六本木心中



1.

1時間前――。

蘭さんが帰った後、病室にあの男がやってきた。スーパーで声をかけて来た田所という刑事だ。何故この男がこの病院に?蘭さんの部下が何人かいるはずなのに、と思うと胸の奥がざわざわと嫌な音を立てる。一般人は入れないと言っていたのに――。

「久しぶりだなぁ」

田所は相変わらず嫌な笑みを浮かべてわたしの前まで歩いて来た。

「ど、どうして…あなたがここに?どうやって――」

と問いただそうとした時、田所は軽く吹き出した。

「どうして闇医者の経営する病院に入って来れたのか…ってことを聞きたいのかな?」
「……ッ」

揶揄するような笑み。知っているんだ、と思った。ここがどういう場所で、どの組織の息がかかっているかということも。
そうか――この男は"一般人"じゃなかった。

「簡単な話だよ。ここは表向きマッサージ店だ。そこの客のふりをして何度か通って観察してたんだ。そしたら怪しげな黒スーツ達が入っていく場所を見つけた。不思議なことにその部屋を覗いたら誰もいない。ああ、この部屋には隠し扉があるんだって気づいたってわけさ。そこで毎日人気がなくなるのを待ってたら今日、この辺を張ってた黒スーツの男達が、慌ただしくどこかへ向かった。アイツらがいなくなれば後はマッサージ店の受付を嘘の電話で呼び出して不在にするだけで誰にも見られず中へ入って来れる。ああ、この時の為に受付のヤツとは親しくなっておいたんだ。でもまさか君が…あの梵天に飼われていたとはな。驚いたよ」

田所はさも楽しそうに経緯を話し出した。でも何故この男がここを見張っていたのかが気になる。偶然とは思えない。梵天のことを調べ上げてるのは刑事としてだろうか。
頭の中であれこれ考えながらも、ここは平静を装って何が目的か聞き出さないといけないと思った。

「何の…用ですか。ここに忍び込んだ理由は…」
「もちろん君だよ。
「…まだ…わたしを犯人にしたいんですか」
「君は犯人だ。そうだろ?まんまと逃げ延びたつもりだろうが、そうはいかない」

田所は蛇のような目つきでわたしを見下ろした。初めてこの男の聴取を受けた時から、何も変わらない。獲物に食いついたら死んでも話さない大蛇のような目だ。

「君が犯人だと訴えても、オレがいた警察署の奴らは諦めろと言った。凶器という物的証拠もない。ただ君は死んだ養父のそばに立っていただけ。目撃者が多数いたが、皆がそれぞれ口をそろえて君は何もしていないと言いやがった。養父は不幸にもベランダから顔を出した際に、落ちて来た雪と氷柱の塊に押し潰されて死んだってな。だから仲間も娘を殺人犯として挙げるには難しいって言ってた」
「実際…そうですから。わたしは何もしてません」
「でもおかしいんだよ」
「何がですか…?」
「あの時、君は自分が屋根の雪下ろしをしていたら急に養父がベランダから出て来たと言った。でも君のお母さんは君が外から養父を呼んだと言っていたんだ」
「…さあ。もう覚えていません、そんな昔のこと」

本当は――覚えている。あの日・・・前の晩から大雪が降ってた。だから次の日の夕方になっても近所の人は皆がぞれぞれ雪かきをしていた。わたしも養父に「屋根の雪を下ろしておけ」と言われて裏庭に行ったのだ。そこで今にも落ちそうな雪と、刃のように何本も家側に向かって伸びている氷柱を見た時、思いついた。少しだけ雪をスコップで刺激したら、日中に溶けていた内側の氷が雪の重みでズルズルと下がって来て、今この瞬間、ベランダの窓からアイツが出て来たらぶつかるんじゃないかと、そう思った。死ねばラッキーくらいにしか思っていなかったし、最悪大怪我でもして入院してくれたら、アイツの暴力から何日かは逃げられる。そんなことを考えていたかもしれない。
だから――少しずつ落ちて来るそれを見ていたら呼ばずにはいられなかった。

――お義父さん!硬くて落とせない!

