六本木心中



1.

ポツポツと雨粒がフロントガラスに落ちて来たのを見て、太一は無意識に空を見上げた。いつの間にか空に帳が下りたのかと思わせるような鉛色の雲が広がっていて、雨粒はあっという間に本降りへと変わっていく。ワイパーをしなければ前の車さえぼやけてしまうほど、跳ね返る雨で視界が悪い。太一は少しだけスピードを落としてバックミラーに映る女を見た。ボーっとした様子で窓の外を眺める彼女の表情はどこか虚ろだ。以前に見た可愛らしい笑顔もなく、ただ黙って窓に当たる雨を見つめている。

――太一。を事務所に送ってやってくれ。オレはこれからやることがある。

ほんの10分前、兄貴分で上司でもある蘭から頼まれた太一は、何かが起こったのだと察していた。彼女がいなくなった後の蘭の慌てぶりは太一でも見たことがない。本来なら帰国した鶴蝶を迎えに行き、そのまま渋谷へ向かうはずだった。なのに急遽病院へ行けと言われ、到着したらしたで、今度はものの数分で蘭と鶴蝶が慌てたように飛び出して来たのを見て、太一も驚いたのだ。何があったのか聞く間もなく、蘭に「ここで待機してろ」と言われた太一は大人しく車内で蘭たちが戻って来るのを待っていた。すると30分ほどで蘭がを連れて戻って来た。入院してたはずのが何故か外にいたことを考えると、先ほどの蘭の慌てぶりも納得がいく。ただ彼女を太一に預け、元来た道を戻って行ったところを見ると、彼女がいた先で何かが起こったんだろう。それを証拠にの手や服には血のような赤いシミが付着している。この世界に入って間もない太一でも、それが何を意味するのかは想像でしかないが何となく分かった。

「あの…寒くないですか?」

慎重にハンドルを握りながら後ろへ座るへ声をかける。その声でふと顔を前に戻したは、太一と目を合わせると軽く首を振った。

「…大丈夫です」

彼女の肩にかけられているジャケットは蘭のものだと太一も気づいている。はそれで前を隠すようにして、再び窓の外へ視線を向けた。この前体調を崩し、入院していたが今はだいぶ良くなってはいるようだ。太一はホっとしながらも「もうすぐ着くんで」と声をかけて、少しだけアクセルを踏み込んだ。その時、チラッとバックミラー越しでを確認しながら、彼女についての噂話を思い出していた。聞いた話通り、どこか儚げで綺麗な人だと思う。六本木のクラブで働いてたらしいが、夜の女が持つ独特の空気感がまるでない。それが初めてと会った時に太一が持った印象だった。梵天に来て半年。このという女はいつの間にか梵天幹部たちの懐深くまで入り込んでいる。

あの蘭が彼女にだけは優しい眼差しを向けることを、太一は知っている。彼女の前では嬉しそうな笑顔を見せる竜胆のことも、幹部さえ、あまり自分の部屋に上げない九井が、には合鍵を渡していることも知っている。

不思議な人だ――。と太一は思った。外を見つめる瞳はどこか寂しげで、今にも泣いてしまいそうに見える。弱い、ただの女。太一の目にはそう映った。手についた血が、とてもアンバランスに思える。なのに彼らを惹きつける何かがあるんだろう。梵天のトップである佐野万次郎が、唯一殺さなかった女だ。
それでも――彼女の見つめる先にいる相手は、ただ一人だと言うことも、太一は知っていた。






2.

「悪いな。帰国早々、巻き込んで」

田所の遺体をいつもの倉庫に運んで処理を待つ間、オレと鶴蝶は缶コーヒーを飲みながらフロントガラスを濡らす雨を眺めていた。

「いーや、全然。オマエが殺らなくても、いずれオレ達の誰かが殺すことになってたよ、アイツは。梵天のことを嗅ぎまわってるうるさいハエはマイキーが一番嫌がるからな。あげく気に入った女に手を出そうとしたヤツを生かしておくわけがねえ」
「…だな」
「それにしてもバカなヤツだ。オレ達の息がかかった街で、しかも病院にまで忍びこんでたとは殺して下さいって言ってるようなもんだぞ。それもあそこに泊まるなんて情報不足だったな、あの刑事も」

鶴蝶は苦笑しながらコーヒーを一口飲んだ。あのホテルの防犯カメラ映像も全て別の日に差し替えさせ、日付も操作し、あの男のいた痕跡を全て消した。六本木からほど近いあの街は梵天の支配するエリアだ。昔からオレと竜胆が仕切っていた場所でもある。ああいった小さなホテルは当然手中に治めていて、こちらの言うことに相手も逆らわない。田所がそういう場所を選んでくれてオレとしても助かったってわけだ。

