わってしまうだろうことは、わたしにでも理解できた。それにわたし自身、万次郎を放っておけないと思ってしまってる。それは蘭さんも気づいてるはずだ。

「…そろそろ行かねえと」

蘭さんのその一言でハッと我に返った。

「…うん…」
「…んな寂しそうな顔すんなよ」

一度素直になってしまえば、もう取り繕うことが出来なくなった。ついそんな思いが顔に出てしまったらしい。蘭さんが一度浮かした腰を下ろして、わたしを抱き寄せた。それだけで胸の奥がぎゅっと苦しくなる。

「明日…迎えに来るから。今夜は安静にしてろよ」
「う…うん…」

これまで、男の人から優しい台詞を何度も言われたことはある。だけど、こんなに嬉しいと思ったことも、ドキドキしたこともなかった。相手が好きな人というだけで、こんなにも違うものなのかと、改めて驚いてしまう。体が離れていく瞬間が、これほど寂しいものだということも、蘭さんを好きになって知った。
腕が解かれていく瞬間、蘭さんのくちびるがわたしのに重なる。ただ触れただけのキスで、全身が震えてしまった。

「…やべぇ」
「え…」
「無性にオマエを抱きたくなって来た…」
「…な…」

体を離した蘭さんは手で口元を覆いながら苦笑した。焦るわたしの額を指でつついて「が悪い」と僅かに目を細める。

「な、何でわたし…?」
「そんな顔してオレを煽るから」
「え、ど、どんな顔…?」
「もっとキスして欲しいって顔?」
「………ッ」

自覚はない。でも、触れただけで離れていく蘭さんに少しの寂しさを覚えて、確かにそう思ってしまったかもしれない。心を見透かされたみたいで恥ずかしくなった。

「ぷ…赤くなりすぎ」
「だ、だって…」
「まあ…そーいうも可愛いけど」
「そ、そうやってすぐからかう…」
「いや、からかってねえじゃん。本心から言ってんの」

笑いながらわたしの頭を軽く撫でて、蘭さんは立ち上がった。今度こそ本当に仕事に向かうんだろう。

「じゃあ…明日な」
「うん…行ってらっしゃい」
「…何かいいな、それ」
「え?」
「行ってらっしゃいってやつ。新婚みたいで」
「な…何言って…」
「オレが思う分には勝手だろ」

蘭さんはそう言いながら最後にわたしの頬へ口付けると、「夜もしっかり薬飲んでな。ああ、あとで電話するからケータイは持ってて」と言い残して、病室を出て行った。一人なった途端、急に孤独感が襲って来る。だけど、蘭さんに告白された余韻は、胸の奥に残っていた。信じられないけど、でも夢じゃない。なのに――。

「恋人じゃないんだよね…」

これが普通の男女だったなら、互いに想いを寄せ合ってると分かった時点で恋人になりえるんだろう。でもわたしと蘭さんの間に、きっとそんな関係は築けない。分かってはいたことだけど、やけに現実味を帯びて来て無性に寂しくなった。
何度キスを交わしても、これから体を重ねることがあったとしても、そこから先は――何もない。
万次郎から求められれば、わたしは拒むことすら出来ない。もちろん他の人からでもそうだ。蘭さんはその辺のことを良く分かっている。

(それでも――告白してくれた…)

それが何より嬉しかった。先のことなんて今は考えたくない――。
そう思った時、病室のドアがかすかに開く音がして、わたしは自然と笑顔になった。蘭さんが戻って来たのかと思ったのだ。

「蘭さん、忘れ物――?」

と身を乗り出して声をかけると、パーテンションの向こうから誰かが歩いて来る足音がした。その人物の顔を見て、一気に血の気が引く。

「な…何で…」

幸せな気持ちが、一瞬でかき消された。





2.

「おい、蘭!こっちだ」

その声に振り向くと、懐かしい顔が手を振って歩いて来る。オレも軽く手を上げると、鶴蝶は徐に抱き着いて来た。

「元気だったか!」
「おい、鶴蝶!こんな目立つとこで抱き着くんじゃねーよ!そっち系だと思われんだろっ」

空港の到着ロビー。人がごった返す中、デカい男二人がハグって何気に目立つ。現に周りのヤツらが「うわーラブラブ~」なんて言って笑っていた。

「そっち系ってどっちだ?」

鶴蝶は相変わらず天然要素を振りまいて辺りをキョロキョロしている。会って秒でオレに溜息をつかせる男はコイツくらいかもしれない。

「いーから行くぞ!ったく…いつも急なんだよ、テメェは!」
「何そんなキレてんだよ。デートの約束でもあったのか?」
「別にねえけど!一時間後に到着すっから迎えに来いとか、普通ならスルー案件だっつーの」
「オマエが前もって連絡しろって言ってたからしてやったんだろーが」
「いや、その前もっての意味!当日の一時間前って意味じゃねえからな」