そう叫んだ気がする。そう言えばアイツがイライラして、きっと怒鳴りながら顔を出す。その僅かな振動でこれが落ちれば――。

「君は、細工したんだろ?雪が落ちるように。ならあれは事故じゃない。故意による殺人だ」
「強引ですね。そんなことしてません。証拠なんてないでしょう?」

そう、ないはずだ。あの時、母が救急車を呼んでいる少しの間、触れてしまった凶器・・・・・・・・・もちゃんと処分した。そう思いながら田所を見上げると、彼はふっと意味深な笑みを浮かべた。

「それが…あったんだよ」
「……あった?」

何を言っているんだろうと思った。そんなものあるはずがない。だってあれは近所の用水路に捨てたはずだ。

「実は…事故のあとすぐは生きていたんじゃないか?」
「…え?」
「君の養父さ」
「……まさか。あの人は即死だったはずですけど」
「そうかな。それにしては…傷口がおかしかったんだよなぁ。刺さったという氷柱と傷口が微妙に合ってないように見えた」
「そんなの田所さんの見間違い――」
「君がトドメをさしたんじゃないのか」
「―――っ」

かすかに手が震えて、そっと片方の手で押さえる。

「その証拠となる氷柱を、君は近所に捨てた」
「な…何をバカな…」
「見てた人がいるんだよ。君が用水路にそれを捨てているのを」
「……っ?」

ドキっとして顔を上げると、「やっと感情を見せたね」と田所が笑った。

「覚えてないか?君の近所に住んでた伊藤さん」
「…伊藤…」
「当時70歳代のおじいさんだった」
「……」

覚えている。伊藤さんはウチの裏手の家に住んでいた一人暮らしのおじいさんだ。わたしが養父に殴られていることを知って、いつもこっそり家に呼んでくれてた。でも何故?もし伊藤さんが見ていたなら、何故あの時名乗り出なかったのか。そんなわたしの疑問を田所は察したように笑った。

「当時オレは近所の奴らに聞き込みをしてて、あのじいさんからも話を聞いた。ただ、じいさんは知らぬ存ぜぬでね。その頑なな態度が逆に気になってたんだけど…やっぱり見てたんだよ。君が…氷の塊を用水路に捨てたのを」
「……覚えてません」

自然と声が強張った。でも伊藤さんが見ていたとしても、血の付いた氷はすでに溶けてないはずだ。そう思ったのに田所は楽しげに笑いだした。

「この前、君に会って少しした後ね。久しぶりにあの街に帰ったんだよ。君は連絡すらくれないから、また初心に戻って捜査しようと思ってね」
「……暇人ですね」
「君のせいでオレは東京の田舎に飛ばされたからね。君を犯人だって言い張って一人で捜査してたのが上の連中の癇に障ったようだ。まあそのおかげで君とこうして東京で再会できたわけだし、感謝してるよ」
「……」

まさかそんなことがあったなんて知らなかった。でも確かに、事件後しつこく訪ねて来てた田所が急に来なくなった。あれは飛ばされたからだったのかと納得した。

「ああ、話が反れたね。で…伊藤さん、まだご健在だったよ。今は入院してるんだけどね。末期のガンとかで…」
「え…ガン…?」
「だから見舞いに行ったんだ。君の写真を見せたら凄く驚いてたよ」
「…写真…?」

いつの間にそんなもの、と思っていると、田所はケータイ画面をわたしに向けた。そこにはココと並んで歩くわたしの姿が映っている。場所はあのスーパーだ。

「君が日本最大の犯罪組織の幹部と仲良く買い物をしてると知って…伊藤さんはショックを受けたようでね」
「そうですか…」

やはりすでに梵天のことも、ココが幹部であることもバレている。これは緊急事態かもしれない。田所には万次郎と買い物してるところも見られたことがある。もし彼が梵天のトップだと気づかれたら――。

「当時はかわいそうだと思って庇った女の子が犯罪組織の情婦になってると知ったことで、伊藤さんもやっと重たい口を開いてくれてね」
「…え?」

他のことに気をとられていて、本題が頭に入ってきていなかった。今更あのおじいさんが証言したところで証拠になるはずがない。そう思っていた。

「自分はもうすぐ死ぬ。その前に善行してから死にたいって言ってオレに教えてくれたんだ。君が捨てた凶器を隠してる場所」
「……ッ?」

何かの間違いだと思った。あんなもの、保存しておけるはずがない。

「あのじいさん、あれが見つかったら君がやったと警察にバレると思ったようでね。用水路から回収して自宅の冷凍庫に隠したようなんだ」
「―――冷凍庫…?」

ドクンと大きく鼓動が鳴った。一気に指先が冷えていく。もし本当にそんなものが保存されていたとしたら、もし、あの氷にわたしの触れた痕跡があったんだとしたら、この刑事はわたしを逮捕できる。まさかこの半年の間でそこまでして調べ直していたなんて思わなかった。