「あの刑事、元々地方出身の人間だったんだろ?なら六本木界隈を仕切ってた兄弟のことも、その兄弟が梵天の幹部だってことも知らなかっただろうし不運だったな」
「まあ、あの程度の証拠でを脅そうとした辺りで頭わりいけどな」

あの男は証拠となるブツを持ち歩き、手元に置くことで安心してたんだろうが、結局はそれが仇になった。あんなものは速攻で処分したし、これでの罪は暴かれることはない。

「それにしても…そんな過去があったなんてな。蘭は知ってたのかよ」
「…まあ。それで脅してスカウトしたようなもんだしな。オレもあの刑事と大して変わりねえよ」

半年前のことを思い出しながら、自嘲気味に笑う。思えばの存在を知った時から、オレは彼女に惹かれていたんだろう。

「でもあの子は全て受け入れてんだろ?」
「受け入れてるっつーか…まあ…アイツは優しいからマイキーが心配なんだろーな…」
「………」
「…何だよ、その目は」

ふと視線を感じて隣に座ってる鶴蝶を見れば、綺麗なオッドアイがかすかに細められている。口元には分かりやすいくらいに弧が描かれていた。要するにニヤニヤしている顔だ。

「…あの子のことを気に入ってるのはマイキーだけじゃないってわけだ」
「あ…?」
「まあ気持ちは分かるけどなァ。あんなに可愛らしい子じゃ。今までの女とは全然タイプが違うし」
「は?鶴蝶にの可愛さとか分かんの。いっつも女そっちのけでトレーニングばっかしてはフラれてんのに」
「ぐ…オレだって可愛いくらいは分かるっつーんだよ!オレの歴代の女たちが可愛くない女だっただけで」
「ぶははっ…それ自分で見る目ねえって言ってるようなもんじゃね?」

オレが笑いながら突っ込むと、鶴蝶はますます顔を赤くして「うるせえっ」と怒り出した。ほんとコイツは昔から単純明快で不器用な男だ。

「で…?どうすんだ?もう一人の証人・・・・・・・は」
「……もうそこの支部のヤツを行かせた。今頃終わってんだろ」
「田舎町の死にかけのジイさんだっけ?」
「ああ。まあでも…は最後まで嫌がってたけどな。生き証人を生かしておくわけには――」

と言った矢先、ケータイが鳴りだした。見れば今話してた支部の男だ。電話に出ると案の定、そのジイさんの報告だった。

「終わったって?」

オレがケータイを切ると、鶴蝶がチラっとオレに視線を向けた。関わった以上、気になるんだろう。でも今の報告はオレが思っていたものと少しだけ違ってた。

「…入院してるっつー病院に行ったら、そのジイさん、半月も前に亡くなってたみてーだわ」
「は?じゃあ…」
「田所が嘘をついたか、ジイさんが病気で死んだことを知らなかったかのどっちかだろーな」
「そうか…まあ…やっぱあんま気持のいい殺しじゃねえし、これはこれで良かったかもな。あの子にもそう伝えてやれよ」
「ああ…」

そう頷きながら、オレも心のどこかでホッとしてた。今まで散々色んな人間を消して来たし、今更一般人のジイさんを殺させたからって罪悪感なんてもんはないに等しいはずなのに、家庭内暴力を受けていたのたった一人の味方だった人を手にかけるのは、やっぱり気乗りがしなかった。らしくねえけど。
その時、倉庫の方から傘をさした部下の一人が姿を見せた。口元を隠していたマスクを外し、車の方へ歩いて来る。どうやら処理は終わったようだ。

「終わったか?」

雨に濡れないように少しだけ窓を下げて確認すると「滞りなく」とだけ言って「これから廃棄してきます」と軽く頭を下げて戻っていく。幹部直属の部下だけに無駄がなく、仕事が早い。全てが終わったことでホっとしたら、急に酒が飲みたくなった。

「都内に戻れ」

鶴蝶が自分の部下の運転手に告げると、車は静かに走り出した。

「さて、と。どーする?鶴蝶、腹減ったんじゃねえ?」
「そうだな。でもまず本部に行ってからだ」
「律儀に出張の報告~?九井なら今は六本木の方にいるけど。渋谷には武臣さんとモッチーくらいしかいねえよ」
「じゃあ六本木支部な」