すでに全力疾走したかのように疲れ果て、重たい足取りで車が止まっている場所まで歩いていく。そんなオレの気持ちも知らないで鶴蝶は久しぶりの日本の空気にご満悦のようだ。

「こっちだ」

鶴蝶を促し、部下達が囲む中、人混みを避けながら外へ出ると黒塗りの車が見えて来る。オレ達が歩いて行くのが見えたのか、運転手の太一がぴょこんといった様子で姿勢を正した。

「鶴蝶さん、長期出張、お疲れ様でした!」

車の外で待っていた太一が、鶴蝶を見るなり、90度体を折り曲げて頭を下げている。鶴蝶は驚いたように「誰だ?」とオレの方へ訊いて来た。

「ああ、最近オレの運転手に格上げした太一。なかなか真面目な男でさ」
「へえ。見た目坊主って親近感わくわ。太一、よろしくな!」
「こ、光栄です!」

太一は鶴蝶に肩をポンと叩かれ、直立しながら感激している。ケンカ屋鶴蝶の名前は未だに健在で、こういった男にも人気があるのがこの鶴蝶だ。

「つーか坊主で思い出したけど、オマエ、何か髪伸びてね?」
「おー切る暇もなかったわ。ところで…竜胆はどうした?」

鶴蝶の荷物をトランクにしまい、車に乗り込んだタイミングで鶴蝶がふと不思議そうに尋ねて来た。こういった出迎えの時はたいがい竜胆も一緒というのが当たり前だからだろう。そういや竜胆の事件のことは鶴蝶に知らせてなかった。いや、知らせる前にコイツの帰国が決まったんだけど。
仕方ないから竜胆に起こった悲劇を簡単に説明してやると、鶴蝶は心底驚いた顔で「女に刺された?!」と唖然としていた。まあ…その気持ちは分かる。

「軽傷で済んだけど骨折れてっから今は入院してんだよ」
「マジか…ったく…女相手だからって油断しすぎだろ」
「オレもそれ言った。でもまあ…相手が恋人ってことで、まさか薬盛られるとか思ってなかったみたいだけどな」
「…んで?当然その女は消したんだろうな」
「……ああ。オレがその場で殺った」
「当然だ。梵天幹部に手を出したらどうなるか、いくら恋人だからって知らないわけじゃねえだろ」

鶴蝶は不機嫌そうに言い放つと、深い溜息を吐く。コイツも昔より随分と変わったが、中国での長期出張で更にそれっぽくなってきたなと苦笑が洩れる。

「でも鶴蝶、大したもんだな。あの家龍カーロンを落とすとか、マジ尊敬するわ」
「まあ話せば意外と分かるヤツでな。カーロンも拳一つで上り詰めて組織を広げていったらしいからな」
「へえ、中国版のケンカ屋か…。でも龍汪会りゅうおうかいが梵天の傘下に入れば、今後は中国からの支援も受けられる。更に組織もデカくなるな」
「ああ。向こうも乗り気だったよ。だからこそ、カーロンに呼ばれたら、こっちも尽力しなきゃなんねえ」
「そこは鶴蝶に任せるわ。マイキーもそのつもりだろ」
「おー。そこは喜んでやらせてもらうわ」

鶴蝶は随分と機嫌がいいようで、道中は中国での土産話で盛り上がった。実際のお土産もかなりあるらしく「楽しみにしてろ」と言われたが、さっき土産の入った袋からチラっと見えた変なお面のことを思うと、あまり期待できねえなと苦笑いが洩れる。

「ところで先日九井からの電話で聞いたが…また世話係が変わって新しい女が入ったんだって?」
「あー…まあ」

いきなりの話を振られてドキっとした。

「何だよ。歯切れ悪いな。その女はオマエが連れて来たって聞いたぞ」
「いや、まあそうだけど」
「あのマイキーが気に入ってるって九井が話してたけど、ほんとに大丈夫なのか」
「ああ、そのへんはな。まあ一度危ないこともあったけど、それ乗り越えたらマイキーもむしろ前より状態は良くなったっつーか…」
「そうか!なら良かった」