「…何故…そんな話をわたしに…?」
「そりゃあチャンスをあげたくてね」

田所はニヤリと笑いながら言った。

「チャンス…?わたしを捕まえたくてそこまで必死に調べてたんでしょ?何を今さら…」
「君を調べたのはオレの自己満足のようなものさ。オレの睨んだ通り、君は養父を故意に死に至らしめたっていう事実が分かればいい。オレをバカにしてた奴らの鼻を明かせたしな」

田所はそこまで言って、もう一つの写真をわたしへ見せた。そこにはクーラーボックスと、中にドライアイス。そして見覚えのある氷の塊が映っている。この男が証拠を持っているという話は本当のようだ。

「これをいくらで買い取ってくれる?」
「……は?」
「君を調べていくうちに梵天という組織にぶち当たった。オレでも知ってる。梵天は今この日本を裏から牛耳る唯一の犯罪組織だってね。まさか君がそこのボスの情婦になってたなんてオレは驚いたよ、本当に」
「何が言いたいの…?」
「とぼけるなよ。知ってるんだぞ?君があの豪華なタワマンに囲われてること。当然、金だってたんまりもらってんだろ?」
「……最低ね、あんた」
「人を殺してる君よりは真っ当だと思うけどなあ。知ってるだろ?刑事なんて安月給でね。君が身につけてるアクセサリーよりも安い給料で働いてるんだよ」

田所の目的はお金らしい。それを聞いてまだ首の皮一枚繋がった気分だった。もしこの男が真っ当な刑事で、わたしを逮捕しに来たんだとしたら逃げようがない。でもお金目的なら、まだあの証拠を取り戻せる可能性がある。

「その写真のブツとお金を交換?」
「もちろんだ。だいたい10年前の事故で処理された殺人事件を一つ解決したところで、オレの刑事人生が潤うわけじゃないしね。それに君の養父は最低の男だったんだろ?伊藤さんだけじゃない。近所の奴らが口をそろえて教えてくれたよ。君を暴力で支配してたって。そりゃ殺したくもなるよなあ?」

さも同情してるような口ぶりだけど、当時の警察は何もしてくれなかった。虐待を訴えたこともあるけど、結局みんな家に来て両親に聞き取りするだけで終わり。その後は決まって「何、警察に言ってんだ」とあの男から更に酷い暴力を受けた。警察なんて何の役にも立たなかったくせに。そう思いながら田所を睨む。この男が最低な男で良かった――。

「それで…いくら必要なの」
「話が早くて助かるよ」

わたしの肩にポンと手を置き、田所が笑う。触れられた場所から、過去の傷口が開いたかのように、見えない血が流れているような気がした。





2.

がいなくなった――。

そう言って叩き起こされた時は、何の悪夢かと思った。兄貴は顔面蒼白で「はオレ達だけで探す」と言って、まずは医者の青山に聞いたようだけど。この病院の奴らも、そしてマッサージ店の奴らも誰もが出て行くところを見ていない。最悪なことに一時的に部下もいなかった時のことだったらしい。帰国したばかりの鶴蝶はあまりに兄貴が必死になっていることが不思議なようで「何で世話係の女がいなくなっただけで騒いでんだ」とオレにこっそり訊いて来た。

「マイキーが気に入ってんのは聞いたけどよ。蘭のあの慌てっぷりじゃ何かヤバい内情でも知られてんのか?」
「い、いや…そういうことじゃねえよ。ただ…は誰にも言わずに抜け出すような子じゃねえし、色んな可能性考えて心配してんの。オレだって足が動けば探しにいきてーよ」
「……え、何かややこしいことになってんのかよ」
「別にややこしいことじゃ…」

と言いかけて、いや、相当ややこしいのかもしれねーなとは思った。兄貴の動揺ぶりを見て確信した。やっぱり兄貴はのことマジなんだって。

「…そう言えば…カメラは調べたのか?」

と鶴蝶は思い出したように言った。この病院の入り口に防犯カメラが設置されている。ただ病院内部や病室の周りは来る人間が撮られるのを嫌う組織の人間しかいないってことで、カメラは設置されていない。