と鶴蝶がもう一度運転手に声をかけると、後部座席に設置されたスピーカーから「分かりました」という声が返って来た。雨はいっそう強まって、窓の外は全てが灰色に見える。

「蘭、事務所着いたらオレのことはいいからオマエは彼女のそばにいてやれ」
「……あ?何だよ急に」

ボーっと窓の外を眺めていると、鶴蝶がふと思い出したように言った。いや、確かにのことは心配だったし、一人にしておくのも不安だった。でもそれを鶴蝶に見透かされたような気がして、思わず苦笑いが零れた。

「彼女、体調が悪くて入院してたんだろ?なのにマンションに帰しちまったし、一人にしておくのはなぁ」
「まあ…そうなんだけど…あの病院も外部から侵入されたし、強化しなおさねえと置いておく方が心配だったからな。まあ田所は他の誰かに情報流してはいなかったようだから場所はいいとしても、やっぱ入口のキーも生体認証に変えて監視カメラ、中にも必要じゃねえ?」
「確かにな。まあその辺のことは九井に相談してみるわ。んで、もう一人の入院患者は?」
「竜胆は安静にしてるだけでいいから簡単に検査受けてから、アイツも六本木の事務所に帰るって言ってたわ」

ふとが無事だと分かった時の竜胆の顔を思い出して苦笑した。あんなにそばにいたのに、侵入者に気づかず寝てた自分に腹を立ててるようにも見えた。と言って竜胆に非はない。元々田所はが目当てだったのだ。それには自ら抜け出したのだから止めようもない。

(ったく…アイツは何でも一人で背負いこむな)

刑事に脅された時点でオレに相談してくれれば、あんな状況にはさせなかったのに。いくら証拠を握られていたとしても、あの街にいた時点で田所はすでに梵天の罠にかかった獲物と同じだった。

「あ~シャワー入りてえ…」

手についた血が渇いて気持ち悪い。車内にあるウェットティッシュで拭きとっても、まだ血の匂いがする気がした。





3.

マンションにつくと、蘭さんから連絡を受けてたのか、黒スーツの人達に出迎えられた。送ってくれた太一くんにお礼を言って車を降りると、黒スーツの二人がわたしを部屋の前まで送ってくれる。刑事が病院に侵入したからなのか、それともわたしが抜け出したせいなのか。随分と厳重に監視されてる気がした。でも部屋に入ろうとした時、黒スーツの一人が「部屋で安静にしてて欲しい、と蘭さんが言ってました」と告げられた時、ああ、きっと蘭さんは体のことを考えてくれたんだと思った。今回のことで、またわたしが倒れたら、と心配してくれたのかもしれない。

「分かりました」

そう応えて、わたしはドアを閉めた。確かに少し疲れているから今すぐにでもベッドに潜り込みたい。けれども、その前にシャワーに入って何もかも洗い流したかった。服を脱ぎ捨て、バスルームに飛び込むと、すぐにお湯を出す。ちょうどいい温度になったお湯を顔から浴びると、ホっとして息が洩れた。

(また…蘭さんに迷惑かけちゃったな…)

あの男にわたしが梵天に関わっていることを知られた時点で蘭さんに相談すれば良かったのだ。でもお金で解決できるならと思ってしまった。そんなに甘い男じゃないことを薄々感じてはいたのに。あの男を刺してしまったのは事故だけど、そのせいで蘭さんの手を汚させてしまった。蘭さんが言ったように彼らが普段から誰かの命を奪っているとしても、それとこれとは別の話で。今回は完全にわたしのせいだ。

なのに――そう思う反面、蘭さんがわたしの為にあの男を手にかけたのだと思うと嬉しいという思いが後悔の気持ちと綯い交ぜになる。こんなこと思っちゃいけないと思うのに、胸の奥が仄かに暖かくなっていくのは誤魔化しようがない。人を殺しているのに、と苦笑が洩れる。あの男の言う通り、わたしは根っからこっち側の人間だったのかもしれない。
だからあの刑事に同情なんかしない。結局、あの人だって奪う側の人間だったのだから。

「…蘭さん?」

バスルームを出た時、リビングの方からケータイの鳴る音が聞こえた。さっき別れ際、全てが終わったら電話すると言っていたのを思い出す。髪を拭いていたバスタオルを洗濯機に放り投げて、すぐにリビングへ向かう。ケータイはソファに置きっぱなしのバッグの中で鳴っていた。