鶴蝶は素直に喜んでるが、オレとしては微妙な心境だ。あの時、が世話係を辞めるチャンスだったのに何故か彼女は残ることを選択した。今となれば後悔しかない。今なら絶対にやめさせてた。

「ああ、だからその子…名前なんつったっけ?」

「あーそうそう。そのにも土産を買って来たぞ」

鶴蝶がいきなり手に持っていた袋を見せて来る。

「は?何で…?」

鶴蝶が今まで世話係に何かを買って来たことはなく、オレとしては少しだけ驚いた。

「何でって皆が世話になってるって聞いたからだよ。九井が言うには今までの女と違って随分といい子らしいじゃねえか」
「いや、まあ、それはそうなんだけど…ってか何買って来たんだよ、オマエ」
「やっぱ女の子はこれだろ」

と言って、土産袋の中から鶴蝶が赤い見覚えのあるドレスを引っ張りだした。

「いや、、チャイナは着ねえから!」

ってか例え本人が着たいと言っても着せねえし!と思いつつ突っ込むと、鶴蝶は心底びっくりしたような顔で「え、着ねえの?」とオレを見た。いや、何でそこまで驚く。

「何だ…喜ぶと思ったんだけどな」
「その根拠のねえ自信どっからくんだよ…だいたいチャイナで喜ぶような女じゃねえし。つーかどこで着んだよ、そんなの」
「言われてみれば…そうだな」(!)

鶴蝶はそこに気づいたのか、一人で納得して笑っている。どうせ自分がチャイナドレスの女に囲まれて楽しかっただけだろと思いつつ、ふとに電話をすると言ったことを思い出した。
今日は鶴蝶につき合うつもりで迎えに来たが、彼女のことを聞いてるなら話は早い。

「事務所に行く前に竜胆の見舞いに行きてえんだけど」

と言い出したのも好都合だった。に電話して「今からそっちに行く」と言おうと思った。

「…変だな」
「あ?どーした?」
「…電話に出ねえ」
「竜胆が?」
「いや、。いつもケータイは枕元に置いてるしすぐ出んのに…」
「トイレじゃねえの。また後でかけてみろよ」
「ああ」

とりあえず一旦切ると、「少し急げ」と太一に声をかけた。その途端スピードがぐんと上がる。確かに鶴蝶の言う通りかもしれないが、何となく不安になるのは何でなんだろう。
さっき腕の中に抱いたはずなのに、それでも失いそうな焦燥に駆られ、なかなか離れることが出来なかった気持ちと似ている。

にとって、オレは自由を奪った憎むべき存在なのかもしれないと思っていた。でも彼女は優しいから、そんな素振りを見せず、無理をしているのかもしれないと。でもさっきオレと同じ想いだと知った時、嬉しい反面怖くなった。を自分だけのものに出来ない怖さは、きっとこれからも続いて行く。先のない関係だと、も気づいてるだろう。だったら想いなんか告げなければ良かったのかもしれない。お互い気持ちを知らないままなら、まだ我慢が出来たはずなのに。

「着きました」

車を飛ばし、病院前で停車させた太一がドアを開ける。オレが先に降りてすぐにの病室へ向かった。

「おい、蘭!何慌ててんだよ」
「…何か嫌な予感がする」
「あ?嫌な予感って…」
「分かんねーけど…。ああ、こっちだ」

病院内は静かだった。普通の病院よりスタッフは当然のことながら少ない。途中、竜胆の病室を覗いたが、アイツはベッドの上で気持ち良さそうに寝ていた。けど、何となく違和感を覚えての部屋へと急ぐ。先日までは部下を置いていたが、今日は鶴蝶を迎えに行くのに殆どが他の仕事で動き回っていた。この病院の存在は知らない奴は中に入ることさえできないように隠されている。だから平気だという僅かな油断。もしオレの中に甘さがあったとしたならそれだろう。

「…!」

ドアを開けて、すぐに名を呼ぶ。でも返事はない。いつもならすぐに応えてくれるのに。そう思ったらパーテンションの向こうを見るのが怖かった。

「おい、蘭…何してんだ?ここは?」

後ろから追いかけて来た鶴蝶は、「ここに誰が入院してんだよ」と怪訝そうな顔でオレを見ている。でも聞こえていても応えることが出来なかった。

「…いない…」

さっきまでが寝ていたベッドは、もぬけの殻だった。心臓が――嫌な音を立てた。