「カメラか…!入口のやつに何か映ってるかも…兄貴!」

そこへ戻って来た兄貴に今の話をすると、すぐにカメラ映像を調べに行った。兄貴も普段と違って冷静さを欠いているのか、そのことに気づかなかったようだ。もしが逃げただけならまだいい。でも違ったら?兄貴の心配はそっちの方だろう。そもそもは逃げるような子じゃないし、今更って感じもする。兄貴も「そんな素振りは一切なかった」と話してた。あの言い方は二人の間に何かあったんじゃねーのと疑いたくなるような感じがしたのを思い出す。
そこへ兄貴が戻って来た。強張ってるその表情を見て、何か見つけたんだと思った。

「…兄貴!何か映ってた?」
「ああ、これ見ろ」

兄貴はタブレットに防犯カメラの映像を出して、そこに映っている人物を指さした。

「コイツ…!あの刑事か?」
「刑事…?」

事情の知らない鶴蝶が眉を顰めている。仕方ないからオレが簡単にの過去や、最近オレ達のことを嗅ぎまわってる刑事のことを説明した。

「でも何でその刑事がマッサージ店に?」
「…だ」
「ってことは、まだ彼女のことを追いかけてるってことか?10年も前の事件のことで」

鶴蝶が尋ねると、兄貴は心底ウザそうに映像にい映る男を指で弾いた。

「その辺は分かんねーけど狙いはだ。コイツのことはすでに調べたがの事件がキッカケで東京郊外のへき地に飛ばされてる。最近は職場にも顔を出さずに行方不明だった」
「マジか…なのに何で彼女のこと付け回して…いや…こんな場所にまで来ていったい何しようってんだ?」
「オレが知るか!とにかくこの田所って男がのとこに来たのは間違いねえ…。コイツが出て行ってから一時間後、が外に出てる」

そこで映像を早送りすると、確かにが建物から一人で出て行く姿が映っていた。

「どこ行ったんだ…?この刑事と何が…」
「兄貴、のケータイは?」
「繋がんねえ。電源切ってる。でも病室にはなかったから持って出たはずなんだ」
「クソ…GPSでも仕掛けときゃ良かったのに…」
が出かける時は見張りが着く。今回の入院は想定外。そこまでする必要ねえかと思ったけど…」

と兄貴は後悔するように呟いた。がここを出て行ってから約一時間。探すにしてもあまり大ごとには出来ない。もしマイキーの耳にでも入れば、また前のようにならないとは言い切れないからだ。マイキーのあの衝動は自分でコントロール出来ないと聞いてる。もし普段のマイキーがを傷つけたくないと思っていても、何がキッカケで黒い衝動が出るか分からない。兄貴もその辺のことを考慮して、オレ達だけで探すと言ったんだろう。

(クソ…何でオレはこんな時にケガなんてしてんだ…!)

今すぐ探しに行きたいと気持ちばかりが焦る。その時だった。兄貴のケータイが鳴って、表示を見た瞬間「…?!」と声を上げた。

「え、マジで?」
「その子からか?」

オレと鶴蝶の問いに応える前に、兄貴が電話に出た。

「もしもし!か?オマエ、今どこに――どう、した…っ?」

兄貴の表情が曇って、その後に小さく息を飲んだのが分かった。

「場所は…?うん……分かった。すぐ行く。オマエはそこを動くな…。いいな?」

兄貴はそれだけ言うと通話を終えて、深い息を吐いてからオレと鶴蝶を見た。

「アイツ…この近くのビジネスホテルにいるらしい。今から迎えに行ってくる」
「え?ビジネスホテルって…」
「田所に呼ばれたらしい。詳しいことは会ってから聞くが…今一つ分かってることは――」

と、そこまで言うと、兄貴は持っていたケータイを握り締めた。ミシっという嫌な音が響く。

があの刑事を刺したってことだ」

まさかの状況に、オレと鶴蝶は言葉を失った。






3.