「もしもし…っ」
『……?』
「……っ万次郎?」

通話口から聞こえたのは蘭さんじゃなく、万次郎の声だった。てっきり蘭さんだと思い込んでいたせいで表示された名前を見ていなかった。

『何だよ。誰かと間違えた?』

微妙な空気を感じ取ったのか、万次郎が苦笑気味に訊いて来る。ドキッとしたけど、蘭さんには今日のことを万次郎には言うなと口止めされていた。その話に繋がるようなことは言わない方がいいのかもしれない。

「ううん…今お風呂から出たら電話の音がしたから急いで走って来たの」
『そっか…それより…体調崩したんだって?』
「…え、何で…」
『九井から定期的に色々な報告の連絡がくるんだよ。それでさっき聞いた…大丈夫かよ?』

万次郎の声は少し遠い。フィリピンは日本からも近いけど、かすかに入り混じる雑音を聞くと、海外にいるんだなと感じた。

「うん…もう痛みはないけど薬は貰って来たし…」
『え、じゃあマンションに帰ってんの?』
「あ、さっき戻って来たとこなの」
『………』
「万次郎…?」

急に声が途切れてどうしたのかと思った時、万次郎がふと呟いた。

『オレの……せいだよな、きっと』
「え…?」
が胃炎になったのって…ストレスが原因なんだろ?』

万次郎はどこか元気がない。今はきっと叱られた子供みたいな顔をしてる。何となくそう思った。

「違うよ…万次郎のせいじゃない。先生は環境が急に変わったせいだって言ってたし」
『だからオレのせいじゃん、それ』
「環境が変わって最初は緊張してたの。それが原因だし万次郎が悪いとかないってば」
『だから環境変えたの、結局オレのせいじゃんって言ってんの。は頑固だな』
「な、何よ…そっちこそ」

何故か言い合いみたいになって、わたしも少しムキになってしまった。

『………』
「………」

一瞬、沈黙が流れて、どう言えば気にしないでくれるんだろうと考えていたら、通話口の向こうからぷっと吹き出す声が聞こえて来た。

『…お互い様だな…』
「う、うん…そう、だね」
『じゃあお互い頑固ってことで』

万次郎はそう言って笑った。さっきよりは声も明るくなって少しホっとする。その時、風に煽られた雨粒が激しく窓を叩いて、窓の方へと歩いて行く。ここは最上階だから風がやたらと強くてゴーゴーと唸り声のような音が響いていた。激しい雨が灰色がかった霧のようになって、六本木の街を覆っている。

「今、こっちはすんごい豪雨になってきた。そっちは?」
『こっちはめちゃくちゃ天気がいい。夕方近いのに日中みたいに明るいかな』
「そっか…こっちはどんより…っていうか空が真っ黒に近くて少し怖いよ。この部屋は空に近いから」
『こっちもいきなりスコールになる時は一気に暗くなる。最近の日本と気候は似てるかも。こっちも蒸し暑いし』
「こっちも外は暑かった。湿度60%以上だもん。フィリピンとの時差って一時間だっけ。じゃあ今そっちは午後の3時半?」
『うん。日本時間より遅いけど、殆ど時差ねえしな』
「じゃあ時差ボケなくていいね。万次郎はいつ帰って来るの?」

確か予定では一週間と言っていた。でもハッキリそうと決めているわけじゃないらしい。万次郎の気分で、それがもっと長くなったりすることもあるようだ。

『今んとこ、帰国は3日後を予定してる』
「そっか」
『……寂しい?』
「え?」
『オレがいなくて』

不意に訊かれてドキっとした。こういう時、万次郎の方が寂しさを感じてるんじゃないかって思う。

『んなわけねえか。ずっと一人じゃねえだろうし』
「あ…うん、まあ…でも…万次郎は大丈夫?体調とか…ちゃんと眠れてる?」

フィリピンに行くと比較的、体調はいいと話してた通り、万次郎は『それが結構寝てる』と笑った。確かに声は元気そうだ。

「春千夜は?彼も元気?」
『あー三途も元気かな。現地のヤツとよくケンカしてっけど』
「ケンカ?」
『そう。タガログ語と日本語で言い合いしてんの笑うわ。こっちのヤツも血の気が多いから』
「でもそれってお互い何言ってるか分かってないんじゃ…」
『そうそう。三途も分かってねえけど、何か怒鳴ってるし、オレも怒鳴っとけ的なやつだろ、きっと』

言いながら万次郎が爆笑している。でもその光景を想像すると、わたしまでジワジワきて笑ってしまった。でも話を聞いていると二人とも元気そうだ。
その時――万次郎の後ろで噂の春千夜の声が聞こえた。どうやら万次郎を呼びに来たみたいだ。