『すぐ行く。オマエはそこを動くな…。いいな?』

蘭さんの言葉は、少なくともわたしの動揺を静めてくれた。電話を切った後、軽く深呼吸を繰り返す。狭いビジネスホテルのベッドと壁の隙間に座り込み、わたしはそっと床に倒れている田所を見た。腹には果物ナイフが刺さって、そこから出血して服には赤いシミが広がっている。その光景から目を反らし、膝を抱えて顔を埋めた。
何でこんなことになってしまったのか。何度も混乱した頭で考えた。けれど、こうするしかなかったという答えしか出ない。わたしも根っからの殺人者だ。

病室に来た田所に10年前の証拠があると言われた。それと引き換えにお金を要求され、2000万払えば証拠を渡すと田所は言った。わたしには迷う暇などなくて。すぐに了承した。お金ならこれまで貯めたものがある。それ以外にも万次郎の世話係になった日から、毎月蘭さんから給料代わりのお金も振り込まれていた。2000万円なら今すぐ払える。ただ銀行でおろすには2000万円もの大金は時間がかかったり、窓口でおろせない場合も多い。そう伝えると、ならオレの口座に振り込めと言われた。大金の振り込まれた証拠が残ったところで、わたしは脅迫されたと訴えることが出来ないのだから都合がいいと思ったんだろう。

「ATMでおろせる額…そうだな。100万だけはここへ持ってこい。いいか?誰にも言うな。組織のヤツにチクったらすぐに逮捕するからな。あとバカなことは考えるな。オレに何かあれば伊藤さんが警察に全てを話すことになってる。そうなればオマエはすぐに逮捕されるぞ」

そこまで言って田所は帰って行った。わたしはすぐに出かける用意をして、こっそり病院を抜け出し、銀行へと向かった。一瞬、蘭さんの部下が見張っているかも、と思ったけど何故か誰もいなかったから抜け出すのは簡単だった。銀行のATMで100万円をおろし、残りを振りこもうと思ったものの、まずは本当に田所があの証拠を渡してくれるかが気になった。もし今、アレが手元にあるのなら見せてもらうだけでも見せてもらって確認した方がいい。そう思ってまずは100万だけを持って田所の指定したビジネスホテルにやって来た。そこはわたしが入院していた病院から徒歩五分くらいの場所にあり、田所が本当にあの病院を見張ってたことが伺える。

(わたしがいないことを気づかれる前に戻らないと…)

ここへ来た時、わたしの頭はそのことでいっぱいだった。本当なら、蘭さんに相談してしまいたいと思った。でも誰にも言うなと言われた以上、従わないと本当に逮捕されてしまうかもしれない。

(まさか処分したと思ってたアレが今頃出て来るなんて…)

迂闊だった。捨てた時、誰にも見られていないと思っていたし、まさかそれをあのおじいさんが隠してくれようとしてたなんて思いもしなかった。優しい人だったけど、きっと大人になったわたしを見て、ショックを受けたのかもしれない。同情して庇った少女が、犯罪組織に関わっていると知って。

「早かったな。持って来たか?」

部屋に行ったわたしを中へ促し、田所は金を要求した。バッグに入れていたお金を渡すと、田所は「他の金は振り込んだか?」と確認して来る。

「その前に本当にアレを渡してくれるか確認しようと思って。もしここにあるなら渡して下さい」
「あ?それは金を振り込んでから――」
「別にアレだけ渡せとは言ってない。振り込むから田所さんも一緒に銀行へくればいいでしょう?」
「…ふん。分かったよ…」

田所はそう言ってバスルームの中から、さっき写真で見せたクーラーボックスを運んで来た。ふたを開けると大量のドライアイスと一緒にあの氷の塊が入っている。それを見た瞬間、軽い眩暈がした。10年の時を超えて、また目にするとは思ってもいなかった。

「おいおい…大丈夫か?」
「さ…触らないで…」

足がフラつき、胃がむかむかしてくる。赤い薔薇を見た時と似た症状に襲われた。その時、田所の腕がわたしの背中を抱き寄せ、軽く撫でられる。ゾっとして突き飛ばそうとしたその時、勢いよくベッドの上に押し倒された。

「な…何するの…っ」
「…いい女に育ったなあって思ってたんだよ…。別にいいだろ?梵天の男に飼われてんだからオレに抱かれんのも同じじゃねえか」
「い、いや…!放して…っ」

田所はわたしの着ていたシャツのボタンを強引に外していく。両腕を振り回したけど、すぐに拘束された。

「暴れんな!服を裂かれたいか?帰るのに困るのは君の方だぞ?」
「…やあぁ…っ」

田所はポケットから何故か果物ナイフを出して、わたしの頬へと当てた。

「あの場所に侵入するって決めた時に護身用で用意したんだよ。あんまり暴れるとこれで服を八つ裂きにするけどいいの?」
「……最低…!刑事のくせに…っ」
「人殺しの君に言われたくないなぁ…まあ、お互い楽しもうよ。なあ?」
「…や…やだっ」

はだけた胸元へ顔を埋める田所を押し戻そうと暴れてもびくともしない。下着を押し上げられ、さらけ出された場所にぬるりとした気持ちの悪い感触があり、ゾっとして全身が総毛だつ。確かに貞操を守ったところで今更かもしれない。でもこの男は竜胆や万次郎、ココとは違う。ただ欲を処理する道具としてわたしを辱めようとしている。こんな男に触れられるくらいなら死んだほうがマシだと思った。

「…っおい!何して…放せっ」

ベッドの上に無造作に放られていたナイフを咄嗟に掴んで自分の喉元へと当てる。田所は慌てたようにそれを奪おうとした。少しだけもみ合いになり、そのままベッドの下へと二人で転がり落ちる。その時、「うっ…」という呻き声が聞こえて来た。

「……え…?」

体を起こした時、田所はグッタリとした様子で床に倒れていた――。

少しの間、呆然としていたけど、我に返ってすぐに蘭さんへ電話をした。念のため電源は切っておいたけど、電源を入れた際に蘭さんからの着信が連続で来てるのを見て、病院を抜け出したことがバレてると思ったからだ。本当なら、こんな私事に巻き込みたくはない。でも、どうしていいのかも分からなかった。
その時、部屋のチャイムが鳴ってドキっとした。

「…。オレだ」
「…蘭さん…」

その声を聞いた途端、ドアの方へ走り出していた。

「……!大丈夫か?」
「…ごめんなさい…!」

開けた瞬間、抱きしめられて涙が溢れた。蘭さんはわたしの恰好を見て一度ドアを閉めて中へ入った。自分のジャケットを脱いでわたしの肩にかけてくれた蘭さんは、田所が倒れているのを確認すると、「コイツに何かされたか?」とわたしを見下ろす。思わず首を振った。

「お…襲われそうになったけど…その時にナイフで脅そうとしたらもみあいになってそれで…」
「…なるほどな。状況は分かった。何でここに来たのかは後で聞く。ここはオレに任せては病院に戻れ」
「で、でも――」
「いいから。廊下に鶴蝶って幹部のヤツがいるから、ソイツに――」

と蘭さんが言いかけた時だった。床に倒れていた田所が呻き声をあげながら目を開いたの見て驚いた。

「…コイツ、生きてんのか」
「…う…オ、オマエ……梵天…の…?」

田所が体を起こそうとした瞬間だった。蘭さんが素早く動いて、田所の腹に刺さったままのナイフを掴んで思い切り押し込んだ。

「ぐぁ…!!」
「テメェは大人しくオレに殺されとけ」
「き…気は…確かか……オレは…刑……」
「ああ…心配すんな。証拠一つ残さねえで処分してやるよ…」
「オ、オマエ…」

蘭さんはもがく田所を見下ろしながら、更にナイフを押し込んだ。声にならない声が、静かな室内に響く。わたしは足の力が抜けて、その場に座り込んだ。苦しげな声だけが聞こえてたけど、少しするとその声も聞こえなくなり、気づけば蘭さんがわたしの顔を覗きこんでいた。

「…大丈夫か?」
「…ら…蘭さん…」

何度か頷くと、蘭さんはホッとしたようにわたしを抱きしめてくれる。その腕の強さに涙が溢れてきて、また彼に迷惑をかけてしまったと思った。

「ご…ごめんなさ――」
「いいか。コイツはオレが殺した。オマエじゃない。だから…今日のことは忘れろ」
「…っ…?」
「忘れろ。いいな?」
「蘭さん……」

思わず顔をあげると、蘭さんは優しい眼差しで微笑んだ。この時、気づいた。きっとわたしがまた心に傷を残さないよう、敢えてあの男のトドメを刺してくれたんだと。自分が殺したことにして、わたしが罪悪感を持たないように――。

「…ずるいよ」
「え?」
「一人でカッコつけないでよ…」

そう言ったわたしを見つめて、蘭さんはふっと笑みを浮かべた。

「バカかよ。こんなのオレからすればいつものことだっつーの」

わたしの濡れた頬を指で拭いながら、蘭さんは触れるだけのキスを落とした。それは共犯者からの、今までで一番、泣けるくらいに優しいキスだった。