『噂をすればだな。今から現地の組織のヤツと会食なんだよ』
「そっか。食欲あるなら良かった」
『オレはの作った飯が食いたいけどなー』

と言いつつ、『じゃあ切るけど…も体を休めろよ?具合悪ければ九井か灰谷にすぐ電話して病院に連れてってもらえ』と意外に真剣な声で言われた。体を壊して気づいたけど、やっぱり周りに心配かけてしまうのは良くないなと思う。前は仕事の為に体調管理をきっちりしてたけど、最近はサボり気味だったかもしれない。万次郎との電話を切った後、今度からちゃんと運動も再開しようと思った。幸いこのマンションには立派なジムがあるのだから活用しない手はない。
半分渇きかけの髪をドライヤーで乾かしながら、もう少し回復したらジムでトレーニングするのもありかなと考えていると、かすかに物音がしてドライヤーのスイッチを切った。でも今は何の音もしない。

「気のせい…?」

と呟いた瞬間だった。いきなりドアが開いて「きゃっ」と声を上げてしまった。

「オレだって」
「ら、蘭さん…?!」

開いたドアから顔を出したのは苦笑いを浮かべた蘭さんだった。

「インターフォン鳴らしても出ねえから、またぶっ倒れてんじゃないかと思って焦って合鍵で入ったらドライヤーの音がしたから。驚かしたか?」
「…び、びっくりした…。てっきり電話くるかと思ってたから」
「ああ、鶴蝶が九井に出張の報告に行くって言うし、結局こっちに戻ることになったから直に来た方が早いと思って」
「そ、そうなんだ…」

ホっと息を吐き出すと、蘭さんの手がわたしの手を掴んで、そっと引き寄せられた。まるで壊れものを扱うかのように抱きしめられて、鼓動が大きく跳ねる。あんなことがあったから考える余裕がなかったけど、お互いの気持ちを確かめ合ってから二人きりで会うのは初めてだ。そう思ったら一気に緊張が増して来た。医者からはリラックスして過ごせって言われたのに。

「…大丈夫?」
「…え?」
「もう落ち着いたかよ」

僅かに体を離して、蘭さんがわたしの頬に手を添える。その温もりだけで顔が熱くなった。

「あ…うん…。今ね、万次郎から電話があって…少し話してたら気分も落ち着いたっていうか…」
「マイキー?」
「うん…何かココからわたしの体調のこと聞いたらしくて――」

と言ったところで言葉を切った。わたしを見下ろす蘭さんの双眸が、一気に不機嫌な色に変わったからだ。

「ふーん…マイキーと話して落ち着いたんだ」
「え、あの…」
「何か妬けるな、それ」
「ちょ…蘭さん…?」

いきなり体を持ち上げられ、後ろにある洗濯機の上に座らされた。そうすることで蘭さんと目線が近くなる。

「オレといる時は他の男の話すんなよ」
「え……」

スネたように目を細める彼に少しだけ驚いた。わたしの知ってる蘭さんは大人で自分の感情をあまり出さない人だ。でも今は些細なことで不機嫌になってる。思わず可愛いなんて思ってしまった。

「何笑ってんだよ」
「だ、だって…蘭さんのそんな顔、初めて見たから…」

ますます目を細める彼を見て、つい本当のことを口にすると、蘭さんは軽く舌打ちをしてそっぽを向いている。蘭さんがこんなにもヤキモチ妬きだなんて知らなかった。

「悪かったな…」
「ご、ごめん…怒らないで」

せっかく来てくれたのに怒らせたくはない。軽く蘭さんのジャケットを引っ張ると、やっとわたしを見てくれた。でもその顔はさっきの不機嫌そうな表情とは違って、苦笑いを浮かべている。

「だーから可愛いことすんなって」
「え、ん…」

蘭さんが身を屈めたと思った瞬間、くちびるを塞がれ、鼓動が大きく跳ねた。不意打ちのキスに頬の熱も上がっていく。首の後ろに回った手に引き寄せられて、くちびるが深く交わった。互いの熱を分けあってるだけで、さっきの悪夢が嘘のように消えていく。蘭さんは何も言わないけど、きっと全て彼が片付けてくれたんだろうと思った。わたしを守る為に、何もなかったことにしてくれたんだと。それはどんな愛の言葉よりも深い愛情を感じた。
こうして触れ合っていても恋人同士になれないなら、わたし達はこれからもずっと"共犯者"でいい――。ふと、そう思った。